刹那を永遠に
音羽光理
刹那を永遠に
好きなことは好きなままでいいよ。
誰かが言った。聞き覚えのある声だ。姿はぼやけて分からない。一体誰だろう。
私は、薄いカーテンから差し込む光で目を覚ました。さっきの声は夢だったみたいだ。寝ぼけた頭をゆっくり動かしながら、枕元に置いていたスマホを確認する。七時だ。出勤時間には間に合う、と一瞬考える。『おはよう。雪菜(せつな)、東京駅着いたら教えて』というLINEのメッセージを見て、今日は東京に住む従兄に会いに行く日だった、と思い直して身体を起こす。このアパートから駅まで徒歩十分。京都駅までは電車で十五分。八時四十五分京都駅発の新幹線に乗るには八時に出たら間に合うだろう、と頭の中で計算する。
同じ年の従兄の冬和(とわ)とは、趣味が合い、たまに遊ぶ仲だった。冬和が六年前に新卒で東京の会社に就職してからは、冬和が帰省する一年に一回のタイミングで会っていた。今回は、ゴールデンウィークの間に東京に遊びに来ないかと誘いがあった。私の仕事は、シフト制で、祝日が完全に休みになるわけではないが、今回は融通がついた。
昨日から用意してあったワンピースに着替えた後、洗面所に向かい整容をする。はっきりしたピンクで彩られた自分の爪が目にとまって戸惑う。顔を洗ったあと、ジェルネイルって全然落ちないから不思議だ、とつるつるした爪表面に触れる。自分で作成した『やりたいことリスト』の一つを消化した結果だった。遊びの計画を立てる際、冬和から『やりたいことリスト』を作って送ってほしい、と変な注文があった。東京でしたいことでなくてもいい、という。深く考えずにその通りにした。その中の『推しカラーのジェルネイルをしてみたい』という項目は、お出かけ前日に出来そうだったので、昨日の仕事終わりにイオンモール内のネイルサロンでやってもらった。羽を入れてもらいたくて、参考画像を見せたが、立体的な模様はここでは出来ないと言われ、諦めた。綺麗になった指先で、髪をいじる。首にまとわりつく髪が暑苦しくて、後ろ髪を結ぼうとするが長さが足りず、光沢のあるゴールドのヘアゴムでハーフアップにした。
支度が整って、東京駅へ向かう。新幹線は窓際の席だった。荷物は大きめのリュック一つなので、網棚に置かずに持っていた。都市へと移りゆく車窓の景色をしばらく見た後、スマホを取り出した。つい癖になっている、SNSと自分が投稿している小説投稿サイトのチェックをする。自分の名前の『雪菜(せつな)』を訓読みにした『ゆきな』に、生まれ月をくっつけたペンネーム『きさらぎ ゆきな』のマイページを開く。私の小説『なまけものの神様』は、一週間前からコメントもユーザー登録数も、スターの数も変わっていない。ユーザー登録数5、スターの数は20。それはいい。読んでくれる人がいるだけで数なんか関係なくありがたい。コメント数2の文字を見つめて、ゆっくり指で押してコメントを表示させる。
――@幾星霜(いくせいそう)
田舎の小さな神社に住む、動物のナマケモノに変えられた神様と、使い魔であるコンプレックスを持った架空生物たち。どのキャラクターにも愛着がわきます。架空生物たちと協力して、神様は元の姿に戻れるのか、続きを見守りたいです。特に悪夢を食べ忘れちゃうバクが好きなので、活躍を期待しています。僕はこの物語が大好きです。
――@千歳飴(ちとせあめ)
現実離れした夢物語。
小さい文字を見つめすぎたせいか、視界が揺れてこめかみが痛くなった。スマホをしまって、車窓から青空を眺める。
この小説投稿サイトには半年前に、今まで書いてきた小説『なまけものの神様』を初投稿した。私が小説を書き始めたのは小学六年生の時だ。自分だけが読めたらいい、とキャンパスノートに書き溜めた。ずっと人には見せてこなかった。いや、冬和には見せたことがあるかもしれない。
あの頃の私は、自分の心の中の世界を、自分の作り上げた世界を、自分から生まれた一緒に人生を闘ってくれるキャラクターたちを、誰かに否定されるのが怖かった。
昔から、人に言葉で直接何かを伝えることが苦手だった。小学生のとき、皆の前で発表する機会でいつも、声が小さくて何を言っているのか分からない、と言われた。大きな声が出ないわけではない。自分の言うことに自信が持てなくて、どんどん声が小さくなった。文章を書くことは好きだった。文章にすると、伝えたいことを伝えられる気がした。国語の授業で初めて物語を書いてみて、自分の心を具現化する術を得た。生きていく中で、自分の気持ちが分からなくなった時は、物語にして、登場人物たちと一緒に考えてもらった。
小説投稿サイトの存在は、大学時代の友人から聞いた。卒業してから書き始めたという彼女の勧めで、サイトを見てみると、そこは自分の書いた小説を自由に公開できる場所だった。純粋な好奇心から、自分の今まで書いてきた小説を投稿してみることにした。少し大人になった今なら、小学生の時より怖くない気がした。
少しずつノートに書き溜めてきた小説を、パソコンで書き直して三十話分にした。その三十話を投稿したあとは、一週間で一話くらいのペースで更新した。始めは、丁寧なコメントをもらえたこと、評価のスターが少しずつ増えていくのが嬉しかった。二か月前に二つ目のコメントをもらってから、執筆の手が止まるようになった。小説の続きを書こうとすると、もらった言葉とそこから広がった言葉たちが、邪魔をした。ふわふわした夢物語にならないように実感を入れないと。この表現は誤解を生むかな。バクのダメなエピソードを入れたら、がっかりされるかな。他の小説を参考にしようと、サイト内の小説を読んでみた。それぞれの良さがあって、自分の小説と比べて落ち込んだ。
