第2話
就職活動はあきらめた。床にはリクルートスーツがしわくちゃになって脱ぎ捨てられたままだ。昼頃起きて、一階へ行き冷蔵庫の中の物を適当に漁る。親は二人とも働いているからいない。二階へもどり、ぼうっとテレビを見る。それに飽きたらノートパソコンを開きネットをする。夜はなかなか眠れない。朝方眠り、また昼過ぎに起きる。
修一は完全に引きこもりとなっていた。
大学の単位はぎりぎりだったので四年生になっても講義には出なければならないのだが、どうしても行く気にはなれない。
自分はもう社会不適合者なのだ。今さら大学を卒業したところで何のメリットもない。
修一は引きこもりとして生きていくことを覚悟しつつあった。病院にも通うことをやめた。様々な薬を試し、病院を変えてもみたが改善は見られなかった。
ストレスが関係していることは理解できた。だが、その原因がまるでわからない。
時間は腐るほどあり、修一はうじうじと答えのでない問題を考え続けた。
受験勉強のストレスがいまごろ体を蝕みはじめたのだろうか――? それとも親か――? 友人なのか――? 人付き合いは苦手だ。病気になる前もどちらかというと皆でいるよりも一人でいる方を好んだ。ただ外に出ると激痛に変わるのだから、やはり他人からのストレスに違いない。だが特定の人間ではなく、不特定多数の人間からのストレスが積み重なって発症したのであれば、お手上げである。他人と交わることなく社会にでることなどかなうわけがない。
家の中にいると慢性の便秘になった。鈍痛を抱え、つねにぼんやりとした頭で無為なことを考える。ときおり、得体の知れない恐怖が修一を襲った。
そんなときは大声で叫び、わめき、床をゴロゴロと転がった。立ち上がり壁を殴りつける。親はもう止めにこない。家にいるのであれば耳をふさいでいるに違いない。
すべてをあきらめたかったが、あきらめきれない自分がいた。社会と関わりを持ちたかった。このままでは本当に闇に沈み込み、二度と浮かび上がることができなくなる。
修一はインターネットに救いを求めた。ネット上に過敏性大腸症候群に苦しむ人々のコミュニティがあった。そこでは修一と同じような境遇の人間たちがたくさんいた。皆、いかに自分が不幸かを自慢しているようだった。修一と同じように引きこもっている人々も数多くいた。建設的な意見の出ない、傷の舐めあいでしかないことは理解していたが、自分と同じような人間を見つけて安心していた。その中にはさまざまな効果のあった治療法なども書き込まれていたが、すでに試していたものばかりだった。
それでもネットにのめり込んだことが修一の人生を変えることになった。
引きこもり生活をはじめて二ヶ月ほどたったある日のこと。修一はふと真夜中に目を覚ました。目の前にはパソコンのディスプレイがあり、うすぼんやりとした明かりを放っている。どうやらネットをしている最中に眠ってしまったようだった。何とはなしにディスプレイに目を向けると、見慣れないサイトが映っていた。寝ぼけながらリンクを繰りかえすうちに、偶然たどりついてしまったのかもしれない。それは真っ黒な背景に白抜きのテキストが簡素にならぶ地味なものだった。いまどきの目を引くような画像やアニメーションはいっさいない。
『ストレス・ディテクター・グラス(SDG)購入サイト~ようこそSDG購入サイトへ。殺伐とした現代社会。誰もが対人ストレスに悩まされています。しかし、ご安心ください。このストレス・ディテクター・グラス、略してSDGさえ手に入れればもう安心です。SDGがすべての対人ストレスを消滅してくれます』
ストレス・ディテクター・グラス──。
ストレス発見メガネか──。
あまりのうさん臭さに笑いがこみあげてきた。
画面中央下に、購入用のリンクボタンがある。トップページに載っている情報はそれだけだった。どんな形状をしているのかも、販売元の名称すらいっさいの表示がない。
修一は試しに購入ボタンを押してみた。
画面が一変する。
メガネの画像がずらりと並ぶページに切り替わる。トップページの地味な体裁が嘘のように、画像と文字がほどよく配置され、モノトーンではあるが高級感があった。まるでブランドメガネメーカーのホームページのようだ。画像は数ページに渡り続いている。これがすべてストレス発見メガネということだった。デザインも様々で、レンズの形状とフレームも自由に選べるようだ。豹柄フレームのものまである。金額もピンキリで高い物になると十万円以上もする。
率直な疑問が修一の頭を覆う。
これはいったい何なのだろうか──? 通常のメガネ通販のホームページにしておけば、そこそこ売れそうなのに、なぜストレス発見メガネという、うそくさい冠をあえてつけているのか──?
