酔うと野菜になるタイプ

秋冬遥夏

酔うと野菜になるタイプ

 子どもの頃から、物体の輪郭と輪郭をつなぐ癖があった。

 私の靴先から伸びるのは透明な糸で、電光掲示板の角に、高校生のヘッドホンに、蛍光灯のガラス管に、サラリーマンの眼鏡に、欠けた三日月の尖った部分に、つながっていく。

 大きな音を立てて、忙しくやってきた電車の屋根にも、その糸は向かう。気づけば世界は、たくさんの糸で張り巡らされていて、怪盗から宝石を守るレーザービームみたいになる。

 ぷしゅーって気の抜けた音が鳴って、私がスカートを揺らすと、ぱっと糸は切れた。そしてまた、思い出してしまうのだ。うまくいかない就活のこと、ぜんぜん書いてない卒論のこと、そしてビビヌッコアユナのこと。


 ビビヌッコアユナは、たぶん目が悪い。いつもいちばん前の席で、大学の講義を受けてるから、間違いないと思う。指定席でも、絶対に前にいる。

 残念ながら、私がビビヌッコアユナについて知っているのはそれだけ。私と同い年であれば二十二歳だけど、正直なところ年齢も読めない。ランドセルを背負っているので小学生かもしれないし、スカーフを巻いてるから年上のパリジェンヌかもしれない。

 また性別もわからなかった。丸みを帯びたヘアカットは、ショートボブにも見えるし、マッシュにも見える。黒のライダースを着るときもあれば、マーメイドスカートを履いてるときもある。男子ってこういうものが好きなんでしょ、という構造の機械銃を持ってきた次の日には、ふわふわのパジャマで登校してくる。だから、男性かもしれないし、女性かもしれなかった。


 そんな答えで、私が納得できるはずもなく、ある日から、ビビヌッコアユナのあとをつけることにした。そしてチャンスが訪れる。彼もしくは彼女が、トイレに向かったのだ。よし、と思った。

 しかし、物事はそう簡単にはいかない。ビビヌッコアユナは男子トイレに消えていったあと、女子トイレにも入った。どうやら半分ずつ用を足しているようだった。女子トイレが完全個室なことが、惜しい。こんなにも他人の性器が、気になることはなかった。私はこのとき、もし転生できたら便器になることを決めた。

 その日、もうひとつ、新たな説が立ちあがった。ビビヌッコアユナモグラ説だ。それは帰り道を追ってるときのことだった。ここで電車に乗るか、アパートに帰るかで、実家暮らしなのか、ひとり暮らしなのかが、大体わかるはずだった。

 しかしビビヌッコアユナは、穴を掘った。土木作業員のような無骨な右手と、かわいらしいネイルのついた白い左手。それを交互に動かして、公園裏に穴を掘る。無骨、ネイル、無骨、ネイル。その器用な歪を見ているうちに、ビビヌッコアユナは地下へと消えていった。


 火曜の三限。ビビヌッコアユナと一緒の講義だ。私はいつもの癖で、教室中に糸を紡いだ。シャーペンの筆先から始まって、非常口マーク、映し出されるパワーポイント、手元の資料、となりの人の筆箱、真っ白な壁、消しゴム。そして、ビビヌッコアユナ。私の糸は駆けめぐる。

 結局私は、ビビヌッコアユナばっかり見るから、そこに何回も糸が通されて、ぬいぐるみのようになってしまった。透明なそれを想像して、愛おしい。

 この際、はっきり言いたい。私はビビヌッコアユナが大好きなのだ。朝起きたらすぐに、ビビヌッコアユナのことを想う。おいしいご飯を食べたら、ビビヌッコアユナと一緒に食べたいと思う。そしてなにより、私の糸の行き着く先が、いつもビビヌッコアユナで、どうしようもなく恋をしていた。


 ただ、この感情を恋なんて一文字で表してしまうのは、非常にもったいないこと。それは、小説に出てくるような、青くてきらきらしてるものでは全くなくて、もっと夜中に全裸で走りたくなるような、そういう気持ち。

 ビビヌッコアユナが、男子でも女子でもモグラでもいい。私はあの子と一緒のベッドで寝たい。暗闇のなか、何もかもがわからないまま、朝になればいい。そのとき、朝日に照らされるのが、ふたりの下着だったらなおさらだ。

