欠席推理
八影 霞
欠席推理
「五時間目の視力検査、面倒くさくない?」
「あ、私。眼鏡持ってくるの忘れた」
そんなもの、忘れたところで何の問題もない。
僕は鞄から合皮の財布を取り出す。ファスナーを開け、親指と人差し指で逆さまに吊り下げる。
吐息をついた。空っぽだ。どうやら学食代を忘れたらしい。寝坊で朝食も採ってないというのに、まいったものだ。
「黒板消しとけよ」
財布を戻していると、その上を誰かが越えて行った。声を聞く限り、
僕は肩を落としつつ、黒板に向かった。
「なんだ?」
違和感があるな。
黒板消しを手に取り、週直の記入欄に目を向ける。
そこにはもちろん「
「
僕の名に並んで書かれていたのは、このクラスで最も生真面目な女子生徒「犬居」の名だった。堅物すぎてクラスメイトから敬遠されてすらいる人間だ。
今日は欠席か。
珍しいこともあるものだ。
「そういや、犬居のやつ今日いなくね?」
希島がはっと思い出したように、声を上げた。
それに斧寺が目をむく。
「嘘でしょ? あの犬居さんが?」
「だって、あそこの席って犬居の席だろ?」
希島が指をさしたのは、窓側の一番前の席。間違えなく犬居の席だ。授業で当てられやすい席をわざわざ担任に直談判して選択しているのだと、噂で聞いたことがある。
「それは大ニュースだよ」斧寺が騒ぎ立てる。「あの犬居さんが学校を休むなんて、ありえないよ」
「たしかに、あいつ毎学期皆勤賞だもんな」気怠そうに机に突っ伏していた佐垣も、二人の話に割って入る。
「知ってたかい? 犬居さんってインフルエンザの時も親に黙って登校してきてたらしいよ。なのに、今日は休んじゃうなんていったいどうして」
「落ち着けよ、斧寺」佐垣が欠伸を噛んだ。「でも、たしかに欠席の理由は気になるさ」
「んじゃあ、犬居の休んだ理由で納得のいく説明したやつが千円な?」
希島が両手を激しく弾き、大声で言った。
「いいね。面白そう」
「賞金を懸けた推理対決ってことか。望むところさ」
千円だと。
僕は黒板消しを放り投げ、希島たちのもとに寄って行った。
「その推理とかいうやつ、僕も加わって構わないか?」
三人は数秒互いに見合わせた後、おどおどと返答した。
「ああ、別にいいけど」
「誰だっけ? 君」
「思割だぜ。佐垣、おめえ隣の席じゃねえかよ」
希島のフォローでなんとか場が和む。
「そっかそっか、いいよ。君も参加しなよ。こういうのは人数が多い方が楽しいし」
「恩に着る」
僕は椅子を三人の方へ向け、腰を下ろした。
「んじゃ、早速俺の推理だ」
「待って、希島君。まずは情報の公開だよ」
「情報、かいじ?」
斧寺の言葉に希島が眉根を寄せる。
「そうじゃないと、情報の偏りが発生するじゃないか。勝負は公平性を担保しないとね。じゃあ、一人ずづ犬居さんについて知っていることを出し合おう」
つまり誰か一人が犬居に詳しかったら、そいつが有利になってしまうので、それを防ごうというわけか。きちんとしているな。
「希島から時計回りでいいな?」と佐垣。
「んじゃ、俺から。そうだな、ああ、うん、頭がいいぜ、犬居は。よく発言して教師の野郎に褒められてやがる」
「そんなの誰でも知ってるさ」佐垣がまったく、と肩を落とす。「俺の番か。ええと、一番の得意科目は多分数学さ。この前のテストで満点の答案を見た」
「そりゃすげえな、天才じゃねえか」
希島が大袈裟に転げる演技をする。転げはしないが、僕もいささか顎が下がった。そいつはすごい。
「いいや、天才ってのは少し違うよ」
僕の順番を飛ばし、斧寺が喋り出す。
「先に僕の番でいいかい? 犬居さんは実は特段地頭がいいわけじゃないんだよ。前に隣の席だった時に見たんだけど、犬居さん、授業の板書を一言一句すべてノートに取ってるんだよ」
「狂ってやがる」と希島。
「なるほど、勤勉タイプか。たしかに校内模試では名前を見ないもんな。定期試験をクリアするのに尽力する感じね」
「次は思割だな」希島が促す。
だが、僕は力なくかぶりを振った。
「すまない。犬居について僕は何も知らない。知っているのは、僕が彼女にさほど興味を持たず生活してきたという事実だけだ」
