プリンシパル②
髪を後ろで結んだ、小柄な女の子がそこには立っていた。緊張はしているが、純粋そうな目をしている。見たところ、中学生くらいだろうか。
真奈美が女の子の方に歩み寄る。
「あなた、名前は」
「柴田
「そうですか。入会も検討しているのかしら?」
「はい、できればそのまま入会したいと考えています。よろしくお願いします」
女の子がお辞儀をした。
「真奈美さん」
坂田は真奈美を呼び、女の子に聞かれないよう、こっそりと真奈美に耳打ちした。
「真奈美さん、お願いです。やさしく教えてください。もう後がないんです。この子も辞めてしまったら、本当に教室を閉めざるを得なくなる。これが最後のチャンスなんだ。お願いします。」
坂田の顔を見ながら、真奈美はしばらく黙っている。
「………わかりました」
彼女はしぶしぶとうなずいた。さすがに今の状況に危機感を抱いているようだ。
真奈美は振り返り、少女の方へ穏やかな笑顔で挨拶した。
「ようこそ、黒石バレエ教室へ。歓迎します、柴田さん」
はいっ、と咲希が元気に返事をする。
「まずは準備運動から始めましょうか。今日は基本的な動きについて、簡単に説明しましょう」
「わかりました!」
それからしばらくは、平和な日々が続いた。
新しく入ってきたその柴田咲希という子は筋がよく、真奈美さんの指導を受けて着実に上達していった。真奈美さんも反省はしているようで、厳しい態度をとることもなく、レッスンは順調に進んでいった。
しかしある日、真奈美の悪い癖が出てしまう日が来てしまった。
その日は難しい技の習得に挑戦していた。真奈美の指導にも熱が入る。しかし、咲希はなかなか上手くその技を再現出来ていないようだった。
「そこ、もう一回」
真奈美が指示する。
それに合わせて、咲希がもう一度その技を試す。が、上手くいかない。
「もう一回」
真面目にやっていないわけではもちろんない。しかし、どうにも咲希にはコツがつかめないようだった。繰り返しを求める真奈美の声には、だんだん険がまじってくる。
とうとう真奈美はいつもの調子で怒りだしてしまった。
「何回言ったら分かるのです!真面目にやる気があるのですか。そんな覚悟なら、辞めてしまいなさい!」
真奈美が恐ろしい顔でそう叱りつけた。
初めて受ける真奈美の叱責に、咲希はひどく驚いた、そして悲しそうな顔をした。その後、大きな目を見開いたまま、突然教室の外に出てしまった。
「咲希ちゃん!」
坂田は教室を飛び出した咲希を追いかけた。
「ここにいたのか」
教室からそう遠くない公園のベンチに、咲希は一人で座り込んでいた。
「ほら」
坂田は買ってきたココアを咲希に渡した。彼女はまだ少し気まずいのか、顔を見ずにそれを受け取る。坂田はそのまま、少し間をあけて横に腰を掛けた。
少しの間、沈黙がつづく。
坂田は目の前の遊具を見ながら、咲希に話しだした。もう夕方なので、遊ぶ子供はおらず、公園の中はがらんとしている。
「なんで、そうまでしてバレエがしたいんだい。あの教室で、一人きりで。ほかのことでも、いいや、バレエをするにしたって、ここじゃなくても、他の教室だって、よかったんじゃないかな。いや、別にここがいけないってわけじゃない。…………だけど純粋に、疑問なんだ」
「………………」
咲希は、少しためらったようだが、やがて何かを決心したようだった。
「わたし、何をやっても駄目だったんです」
ぽつりと、咲希は話を始めた。
「勉強もできないし、要領は悪いし。親にも怒られてばっかりでした」
そこまで言って、咲希はいったんココアを飲んだ。
「前に一回、学校のイベントで、真奈美先生が来てくれたことがあったんです」
「ああ、もしかして、もみのきバレエ体験会かい」
坂田は以前、各地の小学校で開催するバレエ体験会で、真奈美がボランティアとして参加しているという記事を目にしたことがあった。
「はい。そこで先生に見てもらって、いろいろと指導してもらいました。そのとき、あなたのバレエの姿勢は綺麗だって、ほめてもらったんです」