 この気持ちを、わかってくれ世界。手元の紙を見ると、私の字でそう書いてある。やさしいチャイムが鳴って、その気持ちも誰にも伝わらないまま、講義は終わってしまった。


 ずっとビビヌッコアユナを追っていると、お腹が空く。だから私のリュックのなかには、たくさんの食糧が入っていて、図らずも防災バッグみたいになっている。私はそこから、あんぱんと牛乳を取り出して、刑事のような張り込みをした。

 一方、ビビヌッコアユナの食事情はというと、家系ラーメンを食べたシメで、新作のフラペチーノを飲んだりする。たまにお弁当を持ってきてる時もあるのだが、中身はべたべたした紫色のなにかで、正体はわからない。おはぎだと、私は思うことにしている。

 ただ、食べてるものなんてなんでもいいのだ。それが私の知らない異国料理だとしても、結婚したら研究して毎日作ってあげたい。むしろその後のキスが気持ちよさそうで、べたべたなものは良い。私の中の乙女が加速して仕方なかった。


 もしビビヌッコアユナと将来、結婚して一緒のお部屋に住むことになったら、私はどうしよう。きっとその時には、ビビヌッコアユナなんて長い名前で呼ばない。ビビちゃん、アユナくん。うーん、間を取ってヌッコさんと呼ぶことにしよう。

 お家は一軒家でもマンションでも構わない。ただわがままを言えば、それぞれの部屋は欲しい。どれだけお互いが近い存在になっても、私はビビヌッコアユナについて、わからない部分がほしい。それが愛を育む肥料になる気がするから。


 さて、最近になって私は『地域における超多文化共生社会の実際—ビビヌッコアユナの日常生活から—』という、明らかに私にしか利益のない卒論を書き始めた。つまり勘違いしないでほしいのは、私はストーカーじゃないということ。

 ちゃんとビビヌッコアユナに、観察をすることは伝えてある。忘れもしない。すべての蝉が八日目を迎えた頃、意を決して調査依頼書・調査企画書をメールで送信してみたのだ。すると数日後、ビビヌッコアユナから「ほんま、ぜんぜんええで」という一文に、カピバラの絵文字が添えられて返ってきた。関西弁とカピバラは謎だが、私にとって嬉しい出来事だったので、その日は赤飯を炊いた。

 そうそう、なぜ私がビビヌッコアユナのメールアドレスを知っているのかというと。大学には学生メールが配られていて、それが以下の形に統一されているからだった。


student(学籍番号)@Xmail.com


 つまり生徒の学籍番号さえわかれば、必然的にメールアドレスがわかるのだ。そこからは必死だった。ビビヌッコアユナと同じゼミの友だちに、学籍番号を聞いて回ったり、提出されたリアクションペーパーを、限りなく自然に見るなどして、やっとの思いで正解の数字にたどり着いた。


 じっと、パソコンに向かう。この卒論は、きっと世界一長いラブレターになるだろう。ビビヌッコアユナに届かなくてもいい。靴箱にこっそり連絡先を入れておくような、恥ずかしく淡い恋心を持っていたい。

 しかし、ビビヌッコアユナは研究対象として難しすぎた。講義のある日しか観察できなかったし、すぐに行方を眩ませる。ビビヌッコアユナがわからなければ、わからないほど、私は卒業できない。イヤホンから響く「永遠です 永遠です 永遠です」と繰り返す歌詞は、私の大学生活のためにある。

 卒論もやばいけど、実は就活もひどい。もう四年の十一月だというのに、内定はひとつしかない。ひとつあるならいいじゃないかと思うかも知れないが、そのひとつが、スーパーの刺身にたんぽぽをのせるだけの仕事だから、困っているのだ。

 もしかして「永遠です」なのは、たんぽぽ挿しのことかもしれない。永遠に大学生でいることを抜け出しても、その先にあるのは永遠にたんぽぽを挿す日々だと思うと、面白くなってくる。