新幹線に乗っている周りの乗客が、一斉に車窓を見た。なんだろう、と思って、同じ方向に目を向けると、富士山が見えた。隣の座席の女性がスマホを窓に向けて写真を撮ろうとする。映り込まないように背中を座席シートにくっつけてよけた。私も写真を撮ろうとするが、ビルに何度も隠れて、上手く撮れなかった。
東京駅に着いて、人に押し流されそうになりながら、指定された待ち合わせ場所に向かった。冬和は銀の鈴のオブジェの前で待っていた。背が高いから人混みの中でもよく目立つ。私に気付いて、昔から変わらないあどけない笑顔で手を振る。
「久しぶり、雪菜」
私が東京に来たら食べたいと言っていた、もんじゃ焼きのお店に案内してくれるという、冬和についていく。東京駅の地下にあるらしい。ゴールデンウィーク中の東京駅は人が多いが、背の高い冬和についていったら、はぐれる心配はなさそうだ。高校生の時から百八十センチある冬和は、私の実家(冬和からするとおばあちゃん家)の鴨居によく頭をぶつけていた。百五十センチの私とは三十センチも違うから、冬和と話すときは見上げる形になる。
くっきりした眉と一重瞼でたれ目の童顔は、私と似ているのに、私より目が大きくて整っている。日に透けると茶色っぽく見える地髪も、海苔みたいにべったり黒い私の髪と違って、羨ましい。すらっとしているから、髪型を変えて肌ケアをしておしゃれな服装をすれば、韓国のアイドルみたいになりそうなのに、お坊ちゃんのような短髪にTシャツにジーンズとスニーカーといった、中学生から変わらないファッションでは垢抜けない。若く見えるが、白い頬には、三十代手前という年相応の肌荒れが目立っていた。悪く言うと頼りない、よく言うと優しそうな雰囲気があった。
歩きながら、お互いの暮らしや実家の家族について、近況報告をする。仕事の話はしない。二人の中の暗黙の了解になっていた。働き始めたばかりの頃、冬和に仕事のことを聞いたら、嫌な沈黙が流れたことがあった。それから、私から仕事のことは聞かないようにした。私も仕事の愚痴を話しながら目に涙を浮かべてしまったことがあるので、冬和の方も、私に仕事の話はしないようにしてくれているみたいだった。
会う前に送っていた『やりたいことリスト』の話になった。冬和は始め、百個まで、と言っていたが、百個も思いつかなかったので二十個書いて送った。東京で出来るものもあれば、空を飛びたいといった非現実的なものも含まれている。冬和が、今日は五個くらい実行しようと思うけどいいか、と私に聞いた。なんで私のやりたいことを一緒にやってくれるのか、意図は分からないが、とりあえず頷いた。私には得しかないので断る理由がない。冬和はやりたいことないの、と聞くと、ないかな、と答えた。なんで付き合ってくれるの、と試しに聞いてみたが、沈黙が続いたので、大丈夫ありがとう、と伝えた。
冬和は昔から、口数が少なくて考えていることが分かりづらい。でも心の奥底で、しっかりじっくり考えている。私が小学生のとき、動物を飼うのを反対されて泣いていたら、部屋の端っこでお絵描きをしていた冬和が、近寄って来て、動物の絵をくれたことがある。冬和は、言葉に出さなくても人のことを考えている優しい子だ。何か意図があったとしても、冬和が自分から話してくれるのを待とうと思った。東京のことも分からないので、プランは全部任せることにした。
もんじゃ焼きのお店は行列ができていたが、十一時の開店直後だったこともあってか、三十分くらいで入ることができた。店員さんに飲み物を聞かれて、冬和にドリンクメニューのソフトドリンクの欄を示す。私もそこから選ぼうとすると、冬和が、飲んでもいいよ、とアルコールドリンクを指差してくれる。一瞬迷ったが、ジャスミン茶を見つけて珍しく思い、それにした。冬和はウーロン茶を頼んだ。もんじゃ焼きは、通常の半分量だという茶碗サイズの、明太子もちと五目にした。両方食べてみたいので小さいサイズをシェアする作戦だ。
向かいの席で冬和が、気を遣わせてごめんね、と呟いた。最近はたまにお酒飲んでるんだ、断り切れない時とか、と下を向いたまま言った。冬和はお酒が全く飲めないわけではないが、酔うと失言をしてしまうことがあって、控えていると聞いたことがあった。他に何か言いたげで、言葉を待つが、続きは紡がれなかった。大丈夫、と笑顔を作って冬和に向ける。断ったらいいのに、は言葉にならなかった。
先にドリンクが届いて、店員さんが鉄板の準備をしてくれる。店内は満席で、旅行客らしき人が多かった。斜め向かいの年配の男性客の席を盗み見て、もんじゃ焼きが出来ていく様子を予習していると、店員さんが私たちの席にもんじゃ焼きのタネを持ってきた。店員さんが手際よくもんじゃ焼きを作ってくれる。熱した鉄板に流し込まれた生地がふつふつと泡立ち、湯気を立てた。店員さんが慣れた手つきで、二本の小手を使って具材を刻むと、鉄板がリズミカルに鳴った。ショーが始まったかのように眺めていると、あっという間にできあがった。置かれている小さなコテを見て、これで食べるんだよね、と冬和の方をちらりと見ると頷いた。小さなコテでちょっとずつすくいながら食べた。明太子もちは、チーズが伸びて味が濃い。五目は、ソースの風味がして関西でおなじみのお好み焼きに味が近かった。熱くて濃い味のもんじゃ焼きを食べた後の、すっきりとした香りの冷たいジャスミン茶が合う。ドリンクのチョイス、大正解だった。おいしさを噛みしめていると、黙々と食べていた冬和が私を見て、ふっと笑い、楽しいね、と続ける。