咲希は昔を思い出すように、懐かしそうな目をしている。
「先生は覚えてないかもしれないですけど、私、うれしかった。本当に、心の底からうれしかったんです」
咲希は、貰ったココアの缶を握りながら、坂田の方を向いた。
「だから私、辞めません。先生にはまた怒られるかもしれないですけど、辞めるつもりはないんです。これからも、頑張ってバレエの練習をします」
そのあと、ハッと我に返ったように、咲希は恥ずかしそうな顔をしてうつむいた。
「でもすいません、勝手に教室を出ちゃって。先生に謝りたいので、すぐ戻りますね」
「いや、時間も過ぎてる。真奈美さんには言っておくから、今日はもう帰りなさい」
咲希はしばらくためらっているようだったが、結局坂田の説得に負け、その日は帰ることとなった。
「坂田先生、いろいろ話を聞いてくれて、ありがとうございました。」
私はココアのお礼もあわせて受け取り、咲希とそこで別れた。
その後、私は教室へ戻った。真奈美さんは教室を掃除している。
私は真奈美さんに話しかけた。
「なあ、真奈美さん。あの子は昔あなたに教えてもらったことがあるみたいなんです。以前やっていた、もみのきバレエ体験会ですよ。それであなたに褒められて、バレエを始めたんです。やさしくしてあげましょうよ」
「だからこそです」
真奈美は鏡の前の手すりを拭きながら言った。
「彼女の事は覚えています。少し自信がなさそうでしたが、きれいな姿勢で、こちらの指導もよく理解してくれました。彼女ならバレエをやれば、きっと素直に伸びるだろうと思ったものです。教室に来てくれた時、一目で思い出しました」
「なんだ、真奈美さんも覚えてるじゃないですか。だったら……」
「しかし、彼女の将来を思えば、生半可な覚悟でここにいるべきではないのです」
真奈美は、坂田の方を振り向いた。
「バレエは厳しい世界です。血のにじむような努力の先に、舞台の栄光があります。それでいて、たったひとつの事故で、ただでさえ短い選手生命は絶たれます。そんな世界に、あの子を中途半端な気持ちで立たせるわけにはいかないのです」
「そんな、なにもプロを目指すだけがバレエの全てじゃないですよ。バレエを楽しむことだって、大切ではないですか」
真奈美は首を振った。
「いいえ坂田さん。プロを目指す、目指さないではないのです。私はバレエを神聖なものだと思っています。私はバレエに、様々なことを教えられました。そんなバレエに、私は誠実でありたいのです」
「真奈美さん…………」
私は、それ以上なにも言えなくなってしまった。
「さあ」
真奈美は掃除道具を片付け終わった。
「掃除も終わりました。今日はもう教室を締めましょう」
教室の電気を消し、二人は外へ出た。
「坂田さん」
建物の鍵をかけながら、真奈美は口を開いた。
「私はこの教室が、たとえおしまいになってしまっても、いいのです。私は幸せでした。本当はあの事故の時、私のバレエ人生は終わっていたんですもの。あなたのおかげで、楽しい思い出ができました。ありがとうございます」
その口調には、坂田に対する感謝の気持ちがにじんでいた。それだけに、坂田は複雑な気持ちになった。
「何を言っているんですか!」
坂田はそんな思いを振り払うように、わざと強い口調で話した。
「これからですよ。まだ何も始まっていません。第一、まだプリンシパルを育ててはいないではないですか」
真奈美は、少し驚いたような顔をした。そして
「そうですね」
真奈美は、くすりと笑った。それは以前、初めて坂田に出会ったときに見せた笑顔と、同じものだった。
「人生、何が起こるか分からないものね」
二人は静かに帰っていった。夜空には、小さな星が輝いていた。
プリンシパル 太川るい @asotakeyoshi
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