姫と偽られたΩの王子は運命の騎士に初恋を捧げる

なつきはる。

姫と偽られたΩの王子は運命の騎士に初恋を捧げる


 その日の夜遅く、運命を背負った小さな命が誕生した。父親は小さな国の国王で母親はその王妃に仕える侍女だった。その娘の顔立ちと豊かな銀の髪は大変美しく、王妃はその気立ての良さも気に入って常に傍に召していた。そこで彼女は王の目に留まり、小さな命を腹に宿すこととなった。

 国王には王妃の他にも側室と六人の姫がいた。七人目となる赤子は人目につかない城の奥深くに建てられた邸の一室で密やかな産声を上げた。王宮医によって取り上げられた赤子は傍に控えていた神官に手渡され、その場ですぐに洗礼を受けた。その様子をぼんやりと見守る母親の髪を美しい手がそっと撫でる。よく頑張ったわね、と囁く声を聞いたあと彼女の閉じた瞳が開くことは二度となかった。

 そうして生まれた赤子は王妃の取り計らいで彼女の子供となった。赤子はジルと名付けられ、七番目の“姫”としてひっそりと城の奥深くの邸に匿われた。母親譲りの美しい顔立ちと銀の髪を持ち、瞳は王族特有のアイスグレーの色をしっかりと引き継いでいた。ひと目で目を奪うような美しい容姿をしていたが、年頃になってもジルが表舞台に姿を現すことはなかった。平民たちは大層大切に育てられているのだろうと噂し、貴族たちは侍女の子供だから冷遇されているのだろうと噂した。大層美しいらしいと噂はされても、誰ひとりとしてその姿を見たことがない。舞踏会の折にそれとなく水を向けてみても、他の姫たちは誰ひとりとして“妹”のことを口に出そうとはしなかった。ただ、七番目の姫に求婚する猛者が現れた際にだけ挙って邪魔をするのだという。

 その噂はある意味では正しく、ある意味では間違っていた。ジルは六人の姉から大変可愛がられ、彼女たちの誰よりも美しく育っていた。そして表舞台に顔を出さないのではなく出せないのだった。なぜならジルは姫と偽られた王子だったからだ。

 この世には男女の他にバースと呼ばれる第二の性がある。容姿や能力が優れているαは王侯貴族などの特権階級に多く、その数は全人類の二割程度に過ぎない。人口の大半を占めるβは普遍的な能力を持ち、その多くが商人や農民として暮らしている。このふたつの性を、特にαを誘惑するフェロモンを発するΩはαよりも数が少なく、男でも妊娠できる特異性も手伝って、最近では保護を推奨する動きが各国に広まりつつあった。

 Ωは約三ヶ月に一度ヒートと呼ばれる発情期が訪れ、番を持たないΩが発するフェロモンにはどんなに優秀なαであれ我を忘れさせるほどの威力がある。αはΩのうなじを噛むことで“番”にすることができるが、突然のヒートの際に誰彼構わず噛まれないよう、番のいないΩは首をチョーカー等で護っていることが多かった。ただこれは自分がΩだと主張していることになるので、ヒートを抑制する薬を飲みβとして偽って生きている者も少なくはない。表向きは保護対象だと謳っていてもΩは発情期があるという特異性から性的搾取の対象にされやすい。貧しい暮らしを強いられている者の中にはΩの子を特権階級に慰み者として売り渡すこともあるというし、政府の目が届かないところでは密かに売買が許されている国もあるらしい。Ωは男女問わず華奢で、男であれば中性的で儚げな印象を与えた。その美しさも水面下の売買を加速させる要因のひとつだ。

 もしαとして生まれていたら、ジルはこの国待望の王子として堂々とお披露目されたはずだ。けれど彼はΩだった。その判定を知らされたとき、王妃はその場で彼のための決断を下した。Ωの王子の行く末を案じた王妃は、彼のバースをβと偽り女の子であったと王に報告することに決めたのだ。そして王は王妃の報告を信じた。幸いジルは成長しても他のΩの男子と比べて小柄で愛らしい顔立ちをしていた。たっぷりとした美しいドレスを身に纏い軽く化粧を施せば、誰の目にも可愛らしいお姫さまで通用する。ジルがΩで男だと知っているのは王妃と六人の姉と信用のおける数人の召使たちだけだった。王妃は念には念を入れて王宮付魔法使いに魔力を込めた指環を作らせた。それを身に付けている間のジルは誰から見ても女の子にしか見えず、その声も鈴が鳴るような可愛らしい声となる。ヒート間近に漏れ出るフェロモンも多少なりとは抑制できるという優れものだ。

 そういうわけでジルは城内の奥に建てられた邸で暮らしていたが、ひっそりと言うと語弊がある。側室の子として生まれた双子の姉たちと歳が近かったお陰で共に立派な教育を受けさせてもらえたし、上の姉たちも暇さえあれば邸に遊びに来てくれた。王妃も夫が不貞を働いた娘の子供だというのにジルのことを自分の息子のように可愛がり、他の子供たちと分け隔てなく扱ってくれた。お陰で母親不在の寂しさに苛まれることもなければ、退屈な思いもしていない。ここから出られない生活もいずれはどこかの国に嫁ぐか、Ωとして下げ渡されるかして終わるのだろう。そう思い続けて十六になったが、ジルが年頃を迎えても誰もそんな話は一切口に出さなかった。

