第2話 義兄
『
幹、今すぐ来てくれないか……くれないか……来て……今すぐ……幹
電話越しの義兄の声が耳の奥にループする。焦燥と心細さを伴った声が。
「待ってて、瑞穂さん」
姉夫婦のマンションは彼が住むアパートから徒歩で十五分ほどの
通い慣れた道を今はひたすら走っていた。
一刻も早く義兄に会いたい。会って抱きしめたい。その一心からだった。
久能幹は姉の夫・
出逢いは、およそ一年前に遡る。
姉の
それが、瑞穂だった。
幹もまた家族の一員として威儀を正してその席に臨んだ。
一目惚れとはこのことだった。逢った瞬間に恋に落ちていた。幹にとって瑞穂が同性であることは、好きになることの妨げにはならなかった。
麗容を抑制するメタリックフレームの眼鏡を隔ててさえ、玲瓏な、
その
この人と愛し合う。幹はそう確信した。
問題は、彼が姉の夫となる人だということだった。
『……さない……み……きっ……!』
「何だ……?」
突如、一陣の風が街路樹を強く揺らして吹き抜けた。
夜に徘徊する妖魔の咆哮にも似た風の音に、幹ははっと息を呑んで立ち竦んだ。
深淵の闇から窺う得体の知れない〝何か〟の恐怖に呑まれまいと、幹は意志を揮って再び疾駆の一歩を踏み出した。
* * *
「瑞穂さん!」
玄関で出迎えた瑞穂の胸に、幹は思いきり飛び込んだ。
勢いに
「こんな夜遅く呼び出してすまなかった。走って来たのか」
「あなたの頼みなら、僕はいつだって飛んで来るよ」
駆けつけ一杯の水で喉を潤し、一息ついて義兄に目を遣ると、縋りつくような眼差しとクロスした。
「今日も、いつもの金曜日のように君が来てくれていると思ってた。それが……」
「僕も予定を入れずに待ってたんだけど、今日は姉さんからお呼びがかからなくて。たまには夫婦水入らずでゆっくり週末を過ごしたいのかなって思ってたよ」
姉の自慢の手料理を囲んで、三人で週末を過ごすことが愉しみになっていた。
進学のために親元を離れて慣れない一人暮らしを始めた義弟を気遣って、瑞穂が提案したことだった。せっかく同じ市内に住んでいるのだから、と。
「こんな書置きを残して、沙織は……いなくなった」
渡されたメモ紙を受け取り、幹はそこに書かれていた文字に目を走らせた。
『瑞穂へ しばらく家を出ます いつか帰る時が来るまで だから捜さないで 無駄だから 沙織』
「これって……?」
どこか違和感のある文章だった。家を出る理由すら書かれていない。
しかし、幹はそのこと以上に姉の字に釘付けになった。少し右上がりの筆圧の強い文字。一瞬、これを書いたのは自分ではないかと疑った。
顔も、筆跡までも、どこまでも似ている姉と弟。そのことが悲劇だった。好きになる対象まで似ていた。否、似ていたというより、同じ人を愛してしまった。
「携帯も繋がらないんだ。どうしてなのか全くわからない。今朝も普段と何ら変わりなかった。沙織の身に何か起こったのかもしれない」
「でも、自筆の書置きがある以上、家を出たのは姉さんの意思ということになる」
「沙織は何を考えて……」
「僕にも見当もつかないよ」
姉は計画的に物事を進める慎重な性格だ。
姉・沙織の動向について考えるほどに、濃い霧がかかっていくようだった。それは幹自身の意識の奥底に潜む漠然とした不安と恐怖に繋がっていた。
「幹、一緒に沙織を捜してくれ」
「もちろんだよ。……但し」
幹は沙織の書置きを丸めて握り潰した。
「これはなかったことにしよう」
「どうして? そのメモを持って警察に捜索願を……幹?」
瑞穂が怪訝そうに幹を見つめた。
「こんなものがあると単なる家出と看做されて真剣に取り合ってもらえないだろう。家族の一人が突然いなくなったんだ。事件として慎重に扱ってもらうためにも、この書置きのことは黙っていた方がいいと思う」
「そう、なのか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます