天使がおちる時

狄⃝ ت ‎

天使がおちる時

 暗晦――。

 長らく、文字通りに「すべて」が暗黒の中に籠っていたが、ぼーっと、無意識に宙を舞っているような感覚でいると、段々と聴覚が冴えてきた。序曲は耳鳴り。それが終わると、今度は静寂だ。恐らくこれが本編で、この静けさは妙に不安を煽る。

 次に嗅覚。黴臭いニオイが、鼻を突く。黴臭い? 違う。これはもっと気味の悪くて、おぞましくて、常人には耐え難い、膿の弾けたような強烈な刺激臭だ。息をするのも億劫になるが、呼吸を止めるそれも苦だった。

 そして触覚。おのが体温で温もりを覚えた布団の感触が、よく伝わる。ベッドは些か硬くて、私は腰を痛めていることに気づく。気づいて、痛覚。

 然し、一向に戻らない感覚があった――視覚。

 ずっと真っ暗で、まるで光を受け付けない。意識をすれば、眼窩に埋まる「眼」がにょろにょろと動く感触は判る。然し、何も、視えない。

 視界に黒いヴェールをかけられたみたいに、何も視えない。どれだけ目を、見開いても――。

 解った。いや、「分からない」を解ってしまった。そうしたら、急に怖くなった。見えない……? 疑念が募る。私の胸中には恐怖が風船のように膨らみ、そして、見事に破裂した。

 何かが吹っ切れて、私は力任せに暴れた。打ち上げられた魚のように、気がおかしくなって、呼吸を荒らげてベッドの上でまろんだ。ガコン、ガシン、ガチャン! 静寂を裂いて、新たな音色が奏でられる。苦の音だ。躰は自由。束縛などなく、私はベッドから転げ落ちる。

 依然視界は暗晦で、私はそれにひたすら怯え、藻掻いた。

 大きな騒音は人目を惹いたらしく、なにやら若い女の人が来て、私の躰を押さえながら、必死に訴えかけた。

「落ち着いてください! 大丈夫ですからっ――!」


 陽も西に舂いて、私の気力も沈んでいった。

 依然、目は見えない。

 ただ、感じるものはあった。

 私が暴れて、落ち着いてから、ずっと、ずーっと傍にいる、一人の看護師だ。

 ――ここは野戦病院だった。私がいつ運ばれたのか、いっさい記憶にない。その看護師いわく、私が運ばれて来たときには医師を含めた全員が唖然としたそうで、どうも炸裂した榴弾の破片が顔を抉っていたらしい。精確には、ちょうど目から額、そして頭頂部にかけてを四散した破片が侵入していたそうだ。お陰で顔がよく痛む。

 三日は昏睡状態で、その看護師は私が目を醒ますのを待っていたそうだった。

「でも、よかった」

 看護師が安堵の溜息を零すように、不意にことを放つ。私は小動物のように、耳をぴくっと搔き立てた。

はて、関係があるのかは分からないが、目が見えなくなってから、耳の調子は良いようで、遠くにある――どこかは判らない――洗面所の、ほんの小さな水滴が淋漓する音さえも、聴こえるような気がしていた。

 そんな冴えた私の耳が、彼女の言葉を聞き逃すわけがない。

「なにが、よかったの?」

「あっ! えと、その……」

 彼女の声色に羞恥が伴う。然し、その意図は私には分からなかった。

「その……貴女の顔、とても綺麗だから」

 突拍子もなくそんなことを言われると、私にも羞恥が共有される。

 顔……、綺麗……?

 今まで一度もそんな風に言われたことのなかった私の顔。鏡を見た回数は指折り程度だが、我ながら十人並みくらいだろう、としか思ったことはなかった。

「冗談やめてよ」

 咄嗟に取り繕うように言うが、彼女はそれを跳ねのけた。

「ほ、本当だよ! すごく、凛々しくて綺麗な顔をしてるなっ、て……」

 やめろ。やめてくれ。

 きっと今、私はものすごく顔を赧らめている。後頭部が鉄を打ったように熱を帯び、暑くなって、いよいよ汗まで搔いてきた。

 彼女もそうなのか、思考が鈍って、互いに出る言葉もない。

 暫し穏やかな沈黙がその空間を包み込んだが、再び彼女から話が切り出された。


 それから三時間。色々な話をした。

彼女は野戦病院ここの従軍看護師で、私は各地転戦の狙撃兵。喋り方もまるっきり違って、「まるで天使と悪魔だね」。冗談まじりにそういうと、「そんなことないよ」と彼女は微笑んで、私の窶れた手を握る。