 王族として生まれた子供たちはいずれ国を豊かにするために働く義務がある。男であれば王太子や政治の要である役職に就き、女であれば他国との橋渡しや有力な貴族との絆を強固にするために婚姻を交わす。王族に生まれる者はα揃いで、ジルの姉たちももれなくそうだ。王族との婚姻にはバースが重要視されているが、ごく稀にジルの母親のように王の目に留まるβの娘がいたり、王女の相手が優秀なβの貴族の場合もある。いずれにしても生まれてくる子供はαで、これは王族のα遺伝子がいかに有性であるかを示していると言えた。ジルのようにΩの子が生まれた事実は今のところ王室史には記載されていない。

 六人の姉のうち双子と二番目の姉を除く全員がジルの年頃には既に輿入れ先が決まっていた。双子の姉たちの相手は未だ検討中のようだが、相応しい嫁ぎ先は自ずと決まるだろう。ジルの場合はΩの王子であることを隠し続けているために、行きつく先を定めるのが大変なのだろう。βの王女というだけでも随分苦労すると聞く。

 このままずっと、ジルのためだけに誂えられた豪奢な邸で暮らしていくのかと考えたら正直ゾッとした。外に出たいと思ったことはないけれど、ぼんやりと耳に入って来る授業の内容から城の外にはまだ見ぬ世界が開けていることを知っている。首都を囲むようにして小さな町や村があり、その先には他の国がある。世界はそんなに広いのにジルが自分の目で見たことがあるのは邸の中と家族との晩餐が開かれる広間だけだ。それだけではあまりに狭すぎる。

「ねぇ、町ってどんなところ?」

 ジルが何気なくポロリと零した言葉に、ふたりの姉は大袈裟な反応を寄越した。片方は驚いて立ち上がった拍子にテーブルの上のティーカップをひっくり返し、もう片方は座ったまま言葉を失って目を丸くしている。そんなに驚くことかと面食らっていると、傍に控えていた侍女たちが慌ててテーブルの上を片付け、姉のドレスに引っかかった紅茶に布を押し当てた。公の場よりは幾分とシンプルなデザインではあったがそれでも随分とが張ることはジルも知っている。そしてそれが酷く窮屈で動きづらいということも。

 ジルは普段さっぱりとしたシャツとズボンというシンプルな格好で過ごしていた。月に数回の家族揃っての晩餐会ではドレスを着なければならないが、それ以外はドレスの煩わしさからは逃れていられる。姉たちは好き好んで豪奢なドレスで着飾っているけれど、ジルにはその気持ちはおそらく一生わからない。

 すぐに染み抜きを、と有無を言わせずに片割れが連れて行かれてしまうと、もうひとりは新しく淹れられた紅茶を飲んで幾分か落ち着いたようだった。気を取り直すように咳払いをして、努めて落ち着いた声を出す。

「どうして?今まで興味なさそうにしていたじゃない」

「さっき授業で話していただろ?そろそろ建国祭だから町でお祭りが開かれるって」

「それで、ようやく外の世界が気になったのね?」

 その問いに頷くと、息を呑んだ姉が隣に移動してきてそっとジルの掌を握った。白くて滑らかな彼女の掌は少しひんやりとしていて、少々節くれだっているジルのそれとは違う。Ωがいくら中性的な容姿をしていようと、魔道具で姿形を女の子に似せようと、この頃のジルは少しずつ自分が男であるのだという事実を再認識していた。これ以上身体つきが男らしくなることはないだろうけれど、けして女の子らしくもない。ジルは七番目のお姫さまではないし、そうなろうとしてなれるものでもないのだった。

「少し安心したわ。ジルったら、今の今まで全然外の世界に興味を示さないのだもの。建国祭の話は昨年もしていたのよ。ほとんど同じ話をね」

「そうだったっけ?」

「そうよ。このままなににも興味を示さずに、わたしたちの言いなりでいたらどうしようかと思っていたの」

 そう言った姉の美しい顔が哀し気に歪んだ。そんな顔をさせたかったわけではないのに、とその頬に手を伸ばすと、彼女が擽ったそうに小さく笑う。それからなにかを思いついたように顔を上げると、

「そうだわ!」

 と明るい声を上げた。

「ここを抜け出してお祭りに行きましょう!ちょっと町に出かけたって誰にも気づかれはしないわ。ここにいる者たちはみんなあなたの味方だもの」

 そう言って笑う姉の目が、傍に控えていた侍女たちを念を押すように見た。呆気に取られていたジルは彼女からそうしましょうと念を押されて、じんわりと胸の奥が温かく疼くのを感じる。十六年生きてきて初めて心が息を吹き返したように高揚している。頬を笑みに崩して頷くと、姉が安心させるように彼の手を握り締めてくれた。合わさった肌の間にじんわりとした柔らかな熱が生まれるのが擽ったくてまた笑う。なんだかようやく、生きている心地が湧いてきた気がした。

「あら、わたし抜きで楽しそうね」

 そこへ着替えを終えたもうひとりの姉が戻って来て、ふたりの目の前に座った。すかさず侍女が彼女に新しいお茶を淹れると、それを優雅に口へと運ぶ。それから先ほどの自分の失態を払うように咳払いをした。

