院内感染 了

「久々に誰かと話したから喉が渇いたなあ」

 そう言って目の前の男はいつものように私にはにかみました。

 大病を患って市立雨納芦病院に定期的に通っていた私は、順番待ちの患者で溢れかえる妙に蒸し暑い待合室を避けて、いつも病院の外にある東屋で時間を潰していました。

「今でも、あれは全部出来の悪い喜劇なんじゃないかって思ってるんだよね」

 そんな時に出会ったのが彼でした。氷河期のように長く厳しい冬が去り、ようやく訪れたとろけるほどの春の日差しが降り注ぐ陽気な日だったと思います。

 東屋に差し込んだ柔らかくも眩しい太陽の瞬きが、私と地面に一層濃い影を落としていました。

 出会った頃の彼はただ東家の影に溶けるようにぼうっと佇んでいるだけでしたが、通院して半年経つ頃にはその姿も随分はっきりと見えるようになっていました。

「でも木月は死んでしまった。きっと井道明子だって生きちゃいないだろう。残念だけどそれは紛れもない事実なのさ。せめて……せめてあの子だけでも助かっていて欲しいよ」

 それは、三十年前に市立雨納芦病院で起きた火災によって命を落としたはずの私の友人でした。向こうも私に気づいてくれたようで、今ではこうして当時の体験を語って聞かせてくれています。

「お前は正しかったよ。結局のところ、あの病院は最初から呪われていたのさ。きっともう、俺の同期は一人も残っていないんだろうなあ」

 自虐的に笑う彼の顔がほんの少しだけ揺らぎました。そろそろ彼との微睡のような時間も終わりが近づいてきたようです。

 彼はいつも陽炎のようにゆらりと立ち現れては、春の陽気に溶けるように去っていくのです。

「なあ、これが雨納芦市なんだよ。あれを体感してよぉくわかった。ここは灰の降る町。その灰の下には一体全体何が眠っているんだろうなあ」

 その大仰な語り口は確かに出来の悪い喜劇を見せられているようで、先ほど腹水を抜いてもらったばかりだというのに、私にはもうお腹いっぱいです。

「熱いな。ここは熱すぎる。もうカサイサマも待ちきれないみたいだ」

 大体この辺りから、彼の演技にも文字どおり熱が入ってきます。私がいない時はきっと他の誰かにも同じように語って聞かせているのでしょう。 

 彼の紡ぐ物語の結末はいつもきっかり同じなんです。

「ほら、影響を受けてない君たちにだって名前が聞き取れてるだろ? それに、俺みたいなのもこうして出てこれたんだ」

 ここで彼は両手を広げて天を仰ぎます。すると彼の体は瞬く間に炎に包まれて、それなのに随分と気持ちよさそうに彼は。

「ああ……喉が焼けるようだ。感じてくれよ。体の奥の奥、魂まで燃えるようだ」

 彼は引きつる肉と

「でも辛くはないよ。だって、お前たちもすぐにこうなるから」

 それを聞くと私はいつも「知らねえよ」って思います。私はきっともう長くないので、死者が蘇ろうが、大災害で町が無くなろうが、はっきり言ってどうだっていいのです。

 むしろ、私もあの日の彼のように——たとえそれが呪いだろうと——気味の悪い新聞を拾えたら。同じ話しかできなくても、こうして誰かの微睡の中で佇めたら。

 そう願って私は、今もこの病院に通い続けています。

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