プリンシパル
太川るい
プリンシパル①
「そこ!脇が甘い!」
真奈美の持つ竹刀に力が入る。
いまにもそれを床に叩きつけんばかりの勢いだ。
「先生、もうそのあたりで……」
横で見ていた坂田が真奈美を止めに入る。
指摘を受けた女の子は、泣き出してしまった。
「いいえ、坂田さん。ここでやめたんじゃあ、この子のためになりません。ほら、姿勢を崩さないの。本番でこんなことになっては駄目よ」
そう真奈美が声をかけるが、女の子は泣き止まない。
涙を拭いながら、ようやく泣き止んだ女の子は、坂田に手渡されたタオルを握りしめて、こう言った。
「先生、あたしもう限界です。耐えられません。毎日毎日叱られて、こ、こんなの、あたしがしたかった、バレエじゃない」
絞り出すようにそう言ったあと、女の子はまたワッと泣き出した。そうしてそのまま、真奈美の顔も見ず、教室の外に出てしまった。
またか――――。
坂田はフォローをするために女の子の後を追った。部屋を出る前、ちらりと真奈美の顔を見る。真奈美は唇を固く結び、目を大きく見開いて、外につながるドアを見つめていた。
「どうも駄目だ。あの子は辞めるよ」
数十分後、坂田は教室に戻ってきた。女の子を説得してみるも埒が明かず、外で女の子を待っていた保護者からは、クレームと退会の連絡が入った。
真奈美は鏡を見つめてポーズをとっている。その姿勢は美しく、見ていた坂田は不覚にも見とれてしまった。
「坂田さん」
真奈美はポーズをとりながら、坂田に話しかけた。
「私は、何か間違ったことをしたのでしょうか?」
真奈美の顔は先ほどと変わらない。一点を見つめる真剣な表情だ。
「先生、熱心なのは非常にいいことです。ただ、あなたの場合……」
坂田は一旦言葉を切った。
「あまりにも、その熱心が過ぎる」
二人の間に沈黙が流れた。
坂田は真奈美と出会った時のことを思い出していた。
一目見て、この人はバレエ界の至宝になる――そう坂田は確信した。
その端正な顔立ち、しなやかな手足から繰り出される踊りは、美というものの顕現に他ならなかった。
彼女が登場するだけで、舞台の空気は変わった。
坂田はそんな真奈美を、舞台の下からずっと見ていた。
それはもちろん、あの事故の日にも彼女を見ていたということだ。
「痛ましい事故」、「プリンシパルを襲った悲劇」――。翌日の新聞には、そういった文言が紙面を飾った。記事には真奈美の顔が載っていた。
坂田はその事故に関する記事をありったけかき集めた。どこかに彼女の今後が載っているものはないか、事故の詳細だけでなく、これからの展望が載っているものはないものか――。坂田は血眼になって記事を収集した。するとある記事に、彼女はK病院で治療を受けているらしいという内容があるのに彼は気付いた。
いてもたってもいられなくなった彼は、すぐさまその病院を訪れた。
無論、一介のファンである坂田に面会が許されるはずもない。だが彼は熱心にその病院に通い続けた。
その間にも様々な記事が世間には流れてくる。
「復帰は絶望的。関係者語る。」
「公演の代役ダンサー、一躍有名に。」
「今月中に手術予定。リハビリの見通し険しく。」
どれ一つとして、坂田の心をかき乱さぬものはなかった。それでも、いやそれだからこそ、彼は病院に通い続けた。
ある日、坂田が病院の中庭を散歩していると、向こうに杖をつきながら歩いている患者がいた。
その姿を見た瞬間、坂田は自分の体が硬直するのを感じた。
見間違えるはずがない。そこには真奈美がいた。
「真奈美さん」
思わず、坂田は声をかけていた。
声をかけられて、真奈美が顔を上げる。美しいその顔には、かすかな当惑の色があった。
「すみません、どなたでしたか」
緊張していっぱいいっぱいになっている坂田の話を聞いているうちに、真奈美はくすりと笑った。
「こんなに熱心なファンの方がいたなんて、私は幸せ者ね。もっとあなたのことを教えてくれないかしら」
坂田と真奈美は、それからもリハビリをする中庭で、たびたび話すようになった。
しばらく時間が経ったある日、足の回復のための追加の手術を真奈美は受けることになった。
「どうですか、その後の調子は」
手術を終えて数日後、中庭で坂田がたずねた。
「ええ、順調よ」
真奈美は手術した足を右手でさすりながら、そう言った。
「でもこれでは駄目ね。日常生活は出来ても、バレエは以前のようには出来ないわ」
真奈美は少し寂しそうに言った。それを聞いて、坂田は表情を曇らせた。今まで積み上げてきたものを突然奪われる。それはどれだけ辛いことだろうか。彼女がこう寂しく笑うようになるまでに、どれだけの葛藤があったことだろうか。坂田は胸が苦しくなった。
「真奈美さん」
坂田は熱を持って真奈美に話しかけた。彼には、以前から考えていたあることがあった。
「教室を開きましょう。あなたの才能は、こんなところで埋もれてはいけない。きっと道が開けるはずです。責任は全部私が負います。一緒に、最高のバレエ教室を開きましょう」
坂田は熱心に説き続けた。話を聞いた当初は、すぐには首を縦に振らなかった真奈美も、坂田の説得が何週間か続いたある日、その話に応じるようになった。
そうして今に至るわけだが――――。
坂田はため息をついた。
さっきの生徒は、真奈美の最後の生徒だった。
教室を開いた当初、第一線で活躍していたバレエダンサーが教室を開くというので、噂を聞きつけた生徒と親が、それはたくさん来た。
だが喜んでいたのもつかの間だ。真奈美はどんな生徒にも手を抜かなかった。物腰柔らかな普段の姿勢からは想像がつかないほど、バレエの時の真奈美は厳しかった。そんな真奈美の指導に耐えられず、生徒はどんどんと減っていった。
真奈美はそのような状況にも関わらず、生徒を厳しく指導し続けた。その結果が、今の状況だ。
さっきの子は、最後の生徒だった。あの子は、生徒が減っていく状況の中でも、よく頑張ってくれた。しかし、さすがにそれも限界だったようだ。坂田は先ほど、保護者から言われた言葉を思い出した。
「どうして真奈美先生は、あそこまで厳しいんですか?娘は練習の後はいつも、今日はこんなことで叱られたと言って落ち込みます。帰ってからも、ずっと表情は暗いままです。もう今日限り、教室は辞めさせていただきます。あんな先生に、娘を任せられません。……」
坂田は人知れずため息をつきながら、真奈美に話しかけた。
「真奈美さん、前にもお話したことですが、もう少しやさしく生徒に教えられないものでしょうか。そうすれば、あなたの経歴だ。必ずまた生徒は戻ってきます」
しかしその坂田の言葉を聞くなり、真奈美はくるりと後ろを向いた。
「それなら仕方がありません。この教室は閉めます」
坂田はあわてて付け加えた。
「いや、何も妥協をしろと言っているんじゃありません。ただ、もう少し手心を加えていただければいいんですが……」
「バレエを学ぶ生徒に、いい加減な真似は出来ません!」
真奈美の張りつめた声が、教室に響いた。
それを言われると、何も言えなくなる。坂田は押し黙ってしまった。
沈黙がしばらく続く。
「あの……すみません」
ドアの近くで、声が聞こえてきた。いつの間にか、誰かが入ってきたらしい。
「黒石真奈美先生の教室はこちらでしょうか」
二人は一斉にこの来訪者の方を見た。
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