独りと一匹

七種夏生

猫と一人


「おなかが空いた」


 そんな言葉が聞こえた。

 いや、聞こえた気がした。もちろん幻聴だろう。だって視界にいるのは猫一匹。森林に囲まれた小さな公園に、言葉の喋れる人間は私一人しかいない。

 後ろの木の影に女の子でも隠れているのか、と周囲を窺うが人の気配はない。

 そもそもこの公園は、滅多に人が来ない。緑の中にポツンと置かれたベンチに座っているとなんだか、人間社会から切り離された気になって心が休まる。

 だからこうして、昼休憩はこのベンチで時間を潰しているのだけれど。


 オレンジ色した猫がじっと見つめる視線の先は、昨日の残り物を詰めたお弁当。

 はっとして恐る恐る、箸で鯖の塩焼きを摘んだ。

 

 ごきゅん。


 と、そんな音がしたかと思うと(これもきっと幻聴!)、あっという間に鯖が奪われ、同じベンチのすぐ横に猫が座っていた。

 はむはむと、私の鯖塩を貪り食いながら。


「…………」


 なんとも言えない気持ちになって、弁当の蓋を閉じた。

 すると音に反応して、猫が顔を上げた。

 ぱちっとぶつかる視線、つぶらな瞳がかわいくてついつい、弁当箱の蓋を再度開いた。

 首輪がついていない、おそらく野良猫だろう。そんな生き物が触れた箸はもう使えないと思ったのだが。それならいっそ、与えればいいか。

 卵焼きを差し出すと、猫が一目散にかぶりついた。


 あぁ、必死だな……


 ガツガツと卵を食いちぎっていく猫を一瞥し、顔を上げた。

 木々の隙間から見える青い空、時々雲。

 風が葉を揺らし、横を向くと猫はもういなかった。


「食い逃げ……」


 独り言を呟いたがきっと、あの猫には聞こえていないだろう。

 ため息とともに、弁当箱の蓋を閉じる。

 会社に戻らないと……嫌だな。


 一人になりたい。


 そんな言葉を押し殺し、ベンチから立ち上がった。



 次の日の同じ時間、いつものベンチに昨日の猫が座っていた。

 一瞬たじろいだが、「にゃあ」の声に引き寄せられ、隣に腰掛けた。

 いつものように、弁当袋を開いていく。あいにく今日は魚が入っていない、ミートボールは食べれるのかな?

 蓋を開くと、てりやきソースの匂いが飛び出して猫が鼻をくんくんと鳴らした。


「一個だけね」


 バランの上に乗せたミートボールを、猫の座っているベンチの上に置く。

 くんくんと匂いを嗅いだあと、大口を開けてミートボールにかぶりつく猫。美味しかったのだろうか、口がはふはふしてる気がする。


「おいしい?」


 ならばもう少しと米に箸を指した……ところでふと、正気に戻った。


 独り言を、呟いている。


 いやこれは、相手がいるから独り言じゃない。いやでも、相手は人間じゃない。

 だけど……


 わけがわからなくなって、箸で抉った米をバランの上に乗せた。

 やはり匂いを嗅いだあと、嬉しそうに頬張る野良猫ちゃん。

 かわいいな……なんて、さすがにそれは口にしなかった。

 顔を上げるとやはり、緑の木々と青い空。

 遠くでカラスがカァカァと鳴いた。



 次の日もまた次の日も、猫はやってきてその都度、私は餌を与えた。

 土日を挟んで月曜日、雨だったが気になって公園に向かった。

 水たまりを避けてベンチに近づくと、葉っぱの揺れる音がして、木々の隙間から猫が姿を現した。

 慌てて傘を差し出し、持参したタオルで体を撫でる。まだ濡れてはいなかった。


「よかった……」


 そんな独り言を呟いて、そんな言葉を発している自分に驚いて、笑みが溢れた。



 会社から自宅は遠くない。

 平日のみならず土日も、正午過ぎになると私はあの公園へ向かった。

 猫に与えていいもの、ダメなもの。好きなこと、嫌いなこと。ボディタッチなどのコミニュケーション方法をネットで調べて。

 毎日毎日お昼の三十分を一緒に過ごしていつしか、その時間が楽しみになっていた。

 そんなある日、野良猫はベンチに現れなくなった。



 昼ご飯も食べず必死に探し回って、公園以外の場所も、土日祝日問わず探し続けて。

 二ヶ月経った時、諦めた。

 どうせ私の猫ではないし、向こうも気まぐれ餌欲しさにあのベンチに来ていただけで。

 私の猫ではない、ただの野良猫だし……

 そう自分に言い聞かせ、寂しさか怒りかわからないモヤモヤとイライラを押し殺して会社に戻った時、休憩室にいた同僚の会話が聞こえた。


 野良猫が子猫を産んだらしい、倉庫の奥で。


 要約するとそのような内容の話を聞いた途端、頭から水を浴びたような気持ちになった。


「誰かが餌付けをしたのだろう、かわいそうに」

「保健所に連絡しないと」

「子猫はどうなるの?」

「野良猫でしょ? 子猫どころか、親猫も殺処分でしょ」

「「かわいそうに」」


 慌ててトイレに駆け込んだけれど、嘔吐している場合ではない。


「かわいそう? 何が、なにが……」


 トイレの個室で一人、呟いた。

 いつの間にか独り言を話すようになっていた……違う、公園では、あのベンチでは相手がいた。

 オレンジ色の毛並みをした、あの野良猫が。


 ネットで検索すればすぐに出てきた。

 簡単なことだった。


 なぜ野良猫に餌を与えてはいけないのか。

 なぜ、かわいそうなのか。

 なぜ彼らを見つけたら保健所に連絡しないといけないのか。

 なぜ、殺処分になってしまうのか。


 嘔吐しそうになったがそれどころではない。

 トイレの個室を飛び出し、倉庫へと走った。

 まだ連絡していないだろう、まだ連絡していないよね、まだ連絡していないで……

 気づけば涙が溢れていた。

 倉庫の奥でオレンジ色の毛並みを見つけた時にやっと、涙が頬を伝った。

 にゃあと鳴かれたが私には、彼女が何と言っているのかわからなかった。



 保健所に一応の連絡をして、保護団体というところに相談をして、私は会社をやめて引越しをすることになった。

 退職する必要はなかったのだが貯金はあるしなんとなく、その街から離れたかった。

 お迎え準備完了。

 引っ越しが終わっていざ、ケージを開けるとオレンジ色の猫が顔を上げて私の目を見つめてきた。


「にゃあ!」


 最初に出会ったあの時と、同じ言葉を発しながら。

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独りと一匹 七種夏生 @taderaion

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