「んだ、それ」
希島が吹き出す。
「まあ、しょうがないさ。犬居って俺たち男子と関わること少ないし」佐垣が両手を上げる。手上げという意味なのだろうか。
「あ、それじゃ、女子に聞くってのはどうかな? 同性同士なら僕らより会話をしてるんじゃない?」
「名案だな」佐垣が手を打つ。「ついでに席が近いやつらにも事情聴取しよう」
「欠席理由を直接聞くのはご法度だぜ?」
「希島、お前が一番やりそうだろ」
「んだと? んじゃ、全員で行こうぜ。なら、文句ねえだろうが」
三人が立ち上がったので、僕もついて後に続く。
客観的に見ると恥ずべき格好だが、餓死するわけにはいかないので、背に腹は代えられない。
希島はまず、犬居の後ろの席の人間に声をかけた。
「は? 犬居さんについての情報? なんなの、気持ちが悪いんだけど。ああ、そっか今日休んでるものね。珍しいこともあるものだわ。昨日はどうだったかって? そうね、四六時中勉強してたわ。いつも通りよ。ずっと机にへばり付いて。そうそう、いつもの顔が机にくっ付きそうなあれね。机と一体化して消えちゃったんじゃない? 知らないけど」
笑えばいいのか。僕は無理やり口角を持ち上げる。
「さんきゅうな井口」希島が手を挙げてその場を去ろうとする。
「井口じゃなくて飛口よ、希島。私の方があんたより出席番号あとでしょうが」
「有力情報なしだね。さあて、どうするよ?」
斧寺に言われて、希島が教室内を見渡す。「次はあいつだ」
次に希島が話しかけたのは、犬居の隣の席の
「犬居さんのこと? え、今日休んでるの? 嵐でも来るんじゃない?」
綿鍋はお道化たように、友人と爆笑した。僕の苦手な人間だ。
希島は愛想笑いをすると、もう一度綿鍋に質問した。
「もう、なんも知らないって。面倒だな。あ、時々ノート見せてとは頼まれるけど、貸すだけで会話なんてしないよ。趣味でも聞こうもんなら目から針が飛び出てきて刺されそうだ」
再び、綿鍋とその友人が爆笑する。
実にめでたい連中だ。この世の終焉を目の前にしても、そうやって笑っていればいい。
その後も数人のクラスメイトに尋ねて回ったが、返ってくるのは驚きの声ばかりだった。みな、犬居の欠席に対して度肝を抜かれているのは確かのようだ。
「あいつで最後にするか」
最後に希島が呼び止めたのは、
「うーん、えっとね。時々ものを貸してもらうかな?」
「まさか火民さんって、犬居さんと仲が良かったりする?」火民の受け答えに、斧寺が期待の声を上げる。
「今がんばってるところかな」火民は恥じらいながら頭を掻いた。「仲良くなろうと思って、色々試してはみてるんだ。消しゴム貸してもらったり、勉強教えてって言ってみたら、普通に教えてくれたし。犬居さんって優しいんだよ。みんなも仲良くしてほしいな。まあ、この前体操服貸してって頼んだ時はだめって断られたけどね。なんでだろう、『火民』と『犬居』って遠目からはばれないからいけると思ったんだけど」
どうも火民は天然の昼あんどんのようだ。同じクラスの人間に体操服を借りれるわけがないだろう。
「そういえば、今日の課題って……」
「希島いこう」佐垣が呆れ顔になる。「こいつは頭の螺子がはずれてる」
同感だ。僕も心中で同意する。
「んじゃあ、戻って推理はじめっか」
「順番はさっきのやつでいいな?」
「いいぜ。じゃあまずは俺から」希島が胸を張る。「ずばり、犬居は勘違いしてやがるんだ」
「勘違いだって?」斧寺が眉を細める。
「そうだとも。今日は火曜日。三連休明けだ。つうことで、犬居は今日を休みだと思い違いやがったんだよ。で、休んだ。どうだ?」
佐垣が苦笑した。
「希島、お前じゃあるまいんだからさ」
「あの真面目な犬居さんに限ってそんなミスはありえないよ」
斧寺もないない、と手を振る。僕も便乗する。
「ないと思うな」
「まじかよ。俺は三回くらいあんだけどよ」
希島がぐったりと項垂れた。三回、もはや玄人ではないか。
「では、俺の番か」佐垣が軽快に指を鳴らした。なかなか期待できそうだ。
「バイアスに支配されてはだめさ。一度、犬居さんが欠席しているという事実を疑ってみるのさ」
というと?
