第3話 初めての笑顔

 管内の警察署へ沙織の捜索願を提出して家に帰り着いた頃には、既に日付が変わっていた。

 家族にとって大切な唯一無二の存在であっても、警察にしてみれば恒常的に発生する失踪者や行方不明者の一人に過ぎない。特別に人員と時間を割いて本格的に捜査をしてくれることなど期待できないと思わせる空気が、対応した警察官の事務的な態度に表われていた。ましてや成人である沙織のケースのように事件性が低いと看做されれば尚更だ。



「すぐに、きっと帰って来る」


 自分に言い聞かせるように呟いて瑞穂は疲れ切った様子でソファに身を沈めた。

 背もたれに身体を預け、仰のいてネクタイを緩める彼の隣に、幹も腰を降ろした。


「瑞穂さん、何か食べた方が良くない?」

「いや、俺はいい。それより君の方こそ」

「僕は電話をもらう前に済ませてたから」

「ならよかった」

「ほんとに、大丈夫?」

「大丈夫……じゃない。今日は最悪の日だ」

「もう、真夜中を過ぎてるよ」

「じゃあ、今日も最悪の日……になるのか。疲れた」


 深いため息と共に瑞穂の上体が幹に傾けられた。

 その圧を快く感じながら、幹はそっと瑞穂の肩に腕を回した。


「今夜は僕がついてるから」

「ありがとう。うん……いてくれ、ずっと」

「このまま眠ってもいいよ。それとも、横になる?」

「眠るわけにはいかない。沙織が帰って来るかもしれないだろう。起きて待つ。……ちょっと、シャワーを浴びてくる」

「そうだね。それがいい」


 瑞穂が浴室へ向かったのを機に幹も腰を上げた。夜食を作ろうと思いついたのだ。



 ほど良く詰められた冷蔵庫の中の食材は、冷気の流れを妨げることなく整然と収納されていた。如何にも神経質で完璧主義の姉らしい。こんなふうに生活の細部、または全てにおいて、姉はいつも自分の目を行き渡らせている。もしかしたら、今も何処かで……。否、まさか。

 ふと脳裡を過った影を振り払うように、幹は瑞穂のための夜食に適した食材に意識を向けた。



 二十分ほどして、入浴を終えてリビングに戻って来た瑞穂に、幹はコンソメベースの野菜スープを供した。


「さあ、どうぞ。これなら胃にもたれないと思うよ」

「幹、料理できるんだ」

「意外だった? 料理はわりと好きで、ここに呼ばれる時以外は毎日自炊してる」


 ――ぐうっー。


 時しも、幹の言葉に、瑞穂の身体から聞こえた空腹を訴える音が被った。


「あはっ、いい匂いで、腹が鳴った」


 そう言って瑞穂は照れたような含羞の笑みを零した。


「今日初めて瑞穂さんの笑顔が見れた!」

 幹は嬉しくなった。見たかったのは笑顔。端正な瑞穂の顔は笑うと途端に無垢な可愛いらしい童顔になる。このギャップに、どれほど絆されたことか。

「あり合わせのもので作ったんだけど、味は保証するから」


「いただきます」


 胸の前で軽く両手を合わせてスプーンを取り、スープを飲み始めた瑞穂。

 彼の細い指、嫋やかな手つき、啜る口元の品の良さ、伏し目がちの瞼、微かに震える長い睫毛。そのノーブルでどこか頼りなげな佇まいに、幹の胸が甘く疼いた。


「どう? 瑞穂さんの口に合うかな」

「旨い。温かくて、身体に沁みわたっていくみたいだ」

「よかった。おかわりは?」

「いただく。……幹も一緒に」

「うんっ!」



 ふたりでスープを飲み終え、片付けを済ませた後、幹も入浴し、瑞穂が用意してくれたパジャマに着替えた。



 そして、時間だけが過ぎていった。

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彼方から来た ブロッコリー食べました @mm358

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