トマトが好きな君へ
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トマトが好きな君へ
俺が大学進学と同時に上京して独り暮らしを始めたのは、ちょうど一ヵ月前のことだ。
趣味が合うというわけでもないが、飲んで馬鹿騒ぎする仲間だっている。
どちらかと言えば酒に強くない俺は、後始末のほうが多いもの、二日酔いの世話にも慣れてきた。
長男気質なせいか、俺はどうも他人の面倒ばかり見る癖があった。
もともと、兄弟の面倒を見るのが嫌で上京したわけだが、実家を離れても結局は同じようなことをしていた。
これまで忙しさを親兄弟の所為にしてきたが、実際は自分が世話を焼きたくなる体質なのかもしれない。
他人のせいにしなくなっただけ、俺は大人になった気がした。
――などと考えつつ、俺は独り暮らしにしては大きめの鍋を覗きこむ。
明日の飲みで場所を提供するのだが、いかんせん料理ができない連中ばかりで、俺が食事も用意する予定だった。
俺もそれほど調理が得意というほどでもないが、店屋物ばかりでは金もかかるので、今回は材料費を集めて作ることにした。
ちなみにメニューは材料が少なくて済むバターチキンカレーだ。
有難いことに、近くの八百屋で腐る寸前まで熟したトマトを安く譲ってもらえた。
俺はざっとトマトを洗うと、熟しすぎて切りにくそうなトマトのひとつに包丁を入れて中を確認した。
指のカタチがつくほど柔らかいのが不安で、匂いを確認する。
鼻を近づけても、異臭はしない。
――――が。
黒い虫が見えて、思わずトマトをまな板に落とした。
まな板の上でぐちゃりと崩れる赤い塊。
息をのみ、潰れたトマトを食い入るように見つめていると、中から黒い虫が出てきた。
俺は反射的にスリッパを手に取る。
そして素早く虫を叩き潰そうとすれば――どこからともなく「うひゃあ」と甲高い悲鳴が聞こえた。
まな板を叩く寸前でスリッパを落とす俺。
虫は小さく震えながらまな板で這いつくばっていた。
「……なんだ?」
よく見れば、それは虫ではなかった。
黒い服を着た、人形のような何かだ。
しかもその人のカタチをした何かは、俺を見るなり居丈高に苦情をぶつけてきた。
「あなた! 危ないじゃないの! あたしが潰れちゃったらどうしてくれるのよ!」
「喋る虫か!」
俺が感心しながら観察していると、人のカタチをした虫はさらに怒りをまき散らす。
「あたしのような
威勢のよい虫は、レースだらけの黒いワンピースを着ていた。
俺はその襟元をそっと掴んで持ち上げる。俺が持ち上げると、虫は手足を動かして暴れた。
「おお、羽がある。なんの虫だ? 都会の虫はこんなにも進化しているのか?」
「んなわけないでしょ! あんたどんだけ非常識なのよ!」
「じゃあ、お前はなんなんだ?」
「まずおろしなさい! でないとあんたを毒針で刺してやるわよ!」
「おお、こわ」
俺は言われた通り、まな板の上に虫をおろす。どこに針があるのかはわからないが、知らない虫だけに危険がないとは言い切れない。
俺がなおも観察を続けていると、虫は少し照れくさそうに目を泳がせる。
よく見ると、左右対称の端麗な顔をしている虫だった。
「あたしはトマトの国から来たのよ。トマト喰い姫と呼ばれているわ」
「お前はトマトなのか、虫なのか」
「どっちでもないわよ!」
「なら、なんなんだ?」
「あたしの出自なんてどうでもいいでしょ? とにかく、あんたは拾った以上、あたしを責任もって育てなさい」
「拾ったわけじゃない。俺がたまたま買ったトマトを食ってただけだろ、お前」
「なら、あんたはあたしを買ったも同然だわ。この虫買いめ!」
「お、虫と認めたな」
「ち、違うわよ! つい口から出ただけよ!」
「でもまあ、独り暮らしも慣れてきたから、お前一匹くらいどうにでもなるか」
「なんなのよ、そのペット感覚は! あたしはお姫様なのよ? ちゃんと崇め奉りなさいよ!」
「虫の上下関係なんか知るか!」
などと言いつつ、俺は新品の耳かきを先だけ切ってスプーン状にし、それを虫に持たせてやる。虫は物珍しそうにそれを眺めていた。
「何よ、コレ」
「トマト食うんだろ? それやるから、俺が料理してる間、黙って食っとけ」
「あら、気が利くわね」
「耳かきだけどな」
「嘘! これちゃんと新品でしょうね?」
「さあな」
俺はニヤニヤしながら虫とトマトひとつを座卓に置いて、調理を再開した。
熟したトマトのおかげで、チキンカレーはいつもよりもうまかった。
***
それから虫との生活が始まったわけだが――虫は本当に虫らしく、殺虫剤を見るたびに恐怖し、ゴキブリホイホイを前にして固まった。
暗いところが好きらしく、一緒に生活するというよりは、勝手に家を徘徊している感じだった。
呼べば出てくるもの、普段は本棚の後ろを好んで隠れていた。
「おい、飯だ」
「遅いわよ」
「――な、天井から落ちてくるのはやめろって言ってるだろ!」
「うるさいわね。たまには羽を使わないと、運動不足になるのよ」
「運動なら手足を使えよ」
「お姫様が手足をジタバタさせるなんて、はしたないわ」
「俺がつまんだらよくやるだろ」
「――それは! あんたがあたしに狼藉を働くから、驚いて反射的に動いてしまうだけよ!」
「お前が電気にくっついてるのを見ると鬱陶しいんだよ」