トップページのこの一言がすべてを台無しにしているのは明らかだった。
他に考えられるとしたらSDGのうたい文句が本当だという可能性ぐらいか。
そんなわけがない――。
修一は自嘲気味に笑った。
だが想いとは裏腹に目はメガネを追う。このサイトに行き着いたのも何かの縁かもしれない。どうせ未来のない自分なのだ。たとえ騙されたとしてもたいした悔いはない。使うあてのない貯金もいくらかある。修一はこのばかばかしい悪ふざけにつきあうことに決めた。
修一は黒いフレームの一番低価格なメガネを選んだ。レンズもセットで度数も選択できる。通常のメガネとしても十分使えそうだ。押入れをまさぐると大学の入学祝いとして、親から買ってもらったメガネの控えが残っていた。それを元に度数を入力する。名前、住所、連絡先も入れた。金額は送料込みで三万五千円と書いてある。代金引換とあった。金だけ取られる心配はなさそうだ。修一は購入決定ボタンを押した。
それから一週間がたった。
いつものように昼頃起きて、冷蔵庫を漁っていると、ふいにチャイムが鳴った。
インターホンのディスプレイを見ると帽子を目深にかぶった、運送屋らしき男が立っていた。
「はい……」
修一は通話ボタンを押しながら消え入りそうな声で答えた。
「お届け物にあがりました。高野修一様はいらっしゃいますでしょうか?」
自分宛の荷物――思いあたるふしがまるでなかった。
いや――ちょっと待てよ――。
不可思議な記憶に手が届く。
思い出した。一週間前に得体の知れない機械をネットで注文したのだ。それが本当に届くとは──。
「あっ、はい」
修一は慌てて玄関に出た。ドアを開けると運送屋は小さな段ボール箱を抱えていた。
「商品代金三万五千円になります」
そう言われて代引きであることを思い出した。自分の部屋に戻り、財布を持ってきた。金を払う。運送屋は修一にサインをもらい、商品を渡すと、元気よく礼を言って姿を消した。
修一は狐につままれたような気分で渡された箱を見つめていた。
まさか本当に届くとは思っていなかった。
食事をすませると二階に戻り、ダンボールを開けた。
透明なケースが現われた。開けると黒いフレームが見えた。二つのレンズが室内灯の反射で輝いている。
ホームページで見たものと同じだった。むしろ実物はそれ以上に良い。レンズも薄く、フレームも洗練されたフォルムであることがうかがえた。購入金額相当は間違いなくかかりそうな代物だった。
実際に掛けて見た。度もきちんと合っていて、普通のメガネとしても問題なく使える。
だが普通のメガネなのだ。
あたりまえだろう──期待などしていないはずだ。少し高いメガネを買ったと思えば良い。
メガネを外し、箱を捨てようとしたとき、中から一枚の紙が転がり落ちた。
修一は拾い、広げた。
それはストレス・ディテクター・グラス(SDG)説明書と書かれていた。
『ストレス・ディテクター・グラス、略してSDGは対人用ストレス探知機です。ストレスの原因となりうる人間への興味を削除することにより、その人間からのストレスを消滅させることを目的とします。
使用方法
〈1〉SDGを装着します。
〈2〉右ヒンジ部にある電源ボタンを押します。
〈3〉機械音がしてレンズが青くなります。(レンズの色の変化は外側からはわかりません)
〈4〉ターゲットを視野に入れると右レンズの上部に数値が現われます。この数値の大きさはターゲットが使用者に与えているストレスの指数となります。ターゲットにはシルエットがかかり、ストレスの度合いに応じてシルエット内の色が変化します。
0~50 緑色(若干のストレス、ほぼ心身に影響はない)