「浪人です 浪人です 浪人です」

 実際にはない歌詞が脳内に聞こえてきたら、ざんねん。あんなに素敵なロックが、私の底に眠るネガティブに飲み込まれてしまった。


 そんな私の研究および恋にも、転機が訪れる。ビビヌッコアユナが、自分の所属するゼミの先生と仲が良く、明後日に開催される「ゼミ飲み」に参加するという噂が立ったのだ。それが、本当かどうかも怪しかったが、私はそこに縋るしかなかった。

 交わることのなかった線が、あと数日したら交差する可能性があると考えると、夜も眠れなかった。どうしよう。何を着ていけばいいか。ビビヌッコアユナはスカートも履くし、和柄のシャツも着る。どういった服が好みなのかもぜんぜんわからない。

 思えば、こんなにも追っているのに、わからないことだらけなのだ。たいやきをどこから食べるかも、目玉焼きになにをかけるかも、寝る前にあがる体温も、これから知っていく。膨れて弾けそうな胸が鳴っていた。


 そしていろいろと考えた挙句、私はカピバラのコスプレをすることにした。理由はひとつだけ、あの絵文字だ。ビビヌッコアユナ自身が使ってきたということは、たぶん好きだろうという安直な考えだった。

 しかし飲み会がはじまっても、ビビヌッコアユナが来ない。私はどうでもいいゼミの友達と、どうでもいい話をした。恋愛がうまくいかないとか、就職先はどうだとか、私には耳も向けたくない話。ひとりの子が、いやうちの彼氏がさーって確実につまらない口を滑らせた、その瞬間。

 肩を叩かれた。おとなりいいかなって知らない声。私はカピバラのフードを外して、そちらを向く。そこにいるのはチュールスカートを揺らすモヒカンで、私の研究対象。ビビヌッコアユナだった。


 交わってしまった、と思った。冬にも負けない汗が首元を伝うのがわかる。口では近づきたいと言っても、実際に本人を目の前にすると動けない。心臓だけがうるさい。ビビヌッコアユナは届いた生ビールを片手に、私を覗き込む。

「モモコさん、だよね」

「はい! モモコさん、です」

 声がうわずって仕方ない。一方、ビビヌッコアユナの声は、やさしいお姉さんのようにも聞こえるし、いじわるなお兄さんのようにも聞こえた。

「卒論はどう、進んでる?」

「えっと、それがぜんぜんだめで、あの」

 焦る気持ちを埋めるように、ポテトフライを口に入れる。騒がしい居酒屋のなかで、私たちだけが時の止まった世界を生きているよう。気づけばいろんな言葉がこぼれる私に、ビビヌッコアユナはかわいく笑って、ひとつ魔法のような提案をしてきた。

「そしたらさ、今度デートしようよ」


 それからはもう、ぐちゃぐちゃだった。デートに誘われたという事実と、緊張で飲みすぎてしまうレモンサワー、目の前で露わになるビビヌッコアユナの魅力と不思議。そういうものが素敵に混ざって、この夜が構成されていく。

「あの、わたし。デートたのしみです」

「そう、うれしいな」

「どこに行きましょうか。やっぱりカピバラカフェとかいいですかね、かわいいですし」

 ほてった私は、フードをまた被って、カピバラになる。鳴き声がわからなかったが、おおきなネズミだからという理由でチューチュー鳴いてみた。

 ビビヌッコアユナも笑って、照れくさそうにお酒を飲む。すると、その肌は徐々に緑色を帯び、尖ったモヒカンは急にパーマがかかったようにモフモフになる。青くさい匂いが部屋に充満して、ビビヌッコアユナはブロッコリーになった。どうやらビビヌッコアユナは、酔うと野菜になるタイプなようだ。


 結果、私はビビヌッコアユナを持ち帰ってしまった。現在、自分がひとりで寝るはずのベッドに、ブロッコリーがひとつ転がっている。あのまま居酒屋に置いたままでは、誰かに食べられたり、スタッフに捨てられたりするかもしれなくて、危険だったから。仕方なかったって自分を言い聞かせた。

 それにしても、ビニール袋にいれたビビヌッコアユナを持ち歩く私の姿は、好きな子を部屋に連れ込むものではなく、明らかに帰りにスーパーでブロッコリーを買った人だった。だから途中、コンビニでサラダチキンも買って、筋トレが趣味の人みたいな顔をして歩いて、たのしかった。ジムに通いたい。