「神聖なる光に引き寄せられるのは当然のことよ」
「お前の神はLEDか!」
「光るもの全てよ!」
虫はよく喋った。
やたらと現代に通じているところや、口達者な理由を考え始めると面倒なので、この際、ある程度の知性を備えている虫くらいに思っておくことにする。
虫はドラマよりも、俺のサークル仲間の男女関係のほうが気になるらしく、仲の好さそうな男女を見るたび、やたらと話題をふってきた。
あれは誘ってほしいサインだの、これは下心があっての親切だ、など。
仲間を部屋に呼ぶたび、あまりに五月蠅いため、最近は前ほど友人を部屋に呼ばなくなった。
どうやら他の人間に、この虫は見えていないようだが、周囲を蚊のようにうろつかれると目障りこの上ない。
だが仲間を呼ばなくなったことで、外で飲む機会が増えたら増えたで虫がよくダダをこねるようになった。
リアルな男女関係が見れないのはつまらないらしい。
なぜそんなに現実をかきまわしたいのかは理解に苦しむが、暇には違いないだろう。
そして虫との生活も二週間になり、だいぶ行動パターンが掴めてきた頃、ふと俺は、虫の変化に気付く。
ワンピースから伸びた細い足が長くなっている。この短期間で成長したということだろうか。最初は十代前半くらいだった顔が、やけに大人びた顔つきになっていた。
「……なあお前、ちょっと老けたか?」
「うるっさいわね。あんたにはデリカシーってものがないの? この朴念仁」
「デリカシーがないのと朴念仁は違うぞ。つまりは――」
「意味はいいわよ! 要はあんたが失礼ってことよ!」
少し大人になった虫は、前ほど家の中を徘徊しなくなった。
それこそ深窓の令嬢にでもなったように窓際で外を眺めることが多かった。
「外へ出してやろうか?」と訊ねてみれば、「うるさいわね、ただアンニュイなのよ」と返されるだけで、外に出たいわけでもないらしい。
前よりも少し覇気がないあたり、大人になったと思うが――少し寂しいとも思った。
だがその後も虫の成長は続いた。
さらに二週間経つと、俺よりもひと周りは年上の顔つきになり、喋る言葉もだいぶ柔らかくなった。
俺は逆に扱いが難しくなって、喋る機会が少しずつ減っていった。
前みたいに打てば響くような返しがあればこちらも気楽なのだが、今では俺が喋るたびに優しく頷いてくれるため、なんだか本当に女性を前にしているような心持ちになった。
それでも虫は虫で、相変らず彼女の好きなトマトを置いてやると、俺の耳かきで喜んで食べた。
だが女の人に生のトマトを出すことが妙に恥ずかしくなった俺は、ガラにもなくトマトにチーズを挟んだりして、簡単に調理を済ませて出すようになった。
俺が出すものをなんでも美味しいと言った彼女は、本当になんでも美味しそうに食べてくれたので、作り甲斐もあった。
だが急激に成長してゆく彼女を見ていると、いつしか俺も不安になっていった。
このまま成長を続けていけば、おそらくあっという間に年をとって、成長を終えるだろう。
彼女の顔に皺を見た時、妙に泣きたい気持ちになった。
大きさは違えど、似たような
そして案の定、彼女はものの三週間もすれば、老人になった。
もはやトマトを頬張るだけでも時間がかかる彼女に、俺は煮込んだトマトばかりを出していた。
耳かきを落とす姿を見て、俺が食べさせてやると、彼女は「ごめんね」と謝ってばかりだ。
老いる恐怖は彼女自身にもあるらしく、もう何週間も前から、彼女は鏡に近づかなくなっていた。
「お前は相変わらずトロくさいな。クモの巣に引っかかるなよ」
俺は以前と変わらない風を装って悪態をつく。
光に向かって飛んでいた彼女が床に落ちたとき、俺が手で掬ってやると、彼女は弱々しい顔で苦笑した。
「光が鬱陶しいから、そんなに近づけなくていいわよ。おろして」
彼女は虚勢を張って、自分の力で座卓の上に乗った。もう、動いているだけでも辛そうだった。
いつしか動くことをやめた彼女は、うたた寝ばかりするようになり――そしてとうとう、眠ったまま動かなくなった。
大学から帰った時は「おかえりなさい」という声が聞こえたのだが、そのあとから返事がないと思えば、息をしていなかった。
俺はあまりに自然なその姿に、彼女が動かないことを事実として受け入れられないまま、その日は彼女が眠る窓のそばで俺も布団を敷いて眠った。
夢の中には、最初に会った頃の彼女が出てきた。
よく喋る彼女は、俺をさんざん馬鹿にした挙句、「絶対トマトごと切らないでよ!」と言ってトマトの中に入っていった。
そして目覚めた時、窓には彼女の姿がなかった。
せめて土に埋めてやりたいと思っていたが、彼女がそれを望まなかったのだろうか。
年をとってからは、俺が触ろうとするたび、怯えた顔をしていた。
だから彼女は自分から消えたのだろう。彼女が望むことならそれでいい、そう思うことにした。
結局、彼女が何だったのかは今もわからないままだが、俺は別にそんなことを知りたいとも思わず、ただ、また会えることができるのなら、今度は一緒に外の世界へ連れて行ってやりたいと、ちょっと思う。
LEDより遙かに大きな光をもっと間近で見せてやるために――。
トマトが好きな君へ #zen @zendesuyo
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