「もんじゃって、おいしいし楽しいんやね」
私がそう言うと、冬和はさらに目を細めた。その後も少しずつ噛みしめながら、完食した。店を出るときに、消臭スプレーを洋服にかけてくれるサービスに驚いていると、冬和がまた笑った。
『やりたいことリスト』の一つ目、ハムスターカフェに向かうため、二人で電車に乗る。電車内は人が多くて、座れないどころか、立っているのも窮屈だった。電車が揺れるたび隣の人に、もたれかかりそうになるが、つり革をしっかり握って耐えた。狭い空間に人が密集したときの、むあっとした熱気を感じて息苦しくなる。隣の冬和に断りを入れて、前に抱えたリュックの中から、愛用のウォークマンを取り出す。長方形の薄いフォルムは、手の中にすっとおさまる。ウォークマンで音楽を聴くのは、時代遅れかもしれないが、これは高校時代から、好きなCDを録音して作り上げた、私の好きな曲しか入っていない最強アイテムだった。有線イヤホンを耳に装着して、好きなバンドのインストを再生する。電子音で水の音が再現されていて、水の中を深く潜っているような気分になれた。音に集中して現実世界から距離を取ると、少し楽に呼吸ができた。目の前の車窓から、外の景色を眺める。青空が広がっていて、高いビル群とその間に街路樹も見えた。最近、ふとしたときに自分の小説のことを考えるようになっていた。『なまけものの神様』の、登場キャラクター達の、続きはどうなる。作中の架空生物たちが目の前にいる妄想をする。手乗りドラゴンと、運動音痴のペガサスと、うっかり者のバク。手乗りドラゴンが、小さな翼を使って街路樹を登ろうとする。その小さな体は葉っぱの中に埋もれてしまう。運動音痴のペガサスは、飛べないから、樹の下からドラゴンをオロオロと見守っている。ペガサスの隣でカラフルなバクがのんきそうにしている。私の前の座席に座っている女性が、うたた寝しながら眉間に皺を寄せているのは、そのバクが悪夢を食べ忘れたせいだろう。なまけものの神様は樹の上からそんな三匹を眺めている。
三十分ほど電車に揺られていたらしい。冬和に肩をつつかれ、現実に戻される。目的地の駅に到着した。
電車を降りて、通行人のロリータファッションの女の子を横目で見ながら少し歩くと、カフェのあるビルに到着した。ビルの一角にある店内は英国風のおしゃれなデザインで、私たちより少し若そうな女の子たちで賑わっていた。店員さんから説明を受け、三十分のコースで入店する。横長のテーブルに、ケージがずらっと並べられ、そこにハムスターがいた。オレンジ色で少し大きいのがゴールデン、隣の小さくて黒っぽい縞模様はジャンガリアン、さらに小さくてグレーの毛並みに白い眉のような模様が見えるのはロボロフスキーかな。飼ったことはないが、種類はよく知っていた。小学生のころ、ハムスターを飼いたかった。母親に反対され諦めた。両親も祖父母も、私の家族は皆、動物が不得意だった。母に、あんたは育てられない、とも言われた。ゴールデンハムスターと触れ合うことに決めた。ケージの前の椅子に冬和と横並びで座る。ハムスターは、ケージ内に置かれたりんごの形のハウスに、頭を突っ込み、私たちに尻尾を向け、体を丸めていた。オレンジ色の毛並みが綺麗で、ふわふわしている。ケージの中にある滑車では遊ばないのかな、こっち向かないかな、としばらく見ていると、顔をこちらに向け、鼻をひくひくさせた。冬和がグローブをした手で、ハムスターに触れる。両手の手のひらでゆっくり包み込むように抱っこした。柔らかそうだ。一度ケージ内に降ろしたあと、私に、触らないの、と聞いてくれる。ハムスターの頭の部分に触れると、耳がぴくっと動いた。その感触に驚いて、すぐ手を引っ込めた。おそるおそる両手でハムスターを抱っこしようとする。ハムスターが動く反応が手に伝わる。力の加減が分からない。このまま包み込んだら壊してしまいそう。そっと、ハムスターから手を離した。冬和が心配そうに私を覗き込む。そうだった。私は昔から動物に触るのが怖かったんだ。友達の家で飼っていた子犬も怖くて触れなかったことを思い出す。私は見ているだけでいいや、と冬和に告げる。冬和は頷き、再びハムスターと戯れだす。見ている分には可愛くて楽しい。冬和に、せっかく連れてきてくれたのにごめん、と言う。続けて言葉がぽつりと出る。
「お母さんが正解やった。私は動物を飼えそうにないわ」
「見るだけでもいい。また来たらいいよ」
冬和が言って、抱っこしたハムスターをこっちに向けてくれる。つぶらな瞳が私を見た。
店内にある自動販売機で飲み物を買って一休みすることにした。一番上のレモネードのボタンを押そうと背伸びをしていると、冬和が代わりに押してくれた。ありがとう、と言いながら、悔しさが胸に残る。届いたのに。私は昔から、背が低くて、同級生の男子からバカにされることが多かった。背の順ではいつも一番前で、腰に手を当てるポーズをしていた。運動や日常生活でも、背が高い人と比べて損だと思うことが多々あった。悔しくて、背が低くてもできることは自分でやりたいと思っていた。
自動販売機の前にある椅子に冬和と座って、紙コップのレモネードを飲みながら、女性客がハムスターと触れ合う様子を遠目で見る。両手のひらにすっぽり埋まるハムスターを見て、ふと、手乗りドラゴンはこれくらいのサイズよな、と思った。手乗りドラゴンは、他のドラゴンよりもはるかに体が小さくて、仲間外れにされる。手乗りドラゴンと身長の低い私が重なる。手乗りドラゴンは、身長の低い私のコンプレックスから生まれた。