 目の前の布団がむくっと起きあがる。

「モモコ、さん?」

「おはようございます、プニョさん」

 まだ半分ブロッコリーのビビヌッコアユナが、ベッドで目を擦っている。そういえば、飲み会のなかで、彼もしくは彼女の呼び方が「プニョさん」に決まった。私もはじめて知ったがビビヌッコアユナというのは姓で、その次にプニョという名前が続くのだという。つまりビビヌッコアユナ・プニョが彼女のフルネームだったのだ。

 ちなみに「ヌッコさん」という呼び方も提案してみたが、2ちゃんねる掲示板で呼ばれるネコみたいでいやだ、とのことだった。

「えっと……ここは?」

「ごめんなさい!」

 私は間髪入れずに謝る。どんな理由であれ、その日はじめて会った人間を、自分の部屋に連れ込むのはクズ大学生のすることだ。

「えっと、プニョさん。昨日の飲み会でつぶれて、ブロッコリーになってたので、どうしたらいいか迷い、ひとまず自分の部屋に連れてきちゃいました。すみません!」

 身体全体に力をこめて、頭を下げる。こんなことでビビヌッコアユナに嫌われでもしたら、私は生きていけない。火曜の講義も受ける意味がなくなってしまう。

 しかしそれは私の杞憂に過ぎなくて、ビビヌッコアユナは怒ることもなく、むしろまた尖り出したモヒカンを下げて、感謝をしていた。

「いえいえ、ありがとう。こちらこそ、迷惑をかけたと思う。ごめんね」

 まだ関係性の浅いふたりが、同じ屋根の下で、頭を下げている。それは小さくて大きな奇跡で、交わったこの糸が、ほどけないことを祈った。


 その駅はデパートが併設されていて、改札を抜けるとすぐに、高級チョコレート専門店が出迎えてくれた。少し歩いただけでも、セレクトショップにカラフルな洋服が並んでいて、目がチカチカする。

 今日は約束の日。ビビヌッコアユナとデートをするために、わざわざ田舎からやってきた。ちなみにこの間のカピバラが好評だったので、今日も着てきたのだが、昨日ブラックデニムと一緒に洗ったら色が移ってしまい、ウォンバットになってしまった。


 おまたせって声が聞こえたら、恋。改札の向こうから少し駆け足で寄ってくるビビヌッコアユナに、手を振った。

「ごめんね、待たせたね」

「ううん、わたしが早く来ちゃっただけです」

 ぎこちない会話が、ふたりの間を抜ける。

「まずお昼ごはんにしようか」

「そうですね、このデパートの七階にもレストラン街があるみたいですよ」

 私が壁のフロアガイドを指さすと、ビビヌッコアユナは異常に近くに寄って見る。やっぱり近視なんだって思った。そうやって少しずつ、パズルのピースをはめていくように、ビビヌッコアユナがわかっていくことが、しあわせだった。

「なんでもあるね」

「なんでもありますよね」

「私、えらべないな」

「わたしもです」

 そんな、煮えたぎらないやり取りのあと、ひとまず七階に行ってみようってことになった。


 途中、ビビヌッコアユナが見たいというアパレルショップが出てきて、少しだけ寄った。好きな人がどこで服を買っているのかを見れるのは、とても貴重な経験だ。その店は「食をまとう」というコンセプトで、キャベツのミニスカート、生肉スニーカー、ヨーグルトBB下地クリーム、秋刀魚傘といった商品が並ぶ。ビビヌッコアユナは、ヌタウナギベルトを嬉しそうに購入していた。

 一方、私はその頃。知らない子どもに絡まれていた。どうやらその子は、私のコスプレを地元のゆるキャラと勘違いしたようで、太ももに抱きついて離れない。

「くまきち、なんでここにいるの」

「ボクはくまきちじゃないよ。ウォンバットだよ」

「うそだ、ぜったいくまきちだよ」

「ちがうよ、ウォンバットだよ」

 両者譲らない戦いの後ろで、両親が申し訳なさそうにペコペコしている。我が子がこうなったら、止まらないことを知っている顔だ。

「ねえ、くまくまダンスして」

「むりだよ」

「いやだ、ダンスして」

 もちろん私は、くまきちなんて知らない。くまくまダンスもわからない。だからついカッとなって、代わりに自作のリズムで精一杯に舞うことにした。それではみなさんもご一緒に——ウォンバットの雑学音頭。


 ボクのおケツは盾のように、はあー盾のように硬い。ボクのうんちはよく見ると、はあーよく見ると四角い。あ、よいよい!


