第31話 もう1つの可能性


2024年10月15日 火曜日。宣告された死まで残り20日。



 ここ最近涼しかった朝方も再び20℃を超えるようになり、季節が逆戻りしているように感ぜられた。そんななか一翔は約1週間ぶりとなる出勤のため、7時きっかりにスマホのアラームで起床した。



「おはよう」



 そして今朝もまた、『天使』がベランダ際で置物のように座ってもたれながら挨拶あいさつをしてきた。最早もはや見慣れた光景と聞き慣れた一言は、目覚ましのアラームとセットになっているようなものであった。



「…おはよう」



 一翔も小さく挨拶あいさつを返すと、ゆっくりと立ち上がって布団ふとんたたみ、洗面台へと向かういつものルーティンを開始した。






「さっきはごめんなさい。流石さすがにデリカシーがなかったなって思ったの」



 昨晩、トイレを経由して浴室で熱いシャワーまで浴びた一翔が恐る恐る居間へと戻ると、壁際かべぎわたたずんでいた『天使』が謝ってきた。

 とはいえ棒読みのような口振りには申し訳なさなど感じられず、デリカシーという表現も上辺うわべだけに過ぎないように聞こえていた。


 一方の一翔は以前『天使』が飲み会で唐揚げを摘まみ食いしたときのことを思い出し、どうにも安定しない彼女との距離感に悩まされていた。

 彼女は基本的に思ったことをストレートに尋ねてくるタイプであり、さながらAIが学習を積み重ねるために情報を求めてくるようなものだと捉えていた。



 ゆえ恋愛や男女の性に関する知識、価値観がどの程度なのか、そして彼女が一翔自身をどのように評価したいのかがまったく推測出来できなかった。

 

 仲を深めて距離を縮めたいのか、それとも役目をまっとうするために適切な境界線を模索しているのか、尋ね返せば答えてくれそうな気もしたが、はぐらかされそうな予感もした。



「…気を付けてくれれば、それでいい。俺も、その…じろじろ見るような真似まねして悪かった」



 結局一翔は気不味きまずそうにこたえて、座椅子に腰を下ろし適当にテレビのチャンネルを回した。

 

 不本意でも彼女と同じ空間にいなければならないのなら——その現実からのがれられない以上は、彼女とは多少なりとも上手く付き合っていくしかないように思えた。


 はたから見ればそれはそれでぎぐしゃくした同棲どうせい生活を送っているようなものだったが、一翔は彼女が決してことを何としても留意し続けなければならなかった。



——俺が目を向けなきゃならないのはあいつじゃなくて、『A-KAITOエー・カイト』でマッチングした相手とのり取りなんだ。その相手と少しずつ距離を縮めて、実際に会う予定を取り付ける…今はそのことだけに意識を注ぐべきなんだ。





 マッチングした相手とのメッセージは今のところ順調に続いており、一翔は返信を始業前に送るべきか昼休みまで先延ばしにするべきか思案しながら久方ぶりの通勤路を移動していた。

 そうして『刑部おさかべ緑地開発』の札が掛けられた扉を開くと、いつも通り伊熊いぐま部長が早々にパソコンに向かっていた。



「おはようございます」



「おはよう。葬儀は無事終わったか」



「はい、不在の間ご迷惑をおかけいたしました」



「いやいや、不幸があったんだからそれをカバーするのは当然だら」



 口元を緩ませる伊熊部長に頭を下げつつ、一翔は先週と何も様相が変わっていない自分の机にかばんを置いた。



「一応香典返こうでんがえし的な品がありますので…今日か明日には届くと思います」



「へぇ、キリスト教式でもそういうのあるんだな」



「そうですね、詳しくは知らないんですけど…」



 他愛のない会話をしながら、未読が溜まりに溜まっているメールボックスを開いた。傘下さんかゴルフ場6社の営業日報を1週間分見返すのは大分だいぶ時間を要する作業だったが、一翔にとっては歓迎するところであった。


 匂坂こうさか社長のために印刷する分は金曜以降の内容で足りたため、始業前だが早速さっそく準備に取り掛かかろうとした。すると、その匂坂社長が事務所に入ってきた。



「おはようございます」



 一翔は挨拶あいさつを発したが、匂坂社長は反応したかどうかも曖昧あいまいなまま、荷物を机に置いて分厚い生地きじの椅子に腰を下ろした。


 その光景もまた見慣れたものであり、一翔はぐに作業に戻った。その一方で部長と同じように、社長にも慶弔けいちょう休暇中の不在についてただちに一言申し出るべきか迷っていた。


 だが間もなくして、匂坂社長の方から声を掛けてきた。



相羽あいば君、ちょっといいかね」



「…はい」



 社長直々じきじきの呼び出しなど不穏以外の何を感じるでもなかったが、一翔はかしこまって机の前に立った。



「相羽君は…前沼まえぬま製作所って会社について聞いたことはあるかね」



「はい…名前くらいは、ですが」



 株式会社前沼製作所とは浜松市の隣の磐田いわた市にある自動車関係中心の部品メーカーであり、昨年オサカベコーポレーションがM&Aで取得していたむねを一翔は聞き及んでいた。

 商業用不動産としてではなく投資などによる経営支援が狙いらしく、根底では刑部おさかべ代表の人付き合いが絡んでいるらしいとのことであった。



「その会社に去年オサカベグループから転籍てんせきした菱田ひしだって副社長がこの前刑部おさかべ代表と打ち合わせをしたそうなんだが、なんでも会社の組織を刷新して総務関係を中心に強化したいらしいだよ。そこで代表が誰かもう1人くらい優秀な人を送ったらどうかって考えて何人か候補を立ててるそうなんだが、そのなかで相羽君の名前も挙がっているだよ」



「…えっ!? 自分が、ですか!?」



「そうそう。あそこは従業員を200人だか300人だか抱えてるからな、総務の仕事も大変なんだろうが…君はパソコンも得意だし色々と取りまとめるのも上手だから適正はあるんじゃないかと考えてるだよ。どうかね? 興味はあるかね?」




 青天の霹靂へきれきのような匂坂社長の発言に、一翔は一瞬頭の中が真っ白になった。


 詰まるところ転籍てんせきの打診であり、候補の1人とはいえ働く環境が変わるかもしれないと思うと早くも足元がぐらつくような錯覚に襲われた。そして刑部おさかべ代表の提案と聞いて、先週の葬儀で当人と直接会話を交わしたことを思い出していた。



——あのとき代表がキャリアプランとかいてきたのは、こういうことだったのか? そこで俺の意思を踏まえて、翌日にも社長と意見を交換していたに違いない。


——俺は…他所よその会社に行った方がいいってことなのか?



 まるでこの会社に居場所はないと断言されたようで、たちまち胸の内にむなしさとわびしさがあふれた。


 だがその込み上げる感情に紛れて、見方を変えればこれは重要な転機なのではないかという期待も湧き上がっていた。



——もし俺が選ばれたとしたら…それは転籍てんせき先の企業にとって必要な人財、つまり『価値のある人間』として扱ってもらえるって証明になるんじゃないのか?


——ひょっとしたらその選択もまた、余命宣告を回避する手段になり得るんじゃないのか…?

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ろくでなしと笑わない天使 吉高 樽 @YoshidakaTaru139

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