 温かくて、やわらかくて――。

 同じ女同士なのに、私の乾燥して、ガサガサになった手とは大違い。きっと墜とした数と、救った数で、この差が生まれたんだろうな。そう思うと、胸中は渦めいて複雑だった。

 それから、彼女はすごく天然だということが分かった。前線で流行るブラックジョークも、敵軍への皮肉も披露したが、きっと本意を分からずに笑っていた。


「すごいね、この勲章の数」

 病褥の右側に座っている彼女が、チェストの上に並べられている勲章に手をかける。チャラ。

 ――勲章。

 その響きは、彼女に夢中だった私の熱を冷ますには十分だった。

 それは、唾棄すべき行為に対する顕揚。ありえない。普通の社会であれば、人殺しは「罪」だ。勲章なんてありはしない。仮に、今が童話の世界みたく平和で、みんなが実直に暮らしていて、私がその中で誰かを紅く染め上げれば、安寧な世界であっても即行で磔にされるだろう。

 気に入らなかった。見栄を張っているわけじゃない。心の底から、反吐が出るほど、この実績を嫌った。

 さながら、本当に天使と悪魔じゃないか。

 私が仮に回復すれば、また前線送りだ。彼女たちが扶けてくれた恩も知らず、無数の弾丸と悲鳴が降り注ぐ中で、淡々と、まるで機械のように、また人を殺す。殺すのだ。――殺すとは? 殺すからなに? もう感覚が麻痺した時点で、私の思考は腐っている。こんな悪魔に、なぜ天使は手を伸べた?

「馬鹿なの?」

 そんな言葉は、口が裂けても言えなかった。

 純粋で、可憐で、地獄を見た兵士に安らぎの光を与える。「希望」なんていう綺麗なお言葉、お似合いだと思うよ。

 ――きっとこんなアイロニーにも、彼女はただ無垢に微笑むだけなんだろうな。

 顔も、髪色も分からない。

 でも、声から、その音色から、感触から。彼女が温かい「人間」だということは判然と解った。私にとっての、希望になったのだ。

 それはどんなに輝かしい勲章よりも、誉なものだと思う。

「勲章なんて、いらないよ」

 長考の末に出た言葉は、存外ちっぽけなものだった。まるで自分から言ったとも思えないくらいに。

 淡泊な返答に、彼女は「え?」と聞き返す。

「あってもチャラチャラうるさいだけだし」

 空気がピリついてはいけないと、冗談を含んだ調子で後付けをする。実際、こんなものを取っておいて何になる。「見て、人殺した」とでも自慢するのか。

 私の貰った勲章はどれも「射殺」に関連するものばかり。今回それに、「戦傷章」が追加される。タダでもいらない。

「大事じゃ、ないの……?」

 彼女の疑念を含んだ言い方は、声だけで充分に伝わった。

「大事じゃないね。逆に君は、勲章とか大切にしてるの?」

 声のする方に顔を向けて、彼女に問いかける。看護師はまた、気恥ずかしそうな声色で質問に答えた。

「勲章なんてものはないけれど……。昔、お友達とお揃いで買ってもらった、バッジがあるの。エーデルヴァイスの。ほら」

 そういって、彼女は私に冷えたピンバッジを握らせた。口の中でワインを嗜むように、触って形を吟味する。細く伸びた苞葉の形とか、茎の部分とか、小さいながらに丁寧な造形をしているそれは、触っているだけでもしっかりと想像できた。

「きっと綺麗なんだろうね。そのお友達は、今どうしてるの?」

「あの子とは、戦争が始まってから、別れたの。あの子の父親が東部の為政者で、戦争が始まってから、母親と二人で父親のところに帰るって……。それからは文通の一つもなくて、生きてるのかすら……」