「それで、なんの話をしていたの?」

「ジルと建国祭のお祭りに行くことにしたの。こっそり城を抜け出すのよ。あなたも来るでしょう?」

 そう言われた双子の上の姉であるライラは一瞬だけ目を丸くしたあとで、面白そうねと笑う。その表情はもうひとりの姉アデルとそっくりな顔なのに、どこか違って見えるのだから不思議だ。ライラとアデルは側室の娘なので王妃の四人の娘たちと髪色や顔立ちが異なる。それでもしっかりとαの遺伝子を受け継いで、誰もが仰ぎ見るような気高さと美しさを持ち合わせていた。その気高さはジルがどれほど礼儀作法を身につけたところで、全く身につかないもののひとつに数えられる。

 姉たちは無謀なお忍び計画をああでもないこうでもないと話してから、満足したように連れ立って帰った。家庭教師の授業のあとは三人でお茶をすることが毎日の習慣になっており、ジルは賑やかな姉たちのお喋りを眺めているのがすきだった。ジルはあまりお喋りな質ではなく、物静かで周りへの興味が薄い子供だった。そんなジルが外への興味を示したので姉たちは驚いたのだろう。テーブルを片付けていた侍女が楽しみですねと笑ってくれたので、ジルは胸の奥を擽られるような気持ちを初めて味わった。

「今日のジルさまは生きているって感じがします」

「そう?」

「失礼なことを承知で申し上げますが、今までのジルさまはなんだかお人形みたいで。わたしもうれしかったです。ジルさまが町に行きたいっておっしゃってくれて」

「シャノンは町に出たことがあるのか?」

「もちろん!建国祭のお祭には毎年欠かさず行っています。年に一度のお祭ですからそれはもう賑やかですよ。城では連日舞踏会も開催されますし」

「へぇ、そうなんだ」

 何気なく打った相槌だったが、シャノンははっと表情を曇らせて申し訳ありませんと頭を下げた。どうやらジルがその舞踏会に招待されたことがないことに思い当たったらしい。大丈夫だと項垂れるその肩に触れると、彼女がもう一度謝ってから片付ける手を再開した。

 侍女たちが退室してしまうと急な静けさが訪れた。ジルはソファに寝転がるようにしてひじかけに背を預けると、柔らかなクッションを胸に抱く。シャノンはそのあと口を開くことはなかったが、自分の失言を悔いているらしいことは伝わってきた。たったひとり建国祭の晩餐に出られずにいるジルのことを毎年心苦しく思っていたのかもしれない。けれど当の本人は自分がどうやってその間を過ごしていたのかも覚えていないのだった。

 ライラは昨年の同じ時期も家庭教師が建国祭の話をしていたと言っていたが、ジルはおそらくぼんやりと聞き流していたのだろう。楽しそうだなとか羨ましいとか思った記憶もない。舞踏会の居残りをさせられる彼のことを気の毒だと思う侍女たちとは裏腹に、ジルはなにを考えていたのかも思い出せない。これではシャノンにお人形のようだと言われても仕方がないなぁと、ジルはひとり笑った。


         ◇◆◇


 ディリン王国は帝国エルシオンの西側に位置し、海に半島のように突き出た国だ。元々はエルシオンの一部だったが、初代ディリン国王が領土拡大の折に活躍した功績を称えられ独立を許された。エルシオンとの間には緑豊かな山脈が聳え、反対側は海に囲まれている攻め込みにくさが功を奏して、建国以来大きな戦乱に巻き込まれずに豊かに栄え続けている。首都は内陸だが傍に運河が流れており、海沿いの町からの海洋資源が豊富に運ばれてくる。山間部では農業や酪農が盛んで、山側にはエルシオンとの、海側にはその向こうの国々との交易路が拓かれ、貿易商たちが珍しい品々を首都へと運んでくる。

 建国祭は春先に数週間にわたって開かれ、その間首都は他の国からの客人で大いに賑わっていた。町は華やかに彩られ、大通り沿いには普段よりも多くの露店が並び、美味そうな匂いを醸したり異国の珍しいものを見せびらかす。城では連日晩餐会や舞踏会が開かれ、美しい王女たちをひと目見ようと国内外の貴族たちが挙って参加する。隣国から招かれた王族たちも例外ではない。

 城は連日式典の準備で慌ただしいようだったが、ジルの邸はいつも通りで賑やかであろう喧騒も全く漏れ聞こえてこない。これでは例年気にせずに過ごせていたわけだ、と納得がいった。けれど今年はライラとアデルが嬉々として朝からジルを訪ねてきて、侍女たちが調達した変装用の衣装を押しつけられた。ジルは単純に男の格好をしていればバレないと高を括っていたが、町では貴族や王族が護衛も付けずにいるだけで危ない目に遭うらしい。どこからどう見ても町で暮らしているように見えないといけない、と念を押されると、その迫力にジルは頷くしかなかった。