三十分コースの終了時間がきて、店をあとにする。
『やりたいことリスト』の二つ目は、私と冬和が子供のころから好きなアニメの『聖地』と呼ばれる場所に行く。実在するマンモス団地で、アニメの中では、主人公である小学生の子供たちが幼い頃に住んでいて、のちに仲間となるモンスターに初めて出会った場所だった。お目当ての駅まで、乗り換え一回で三十分くらいかかるという。始めの電車では座れなかったが、乗り換え後の電車は少し空いていて、冬和と横並びに座った。そのアニメの好きなシーンの話で盛り上がっていると、いつのまにか着いていて、冬和に引き連れられて電車を降りる。駅を出ると、建物に反射した陽の光がまぶしかった。聞いてはいたけど本当に大きな団地だ、と目を見張る。住宅と思われる巨大な建物に一面囲まれている。広い道路脇には緑地帯が広がっており、緑が多い。駅周辺には、若者の姿は少なく、家族連れやお年寄りを多く見かけた。アニメの主人公たちが住んでいたマンションはどれだろう、と辺りを見回すが、同じような建物が多くてよく分からない。初めて来たという冬和も、私と同じなのだろう。しばらくキョロキョロしていたが、眉を八の字に下げて私を見た。とりあえずぶらぶらしてみようか、と歩き出すと、杖をついた白髪のおばあさんに道を聞かれた。区民センターに行きたいという。冬和の方をちらっと見るが、当然分からなさそうだ。スマホを取り出し地図アプリで調べると、すぐ近くらしい。極度の方向音痴の私は、地図を見て場所を把握した冬和に頼りながら、おばあさんを目的地まで送り届けた。私たちに何度も頭を下げるおばあさんを見送りながら、冬和にお礼を言った。
「ありがとう、冬和。私だけじゃうまく案内できなかったかも」
「僕だけだったら、断ってるよ。雪菜はすごいよ」
冬和の言葉にぽかんとする。当たり前のことをしただけだと思っていた。
「あ」
冬和が突然何かに気付いたように、歩き出した。急いでついていく。冬和が急に立ち止まって、私はぶつかりそうになった。冬和の目線の先には、アニメの案内板があった。あったね、と冬和が私に笑顔を向ける。あのおばあさんのおかげかも、と言いながら、記念写真を撮った。案内板を見ると、何となく場所が分かり、アニメに登場する場所の写真を撮ってまわった。アニメの登場人物たちがいたかと思うと、わくわくした。
途中でコンビニを見つけた。軽食を買って、近くの公園で休憩することにした。お昼に食べたもんじゃ焼きは軽くて、すでに小腹が空いていた。コンビニで、棚の高い位置にあるツナマヨおにぎりを取ろうとして、冬和がまた取ってくれた。低い位置の梅おにぎりを代わりに取ってあげる。おにぎりとペットボトルのお茶を二本買って、コンビニを出て、公園を目指す。
緑が生い茂る、見晴らしがよく広い公園だった。案内図を見ると、中にテニスコートや体育館、キャンプ場もあるらしい。ジョギングをしている中年の男性、犬の散歩をしている女性とすれ違う。さわやかな風がふく。チャイルドシートに小さな子供を乗せた自転車の親子が、私たちを追い越していった。芝生広場まで歩き、ベンチを見つけて二人で腰かけた。
おにぎりを食べながら、キャッチボールをしている親子をぼんやり眺める。少年の投げた球が父親のグローブに吸い込まれていった。私はあんなに上手く投げられないだろう。
食べ終えてお茶を飲んでいるところで、冬和が、トートバッグから小さな可愛らしいパッケージの箱を取り出した。箱を開けると、パステルカラーのトゥンカロンが二つ入っていた。『やりたいことリスト』に書いていたものだ。冬和が東京駅で買っておいてくれたらしい。お礼を言って、私がピンク色でイチゴのトッピングが乗ったもの、冬和が水色で黒いクッキーが乗ったものを選ぶ。噛むと口の中にたっぷりのクリームと、甘さが広がった。サクサクした軽い生地が口の中でとける。小学生のころ、田舎では売っていなかったマカロンに憧れた。指についた汚れを拭き取ろうとハンカチを探す。忘れてしまったみたいだ。代わりに鞄の中から携帯用のペーパータオルとウエットティッシュを取り出した。冬和にも分けてあげる。昔からちょっとした忘れ物が多くて、今では対策として、必要なものを鞄に常備しておくようになった。私から生まれた、うっかり者のバクに打ち勝てた気がする。うっかり者のバクは、マレーバクのような姿形で、マカロンみたいな色をしている。
食事を終え、広場の片隅にスペースを見つけて、そこで『やりたいことリスト』の四つ目のキャッチボールをすることにした。冬和が持ってきたのは、ドッジボールくらいのサイズの柔らかい子供用のボールだった。グローブと野球ボールは用意できなかったと詫びた。本格的なキャッチボールをやってみたかったが、怖かったので、冬和が持ってきたボールを見て、正直安心した。ただ、キャッチボールをしている親子の近くでするのは恥ずかしく、距離を取った。冬和が片手で投げたボールを両手で取る。私が投げたボールは、冬和に届かず途中で落下した。やっぱり私は上手く投げられない。冬和は何も言わず、ボールを取りに行って、今度は少し近い距離からまた投げてくれる。何回か繰り返していると、安定してボールを投げられるようになってきた。近い距離だが冬和のところまでボールが届いているし、スピードも少し上がってきたように感じる。風が汗ばんだ首筋にあたって涼しい。ちょっと楽しくなってきた。冬和がボールを投げた後、私を見つめて、なんでキャッチボールしたかったの、と聞く。
