第10話

「桃麻、元気出してよ」


 隣の神が、嫌に静かな声でそう言った。


「何を言ってるんだ。そんな事出来る訳ないだろ。早くどこかへ逃げないと」


 桃麻は声を震わせる。目線の端に、農具を持った村人たちが迫ってくるのが映っていた。

 しかし神は、布面の向こうで微笑を浮かべる。


「どのみち、僕はここから出る事は出来ないんだ。この場所は僕の身体の一部みたいなものだからね」

「でも、このままだとあんたは」

「うん、死ぬね」

「……!」


 見開いた目に、更なる涙が溢れ出た。

 神は明るく、どこか悲しげな声で告げる。


「だから最後に、桃麻に二つ頼みがあるんだ」

「……最後、なんて」


 否定する桃麻の言葉に、神は一拍おいて言葉を続けた。


「僕が死んだら、村人たちに村から離れるよう伝えてあげて。これ以上僕は、あの地に来る災厄を押さえ込めそうにないから」

「それは……まさか」


 意味を察した桃麻の声は、神の微笑みに遮られる。

 そして彼は懐に手を入れ、あの短剣を取り出した。


「もう一つはね、桃麻」


 神は桃麻の方に身体を向けて、ゆっくりと短剣を鞘から抜く。いつの間にか辺りを村人たちに取り囲まれていたが、桃麻の目には眼前の彼しか映っていない。


「ここが壊れたら、全部駄目になるんだ。僕の身体も消えて無くなる。だったら……どうせ死ぬのなら、僕は最後に、君の姿を見て死にたい」


 現れた剣身が閃いた。

 神はためらいも無くその剣先を自分の顔面に突き立てる。

 ぐさり、ぐさり。

 二度鈍い音がしたのち、彼の顔から闇色の霞が立ち上った。神は短剣を地面へ投げると、両手で顔を覆ってみせる。しばしの後に手を離し、おもむろに布面を取り去った。

 二つの月が、そこにあった。

 夜闇のように垂れる髪。その奥に、金の瞳が炎を映して揺れている。

 顔面をすべて手に入れた神は、穏やかに微笑んだ。


「ああ、ようやく見えた。桃の花ってこんなに綺麗だったんだね。赤くて、きらきらしてて」

「違う。これは炎だ」


 桃麻は小さく首を振る。涙が溢れて止まらなかった。


「ふふ。そっか、残念だなあ」


 神はちっとも残念な顔をせず、慈しむように桃麻を見つめる。


「でも最後に君の顔が見れてよかった。やっぱり綺麗だったね。僕の桃麻」

「ああ、もう、あんたのでいいよ……」


 初めて会った時と同じ言葉に、初めとは違う言葉で返す。

 霞む視界の向こう側で、金の月が細くなった。


「そういえば、結局僕の名前を教えてなかったよね」

「名前……?」

「そう、名前。僕が生まれた時に貰った、最初の名前」

「……」


 神は桃麻の耳に顔を寄せ、微かな声で囁いた。


「僕の名前は、帝江だよ」

「帝江……」


 名を呼ぶと、彼の頬が耳に当たる。その温もりを感じた直後、ぶわりと闇色の霞が拡散した。


「やった! 邪神を倒したぞ!」

「これで村も安泰だ!」

「退治屋のやつ、結局殺してくれたじゃないか!」


 周囲の村人が歓声を上げる。賞賛の言葉が降り注いだが、桃麻の耳には一つも届いていなかった。

 力をなくし、ずるりと地面に崩れ落ちる。目線を落とすと、神が纏っていた衣が落ちていた。

 おもむろに手を伸ばし、夜闇の衣をきつく胸に抱く。

 袖口の鈴が、ちりん、と小さな音を立てた。

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