 侍女たちによって念入りな変装を施された姉たちは上手いこと有力商人の娘程度には化けていると言えるだろう。ジルはそのふたりの小間使いといった格好で、男にしては長めの銀髪をうしろで括り帽子で上手いこと隠していた。いつもの服装とそう大きくは変わらないけれど、生地は少々薄汚れていてごわごわとしている。なんだか落ち着かなくてそわそわする彼を姉たちは上から下までじろじろと眺めまわし、ふたりでぶつぶつとなにやら話していたが、とりあえずの及第点をくれる気になったようだ。ふたりは夜の舞踏会に向けての準備があるのでのんびりとしている時間はない。ジルはともかく、ふたりの不在を誤魔化すのには限界がある。

 三人だけでは危険なのでお目付け役としてシャノンも同行することになっていた。彼女の両親は商人をしており町の地理には詳しいらしい。毎年建国祭にも行っていると言っていたし、一緒に来てもらえてこれほど心強い者はいないだろう。乗り気で大口を叩いていた双子の姉も箱入りのお姫さまなので、自分の足で町を歩いたことはないのだった。

 シャノンの案内で使用人用の裏口を潜ると城の裏側へと出た。その路地は出入りの商人たちも使う道なので、引っ切り無しに人が往来している。城は街を見下ろせるように小高い丘の上に立っていたので道は緩やかに下へと続いている。幸い誰にも見咎められることなくシャノンのあとについていくと、不意に大きく開けた通りに出た。ジルが見たこともないほど大勢の人々が行き交い、活気に満ち溢れている。建国祭に浮かれた雰囲気が町中を包み込み、見渡す限りの全員が楽しそうに見えた。初めて見る光景に圧倒されながらも、ジルは胸の奥がそわそわと疼くのを止められなかった。大丈夫だろうかという不安よりも、これからどんな経験ができるのだろうという期待の方が勝る。

 人混みの中へ入るのには随分と勇気を振り絞った。三人とはぐれないようについていくのが精一杯だったが、やがてがやがやとした雰囲気に目と耳が慣れてくると、段々と露店を気にする余裕が出てきた。シャノンがおすすめのお店で買ってくる色々な食べ物を姉たちと共に恐る恐る口にした。甘辛い味付けがされた串焼きや甘い匂いのする焼き菓子などはどれも王城では絶対に口にしないものばかりだったが、悪いことをしているスパイスも加わってとても美味しい。珍しいものを口にしているようなジルたちの様子に露天商たちは笑い、外から来たのかい?と声をかけてきた。姉たちは彼らと楽しそうにお喋りを楽しんでいたが、ジルはなかなかその輪には入れなかった。

 目抜き通りをようやく折り返した頃、姉たちがそろそろ帰らなければいけないと言う。ライラがシャノンにそっと袋に入った硬貨を渡すと、くれぐれもジルのことをよろしくと頼んだ。アデルは少し心配そうな表情でジルの両手を握り締めていたが、その表情を隠すように笑みを浮かべるともう少し楽しんでいらっしゃいねと言ってくれた。

「建国祭の間は城の騎士団が警備に当たっているから危ないことは起きないと信じているけれど、もし困ったことがあったらその辺りにいる騎士に助けを求めなさい。でも、けして身分を明かしては駄目よ」

「はい、気をつけます。お姉さまたちもお気をつけて」

 ジルは素直に頷いたが、それよりもこの場所から彼女たちがふたりだけで城まで戻らなければならないことの方が心配になった。通ってきた路地までは遠くないものの、更に混み始めた人混みの中を抜けて行かねばならない。そんなジルを他所に姉たちは平気な顔でふたりに背を向けて行ってしまった。彼女たちの姿が見えなくなるまで見送っていると、そのあとを一定の距離を置いてつけていく影がいくつもあることに気づく。まさか、と思ってシャノンの方を振り返ると、彼女は特に気にした様子を見せなかった。

「お姉さまたちは大丈夫かな?その、襲われたりとか、」

「おふたりには影がついていますから大丈夫です。きっと我々のことも見守ってくれているはずですよ」

 シャノンがジルに身を寄せて、彼にしか聞こえない声音でそう囁いた。まだ疑わしそうな顔をしているジルに彼女が大丈夫だと念押して笑う。姉たちと別れてしまうと途端に心細さに苛まれた。先ほどまで心の中を占めていた楽しさと高揚とほんの少しの不安が綯い交ぜになった気持ちが急激に萎んでいく。シャノンはああ言ったけれど、ジルには自分たちに見えない警護がついているとはどうしても思えなかった。第一、ジルの顔は騎士たちには知られていない。そんな人物をどうやって護れるというのだろう。

 今すぐ姉たちを追いかけた方がいいのではないかと思ったが、もう彼女たちの背中は人込みに紛れてしまっていた。シャノンがついているとはいえ、見知らぬ場所へ放り出されている状況は変わらない。姉たちはきっと折角ジルを外に連れ出すことに成功したのだから、もう少し祭りを楽しませてくれようとしたのだろう。もしかしたらこの状況に放り出すことで、ジルの中に芽生えた様々な興味や行動力をもう少し伸ばそうと思ってくれたのかもしれない。けれど今のジルはただ途方にくれていた。あらゆることが目まぐるし過ぎて、なにをどうしたらいいのかわからない。