冬和は私が子供のころから運動が苦手なことを知っている。今も無理をしていないか心配してくれているのかもしれない。ボールをキャッチして答える。
「私、ドッジボールとか、球技が特に下手で、私がいるチームはすぐ負けて迷惑かけるから、参加しづらくなったんだよね。でも、本当は楽しそうな皆が羨ましかった」
ボールを冬和に投げ返す。
「楽しいな。冬和が付き合ってくれたおかげ」
ボールをゆっくりキャッチした冬和が、何も言わずに投げ返した。さっきより弱い感触が手に伝わった。冬和がいてくれるなら、私の運動音痴仲間だった、飛べなくて走るのが遅いペガサスの役目はもうないかもしれない。
キャッチボールを続けながら、どっちからともなく例のアニメの話をする。子供のころ、どのモンスターを仲間にしたかったかという話になる。好きだったモンスターをお互いに挙げていく。私は、結局仲間のモンスターは現れなかったけど、と呟きながら、もういるじゃないか、と思い当たる。私の近くにいる、私が生み出した架空生物たちを想像する。私が小説を書き始めた小学六年生のころから、ずっと一緒に悩んで、ずっと一緒に生きてくれた。
冬和が投げたボールが私の足元に落ちた。ボールを拾おうとしない私を心配そうに見る冬和に気付いて、ボールを拾う。
「ごめん、ちょっと考え事してた。もう大丈夫」
言いながらボールを冬和に投げる。冬和がボールをキャッチして、そのまま動きを止めて、私をちらちらと見た。また何か言いたそうだ。もんじゃ焼きのお店から、冬和は何か言いたいことがあるが、言うのをためらっている様子だった。『やりたいことリスト』に付き合ってくれている理由も未だ分からない。だけど、私からは深く立ち入らない。そう決めていた。
それは、冬和も私に対して無理に踏み込まない様にしてくれているからという理由もある。
高校生くらいから距離の取り方が分からなくなったという理由もあった。冬和とは楽しく笑って過ごす関係でいたい。話題を変えるように口を開いた。
「冬和、今日はありがとう。最近、ちょっと悩んでた。自分が好きでやってることなのに、不安になることがあって。でも今日冬和が付き合ってくれたおかげで、これでよかったんやって思えた気がする」
自分でも何言ってるかわかんないや、と俯くと、近くで冬和の声がした。冬和は私の目の前まで歩いてきていた。
「雪菜が言ってくれたんだよ」
私は驚いて目を見開いた。冬和を見据えると、冬和の目が潤んでいるのが分かった。
「好きなものは好きなままでいいよって。雪菜が僕に言ってくれたんだ」
今朝、夢の中で聞いた言葉と一緒だった。聞き覚えのある声。ぼやけていた像が幼い頃の私の姿になる。言ったのは、小学六年生の私だ。目の前にいる冬和の姿が、あの頃の冬和と重なる。あの時の冬和も今みたいに泣きそうな顔をしていた。
☆
小学六年生のお盆休みに私の実家に来た冬和は、いつものようにクマのぬいぐるみを抱きながら、あみぐるみ手芸の本を読んでいた。リビングのダイニングテ―ブルでアイスコーヒーを飲みながら世間話をする父と叔父さん(冬和のお父さん)。コーヒーのお代わりを聞いたりお菓子を出したりと忙しなく働く母を気遣って手伝う叔母さん(冬和のお母さん)。仕切りのない隣の畳部屋の隅っこで大人たちと距離を取って座って、一人遊びをする私と冬和。リビングに置かれた安楽椅子に座って遠くから子供たちを見守る祖母。お盆の真ん中で、仏壇の前に並べられたキュウリの馬やナスの牛やお供えの果物、つるつるした包装紙とのし紙がかかったまま積み重なったお中元の箱。仏壇の中の祖父の写真が私たちを見守っていた。火が灯されたばかりの線香の煙が部屋の中に漂っていた。ハーフパンツからむき出しの膝にちくちくと刺さるささくれだった畳も、うっすら香る古い家特有の木のにおいも、やけに遠くに聞こえる甲子園のテレビ音声も、大人たちと私たち子供を部屋の境目で区切っているような見えない境界線も、いつも通り、なはずだった。
私はお姉さん座りで漫画を読みながら、隣で三角座りをする冬和を見て、今日はずっと俯いた顔しか見ていない、と思ったのを覚えている。
隣にいても冬和が無口なのはいつものこと、と些細な違和感を頭の端に追いやった時、祖母が冬和にフェルトで作った猫の人形を差し出した。
おばあちゃんこういうの作るの好きなんやけどあげる人おらんからもらってくれたら嬉しいわ。
手作りの手芸作品を人にあげる時にいつも言う祖母の決まり台詞のあと、冬和の横顔が一瞬ほころぶのを見た。
冬和が人形を手にした瞬間、父の声がひんやりした響きで鳴った。
なんや女の子みたいやな。冬和くんは男の子なんやからそんな可愛らしいもんはもう卒業やろ。おばあちゃん、もうあげるのやめたってな。
父の乾いた笑い声を聞きながら、私は冬和の顔から目が離せなくなった。冬和が今にも泣きそうな顔をしていたから。見開かれた目に溜まった涙がこぼれ落ちそうに揺れていて、長いまつ毛がぷるぷると震えていた。握りこぶしは固く握られている。冬和は涙を落とさないように必死に耐えているようだった。まるで落としたら何かが壊れてしまうみたいに。私もそれを落とさないように、冬和の中の何かが壊れないように守らないといけない。なぜかそんな風に思って、冬和の手を引いていた。大人たちの顔も、冬和の顔も見る余裕がなかった。私は大人たちから冬和を遠ざけるように二階の自室に向かっていた。冬和は黙って私に付いてきていたが、私が裸足の右足を階段の一段目につけたところで、手を離された。足を止めると、冬和の方を振り返る前に、冬和のか細い声が聞こえた。大丈夫だから。
