葬頭河タクシー

とまお

葬頭河タクシー

 三途の川に、橋がかかった。アスファルトでできた、場に似合わない、少し現代的すぎる橋。

 俺はその橋を走るタクシーの運転手をやっている。地獄に堕ちた、その刑罰として。

 名前をつけるとしたら、何地獄になるのだろうか。タクシー地獄?よく知らないが、地獄というにしては少し楽すぎる気がする。まあ楽なことに越したことはないのだが。


 今日の1番目の客がやってくる。すらっとした美人な女性、髪がサラサラで長く、男性であれば誰でも目で追ってしまうような身なりをしている。頭の先から、足の指先まで、何か綺麗なオーラのようなものを纏っているようにも見える。

「向こう岸まで。」

 声まで美しかった。注文は他の人と同じだった。

「はい。」

 エンジンをかけて、タクシーを走らせる。

 しばらく走って、橋の二割程度まで進んだところで女性が、

「私、生前はピアノが大好きだったんです。」

 と、優しい口調で話し始める。言われてみれば、そんな感じがする。演奏している姿が容易に想像できる。

「そうなんですね。」

 そっけない反応をして、会話を切ろうとした。無駄な話はあまりしたくない。そんな俺の意思を知ってか知らずか、少し躊躇うようにしながら、話し始める。

「でも、がんに罹ってしまって。ピアノどころじゃなくなっちゃって。」

「発見した時にはもう、手のつけられないところまで進んじゃってて。もう、夢だったピアニストになることも叶えられなくなっちゃったんです。それでも、大好きなピアノはやめたくなくて、病院のベットで音量の小さなキーボードを弾いてました。」

 涙ぐんでいるのがわかった。彼女も、俺も。

 これだから無駄な話はしたくなかったのだ。目頭が熱くて、火傷しそうだ。感情移入しすぎて辛い。

「そうだったんですか。ピアノ、やめないでくださいね。」

「え?」

 正直、この人がこの先、天国に行こうが地獄に行こうが、俺の知ったことじゃない。けれど、彼女の母や父、友達、ペット。今まで関わってきたすべとの人たちのことを考えると、どうしても心が痛む。彼女のピアノがもっと聴きたかった人、彼女ともっと話したかった人、遊びたかった人、一緒に笑い合いたかった人、そして彼女自身、まだやり残したことはたくさんあったろうに。光だけが差している深い海のように暗く、辛い。どれだけ手を伸ばしても、手は届かない。

 天国に行けば、また彼女はピアノが弾けるのだろうか。弾いていてほしい。いつか、聞かせてほしい。

「ラジオ、つけてもらっていいですか。」

「はい。」

 このタクシーのラジオは、乗っている人の今一番聴きたい音が流れる。音楽だったり、誰かの話す声だったり、雨音、川のせせらぎ、流れる音は多種多様だ。

 彼女なら、ピアノが流れるかもな、と思いながらボタンを押す。

 予想は当たった。ショパンの夜想曲第二番だ。

「これ、私がよく弾いてたやつです!」

 興奮気味にそう話す。このラジオが特殊なものだと知っているお客様は、そういない。

「いい曲ですよね。全てを包み込む優しさの中に、作曲者の強い感情を感じます。横に流れていく人生を心地良いままに追っていく、夢見心地で、誰もいない静かな街を1人歩いていく、そんな感じがします。お客さんにすごくお似合いな曲だと思います。」

 彼女は、ハンカチで涙を拭いていた。小さな花の刺繍のついたハンカチ。

「ありがとうございます。」

 それ以降、口を開くことはなかった。俺も彼女も、耳に流れ込むピアノの音に心を奪われていた。

 演奏が終わると、同時に到着した。

「本当にありがとうございました。最後にあの曲を聞けてよかったです。」

「こちらこそ。喜んでいただけたなら幸いです。」

「私、ピアノ辞めません!」

 そう、笑いながら言う彼女は、これから閻魔大王の元へと向かうのだろう。その裁きの結果がどうなるのか、俺には知る由もない。だけど彼女は、きっとまたピアノを弾く。それがいつになるのかはわからないけれど、確信している。それほど、ピアノ愛していることがとても伝わった。

 タクシーに乗り、また、三途の川を渡る。

 優しく、音は小さいけれど、感情的なピアノが、タクシーの中を埋め尽くす。

 にわか雨のような涙が、降りさっていく。

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葬頭河タクシー とまお @danderaion1226

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