「さぁ、せっかくですから少し裏通りにも行ってみませんか?」

 シャノンはしばらくじっと考え込んでいるジルを見守ってくれていたが、気を取り直したようにわざと明るい声を出した。それから行きましょう!とジルの腕を取ると、そこに自分の腕を絡めて歩き出す。呆気に取られたまま彼女についていくと、細い路地を曲がった先に目抜き通りと同じくらいの広さの通りが通っていた。

 シャノンと腕を組んだまま通りを歩いているうちに段々と不安だった心が落ち着いてきた。目抜き通りには両側に露店がひしめいているのに比べて、裏通りは石造りの建物が軒を連ねている。通り沿いは大きな窓ガラスになっている店が多く、そこから店内を覗いたりお勧めの商品が眺められるようになっていた。シャノンの話では貴族や豪商向けの店が多いのだと言う。そこここにあるちょっとした広場には露店も店を構えていて、表通りに比べると人通りは落ち着いていたが充分に賑やかしかった。

「おや、可愛らしいカップルだねぇ。デートかい?」

 並べられた商品を何気なしに眺めていたら露天商の男にそう話しかけられた。ジルの鼓動が跳ね上がるのを感じたのか、シャノンが慣れた様子でにこやかに対応してくれる。彼女はシンプルなブラウスにくるぶし丈のスカートという服装だったので、遊びに来た町の子供たちのように見えたのだろう。いつ自分にまた声をかけられるのかとそわそわしていたジルは、露天商があっさりと他の客へと興味を移してくれたので胸をそっと撫で下ろした。

「ごめん、ありがとう」

「どうして謝るんです?」

 シャノンはなんでもない風に笑ってくれたが、姉たちならきっと臆することなく対応したに違いない。ジルはいつも姉たちが楽しそうにお喋りするのを聞くだけで自分から言葉を発することが少なかった。姉たちを除けば言葉を交わすのはシャノンと数人の使用人たちだけで、知らない人と話す機会に直面したことなどない。客として対応してくれただけだというのに、ビクビクしている自分にはちょっと言葉を返すことすらできないのだと思い知らされる。そしてそれが歯痒くて悔しい。

 王侯貴族の身分を持っている人間はそもそも気軽に町に出て自ら買い物をすることは少ない。ドレスや装飾品を買いに店に訪れることはあっても、露店を覗いて店主とやり取りするなどということはしない。けれど彼らはそれなりに矜持を持って、誰に対しても堂々と振舞うことができる。それはその身分に生まれついて持っている威厳や気品のようなもので、庶民がいくら見栄を張って手に入れられるものではなかった。自分が貴い身分だという自覚と自信があるから滲み出るものであって、ジルにはその自覚すらない。国王の息子として生まれて城で養育されているだけで、使用人たちよりも偉いとか町の人たちに対して威張ろうなんて気持ちは微塵もないし、ただここで一生懸命楽しそうに生きている国民たちが眩しかった。その一員として生きていられたら、きっと今よりもずっとよかったような気さえする。

 つい小さな溜息を漏らして落とした視線の先に、小さなガラス玉があしらわれたブローチがあった。精巧に作られた細工は一見金でできているように見え、そこに嵌め込まれたガラス玉がきらきらと陽を反射している。この露店では他の商品よりは値が張りそうだったが、普段王族が使う装飾品に比べれば価値は低いだろう。それでも姉たちに似合うだろうな、と気づけば手に取っていた。手にしてみると軽く、金ではないことくらいはわかった。

「ああ、それいいだろう?丁度建国祭に合わせて仕海の先の国から仕入れたんだ。あっちの職人は加工の腕がいいんだよ」

「そう、なんですか」

 目聡い店主に声をかけられて、ジルはなんとかそう返すことができた。心臓が飛び上がって鼓動がうるさかったが、先ほど感じた悔しさがじんわりと溶けていくのを感じる。シャノンはすぐ傍にいたが、今度は見守ってくれるつもりでいるらしい。

「値打ち品だから、お目にかかれてお客さんはラッキーだよ。彼女にプレゼントかい?」

「いえ、姉たちのお土産にしようかと」

「へぇ、いい心がけだ。俺にも姉貴が何人かいるけど、なにか買ってやろうなんて思ったことはねぇなぁ。集まると姦しくてねぇ、喧しくて仕様がない」

「そういうものなのでしょうか」

「なんだ、にいちゃんのとこもそうかい?」

 そう問われて、曖昧な笑みを返した。そうだと肯定するのはなんとなく姉たちに失礼な気がしたし、実際賑やかしいのは双子の姉たちだけだ。王妃の子である四人の姉たちは個人差はあるが、どちらかというと物静かで思慮深い。王妃は喋る方だが父王が物静かな質なので、そちらの性質を色濃く継いだのだろう。ジルが大人しいのも父親似だと言えるかもしれない。

 いくつか並べられたブローチはガラス玉の色が違っていた。シャノンと相談して色を決めると、露天商はひとつずつ小さな紙の袋に入れて細いリボンをかけてくれた。そうしてやるとちょっとしたプレゼントのようで評判がいいのだと豪快に笑う。

 代金はシャノンからこっそり受け取った銀貨で支払った。ふたつのブローチは銀貨一枚で銅貨二枚のお釣りがきた。初めて自分で支払った硬貨を握り締めると、冷たい金属がじんわりとぬくもっていくのを感じる。その様子を見ていた男がにやりと笑って、もしかしてと声を潜めた。