51~80 黄色(接触がなければ耐えうるレベル)
81~100 赤色(接触がなくとも心身に大きく影響をおよぼす)
削除対象としてロックオンできるのは、ストレス指数五十一以上。黄色と赤色。緑色はロックオンすることができません。
〈5〉ストレス指数五十一以上の相手の顔を見ている状態で、一秒以内に三回まばたきをしてロックオンをしてください。ロックオンが正常に完了した場合、三度目のまばたきのあとにシャッター音が聞こえます(シャッター音は使用者にしか聞こえません)
〈6〉ロックオンのあと、二十四時間以内に三時間以上の睡眠を摂ってください。
〈7〉睡眠中、夢の中にロックオンした人間が現われます。
〈8〉ロックオンした人間を夢の中で殺害してください。
以上、〈1〉~〈8〉の手順を踏めばターゲットからのストレスを完全に消滅できます。
※注意事項
一日の使用は三回。それ以上の使用は機械の故障を招くおそれがあります。ご注意ください。
修一は説明書を読み終えた。メガネを、ストレス・ディテクター・グラスを、まじまじと見た。ジョークにしては手が込んでいる。
誰かが俺を陥れようとしているのだろうか――?
すぐに考えなおした。引きこもりの俺を陥れて、得をする人間など、この世に一人もいるはずがない。おそるおそる、右レンズ近くのヒンジ部を見た。左側と違い、わずかに突起がある。
突起部分を押した。
小さな動作音が鳴り、途端、視界全体が薄く青みがかる。
説明書に書いてあるとおりだ。
これでターゲットをロックオンしたら──。
半信半疑ながら、知らず興奮に身をゆだねていた。
そのとき一階で玄関を開ける音がした。母親が帰ってきたのだ。
気がつくと修一は一階へ向かっていた。大腸が、ぎゅぎゅっと、しめつけられる。
リビングのドアを開ける。急に現われた息子の姿を見て、母親は驚いた顔をしていた。まともに顔を合わせるのは、およそ一週間ぶりだった。母親は何かを言いかけた。口が半開きになる。だが、なぜだか思いとどまったようで、不意に大きなため息をつくと背中を向けてしまった。
腸がうねり、激痛に変わる予兆がした。
急に電子音が鳴った。母親の寸胴な体が暗褐色のシルエットに塗りつぶされた。同時に視界の右上に数字が浮かび上がる。数字は0からどんどん上がっていく。五十を過ぎ、六十も越えた。七十五を越えたあたりで変化は緩慢になり、結局九十で止まった。灰色のシルエットは赤色へと変わる。
『ストレスシスウ キュウジュウ ターゲット ロックオン カノウデス』
どこからか無機質な女の声が聞こえてきた。
修一は気がつくとまばたきを三回くりかえしていた。
今度はまたどこからかシャッター音が聞こえた。それが本当に母親に届いていないのかは、判断のしようがなかった。
『ロックオン カンリョウ ニジュウヨジカンイナイニ スイミンヲトリ ターゲットヲ マッショウ シテクダサイ』
修一はトイレへ走った。
便器の上で苦痛に悶える。体を折りまげて唸る。
得体の知れない、どす黒いものが体に入り込む。
激痛は続く。何度か部屋とトイレの往復を繰り返し、ようやく治まるとベッドへ倒れた。
ヒンジ部の電源ボタンを押す。細かな機械音とともに、青みがかったレンズが透明へと戻る。
電源が切れたようだ。
修一はメガネを外し、それをまじまじとみつめた。
これはどういうことなのだろうか──? いたずらにしてはあまりにも凝りすぎである。度入りのメガネに超小型の通電装置までつけているのだ。三万五千円で済むわけがない。
売れば売るほど損をするのは目に見えている。
なぜ時間も金もかけて、損をするようなことをするのか?
