第30話 欲求


 今日も日中は夏日となるなか、一翔は午後もイラストの参考書を読み進めながらペンを動かしていた。

 流し聞きしているプロ野球中継ではポストシーズンの勝ち上がりを掛けた熾烈しれつな争いが繰り広げられており、みずからもまた盛り立てられているかのような気分を味わっていた。


 マッチングアプリ『A-KAITOエー・カイト』でも続々と挨拶あいさつの返事が届いており、話題や返信の時間間隔を慎重に選びながらも期待を膨らませながら新たなメッセージを作成していた。

 そんなせわしい様子の一翔を、『天使』はベランダの窓際に座ってじっとながめていた。


 まるで最初からそこが彼女の定位置であるかのような振る舞いであったが、特段話しかけられなかった一翔は視線を気にすることなく机に向かっていた。だが1つだけ違和感があるとすれば、気にしていないはずなのに彼女の姿がことであった。



 その日の夕飯は、ハンバーグを作っていた。刻んだ玉葱たまねぎは先に炒めて冷ましておき、つなぎとなる材料はあらかじめ混ぜ合わせ、氷を敷いたボウルの上でタネをねることで脂がけ出さないよう閉じ込めるやり方は一翔のこだわりであった。


 そうして弱火でじっくり蒸し焼きにしていると、カウンターキッチンに寄りかかりながら観察していた『天使』が話を振ってきた。



「君は料理を趣味に挙げてたけど、レシピを書いたりしないの? ネットとかでよく見かけるみたいにさ」



 またしても余命宣告を回避するための提案を投げ掛けて来たのかと、一翔は一瞬身構えた。だがそこに今までのような反射的な抵抗感はなく、肉塊にくかいに火が通るまでの他愛のない会話だと捉え直して答えた。



「どうだかな。慣れて来ると調味料なんかも目分量めぶんりょうでやっちゃうし、誰かの手本にはなれない気がするけどな。俺の方がだ誰かのレシピを参考にしてるようなものだし」



「でも君は美味おいしい料理を作ろうと思って、現に作れているわけでしょう。必ずしも斬新なレシピが求められているわけじゃないと思うけどな」



「それはそうだけどさ…まぁ、気が向いたら考えてみるよ」



 そうして焼き上がったハンバーグのうち小さいかたまりを明日の弁当用に野菜と共に詰め込み、残った大きい方を皿に盛ってローテーブルに運んだ。

 『天使』は欲しがるような素振りは見せず、食べ始めた一翔のかたわらに座りながら静かにテレビ番組を観ていた。


 だがいくら彼女が食事を必要としないとはいえ、一翔は彼女を差し置いて黙々と箸を進めることに何故なぜか後ろめたさを覚えていた。それが普段と同じ光景であるにもかかわらず、いつも通りではないような奇妙な感覚におちいっていた。



——なんで今日はこんなに『天使』が見えているんだ? 別に何も気を掛けているわけじゃないはずなのに…。



 以前『天使』はみずからを動物園の展示物にたとえ、認識出来できるかいなかのチャンネルを説明したことを一翔は思い出していた。だがこの現状は、彼女自身がどこからでも見える位置に進み出ていることが原因としか推測がつかなかった。


 更に振り返れば、こうして終日アパートで過ごすのも彼女が初日以来であり、少なからず積もった関係値がこの閉鎖的な一室における生活を変容させていることが考えられた。

 すなわち、『天使』を認識しやすくなっているような気がしていた。



——これじゃあまるで、同棲どうせいしているみたいじゃないか。




 その不用意な発想は、明らかな失態であった。食器をキッチンに戻しながら内心つぶやいた途端とたん、一翔はテレビに観入みいる『天使』から視線を離せなくなってしまった。


 改めて見る彼女のりんとした顔立ちときらめくような長い金髪、そして華奢きゃしゃな体型は誰もが息を呑むであろう容姿であり、そのような女性との同居など誰からも嫉妬しっとされかねないように思えた。そして胸元から背中にかけて大胆に露出するつややかな肌は、どうあげつらっても扇情的であった。



「どうしたの?」



 『天使』は一翔の視線に気付いたのか、足音が止まったことを気にしたのか座ったまま振り向いた。

 益々ますます動悸どうきを覚えた一翔はぐさまおのれいやしい眼差まなざしを誤魔化ごまかそうとしたが、彼女に見透かされることを恐れて適当な質問を代入した。



「いや、その…あんたの翼って、突然生えたり消えたりしてるけど…どういう理屈なのかなぁと思って」



 その疑問自体は以前からいだいていたものであったが、この場で何気なく尋ねることは不自然極まりなかった。


 他方の『天使』は特段いぶかしむことなく瞳を閉じると、金髪でおおわれた背中から青白い翼を優雅に広げてみせた。その大きさはあっという間に空間の多くを埋め、キッチンにたたずむ一翔の方まで先端が届いていた。



「本当は広げている方が、清々すがすがしくて良いんだけどね」



 『天使』はそう言って立ち上がると、翼を再び収納しながら一翔の方へ歩み寄った。そうしなければ窮屈きゅうくつで移動もままならないことは明らかであった。



「君がどこか広い所に連れて行ってくれたら、ちゃんと羽を伸ばせるんだけど」



 そして一翔に対して、上目遣うわめづかいで強請ねだるような姿勢をとってみせた。


 おぼれそうなマリンブルーの大きな瞳と豊満なバストが強調されるあからさまなポージングに、一翔はぎこちなく視線をらした。

 これ以上は目に毒でしかないのだが、彼女は自覚して迫って来ている気がしてならなかった。



「じゃ、じゃあそのかんむりは何なんだよ…何かの植物が巻き付いているように見えるんだが?」



 咄嗟とっさに話題を変えようとした一翔は、『天使』が被っている緑のかんむりに言及した。絵画にえがかれる天使が被るような月桂冠げっけいかんとは違って葉は大小まばらで瑞々みずみずしく、さながら観葉植物のような装飾もまた奇抜な要素の1つであった。



「ああ、これ? 何だろうね。触ってみる?」



「いやいいよ!? なんで今日はそんなに食い気味なんだよ!?」



 だが『天使』はとぼけたように接触を誘ってきたため、一翔は拒絶しながらたじろいでいた。

 彼女は本物の人間ではないと頭で理解していても、だからこそ行き過ぎた関係にとらわれれば人として取り返しがつかなくなるのではないかと危惧きぐしていた。



「君の方こそ、んじゃないの?」



 その衝動を察してか、『天使』は両手を広げながら尋ね返してきた。悪意があるのか語弊ごへいのある言い回しに、一翔の焦燥しょうそうが更に加速した。



「やめろよ! 欲求不満みたいに言うのは…!」



「でも君、ずっと我慢してるんじゃない? 私が見えるようになってから、みたいだし…」



「だから! おまえをそんな目で見るわけにはいかねぇから! なんていらねぇから!!」



 否定もむなしく心境を見透かされた一翔は、『天使』を突き放すように吐き捨てると、彼女が唯一入って来れないトイレへと駆け込んでいった。

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