私は聞こえていないフリをして、振り返らずに言う。見せたいものがあるから私の部屋まで付いて来て。階段を上り始めると、後ろから遠慮がちな足音が聞こえてきた。
泣きたいのは間違いなく冬和だった。だけど、私もなぜか胸の奥が詰まって苦しかった。鼻の奥がツンとしていた。その理由を幼い私は気付いていた。父の声を聞いたときに、これ知ってる、と思った。
購読雑誌を漫画雑誌からファッション誌に乗り換えた女の子たちが言う、雪菜ちゃんまだその漫画雑誌買ってるの。少年漫画を読む私に同級生の男の子たちが言う、お前男みたい。その言葉を聞いたときと同じ、ひんやりとした空気を感じた。
成長するにつれて、好きなものを変えないといけないのか。女子だから男子だからと好きなものを区別されるのか。そう感じた時のざらざらした気持ち。
その言葉たちを認めて、自分の好きなものを否定してしまうと、今までの自分が壊れてしまいそうだった。だから、冬和を泣かせるわけにはいかなかった。
階段を上りきったところで、震えた声がした。声変わり前の可愛らしく丸みを帯びた声で、冬和が言った。
男のくせに可愛いものが好きなんて、僕は変なのかな。
幼い私は、冬和の涙を止める魔法の言葉を持ち合わせていなかった。早足で自室に行き、学習机の引き出しからキャンパスノートを持ってきて、冬和に渡した。言葉の代わりに差し出せるものは、これしかなかった。誰にも否定されたくない、自分は絶対否定しないと決めた、自分の好きなもの。誰かに否定されると怖いから、誰にも見せてこなかったもの。冬和になら見せてもいいと思った。
いきなりノートを渡された冬和は、一瞬固まって目を見開いた。目に溜まった涙の揺らぎが一瞬止まった。ノートをめくり、なまけもののかみさま、と題名を一文字一文字区切るように読んだあと、私が書いた物語を黙って読み始めた。私は冬和の顔を見ることができなくて、自分の鼓動の音を聞きながら、視線を逸らしてなだらかな首筋を見ていた。数回ページをめくる音がしたあと、ふっ、と息の音が聞こえて、視線を冬和の顔に向ける。冬和は笑っていた。ノートを覗き込み、神様がナマケモノに変えられたシーンだな、と確認する。面白く描けてるやろ、と自慢げに笑おうとしたけど、笑顔は作れなかった。肩の力が抜けて、胸に温かいものが広がり、右目から涙が一筋こぼれた。私が泣いてどうする、と咄嗟に涙を拭った。冬和は私の方を見ておらず、ページを凝視しながら物語の続きを読み進めていた。
好きなものは好きなままでいいよ。
私は自分に言い聞かせるようにその言葉を言った。冬和は涙の引っ込んだ目で私を見た。
☆
大人になった冬和が私を見つめている。幼いころと違って、背が伸びて見上げないといけないし、肌はざらついて見えるし、髭の剃り残しや喉仏も目立つ。だけど、泣きそうなとき、何かに縋るように瞳が揺れるのは同じだった。
風がふいて芝生の緑が揺れる。辺りは薄暗くなっていた。キャッチボールをしていた親子はもういない。冬和の後ろで沈みかけた夕陽が赤く溶けだしていた。
「僕は雪菜の描く、現実離れした夢物語が、大好きだよ」
何度も読み込んだ、ゴシック体の小さな文字の羅列が頭に浮かぶ。
――@幾星霜 僕はこの物語が大好きです。
――@千歳飴 現実離れした夢物語。
冬和の呼吸の音がやけに近くで聞こえた。ずっと言わなきゃって思ってた、と呟いた。冬和は、眉が下がっているのに、口角が上がっている、泣きながら笑っているような顔をしていた。
「雪菜、ごめんね」
背もたれのない木製ベンチに、冬和が腰掛けた。促されて私も隣に、冬和との間にこぶし一つ分くらいの距離を取って、座る。夕暮れの公園には、人がほとんどいなくなっていた。
冬和が自分のスマホの画面を私に見せてくる。私が利用している小説投稿サイトのログイン済みのマイページだった。一つ目は夜空の写真のアイコンの『幾星霜』というアカウント。画面を切り替えてキャンディポッドの写真のアイコンの『千歳飴』というアカウントを見せた。
「読む専用と書く専用」
「冬和、小説書いてたん?」
驚いて、冬和の話の途中なのに、そう聞いてしまう。冬和は、ふっ、と笑って答える。
「小説というか、日記みたいなものだけど。雪菜が小説を投稿してるのを見て、僕も何か書きたくなって」
私は、冬和が私の投稿した小説を読んでいることも知らなかった。私は冬和に『なまけものの神様』をサイトに上げたことを言っていない。
冬和が私の心を見透かしたように続きを話す。
「雪菜の小説をサイトで見つけたのは、偶然だったんだ。元々このサイトはたまに見てて。ハマったアニメの原作小説が投稿されているのを知って、それがきっかけで」
冬和は二年前に大ヒットして、最近続編映画が公開されたアニメのタイトルをあげた。
伏し目がちに、大切な思い出を話すみたいに、ぽつりぽつりと続ける。
「すごく、嬉しかったんだ。雪菜の小説をサイトで見つけたとき。子供のころに読ませてもらった物語、そのままで。雪菜が描く物語は、何も変わらないんだって。大人になって、人に合わせて変わらなきゃいけないときが、どうしてもあって。でもそんなとき、雪菜の小説を読むと、子供のころに戻れる気がした」
人に合わせて変わらなきゃいけないときって、苦手なお酒を飲まなきゃいけないときとか? そんな言葉が浮かんだが音になる前に消した。