 彼女の奏でる音色が、「落胆」に転調する。切なさと哀愁が、私の心をも動かした。

 せっかく休んでいるのだから、もっと明るい話をしようと謝罪し、今度は私が話を振り切った――。


「いま何時……?」

 私が軽く訊ねる。程好い眠気が二人を誘って、そろそろ寝ようかと思った時だった。

「もう、四時まわってるね……」

 私は、このたった数時間という刹那で、深い愛を覚えた。汚らわしく生きてきた私を、彼女に綺麗さっぱり浄化してもらった気分だった。清々しい。

 目は、見えない。

 でも、そんなことはどうでもよかった。

 目に直接映らなくとも、どこかで、判然と見えていた。今夜はぐっすりと眠れる。久々だ。腐乱臭の漂う塹壕や、酷寒の戦場、死を傍らに眠る蛸壺の中に比べれば、天使という特典の付いたちょっとお硬いベッドなんて、まるで天国だ。

「ねぇ」

 ここに来て、私は少し贅沢を願った。

「どうしたの?」

「手、握っててくれる……?」

 もう、羞恥なんてなかった。

 そんなものなんかより、彼女と繋がっていたい一心が勝っていた。

「うん。いいよ」

 優しい声だ。傷だらけの躰を包み込むようにやわらかな声。その音を耳で咀嚼し、反芻して、やがて子守歌のようになり、優しく眠りへといざなう。もう、寝よう――。

 …………。

 …………。

 ズドン。

 …………? どこか聞き覚えのある音。

 ドゴン。

 二回目。

 バガン。

 三回目で、夢ではないと、明らかな異変を感じた。それは彼女も同じようで、私たちは繋がる手に力が入った。

 ドガン。

 鈍重で、怪獣の咆哮のような音は、ゆっくり森を抜けて、こちらへ躙り寄ってきている。耳が敏感になっているのと、過去の経験値から分かった。

「これって……」

「うん……」

 彼女が声を震わせて訊ねる。私も無意識に上半身を起こしていた。これは、この砲撃音は、着弾位置を合わせている。

 耳を澄ます――。

 然し、五回目を聞こうには、明らかに着弾する位置が近すぎた。

 私たちの反対側にある窓が、凄まじい爆発音と共に、木っ端微塵に爆散する。

 私は、本能的な瞬発力で以て、手を繋ぐ彼女を包み込んだ。

 無数のガラス片と、バラバラになった格子が私の躰を突き刺し、そのすぐ後に、背中を炙るような灼熱が痛みに変換されて全身を迸る。

 でも、耐えるほかなかった。彼女を守るために、全身を捧げた。

 嵐が過ぎ去ったと思えば間髪入れず、知らない言葉と、怒号と、けたたましい銃声が聞こえる。私は意識が朦朧としていたが、それでも闘う意志はあった。

 目が、見えない。

 でも、そんなことを言ってるほどの余裕なんてない。今は、いまだけは、痛みをも置き去って、銃を手に取らなければならない。

 辺りは転瞬にして地獄へと化す。負傷者の悲鳴。指揮官の命令。無数の銃声――。ここも、ここもか!