この商品が作られて、販売される意図がまるで理解できない。
そこにただならぬ恐怖を感じるのだ。
その日の夜はいつものようにネットをして過した。
朝方になってもなかなか寝付けない。馬鹿馬鹿しいとは思っていても気になっている自分がいるのだ。
だが結局は睡魔に負けた。修一は日の出と共に眠りについた。
夢を見た。
修一は自分の部屋にいた。
階下で物音が聞こえる。部屋を出て階段を降りた。
リビングのドアを開けると母親がいた。
修一が現われると母親は驚いた様子だった。
足元がふわふわとした浮遊感のともなう風景。修一はこれが夢だと認識できた。
昨日と同じだ。自分はそれを巻き戻しで見ているのだ。
だまって立っていると母親は何かを言った。ぽつりとつぶやくように放った言葉だったが修一にはその声が聞こえた。
おまえなんか産まなきゃよかった──。
体に電流が走った。
修一は脱兎の如く駆け出していた。まるで今まで眠っていた感情が体の中で爆発したようだった。それは純粋な怒りだ。
いつのまにか頭の中で抑揚も感情もない単語をつなぎ合せただけの言葉が響く。
『ターゲットヲ マッショウ シテクダサイ ターゲットヲ マッショウ……』
それは修一の怒りを助長した。
キッチンに入り、戸棚を開け素早く包丁を取り出した。そのままリビングに立つ母親へと向き直る。
母親は平然とした様子だった。
「殺すなら殺してちょうだい。あんたみたいな息子をもって……もう生きていくのが恥ずかしいわ……」
母親はそう言って深いため息を吐いた。
右手に握られた包丁に力が入る。体中が熱い。だがどこか冷静な自分もいた。
修一は音もなく、母親の懐に入り込んだ。躊躇せず腹に包丁を刺す。ずぶりと肉を裂く感触が手に広がる。包丁を右へ左へと動かして腹の中を切り裂き、こねくりまわした。
母親はぶくぶくと血の泡を吐いた。
「おい! 腹が痛いか? 俺の気持ちが少しはわかったか? えらそうにいいやがって。てめえが気にしてるのは世間体だけだろ!」
とめどない怒りはそのまま母親への罵倒に変わる。
包丁を引き抜き、今度は胸を刺した。
喉の奥からごぶっ、という音がして、どろりとした血が吐き出される。母親は苦悶の表情を見せた。
だが怒りはおさまらない。
髪の毛をつかみ、引きずり、壁際に立たせた。
口をこじ開け、そこへ思いきり包丁を突き刺した。
包丁は喉を貫通して壁に突き刺さる。母親は串刺しの状態になった。
ここでようやく爆発的な憎悪が萎んでいくのを感じた。
白目をむき、だらりと弛緩している母親の姿が目の前にあった。
包丁が手からすべり落ちて床へぼとりと落ちる。
俺は何を──。
修一の全身は母親の返り血で真っ赤になっていた。
俺が殺したのか──。
母親の骸に問いかけるようにつぶやいた。
嘔吐した。充満していた憎悪の代わりに、溺れ狂うほどの自責の念が修一を襲う。
そのとき不意に声が聞こえてきた。
『ターゲット マッショウ カンリョウ ストレス ショウメツ』
抑揚のない機械音が直接、頭の中に響き渡る。
それが合図であるかのように頭の中の何かがとぎれた。目の前の変わりはてた母親の姿が消える。周囲の風景も、溶けるようにおぼろになり、最後はすべてが闇に沈みこんだ。
いつものように昼過ぎに目が覚めた。
夢のことは覚えていた。リアルな夢だった。母親の腹の中に沈みこむ包丁の感触が蘇る。
母親を殺したのだ。母親に対しての憎悪、そして自責の念はもはや存在しない。
起きてすぐに腹を手でなでた。これで今日の腹の調子がおおよそわかるのだ。