僕は顔をしかめる。
「どういうことだよ」斧寺も神妙な面持ちになった。
「犬居さんは学校に来ているのさ。でも、具合が悪くて保健室に籠っている。教室に荷物がないところを見れば、登校後すぐに保健室に向かったのだろう。斧寺がインフルエンザでも来てたって言ったから、それで思いついたのさ」
「佐垣おめえすっげえな。絶対そうだろ」
希島が興奮する。
「これは、僕と思割君の番は必要なさそうだね」
斧寺も満足のようだ。
だがしかし、
「それはいただけないな」
僕ははっきりと言った。
「どういうことさ? 思割」
「知らないわけがないだろう。この学校の制度を。三時間以上の保健室滞在はと強制帰宅ではないか」
佐垣が自嘲しつつ額を押さえた。
「そうだった。すっかり忘れてたさ。そうなると欠席になって、元も子もないか」
「んだよ、期待させやがって」
「佐垣君の推理も通らないみたいだね」
斧寺が首を掻く。
「次は僕だけど、結論が出なくてね。色々考えてはみたんだけど」
「まあひとまず言えよ」
希島が催促する。
「分かった。三つあって、まず一つ目は交通事故とかの事故に巻き込まれたパターンだね。あまり考えたくないけど、重傷でそのまま病院に運ばれたみたいな」
筋が通るのは通るな。僕は耳を澄ます。
「二つ目はバスの遅延だね。でも今日は心地過ぎるくらいの快晴だし、遅延する可能性は低いからこれはなしかな。それに三時間超えの遅延なんて、聞いたこともないよ」
そうだな。それはもはや運転手の職務放棄だ。万一にも起こりえないだろう。
「そして最後、三つ目は身内の不幸だね。親戚の葬式とか法事とか。担任からの報告がないのが引っ掛かるけど、忙しくて忘れてたんじゃないかな? それかわざわざ言うのも気が引けたとかね」
否定できないな。二つ目はまだしも、残りの推理は理にかなっている。加えて、想定可能な欠席の理由だ。否定しきれない。
「おもしろくねえけど、まあそれっぽいな。特に葬式とかは公欠扱いになるしよ」
「流石の犬居さんも、身内の不幸を差し置いて登校する気にはならないだろうさ」
佐垣も頷く。
まずいな。このままでは斧寺に千円が渡ってしまう。
五時間目はたしか視力検査だったな。片目を隠したまま干上がって死に至るなど笑い話にもならないぞ。
視力検査……
待てよ。
親指で額を支える。
希島が不思議そうに覗き込んでくる。
犬居が欠席するというイレギュラーには、イレギュラーな要因が絡んでいるのではないか?
今日がいつもと違う点と言えば、五時間目が視力検査になっている点だ。一見関係はなさそうだが。
記憶を呼び返す。
『四六時中勉強してたわ……机と一体化して消えちゃたんじゃない?』
『あの犬居さんが学校を休むなんて』
『天才ってのは少し違うよ……犬居さん、授業の板書を一言一句すべてノートに取ってるんだよ』
『あいつ毎学期皆勤賞だもんな』
『時々ノート見せてとは頼まれるけど』
『犬居さんが欠席しているという事実を疑ってみるのさ』
はっと顔を上げる。
「やっとこっち見たか。思割、お前の番だぞ?」
「ないなら、斧寺の勝ちさ」
おそらく、こういうことだろう。
推論が完成した。
「犬居は欠席ではない」
僕の発言に三人が目を見開いた。
「おいおい、それはさっき」佐垣が首を捻る。
言いたいことは分かる。犬居が学校に来ているという可能性は、さきほど僕自身が否定した。
だが、そうではない。
「犬居はまだ来ていないのだ」
よく分からない、といった表情で三人が僕を凝視する。
「犬居は視力が悪いのだ」
「目が悪い? それがどうしたんだい?」
「眼鏡をかけているから、当たり前じゃないか」
斧寺と佐垣が詰め寄る。
こいつら、本当に分かってないのか?
