第7話

「こんなに香るほど桃の花がある場所に……邪神がいるか……?」

「香る? 桃って、ここに生えてるっていう木のこと? 桃麻の名前の字にも入ってるよね?」


 桃麻のぼやきに、神は興味津々で身体を乗り出し、羽が身体に触れる距離まで近づいてきた。

 桃麻は俯いたまま、考える片手間で問いに答える。


「ああ、そうだ。桃は邪を払う木とも言われている。こんなにやたらと生えている聖域にいるあんたが邪神なんて……」

「ねえ、匂いってどんな匂い? 良い匂いなの?」

「あ? ううん……人によるんじゃないか? でもだいたい良い匂いとは聞くがな……」

「ふうん」

「そんな事より、俺は……」


 言いかけたところで、止めた。

 目の前の神が問いかけをやめ、なにやらごそごそとやり始めたからである。


「ん、どうしたんだ? ……って、おい!!」


 顔を上げると、丁度神が短剣を取り出し、自分の顔に向けているところだったのだ。


「今度は何するつもりだ!」


 慌てて制止しようとするも、遅かった。神は顔の中心辺りにぐさり、ぐさりと短剣を突き刺す。ぶわりと溢れた黒い霞は、昨日耳と口を開けた時に出た量よりも多かった。


「大丈夫か!?」


 心配する桃麻をよそに、神は顔を手で覆い、俯いたままごそごそとやり始める。彼はしばしの後に顔を上げ、にっこり笑いながらぴらりと布をめくって見せた。

 そこには、小さくも筋の通った綺麗な鼻が付いていた。


「えへ」

「えへ、じゃないだろ! 驚くじゃないか!」


 桃麻は怒りつつ、彼の顔面に目を向ける。昨日から出来た穴は耳、口、鼻の合計五つ。そのどれもから、薄く霞が立ち上っている。


「ほんとにこんなことして大丈夫なんだろうな?」


 霞はきっと、この神の中に封じている何か、もしくはこの神の体内そのもの。いずれにしろ、溢れ出て良い物ではないはずだ。

 だが、不安げな桃麻の言葉に、神は自信たっぷりに頷いた。


「大丈夫だよ。全部開けない限り役目に影響はないって、僕を作ってくれた人に言われたし」

「役目?」


 ぴくり、と桃麻の眉が動く。欲しい情報が得られるのではと次の言葉を待ったが、直後に桃麻は期待を破られることになる。


「うん。ここで踊るっていう役目」

「……役目は、それだけなのか? 踊り方とかに指定はないのか」

「うーん。とりあえず好きに踊ってればいいって」

「……」


 無言でがっくりと肩を落とす。舞は儀式の一つで、舞い方によって意味が変わる。禍を呼ぶ舞であれば邪神確定なのだが、舞に指定が無いのであれば、この場所でこの神が踊っていること自体に意味があるのだろう。だが、それだけではやはり、善悪の判断を付けることが出来ない。


「どうしたの?」


 落ち込む桃麻の気配を察したのか、神は不思議そうに首を傾げた。「なんでもない」と答えてみせると、彼はそのまま受け取ったらしく、「よかった」とにっこり笑って立ち上がった。


「それにしても、桃麻の言った通りだね。ここ、すごく良い匂いがする。これが桃の花の香り?」


 神は桃麻に背を向け、両手を広げて辺りの香りを堪能している。胸の動きに合わせ、白い羽が呼吸するように広がった。


「ああ、多分そうだろ。ここ、桃の匂い以外はしないからな」

「そっかあ。こんなに良い匂いなら、きっと綺麗な花なんだろうなあ。見てみたいなあ」

「……目を作るなよ? 全部開けたら役目を果たせなくなるんだろ?」

「ふふ。わかってるよ」


 窘める桃麻を振り向いて、神は柔らかく微笑んだ。彼は再び両手を広げて空を仰ぎ、軽く背伸びをする。


「僕、ずっとこんなに良い香りに包まれてたんだね。なんだか嬉しいや。踊りたくなっちゃったよ」

「なら、踊れば良いじゃないか。それが役目なんだろ?」

「うん。なら、君も見ててね、桃麻」


 神は一歩、足を踏み出す。くるりと回って、また一歩。

 長い夜闇の衣が風にはためき、澄んだ鈴の音が鳴り響く。

 桃花と共に、夜闇の化身のような神が舞い踊る。

 これが月明かりの下ならば、尚美しいだろうと桃麻は思った。

 ふと、一枚の白い羽根が桃麻の元に舞い落ちた。

 白鳥のようなその羽が纏う気は、一切の邪なものはなく、ただただ神聖なものだけが満ちていた。

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