異変に気づいた。何となく腹が軽い。あきらかにいつもと違う。
便意がしてトイレへ行く。便が出た。
ひどい便秘だったのだが、それがすんなりと出たのだ。
さらに腹が軽くなった。腹の中の鉛が徐々に溶けているようだった。
修一の心はおどった。あきらかに症状が軽快している。
信じられない思いだった。何をしてもまるで駄目だったのに、たった一日で結果が出た。
すると急に空腹を覚えた。かたわらに置いてあったストレス発見器を手に取る。一階へ降りてリビングのドアを開けた。
母親がいた。
殺したはずの母親が生きていて嬉しいとは思わない。
何の感慨もなかった。
それどころか、この女にびくびくしていた自分を不思議に思った。
装着していたストレス発見機の電源を入れた。昨日と同じように細かな機械音が鳴り、視界が青くなる。
右上に数字が現われたが、ゼロのまま動くことはなかった。
まさかこんなことが起こるとは──その効果は修一の心と体が証明している。
母親は修一を見ているが、その視線もまるで気にならない。説明書に書いてあった冒頭の一文を思い出した。
『ストレスの原因となりうる人間への興味を削除することにより、その人間からのストレスを消滅させることを目的とします』
言葉どおりだった。昨日までぐちゃぐちゃと体の中にはびこっていた母親に対しての複雑な感情はまるでなくなっていた。経験したことのない不思議な気分だった。
後悔の念はない。ずっとこのような感情でいたような気さえする。
「腹が減ったんだけど何か食べ物はあるか?」
修一は傲慢な態度で聞いた。
「あっ……はい。すぐにつくるからね」
母親はそそくさと台所へ向かった。
修一はテーブルに座る。すぐにトーストと目玉焼きが出てきた。
それを頬張っていると母親が何かを言いたそうにしていた。
母親を無視して食べ終えると二階へ戻った。
いったい俺はあの女のどこにストレスを感じていたのだろうか? かつての自分をまるで理解できなかった。
ストレス発見メガネは本当にストレスを削除できる機械だった。
SDG(ストレス・ディテクター・グラス)の名称に偽りはなかった。
しかし、なぜ夢の中で人を殺すと相手への興味が失われるのか――? 爆発的に沸き上がる憎悪の感情はいったい──?
わからないことは山ほどあった。だが、これさえあれば俺の病気は治るかもしれない。この穴倉から出て普通に暮らせるかもしれないのだ。病気になってからはじめて強くそう思えた。
同時に次のターゲットが頭に浮かんだ。父親だ。父親からのストレスを消滅させれば家の中でのストレスはなくなるにちがいない。
父親を殺すことを想像した。家族はずっと不仲であったわけではない。幼い頃の良い思い出もある。SDGを使うことは、そんな人間までも自分の中から消滅させることなのだ。それは理解できた。
だが修一は病気を治したかった。
そのために修一は父親を殺すことに決めた。
今日は土曜日だった。だから仕事は休みで、母親は家にいたのだ。
父親は休日出勤でもしているのだろう。夕方には帰ってくるはずだ。
SDGを装着して、二階から外を見ながら父親の帰りを待っていた。
太陽が傾きはじめた。ほどなくして父親の姿が見えた。
父親は平凡すぎるほど平凡な男だった。真面目で愚直なのだ。だから道をはずれようとする修一を許せないのだ。
二階だったので距離に不安を覚えたがSDGはきちんと反応した。父親にシルエットがかかり、右側のレンズに数字が表れる。みるみる数値が跳ね上がる。父親の体が赤色に染まる。ストレス指数は九十五で止まった。