 私は沸々と込み上げる怒りを押し殺して、辺り一帯、誰かに届くように大声で叫ぶ。

「銃はっ! 銃はどこだ!」

 私は膝を折って、叫び続ける。負傷者たちは逃げるのに、医師たちは職務の全うに必死で、私の声など届きはしない。

「ねぇ! 逃げよう! 闘っちゃだめっ!」

 膝立ちから立ち上がろうとする私を、彼女は強引に引き留める。でも、ここで無様に死ぬなんて、「情けない」と悪魔が囁く。判然と、そう聞こえたのだ。

「君は逃げて。できるだけ遠くに」

 彼女の懇願を、私は一蹴する。

「嫌だよ! 一緒に行こう? ねぇっ!」

 彼女はそれでも、引き下がらなかった。

「行けっ! 逃げて、助けろ!」

 我しらず、大声が出た。

「……私は悪魔で、人を殺す。いいか――、君は、私を覚えていないし、私は君を

 本来の私が、宿った気がした。きっと今、彼女は私に失望の眼差しを向けているだろう。そう、それでいい。

「振り返らずに、走れ」

「うぅっ――」

 ――ごめん。恩知らずの私を、ゆるしておくれ。

 彼女は私の肩に手を置いて、ゆっくり立ち上がった。そう。確り立て、決して躓くな。そして、走るんだ――。


 死地隣接と言わんばかりに、人が死んでゆく。病院は砲弾が直撃し、外と内の区別がつかなくなっていた。

 たまたま目前で斃れた兵士が、ライフルを落とす音が聞こえ、とても都合がよかった。

 ボルトアクション式のライフル。

 ボルトを引いて、ガサガサの手指で残弾を確認する。それからボルトを押し戻し、チャンバーを閉じる。そして深い息を吐き、呼吸を整え、耳に集中を置いた。

 砲撃や爆発音、弾が真横を掠める音も聞こえる。でも、私はそんな雑多な環境音から足音だけをうまく抽出し、やがて照準を定めた。

 感覚は鈍っているかもしれない。然し、殺意は今までで一番高かった。

 殺ってやる――。

 優しく引鉄を引いて、標的が斃れるドサッという音が聞こえる。確実に、仕留めた手ごたえがあった。続けて発砲する。そうして、一方的な攻勢は反転し、私は神通力の如き精確な射撃を繰り返した。


 夜明け前だろうか――。

 戦闘は嵐の一過の如く過ぎ去り、辺りには物憂げな静けさが戻っていた。

 何時間、闘ったのか。或いは、たったの十分くらいしか経っていないのかもしれない。

 私は疲弊しきって、ライフルを携えたまま、倒木に腰掛けていた。何か無性に寒いと思ったら、雪が降っていたみたいで、それらは爆風で増えた私の傷を撫でていく。

 控え目にいっても激痛のそれに、私は幾度か反射的に身を捩らせた。

「おい、大丈夫か……?」

 生き残りの負傷者だろうか。だとして、血塗れで、目も見えない私が大丈夫そうに見えるか?

「大隊がこっちに向かってるんだってさ。あんた、よく撃退したな。こりゃ最高勲章ものだぜ」

 ――勲章。

 嫌な響きが、また私を不快にさせる。

 与太話をする気力もなく、私は気になったことを淡泊に訊ねた。

「なァ――。看護師は、逃げたか?」

「看護師……? あー、お医者様たちは皆、すたこらさっさと逃げちまったぜ。んぁ、でも、一人だけ、ライフル手にしてたな――」

 その一言を聞いて、目を見開く。心臓が引っ繰り返ったみたいにどくんと鼓動を打って、私は刹那、息に詰まった。

「――どんな奴だ! どこにいる!」

 虎に食いつかれたかのように驚いたそいつはあっちだ、としどろもどろに説明し、私は一心不乱にそこへ向かう。距離はそう遠くなかったが、動悸が止まらなかった。

 なぜだ。まさか。そんな――。

 未明。段々と、視界が明るくなる……。久しく感じることのなかった明るさに、私は思わず瞼を力ませた。

 それから、三日、いや四日ぶりくらいだろうか。

 

 目が、見える――。


 すぐさま、私は視界を邪魔する包帯を払った。


 世界が、見える――。


 ――絶望。

 まさか、というより、さすがに――という思いの方が強かった。そんな、悲劇トラジックの典型のような終わり方があるか。認めない。

でも、目前に居るのは確かに、嫋やかで、相手に安心を与えるあの「手」を備えた、彼女だった。

 雪と同化しそうなほどに端麗な銀髪を纏い、紺と白のナース服を着て、片手にライフル、目は瞑ったまま。なにより、横にして斃れる彼女の胸元に、小さな花が咲いている。

 決定的な、証拠だった。


 ようやく分かった。これは、天使が手を伸べたのではない。悪魔が地獄に引き摺り込んだのだと。

 いま、わかった。

 紅い涙が零れて、彼女の冷えた頬を濡らす。すごく、寒そう。

 もし――。もし、想いの馳せた熱を、いま分けられたなら。

 夜が明ける。

 木々を掻き分ける僅かな光が、私と、大事な彼女の頬を照らした。

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天使がおちる時 狄⃝ ت ‎ @dark_blue_nurse

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