「どっかのお偉いさんの息子さんかい?ここいらの人間にしては慣れてないし、よく見りゃあ随分と綺麗な顔しているし」

「えっと、町に来るのは初めてで、」

「へぇ、そうかい。それなら気をつけた方がいいな。建国祭は人が多いから悪い奴らもうじゃうじゃいる。にいちゃんみたいなのは恰好の獲物になっちまうだろうよ」

「お城の騎士たちが警備に出ているのに、ですか?」

 怪訝そうに物申したシャノンに、男はこの子も世間知らずかと言いたそうな目を向けた。シャノンはなにか言いたそうに口を開きかけたが、男が静かにしろとでも言うように自分の唇に指を当てた。ちらりと他の客の方に目配せしたあとで更に声を落とす。

「そりゃあ表通りやここら辺はお城の騎士さまたちが守ってくれるさ。ただこの町は広いし細い路地だってうじゃうじゃある。目の届かないところに連れ込まれたらどうなる?みんな我が身がかわいいから揉め事には巻き込まれたくないのさ。悪いことは言わないからこの先には行かない方がいいね」

 この先、と男が目配せした方には細い路地が町の奥へと続いていた。薄暗くて先がよく見えない。タイミングを見計らうように他の客が声をかけてきたので、男はもう行った行ったと言いたそうに手を振った。シャノンはジルの腕を引くと、先程の路地とは反対方向へと引っ張っていく。どうやら男の忠告に従ってジルを危ない場所へは行かせないつもりらしい。

「あの路地の向こうにはなんなんだ?」

「向こう側は住宅街です。込み入った路地が多いのでたしかに治安がいいとは言えませんね」

「さっきの人、いい人だったね」

「ええ、きっとわたしたちが頼りなく見えたのでしょう。ライラさまたちへのお土産も買えましたしそろそろ戻りましょうか」

「そうしよう。お姉さまたち喜んでくれるかな?」

「当たり前ですよ。ジルさまからのプレゼントですもの」

 六人の姉たちは折を見て色々なものをプレゼントしてくれたが、ジルはなにかを贈ろうと考えたことはなかった。彼女たちの誕生日くらいは贈り物を用意したけれど、それも侍女たちが慮ってくれたものばかりだ。本当は姉たち全員になにかお土産を買いたかったが、町に出たことがバレてしまうわけにはいかない。ライラとアデルは共犯だし、きっとジルの著しい成長を喜んでくれるだろう。他の姉たちにはこれから様々なイベントの折に贈り物を準備すればいい。

 ジルは自分の心にそんな考えが生まれたことに驚くと同時に嬉しくなった。今までの自分はどうしてなにも考えずに流されるままに生きてこられたのだろう。あの邸から出ることは叶わないと思っていたが、案外簡単に姉たちが町へと連れ出してくれた。きっとジルが望めば今までだってできたに違いない。自分から諦めてきた日々とは今日でお別れだ。

 表通りまで戻ってくると昼を間近にして更に活気が増していた。帰り道の路地へは人込みを抜けていかなければならず、そこを抜ける間にシャノンの腕が離れてしまった。ジルは見失わないように懸命について行っているつもりだったが、はたと気づいたときにはその姿はどこにも見えなくなっていた。シャノンのような服装をした同じ背格好の女の子たちが多くいて、うしろからではそれが彼女なのかわからない。シャノンの方もきっと慌てて探してくれていると思うが、この人混みの中で巡り合うのは至難だろう。

 とりあえず路地の入口で待とうとそちらに向かったが、その路地が果たして正しい道なのかと言われると自信がなかった。目抜き通りには数え切れないくらい路地があり、建物の外観も似通っている場所が多い。試しに入ってみようものなら曲がりくねった先で迷う危険もある。困ったら警備の騎士に助けを求めるようにと言われたことを思い出して、ジルは顔を上げた。とりあえず最初に目についた騎士に助けを求めようと見渡していると、不意にうしろから肩を叩かれる。びくりと肩を揺らして振り向くとシャノンだろうかという期待はあっさりと崩れ、そこに立っていたのはふたりの男だった。こざっぱりとした身形をしていたがその顔には軽薄そうな笑みを貼りつけている。ジルの脳裏に露天商の警告がちらついた。けれどここは目抜き通りだし、ひと目も沢山あるのだからと自分を落ち着かせる。

「そんなに驚かないでよ。連れの女の子とはぐれちゃったんじゃないかなぁと思って声をかけたんだ」

「彼女を知っているんですかっ?」

「ふたりで身を寄せ合って歩いているところを見かけたんだよ。女の子なら向こうの路地にいたよ。案内してあげる」

 知らない人について行かない方がいいと思ったがその内容が嘘だとも言い切れない。ここで途方に暮れていても仕方なかったし、もしかしたらこういう場所に慣れていないせいで誰彼構わず怪しく見えるだけかもしれない。路地の奥に連れ込まれそうになったら逃げればいいのだから、と自分に言い聞かせて、ジルは渋々と頷いた。