 ボクの天敵はタスマニア、はあータスマニアデビル。分類学上はカンガルー、はあーカンガルーの仲間。あ、よいしょ!


 子どもは泣いた。親はペコペコしながら、子どもを引き剥がす。私はフードの下で、それを笑って見てた。その後に戻ってきたビビヌッコアユナも、ヌルヌルのベルトを片手に、こぶしが効いてたねって笑ってくれた。


 それからは、なにを食べようかなんて、七階フロアを巡ったのちに、私たちは「究極の親子丼」というのを推してる炭火焼き鳥専門店に吸い込まれた。

「なんで、私を研究対象にしたの?」

 ふとビビヌッコアユナは、ジョッキを片手に焼き鳥を頬張ってから、そう聞いてくる。急な展開でドキドキした。なぜビビヌッコアユナを追うのか、そんなの決まってる。

「プニョさんが、気になるからです」

「気になる?」

「はい、ずっと前から」

 それを聞いたビビヌッコアユナは、かっこよく笑った。突き放すようで、抱きしめるような、やさしい声が店内を包む。

「なんで、笑うんですか。自分は本気なんですよ」

「いや、私と一緒だなと思って」

「いっしょ?」

「そう、私もずっとモモコさんのこと、気になってたよ。だから飲み会に行ったんだもん」

 びっくりした。ビビヌッコアユナも、私とおんなじ気持ちだったなんて。ずっと一方通行だと思っていた糸のつながりが、実は両想いだったのだ。

 それからは、いろんなことを話して、お互いを知っていった。薄暗い店内。ふたり酔うなかで、ビビヌッコアユナは、たいやきをしっぽから食べること、目玉焼きには塩コショウをかけること、モグラではないこと、いろんなピースがはまっていく。

 また、ひとつ聞けなかったが、ビビヌッコアユナはたぶん女性であるような気がした。中性的に生きてはいるが、私とおんなじ香りがするのだ。

「じゃあ、どうして穴を掘ってたんですか」

「それは巣が地下にあるからよ。モグラじゃないけど、危ないから地面のなかに住んでるのよ」

「へえ、おもしろいです」

「でしょ。結構広くてね、地下帝国みたいなのよ」

 ビビヌッコアユナはクールなイメージとは違って、結構楽しそうに話してくれる。その笑みが私に向けられていることを、しあわせに思って、親子丼を頬張った。たまごがとろとろで、とってもおいしい。

「わたしも見てみたいです。プニョさんのおうち」

「だめよ。すごい、散らかってるから」

「そんなあ」

 そんな楽しい会話をしていたら、ビビヌッコアユナの頬は赤くなって、今度はトマトになった。酔いが回ってしまったようだ。そんなお酒に弱いところも、かわいい。私の恋心は伝わらなくても、ずっとこうして一緒に過ごしていたかった。

 その後は、またスーパーでトマトを買った人のふりをして、ビニールに入れたビビヌッコアユナを持ち歩き、近くのネットカフェで休憩することにした。鍵付き完全個室に入るや否や、私は上着とマフラーを脱ぎ捨てて、寝転がった。たのしかった、つかれた。私は酔うと普通に、眠くなるタイプだ。そのまま、トマトを抱えて眠りについた。


 そんな私の初恋は、夢からさめると失恋に変わってしまった。ネットカフェの狭い部屋の中で起き上がると、私はひとりだった。手元には、ビビヌッコアユナが入っていたはずのビニール袋がさみしい音を立てている。

「プニョさん、どこかにいますか?」

 そう聞いても返事はない。そのとき、ひとつの最悪の事態が脳裏に浮かび上がった。もしかしたらビビヌッコアユナは、まだ半分トマトの状態で外に出て、地球人に殺されてしまったのかもしれない。私は自分の書いている卒業研究論文のタイトルを思い出す。


