有明け

藤野 悠人

有明け

 目を覚ますと、カーテンの隙間から入る光で視界が滲んだ。窓に背を向けて目を閉じてみるけど、もう眠れない。枕元のスマートフォンを手に取った。もう昼の三時。今夜も日付が変わる前には眠れないかも。後ろめたさが背中を撫でる。


 なんとなくSNSを開いた。何人かの投稿を流し見する。みんな、それなりにやっているみたいだ。だんだん虚しくなってきて、スマホの画面を消した。


 横になったまま、ぼんやりと部屋を見る。視線の先には、申し訳程度のウォークインクローゼットがある。またスマホを点けて、SNSを見る。何度かそれを繰り返して、私も投稿画面を開いてみた。


『やば、いま起きた。完全に昼夜逆転してて笑う』


 できるだけ軽いノリの文章を打つ。だけど投稿ボタンはタップできず、文章も削除した。


 会社を辞めて三ヶ月。ワンルームの部屋に、私はずっと引きこもっていた。人目につかないように、外出は夜の間だけ。


「適応障害ということで、診断書を書きましょう」


 ネットで調べた会社の辞め方を参考にして、精神科に駆け込んで、お医者さんに一筆書いてもらった。丁寧な感じの人だった。慣れた作業をこなすような口ぶりだったけど。


 ごそごそと布団から抜け出した。とはいえ何もすることはない。


 いや、まともな大人なら再就職のために色々するのは分かる。分かってはいる。でも私はダメ人間なので、そういうのは考えないようにした。スマホで動画サイトを開いて、登録しているチャンネルの最新の動画を開く。


 画面の向こうでは、私と同年代くらいの男女数人が何かの企画をやっていた。ゲラゲラと楽しそうに笑っている。


「あーあ、私もこうやって遊んで暮らしたい」


 自分で言っておいて、今のは酷いなと思った。彼らにも生活はあるのだ。でも、この部屋には私だけ。何を言っても咎める人はいないから、知ったこっちゃない。そうして、今日もスマホのバッテリーが一桁になるまで、動画を見て時間を潰した。


 さすがにちょっとお腹が空いた。冷蔵庫に何かあったっけ。キッチンに行くと、洗濯かごが目に留まる。


「げ。あー、そうじゃん、洗濯しなきゃじゃん」


 すっかり忘れていた。もう四日くらい洗濯をしていない。かごの中には、部屋着以上お洒落着未満の服たちと、上下の色がことごとく不揃いな下着たちが放り込まれている。


 厳正なる脳内会議の結果、満場一致で何も見なかったことにして、私は冷蔵庫を開けた。微妙に中身の減った調味料、半分ほど切ってラップに包んだ野菜、ボトルの中でやたら薄くなった麦茶。


 シンクの下の棚も開けてみる。買ったはいいけど開けていないパスタの袋。五束入り。ミートソースやホワイトソースのレトルトは無い。ついでに、玄関にはしっかりと口を縛った燃えるごみの袋が三つ。昨夜、今日こそはごみ収集に出そうと鼻息荒く用意したものだ。結果はご覧の通り。


「……終わってんな、私」


 思わず口に出ていた。


―――


 夜も遅くなってくると、薬を飲んで寝なきゃ、という気持ちになる。でも起きたのは昼過ぎだし、寝ようという気にはなれないし、どうせ明日も何も無い。結局ダラダラと起きていてしまう。でも深夜二時を過ぎ、三時を過ぎると、夜更かしの背徳感にも耐えられなくなって、眠くもないけど布団に入る。寝つけるわけもないけれど。


 無理やり目を閉じる。当たり前だけど、眠気なんてやってこない。


 暇だ。眠れない夜は、とにかく暇なのだ。手を動かせない代わりに、頭の中では考えても仕方ないことがぐるぐる回る。


 どうして。なんで。今日も何もできなかった。いや、しなかった。そんな言葉が次から次へと浮かんで、私を責め立てる。


「もうやだ。飽きた。散歩行こう」


 盛大な独り言と一緒に体を起こして、散歩に出ることにした。自分を責め立てる言葉たちから逃げるように。


 夜は恐ろしい時間だ。魔物がいる。それに捕まると、胸とお腹がしんと冷たくなって、どうしようもなく苦しくなる。これから生きてたってどうせろくなことなんてない、とうっすらした絶望を抱えながら、のらりくらりと生きている自分を責めるような、そんな魔物がいる。