 男たちはジルの両脇に陣取ると、あっちだよとどこを目指すともなく歩きだした。話しかけてきた男の手が不意に腰に回ってきて逃れるように身を捩る。それでも離れようとしない手が気持ち悪くて、このままどこかへ連れていかれたらと怖くなった。声を上げようかと思ってもこの喧騒では紛れてしまうだろう。せめて警備の騎士たちが見つかればと願ったが、この人混みではどこにいるのかすらわからない。

「どこから来たの?この町の子じゃあないよねえ」

「言いたくありません」

「無理強いをしてやるなよ、怖がっているじゃん。でも、男の子なのに綺麗な顔しているよねぇ」

 男たちが軽口を叩き合って下卑た笑い声をあげた。どうにかこの手を振り払って逃げたいのに、全力で逃げたところですぐに追いつかれてしまうことは目に見えている。男たちが暗に言おうとしていることがわかってしまうからこそ怖かった。彼らはおそらくβだろうけれど、だからといってΩを襲わない理由にはならない。

「見かけたときから思っていたんだよね。ちょっと他の子とは違うなぁってさ。ねぇ、俺たちとちょっと遊んでよ。どうせ男なら誰だっていいんでしょう?」

「や、やめてくださいっ!」

 腰に触れていた手が尻を撫でてきて、思わずジルは声を上げた。そのまま男から離れようとしたが、もうひとりに易々と阻まれてしまう。町で暮らしているΩたちは心無い輩たちからこんな屈辱を浴びせられているのだろうか。ジルだって望んでΩに生まれたわけではないし、相手が誰でもいいわけではない。ヒートさえなければどんなに楽だろうかと、それが来るたび思うのだ。Ωに生まれてよかったと思えるのは、運命の相手に巡り逢えたほんの一握りくらいだろう。

 ジルの声に振り向いた人はいたものの、誰もが気まずそうに目をそらして通り過ぎてしまった。わざわざハレの日に揉め事に巻き込まれようとする者などいないのか、それとも日常茶飯事なのか。ジルはぐっと腰を抱き寄せられて、すぐ傍の路地へと連れ込まれそうになった。藻掻いて逃れようとしても、非力な彼になにができよう。無我夢中に叫んで暴れても、男たちは面白がって笑うだけだった。もしかしたらこういうことには慣れているのかもしれない。そう考えると恐怖で全身の血が引いていく。

「おいっ!お前たちなにしている」

 降って湧いた凛とした声が、救いのようにジルの耳に響いた。すべての喧騒が遠のいて静寂の中に取り残されたようだった。はっとして顔を上げると、騎士の制服を着た背の高い男が厳しい顔をして立っていた。ジルを拐わそうとしていた男たちの肩を掴んで引き離すと、ジルを背後に庇ってくれる。止まっていた鼓動が息を吹き返したように跳ね上がった。男たちはなにもしていないとしどろもどろ弁明していたが、ジルはもう先ほどまでの恐怖など忘れてしまっていた。助けてくれた男から目が離せない。

 烏の濡れ羽色の髪が陽を受けて艶やかに光っていた。不機嫌そうな声の響きなのに耳から流れ込んで身体中に澄み渡っていくのがわかる。精悍で整った顔立ちに笑いかけられたら、きっとたまらない気持ちになるだろう。

 男たちが足早に逃げてしまうと、彼が深い溜息を吐いてからジルに向き直った。頭一つ以上高い彼が少し屈んで、大丈夫だったかと問うてくれる。見惚れてしまいそうなその顔が柔らかに笑んで、その声にも優しさが滲んでいた。そうすると先ほどの少し怖い印象とは打って変わる。ジルは肯定するように頷いた。頷くことしかできなかった。

 危ないから送りましょうと言ってくれた彼の隣を歩きながら、ジルはこの気持ちの正体を目の当たりにした。Ωには運命と呼ばれるαがいる。番関係は運命でなくとも結ぶことができるが、運命の相手に出逢うとどうしようもなく惹かれてしまうらしい。この広い世界でそんな相手に出逢えたら奇跡だろうと言われる確率に、ジルはたった今直面した。少なくともジルにはそう感じられた。そうでなければこんな甘やかで高揚した気持ちは説明がつかない。



 数日後再び城を抜け出そうとしたところをジルは姉たちによってあっさり捕まってしまった。彼女たちは建国祭の間他の国の王族たちの相手を仰せつかっていて忙しいはずなのに、その僅かな隙間を縫ってジルに逢いに来てくれたらしい。そのうしろには血相を変えたシャノンがいて、彼女が姉たちに助けを求めたのだろうとわかった。あの日は彼のお陰で無事にシャノンと合流できたものの、彼女は随分と肝を冷やしたようだ。はぐれたことやジルが危ない目に遭ったことは姉たちには内緒にしておこうと約束したが、彼女があんな態度ではバレるのも時間の問題だろう。

 姉たちはジルがプレゼントしたブローチをお揃いで胸に付けてくれていた。安物ではあったが案外ドレスにしっくりと似合っている。なによりもいとおしい弟からの贈り物だということが、とんでもなく価値を高めているのだと言ってくれた。そういうところがジルはとてもすきだ。