「見つけたなら直接言ってくれたらよかったやん」
「雪菜、身内に投稿してるの見られるの、なんとなく嫌がるような気がして。それに、従兄の僕が応援コメントを言っても、素直に受け止めてくれなかったでしょ」
「それは……そうかも」
「初めのコメントは、純粋に応援の気持ちだったんだ。でも、二つ目は……」
言い淀む冬和に、無理して言わなくてもいいよ、と声を掛けようとすると、言葉が出る前に冬和が口を開いた。
「雪菜が羨ましくて、どうしようもなくなっちゃったんだ」
ちらりと私を見る。潤んだ瞳が揺らいだ。
「眠れなくて、夜が長く感じるときがあって。断れなくて飲み会でお酒を飲んで、酔いが醒めて、変に目が冴えちゃったときとか。そんな夜、明かりを消した部屋で、考え事をしてしまう。お酒の席で、思ってもない悪口に同調してしまったことを、思い出したりして。流されて変わってしまう自分が、すごく嫌になったりする。色々考えて余計に眠れないから、何か書き出そうと思って、書く専用のアカウントを開くけど、書きたいことがまとまらなくて。更新の通知に気付いて、雪菜の小説を読んだら、まぶしく感じて、あんなコメントをしてしまった。僕にはもう到底思いつけない、現実離れした夢物語。雪菜の小説を否定した言葉じゃないよ。いや、でも攻撃したい気持ちも、あったかもしれない。ごめんなさい。今日は、謝りたかった。それに、雪菜の好きなもの、描く世界は、本当に素敵だってこと。雪菜の好きなものを全部応援したいこと。伝えたかったんだ」
冬和が私を見つめて、頭を下げた。その姿がやけに小さく見えた。立って話すと、見上げないといけないくらい身長が高い冬和だが、隣に座ると目線が合う。
冬和の身長が伸び始めたのは、中学校に入ってからだった。女の子と変わらない、可愛らしかった声色は、声変わりして低くなった。足の脛に毛が生えているのを見てから、前にみたいにべたべた触れなくなった。
中学生になって、私の家に来る回数も減っていた。冬和は私立の進学校に進学した。たまに家に来ると、変わらず漫画を読む私の隣で、冬和は参考書を読むようになった。それまで、冬和と勉強や受験の話はあまりして来なかったから意識しなかったが、冬和は勉強ができるらしかった。
その後、地元の公立高校から推薦入試で大した受験勉強をせずに私立大学に進んだ私とは違い、冬和は私立高校の特進コースから公立大学に入学した。受験勉強が忙しかったのか、高校三年生のときは夏休みもお盆も家には来なかった。東京の会社に就職が決まって一人暮らしをすると聞いたとき、冬和が遠い存在になってしまったように感じた。冬和に自分から連絡しづらくなった。
だけど、冬和は、東京の会社へ就職してからも、度々私を遊びに誘ってきた。東京観光がしたい気持ちもあり、気まぐれで一回誘いに乗った。冬和は、相変わらず無口で一緒にいると私ばかりが喋ることになった。私が話す内容をいちいち楽しそうに聞いて、幼い頃と変わらない笑顔で笑った。仕事のことを聞くと、口を噤んだ。冬和にも、仕事の悩みがあって、私と遊ぶことで気が紛れるならそれでいいと思った。悩みについて深く聞かない。誘われたら、子供の頃と変わらないように遊ぶ。そんな関係を続けていた。
私のことを、羨ましいと思っているなんて、知らなかった。私から見て、冬和はなんでも持っているように見えていた。冬和の気持ちに、ようやく触れた。それが嬉しかった。
「冬和、今日は楽しかった?」
冬和の目を見て聞くと、不意をつかれたように、その目が見開かれた。
「楽しかった。雪菜といるときは、いつも楽しい。ずっと、子供でいられるみたいで」
「やりたいことリストの項目まだ残ってるやんな?」
「え、うん」
「やりたいことリスト、増やしとくから、また付き合ってぇや」
「許してくれるの?」
「うーん、冬和がコメントしてたってことより、身内の言葉で揺れ動いてた自分にショック」
「雪菜っぽい」
「反省してな。今度からは直接言ってよ」
「ごめん。わかった」
冬和は、私に手を出すよう促し、手のひらに柔らかいものを乗せた。手の中にすっぽりおさまる。バクのあみぐるみだった。四足歩行のマレーバクの姿形をしているが、本物のような白黒ではなく、パステルカラーの縞模様だ。淡いピンクと水色とオレンジと黄緑。マカロンみたいにポップな色味。私が創り出した、冬和が好きだと言ってくれたバクだった。
ぎゃっ、でも、ひえっ、でもない、私の中から言葉にならない声が出た。私の空想の中だけで存在していて、この世には実在していなかったものが、確かに目の前にある。今まで見たことがなかったそれは、確かに私の世界のバクだった。細かく編まれた縫い目を撫でる。丸くてぽちっとしたボタンで作られた、黒い目に見つめられる。
「これ冬和が作ってくれたん?」
すごい、バクがいる、可愛い、と繰り返していると、冬和の吐息の音が、ふっ、と聞こえた。冬和の方に目をやる。
冬和が大人になった姿で、子供みたいに笑っていた。
「僕も、自分の好きなことを続けるよ」
背後でとけていた夕陽が沈んで、紫色に染まった空に、細く長い雲が伸びていた。
☆
「神様によろしく」
東京駅まで送ってくれた冬和は、別れるときにそう言った。苦笑いで別れた後、『神様』からLINEが来ていた。
――ライブ終わりました。ホテルの近くのうどん屋さんの前で待っています。
家族なのに、家族だからか、敬語の文章は我が家族の証みたいなものだ。なぜか母も父も、いつも敬語のLINEを寄越す。