 寂しい夜道を歩いていると、街灯に照らされた鳥居が現れた。住宅街の中に、まるで置き忘れられたような神社があった。


 久しぶりだ、と思った。会社勤めをしていた時によく通っていた道と神社だ。歩き慣れた方向へ歩いているうちに、こっちへ来てしまったらしい。


 そばにはバス停があって、色褪せたベンチがある。丁度良くそこに座って一息ついた。


 静かだな、と思った。夜だから当たり前だけど。


 明け方前、住宅街、神社の前に座っている私。


「幽霊ってこんな気分なのかなぁ」


 思わず独り言が漏れる。


「お姉さん、いつから幽霊になったの?」


 悲鳴が出そうになった。しかし、声は喉で玉突き事故を起こして、まったく出てこない。隣を見ると、おかっぱ頭の女の子がベンチに座っていた。


「えっと……、どこの子?」


 喉元の声を交通整理して、ようやく出てきた言葉がこれだった。女の子は体を捻って、神社の方を指差した。


「えっと、神社の管理人さん……、の家の子?」

「ううん、ここが私のおうち」

「は?」

「だから、ここが私のおうち」


 女の子はむすっとした声でそう言った。


「いや大丈夫なの? あなたみたいな小さい子が、こんな時間に外に出るのはさすがにヤバいよ」


 女の子は、どう多めに見積もっても五歳くらいだろう。しかし、私の心配をよそに、女の子は更に不満気な声を上げる。


「違うよ。お姉さん、理解力ないね」


 子どもの声なのに、口ぶりはまるで大人だ。


「じゃあ、こうしたら分かるでしょ」


 その言葉が聞こえた次の瞬間、女の子の頭には三角の耳が生えていた。人間みたいに座っているけれど、顔や腕はふわふわの毛に覆われている。目元は人間みたいだけど、口元は犬みたいに尖っていた。体の後ろで、太い尻尾がふわふわと揺れている。


「……狐?」

「そうよ」


 狐の顔をした女の子が答える。声は、さっきまで聞いていたのと変わらない。


「え、狐!? 狐が喋ってる!?」

「だから言ったでしょ。私、ここに住んでるの」


 狐の顔をした女の子はそう言って、再び神社を指さした。そこで、ようやく思い出した。そういえばこの神社が祀っているのは……。


「もしかして……、お稲荷様?」

「そうだね、お姉さんたちはそう呼んでる」


 女の子は、こともなげにそう言った。


「ってことは、神様なの!? 本当に!?」

「まぁ、色々いるんだけど、一応そういうものかな」


 信じられない。この子が、神様? というか、神様って会えちゃうものなの? 見えないから神様じゃないの? この小さな神社は確かにお稲荷様を祀っているけれど、でも、でも……。


 ふと、一番高い可能性が、頭の中にポンと浮かぶ。


 もしかして私、化かされているのかな。


「いま、化かされてるのかなって思ったでしょ」

「すみません! というか、なんで分かるの!?」

「それくらい分かるよ」


 ふふん、と狐の女の子が勝ち誇ったように笑う。狐って、笑うとそんな顔なんだ。心を読まれたことに驚いて、私の頭は考えることを放棄していた。


「ねぇ、お姉さん」

「はい、なんでしょう」

「なんでこんな時間に外にいるの? 人は寝る時間でしょ」

「その、眠れなくて散歩に」

「あっそう。前はよくここに寄ってくれたよね? しばらく来ないから引っ越したのかと思ってた」

「その、会社を辞めて部屋に引きこもっていたので」

「へぇ。ところで、なんで敬語なの?」

「いや、その、だって、神様ですし」

「ふぅん」


 お稲荷様はちょっと気を良くしたらしい。背中の方で、大きな尻尾が左右に揺れている。意外と分かりやすい神様だ。正直、可愛い。


「私のおうちね」


 ベンチに座ったまま足をブラブラさせながら、お稲荷様が話し始める。


「このあたりの区画整理のとき、撤去されないで残ったんだ。だけど、参拝してくれる人は減っちゃったんだよね。だからお姉さんが毎日お参りに来てくれて、嬉しかったんだよ」

「はぁ、それはなんというか、勿体ないお言葉で」

「でも急に来なくなっちゃうし、久しぶりに来たと思ったらこんな真夜中だし」


 お稲荷様が私を見る。もふもふした顔の真ん中で、瞳がキラキラしている。


「心だって、なんだか元気がなくなってるし」


 見た目は五歳くらいの、狐のような姿をした女の子。だけど、この小さな神様には何だってお見通しなんだろう。


「さっき、会社を辞めたってお話ししたじゃないですか。私、人と一緒に仕事をしてて、心が潰れそうになっちゃったんです」


 かすれたため息が、喉の奥から漏れる。


「最初のうちは、この会社はおかしい、って思っていたんです。でもだんだんと、おかしいのは周りと同じように仕事ができない自分なんじゃないか、って思うようになりました。周囲が普通にしていることが、どうしても私には苦痛だったんです。毎朝、同じ時間に出社するのも、上司や同僚と話すのも、仕事だっていつまでも自分だけで手一杯で。職場の雰囲気的にも、笑顔を浮かべているのが当たり前みたいになってて。笑って人と話そうとすると、いつも泣きそうでした」


