狐の恩返し

おもち

第1話 出会い

 月明かりに照らされた京の町。その中を、一匹の狐が荒い息を吐きながら駆けていた。足は傷つき、ところどころから血がにじんでいる。


「どうして……何もしてないのに……ただ庭をのぞいただけじゃないか…」


 狐は知る由もなかったのだが、鳥インフルエンザが絶賛流行中なのだった。数日前まで元気だった鶏がバタバタ死んでいく様を見て村人たちが考えた理由は一つ。


「狐狸の悪戯にちがいない。あいつら…餌が減ってる腹いせに呪いやがって…許さん」


 そんなこんなで村人たちは獣の姿を見ると石を投げたり棒で叩いたり、時には犬を放ち、松明を持って追いかけ回したりもした。


 傷ついた足を引きずりながらやっとのことで追手を巻いたが、限界は近かった。それに闇雲に走ったせいであろうことか町の方に出てきてしまったらしい。大変まずい。いつまた追手がくるか分からない。もう逃げ切れないのではないか――そんな絶望が、狐の心にじわりと広がっていった。


 夜露に濡れた茂みから顔出したその時、狐は突然目の前に立つ人影に気づいた。驚きと疲れからその場に崩れ落ち、力が抜ける。目がぼやけ、人の姿もかすんで見え始めた。


「もう、ここまでか……」


そう呟いて狐は目を閉じた。


                 ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


 朝陽が昇り始め、淡い光が辺りを包み込む頃、狐はふと意識を取り戻した。気だるさを感じながら瞼を開けると、どこか温かな布の上に横たわっている自分に気づいた。


「ここは……私は死んだのか……?」


 辺りを見回してみる。襖、障子…一般的な館の中だろう。いつのまにか薄手の布を掛けられている。傷ついた足にはきちんと布が巻かれ、血も止まっている。


 狐は目を見開き、信じられないという表情で自分の足元を見つめた。ありえない。一体誰が……そう思った時だった。


「気がつきましたか?」


 穏やかな声にはっと振り向くと、少女がこちらを向いて立っていた。10歳くらいだろうか?着ている薄紫の着物はよれているし、やや痩せているように見えるが、どことなく気品が伝わってくる。美しい黒髪、やや茶色の瞳。町中に住んでいるのだから身分はあるはずなのだが、とてもいい暮らしをしているとは思えない。しかし少し離れたところから伺うその表情には、私への心配と優しさが感じられる。


「……あなたが、手当てを……?」


狐は声を絞り出した。と言っても「キューン」みたいな音しか出ないのだが。少女は静かに微笑んだ。


「あなたは昨日庭で倒れていたのです……このままでは命も危ないと思いました。大丈夫ですよ、誰にも言いません。ここなら安心して休めますから」


その言葉を聞いて、狐は少しだけ肩の力を抜くことができた。心の中にあった警戒心が、その穏やかな雰囲気によって溶けていくような感覚だった。人間たちに追われる日々の中で、これほど安心できる瞬間を感じたのは、狐にとって初めてのことだった。少女は続けて、


「あなたが妖であろうと、人であろうと関係ありません。困っている誰かがいれば助けたい、ただそれだけのことです。傷ついた姿を見たら、助けたいと思うのが人の情ではありませんこと?」


 狐は胸が締め付けられるように感じた。人間はみんな狐を妖として恐れ、忌み嫌うものだと思っていた。だがこの少女は、まるで幼い子をあやすように優しく語りかけ、自分を「狐」ではなく「一つの命」として見てくれているように思えた。


「この人は……私を恐れないのか? 妖である私を、同じの“生命”として見てくれているのか……?」


狐は初めて味わうこの暖かさを、動揺しつつも心地よいと思い始めていた。

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狐の恩返し おもち @sahne

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