陽が落ちてすっかり暗くなっている。はずなのに、東京駅近くの夜道は、ビルの灯りがチカチカとまぶしくて、私の知っている夜じゃないみたいだった。高いビルがぎゅうぎゅう詰めされた街に、光と人がこぼれそうに溢れている。眠らないどころか、今から動き出すような街の煌めきに、眩暈がした。人工的な光を浴びながら、スーツ姿のサラリーマンやキャリーケースを引く観光客らしき人々とすれ違い、駅から離れていく。トートバックを持った背が高くひょろっとした大学生らしき男性とすれ違いながら、冬和は無事に電車に乗れただろうか、ホテルに着いたらLINEしてみよう、と考える。
チェーン店のうどん屋さんの前に着くと、見知った顔が私を見て手を振った。ぽっちゃりとしたお腹を隠すようなオーバーサイズのシャツにゆったりしたワイドパンツ。低身長に見合わない大きなキャリケースを携えている。お人好しが笑顔に出ている。一重瞼のたれ目は私とそっくりだが、頬の肉は垂れ下がっていてほうれい線は深く刻まれている。ショートカットの髪は白髪が混じっている。
「お母さん、お待たせ」
「大丈夫。雪菜疲れてない? お腹空いたやろ、行こ」
開口一番に私のことを気遣ってくれる。今年還暦を迎える母の方が疲れやすいはずなのに。老いを感じる横顔を見つめてしまう。
冬和に言いたくなる。母は、『神様』なんかじゃないよ。幼い頃の私に言いたくなる。『なまけもの』なんかじゃなかったよ。母も。私も。
うどんの食券を買って、カウンター席に横並びで座った。母は、食券と交換で差し出された冷茶を、ビールみたいに一息に飲み干した。
「やー、ライブめちゃくちゃよかったわー」
うどんが運ばれてくるまでの間、母は再結成した往年のロックバンドのライブの熱が醒めないようで、語り続けていた。実家のある関西の片田舎から一人でライブに参戦するなんて母はやっぱり若かった、と先程の考えを脳内で訂正する。雪菜が冬和くんに会うタイミングで東京来れてよかった、一人は怖いし、と言う母を可愛いとさえ思う。
冬和は、小学生の時から、今でも時々、私の母のことを『神様』と呼ぶ。
小学一年生だった冬和は、近所の神社の厄除大祭で、ご祈祷終わりに拝殿から出てきた巫女装束姿の母を見て、『神様』と言った。二日間限定・町内の役員として頼まれてご祈祷の手伝いやお守り売りをするだけの『神様』は、大笑いした。今でも我が家の笑い話になっている。
小学校の学年が上がるにつれて、専業主婦で学校から帰ると家にいてくれた母のことを、疎ましく思うようになった。いつも家でくつろいでいるように見えた。動きがゆっくりで大らかな性格の母。容姿に頓着せず、いつも楽そうな服装をしていて化粧っ気もなかった。会社勤めをしている綺麗な格好の同級生の母親が、輝いて見えていた。
母が悪いんじゃない。当時の私も本当は分かっているはずだった。自分のことが嫌いなだけだった。自分を守るためだった。学校で自分に向けられた『のろま』を母のせいにして、母を『なまけものの神様』にしてしまった。小学生の私にとって『なまけものの神様』は、母であり私だった。
湯気が立ったかけうどんが二杯、カウンターに置かれた。おつゆを一口飲むと、なじみのある、チェーン店特有の地域差のない味に胸が温かくなった。
「冬和くん、元気だった?」
うどんを咀嚼しながら、母が聞く。元気そうだったよ、と取りとめのない返事をする。
「二人、ほんと仲いいよね。ただの従兄妹同士と思えないくらい」
にやにや笑いを浮かべながら含みを持った言い方をする母に、真顔で答える。
「冬和は仲間」
一緒に生き抜いていく仲間、と心の中で呟く。従兄妹の私たちをぴったり形容する言葉は、ないかもしれない。だけど、今はその仮の言葉がしっくり馴染む。
「なんか格好いいね」
母は不服そうに笑う。この後続く話題はなんとなく分かる。今良い人いないの、と聞かれるはずだ。二十代後半になってから、恋愛について聞かれることが増えた。母は心配しているだけだ。それが分かるから出来るだけ邪険にしないように言葉を選ぶ。
心の中は、自分と自分を取り巻く周りのスピード感にじりじりと焦る気持ちと、追いつきたくないと燻る気持ちが渦巻いている。この気持ちは、冬和ならきっと分かってくれる。
☆
「そろそろ寝よか」
母がホテルの部屋の電気を消して、私の隣のベッドに潜り込む。都心の狭いビジネスホテルのツインルーム。暗闇の中、手を伸ばせば届く距離に並べられたベッドから、母が寝返りを打つ音が聞こえる。薄いカーテンは閉め切っているのに、街の明かりがあたって淡く光っている。
目を閉じて眠気が来るのを待ってみるが、眠りに落ちることができない。スマホで小説投稿サイトのマイページをチェックする。コメントやユーザー登録数は増えていなかったけど、スターは二つ増えていた。
隣でシーツが擦れる音が聞こえて、母を見やる。布団のふくらみが微かに上下している。目を閉じている顔は笑っているように見える。穏やかな寝顔を見て安堵する。
私の中では、母はもう『なまけもの』ではない。だけど、私の物語の中では、『神様』は『なまけもの』に変えられたままだった。使い魔の架空生物たちも、コンプレックスを抱えたままだ。私が書かなきゃこの子たちを救えない。どうしたら救える?
隣で聞こえてくる母の吐息を聞きながら、次の言葉を紡いだ。
刹那を永遠に 音羽光理 @otowa_hikari
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