 ひとつひとつ口にする度に、会社員をしていた頃の気持を思い出す。表情や行動は、精一杯に“普通”であろうとした。でも喉の下では、いつだって悲鳴を上げている自分がいた。それでも私は“普通の私”でいるようにと自分に言い聞かせ続けた。


 そうしないといけない、そうしないとここに居られない。その思いは、べったりと私の胸にくっついて、喉元の悲鳴を抑え込んでいた。


 だけど、口から出る事ができなかった悲鳴は、次第に体の中で暴れ始めた。


「最初は、なんだかずっと疲れてるな、って感じでした。歳かな、て思いました。でも、だんだん頭痛は酷くなるし、眠れなくなるし、人と話しながら冷や汗まで出るようになりました。お腹も空かなくなったし、月のものだって……」


 自分の体が、少しずつ麻痺していくような。あの嫌な感覚はなかなか忘れられない。


「何かに逃げたくなって……。でも私、煙草は嫌いなんですよ。お酒も弱いから、そっちにも逃げられない。なんか、いつもぼんやりと死にたいなって思うようになって、もうそれしか考えられなくなりました。生きたまま、死んでるみたいな」


 自分の体が、自分のものではなくなっていくような感覚。自分の心が、自分から離れていくような感覚。とうとう耐えられなくなって、半ば衝動的に仕事を辞めたのが三ヶ月前。


 服の袖を強く握りしめていることに気付く。腕も手も、強張っている。


「助けてって、誰かに伝えたかったんだよね」


 ふわふわした暖かさが近くなる。見ると、お稲荷様が私のすぐ隣まで来ていた。


「お姉さんが大変だったの、私も知ってるよ。毎日来てくれてたから。お姉さんがお参りする時ね、声には出してなかったけど聞こえてたよ。お願い、助けてって、いつも心が叫んでたから」


 お稲荷様はそう言うと、少し落ち込んだように俯く。


「でも私は力が弱いから、あんまり助けてあげられなかった。お姉さんが壊れてしまわないように、元気を分けてあげることしかできなかった。ごめんね」


 お稲荷様はそう言うと、袖を掴んでいた私の手に、そっと自分の手を添えてくれた。人間のような手だけれど、ふわふわとした温かい感触が、私の手に伝わってくる。


「お姉さん、自分のこと嫌い?」

「……はい」

「うん、伝わるよ。こんな弱い自分なんて、仕事も続けられなくて衝動的に辞めちゃった自分なんて、大嫌いだって」

「……はい」


 目と鼻の奥がじわっと熱くなる。唇を思わず噛んでいた。


「お姉さん。泣くのはね、お姉さんが生きてる証拠だよ」

「でも……」

「うーんと、ね。それじゃあ神様命令です。我慢したらいけません」

「なんですか、それ」


 小さなお稲荷様が、ビシっと指を立てる。それがなんだか可笑しくて、でもすごく心強くて、ホッとしたら視界が滲んでしまって、もう止まらなかった。


 声が出せない。大人になった体は、声を上げた泣き方を忘れてしまっていた。涙と鼻水、必死に息を吸う自分の音しか聴こえなかった。


 お稲荷様がスルスルっと私の膝に乗ってきて、短い腕でそっと抱きしめてくれた。ふわふわの毛が温かい。頭の位置なんて、膝に乗っても私の顎くらいまでしかない。


 小さくて優しい神様に抱き着いて、私は縋りつくようにして泣いた。


 ようやく落ち着いた頃には、空が白み始めていた。お稲荷様が私の膝から降りる。目の前に立って、今度は私の両手を取った。


「お姉さん、きっと大丈夫。お姉さんはね、自分で思っているよりもずっと強いから」

「……そうでしょうか」

「うん。弱い人はね、自分ひとりで痛みを抱えられないから。自分より弱い人を探したがるし、自分より幸せな人を許せないから」


 日が少しずつ昇ってくる。明るくなるにつれて、お稲荷様の体が、ふわふわの狐から人間の姿になっていく。そして、五歳くらいのおかっぱ頭の女の子に戻っていた。女の子の姿になったお稲荷様が、私の手をぎゅっと握った。


「お姉さんは、きっと大丈夫。今は大丈夫じゃなくても、きっと大丈夫」

「神様だから、わかるんですか?」

「ううん。ずっと見てたから分かるの」


 お稲荷様がニコッと笑った。


「またいつでもいいから、お参りに来てね」


 服の袖で目を拭いた。顔を上げると、女の子の姿は見えなくなっていた。周りを見回すけど、どこにもいない。だけど手の平には、誰かが握ってくれていたあとの残り香のような温かさが残っていた。


 振り返ると、三ヶ月前まで毎日のように見ていた小さなお社があった。近くまで歩いて、手を合わせる。


「ありがとうございました」


 小さくそう言うと、境内を抜けて、自宅へ戻る道を見た。ふと地面を見ると、早咲きの水仙が、新鮮な朝日の中で首を上向けて咲いていた。

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有明け 藤野 悠人 @sugar_san010

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