『地域における超多文化共生社会の実際—ビビヌッコアユナの日常生活から—』


 異星人が降り立った現代では「超多文化共生社会の実現」を掲げている。それでも差別っていうのは、なくならないのが現実だ。異星人は地球を侵略する存在だと、未だに考えている地球人がたくさんいる。だからビビヌッコアユナは、生きづらい世の中を、隠れるように過ごしてきたはずなのだ。私と同じように。


 言う必要もなかったから、今まで隠していたけれど、私はマモボルボル星人だ。私たちはいつだって異星人だからって理由で、窮屈な世界を生きてきた。

 たったいま抜け出したネットカフェも、さっき食べた親子丼も、異星人ってだけで割り増しの料金がかかる。小中学生のときは、当たり前にいじめられてきた。就活しても、刺身にたんぽぽをのせるような雑務しか、異星人には与えられない。

 それでも私は、まだいい方だ。ビビヌッコアユナは、地上に住むこともできなかった。きっと性別すらも、恐れて表に出せなかった。世界中では、異星人ってだけで殺されてしまう事件が後を経たない。


 足いっぱいに力を入れて走り出す。サイレンの鳴る方へ、ビビヌッコアユナにもらった素敵な感情を噛みしめながら。それは、やっぱり恋なんて一文字では収まらない。どうしようもなく苦しい世界で、ビビヌッコアユナがいたから、私は普通の女の子みたいに笑えた。毎日がキラキラして、朝が来るのが楽しみで、希望を持てた。もう一度言おう、私はビビヌッコアユナが大好きだった。

 事件現場に着くと、立ち入り禁止と書かれた黄色いテープの外側に人だかりができている。それはみんな地球人で、まるでヒーローが悪役を倒したみたいな歓声があたりを包んでいる。異星人は、私は、ビビヌッコアユナは、いつも悪役だった。


 私はできるだけ地球人になりすましながら、透明な糸を指先から出した。小さい頃からの物体と物体をつなぐ癖、これは別に妄想の話ではない。マモボルボル星人が隠し持つ、特殊な能力だ。

 それは地球人の首を、心臓を、脳を、命を、貫いていく。それはまるで幼稚園のビーズ遊びみたいな暗殺で、楽しかった。人間を巨大ネックレスにしたら、次はパトカーを、コンビニを、居酒屋を、カラオケボックスを、ビル群を縫ってゆく。

 やがて切れない糸の重みで、ビルは倒れ、都会の街は破壊される。アスファルトに大きなヒビが走る。割れた窓ガラスが散乱して、人間の悲鳴が夜に溶ける。満月が器用に光る。

 こうして私は本当の悪役になった。それでもいいのだ。たとえ世界を敵に回しても、私はビビヌッコアユナの味方でいたい。昼に食べた親子丼の味を忘れないうちに、家に帰ろうって思った。


 ❖


「永遠です 永遠です 永遠です」

 いつか聴いたリズムで、私は今日も刺身にたんぽぽをのせる。大学を卒業してからは、本当にこの作業の繰り返しで、私は老いていった。

「モモコさん、これもおねがいね」

「はい、かしこまりました」

 隣の部屋で捌かれた刺身が、私だけの個室に流れてくる。ここでたんぽぽをのせたら、フタをして、店頭に運ぶまでが私の仕事だ。誰にも感謝されないし、やりがいこそないが、生活できるだけの給料がもらえればそれで十分だった。

 お寿司のパックにたんぽぽをのせて、あとすこし。フタをして、次は店頭に並べる。うちのスーパーは駅前なこともあり、仕事帰りの人が寄る夕方の時間帯がいちばん混む。それまでに商品を並べておかないとってわけだ。


 並べ終えたら、私の業務は終わってしまう。他の仕事はさせてもらえないため、ここで帰ることになる。私は隠れるようにタイムカードをきって、小さい声で、お先に失礼しますって言う。それが静かな廊下に響いても返事はなく、私は最初からいなかったみたいだ。

 帰り際にはいつも、自分の働くスーパーで買い出しをして帰る。今日は鶏むね肉とブロッコリーが安い。青くさい思い出はカゴの中、私の鼻先を刺激して、くすぐったかった。いまだジムには通えていない。

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