『ストレスシスウ キュウジュウゴ ターゲット ロックオン カノウデス』
修一は何かを吹っ切るように素早く三回まばたきをした。
シャッター音が聞こえた。
『ロックオン カンリョウ ニジュウヨジカンイナイニ スイミンヲトリ ターゲットヲ マッショウ シテクダサイ』
ベッドに倒れ込んだ。仰向けになり、くすんだ色の天井を何も考えずに眺めた。ふと気づいたことがあり、一階へ降りた。気づかれぬように外へ出る。あたりはすでに暗くなっていた。猫の額ほどの、申し訳ていどの庭が目の前に広がる。その角に小さな物置があった。修一はそこからノコギリを取り出した。もう何年も使っていない。赤く錆が浮き、刃こぼれしている。小学生の頃、父親と二人でこのノコギリを使って小さな椅子を作ったことを思い出した。
物置を出て、部屋へ戻る。ノコギリを床に置いて、またベッドへ倒れ込んだ。しばらくすると下から物音が聞こえたので、耳をふさぎ布団をかぶった。
覚悟はできていた。すぐに睡魔は訪れた。
また夢を見た。
修一は二階の自室から、家へと戻る父親の姿を見下ろしていた。ほんの数時間前に見た風景が重なる。
母親を殺したときと同じ衝動が体を襲う。奥底から湧き上がる憎悪を抑えることができない。衝動にすべてを委ねるしかないないのだ。床に置いてあるノコギリを手に取る。ドアを開けて、階段を飛び降りた。
玄関で息をひそめてチャイムが鳴るのを待つ。ノコギリを持つ手に力が入る。チャイムが鳴った。ドアを開けて飛び出した。
父親の顔が目の前にあった。驚いた父親は倒れて尻餅をつく。
「修一! おまえいったいどういうつもりだ!」
父親は尻餅をついた状態で修一を怒鳴りつけた。
おそろしくてたまらなかった父親の怒鳴り声が、今は子犬がキャンキャン鳴いているようにしか聞こえない。
「えらそうにしてんじゃねえよ! てめえに俺の何がわかるんだよ!」
『ターゲットヲ マッショウ シテクダサイ ターゲットヲ マッショウ……』
わかってる――。
修一はノコギリの柄で父親の顔を殴りつけた。ぐっ、とこもった声をあげて、父親は仰向けに倒れた。すかさず父親の顔を踏みつける。同時にノコギリの歯を首筋に当てて、一気に引いた。
錆びて不揃いに並ぶ刃先が父親の首の中へ、みるみる埋まっていく。
父親は怪鳥が奇声を発しているかのような声を出して暴れまわった。
修一はかまわず首を切断しようと懸命にノコギリを引いた。血がほとばしる。返り血で両腕が真っ赤になった。だが骨と筋が邪魔をしてなかなか首の切断に至らない。
悲鳴はいつのまにか止んでいた。体はしばらくピクピクと痙攣していたがそれもほどなくして止まった。
汗だくになりながらノコギリを引きつづけてようやく首がぼとりと落ちた。
切断面は血に塗れていた。色の違う肉の断面が幾層にも重なり、ぐじゅぐじゅとした黄色い液体が染み出ている。
修一は父親の体を細かく切り刻んだ。右腕、左腕、右足、左足、最後に胴体も腹から二つに切断した。腸がずるりと地面へと垂れる。
ようやく切断を終えた。
息をととのえながらバラバラになった父親の姿をぼんやり眺める。すると、例の声が頭の中に鳴り響いた。
『ターゲット マッショウ カンリョウ ストレス ショウメツ』
途端、憎悪がしぼみ、罪悪感がせり上がる。だがそれも一瞬で消えた。
目の前の風景が煙る。ほどなくしてすべてが闇に包まれた。
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