「犬居は極度に視力が悪いのだ。一番前の席から黒板の板書が見えづらいくらいにはな」
「綿鍋の証言か」
佐垣が手を打った。
僕は頷く。
「そうだ。妙だと思ったんだ。最前列の人間がノートを写させてもらうなんて。真面目な犬居が聞き漏らしをするはずがないと考えれば、真相はひとつのみだ」
「だがよ、だから何だってんだ? 欠席の理由にどう繋がる?」
僕は時間割を指した。
「今日のイベントは何だ?」
「イベント? んなもん……まさか、視力検査か?」
「ご名答だ。今日のイレギュラーといえば五時間目の視力検査。犬居は極めて目が悪い」
もう分かっただろう? と僕は三人に目配せした。
「疑念が残るなら、あいつにでも聞いてみるといい。もしかすると面白い解答が返ってくるかもしれない」
火民に目を向ける。
「あいつに?」
「ああ、『犬居さんの眼鏡を借りたことはあるか?』とな。あれば印象に残ってるはずだ」
しばらくすると希島が戻ってきた。
「借りたことあるって。でもよ、かけてもよく見えなかったらしいぜ? 犬居の眼鏡、度が入ってねえんじゃねえか? 思割。おめえの推理は間違いかもしれねえぜ?」
「近視用の眼鏡は、そうじゃない人間がかけるとたとえ視力の悪いやつでも、視界が歪んだり見えにくくなったりするのだ」
僕はゆっくりと息を吸った。
「犬居は学校外で視力検査を受診している。もっと分かりやすく言えば、通院だ」
斧寺が口角を持ち上げ、佐垣は軽く拍手をし始めた。
「お見事だよ、思割君」
「文句の付け所がないさ」
希島はまだ思考が追い付いていないようだった。
「要するに、犬居は眼科に行ってるってことか? じゃあ遅刻になるんじゃ」
「うちの学校も、そこまで分からず屋じゃないよ。止む終えない病欠や通院に関しては皆勤に響くことはない。生徒の健康が第一だからね」
「斧寺の言う通りだ。したがって、僕の推理は成立する」
やっと片付いたな。
想像以上に大仕事だった。
僕は背もたれに体重を乗せる。
「じゃあ勝者は思割か。おめえすげえやつなんだな」
「悔しいけど、約束通り賞金をあげないとね」
「あ」
佐垣がわざとらしく手の平を広げる。
「俺、財布忘れたみたいさ」
「卑怯だぞ佐垣おめ」
「この分はつけでいいよってね」
近視の人間が机に張り付くというのが、いささか引っ掛かるところだが、それはご愛嬌だ。僕の導きが真実か否かはどうでもいいのだ。
三人を納得させらえれば、それで充分。
これで餓死は免れたな。
僕はそっと胸を撫で下ろした。
学食に向かうため外廊下を歩いていると、来賓駐車場に一台の軽自動車が止まっているのが見えた。
「診断書持った?」
下車してきた人間に、僕はいささか驚く。犬居だ。
「遅くなったから先に昼食採りなさい。提出は後でもいいから」
声をかけているのは犬居の母親のようだ。
犬居は「はいはい」と軽くあしらい、車を後にする。
「……」
僕のことに気づいたようだ。話したことがないとはいえ、真面目な彼女のことだ。クラスメイトの顔くらいは覚えているのだろう。
「あ、お金……」
犬居はポケットに手を入れると、小さな悲鳴上げ車の方を振り返った。だが、犬居の母親はすでに裏門へと車を走らせていた。
「……忘れた……」
学食代がないのか。
僕は手元の千円札をちらりと確認し、犬居の名を呼んだ。
飛び跳ねるように犬居が僕を振り返る。
「ひとりで千円は多すぎると思っていたところだ。一緒にどうだ?」
心なしか犬居の仮面が綻ぶ。
誰かさんの言う通りかもしれないな、と思った。
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