 連行されて部屋へと戻ると、シャノンが温かいお茶を淹れて待っていた。姉たちと向かい合って座ると隠し事をしているからか、尋問されているような心地になる。ふたりはあくまでも優しく随分楽しかったのねぇと笑うに留めてくれが、その目の奥は笑っていなかった。

「なにか気に入りの店でもあったのかしら?それとも逢いたい人がいるの?」

 ライラが他意なくそう言ったのか、それとも鎌をかけているのかはわからない。ジルはそう言った駆け引きが苦手だし、なにを言ったところで結局は姉たちに真意を引き摺り出されてしまうだろう。

「ジル、あなたが話したくないなら話さなくてもいいわ。でも、ひとりで町に行くのは危険よ。少なくともシャノンは連れていかないとね」

 アデルが黙りこくっているジルをそう気遣ったが、傍に控えていたシャノンがびくりと身体を震わせた。姉たちは気づかないふりをしているのか、彼女の様子には触れない。シャノンはきっとジルのお忍びには二度と付き合ってはくれないだろう。一緒にいて危険な目に遭わせてしまったことがバレたらここでは働いていられない。ジルは彼女をそんな目には遭わせたくなかった。

「ライラお姉さまの言う通り、逢いたい人ができて」

 意を決してそう言うと、ガシャンとカップが割れる音がした。どうやらどちらかの姉の手から滑り落ちたらしい。町の様子を聞いたときも同じだったなぁ、とジルは口元を笑みに弛めた。慌てた侍女たちが片付けをするところまでは同じだったが、今度はふたりとも濡れたドレスを着替えに行こうとはしなかった。見開いていた目を合わせると、その眦を柔らかな笑みに崩す。

「そう、遂に出逢ったのね」

「その方はきっとジルの運命の相手に違いないわ」

「一体誰なの、ジル。町で出逢ったのだから平民の誰かかしら。でもαがあの中にいるものかしら」

 ふたりして捲し立てられて、ジルは言葉を挟む隙を見失った。誰なの、と問われても説明する言葉を持っていない。結局彼とは上手く話すことができなかったばかりか、礼のひとつも言えなかった。もちろん名前も聞いていない。わかるのは城の騎士をしているということだけだ。

 だから今日、ジルは彼を探しに行こうとしていた。毎日のように彼のことを想い募っては、どうやったらもう一度逢えるのだろうと考えた。運命の相手ならお互いに惹かれ合うと聞いていたけれど、彼の様子を思い返す限りそんな風には見えなかった。冷静に考えれば助けてもらって舞い上がった心が勘違いを起こしているということも充分に有り得る。ただ、ジルが彼に恋をしているのはたしかだ。

「名前はわからないんだ。どこの誰かもわからないっていうか」

「え?そんな人とどうやって出逢ったの?」

「ええっと、町で少し道に迷ったんだ。ほら、アデルお姉さまが困ったら城の騎士を頼れって言ってくれただろ?だから助けてもらったんだけど、」

 真実ではなかったが嘘は吐いていない。彼に助けてもらったのも道に迷ったのも本当だ。姉たちはとりあえず納得したように話を続ける。

「それがジルの運命の相手というわけね。どんな容姿だった?城の騎士なら見覚えがあるかもしれないわ」

「背が高くて黒髪で綺麗な顔をしていた。声がよく通って、笑う顔が優しくて、」

 彼のことを思い出すうちに、ジルは姉たちの視線に耐えられなくなってきた。熱くなった顔を掌で覆うと熱い溜息を零す。こんな風に誰かを想う日が来るなんて夢にも思っていなかった。恋する気持ちを知る前に都合のよい相手の元へ嫁がされるのが関の山だと思っていたからだ。

「それだけじゃあ誰かわからないわねぇ。町の警備に出ているのは位が下の子たちかしら?」

「さぁ、どうだったかしら。護衛騎士たち以外は総出だと思うけれど」

「それならエヴィお姉さまに聞いてみましょうよ。お姉さまならきっとどなたかご存じだわ」

 姉たちの中でそう意見がまとまると、早速エヴィに逢いに行くことになった。エヴィは二番目の姉で騎士団長として騎士達を纏めている。どんな男にも負けない剣の腕前を持っている上に聡明で美しいので、王侯貴族の子息たちからの求婚が絶えない。騎士たちからも憧れの目を向けられているが、当の本人はどこ吹く風である。

 邸の外に出て城の中を歩くのであれば正装しなければならない。姉たちもお茶を零したドレスのままというわけにはいかないので、それぞれ身支度を整えてから向かうこととなった。ジルはシャノンたちにドレスを着るのを手伝ってもらいながら、姿見に写る自分の姿を見る。裾がふんわりと広がる淡い色のドレスは我ながら中々似合っているように見えた。コルセットが苦しいし歩きづらいので頻繁に着たいとは思えないが、邸の外に出られるのなら我慢する価値がある。魔道具の指環を填めればもう、そこにいるのは儚く美しい七番目のお姫さまだ。華奢で可憐な少女の姿を目の当たりにするたび、本当にこうであったらどれほどよかっただろうと考える自分が嫌になる。

 ジルの邸は広大な敷地の端の方にあり、城との間にはちょっとした森や庭園が広がっている。ちょっとした散歩、というには少々距離があるが、ライラとアデルは全くそれを意に介している様子はなかった。王宮付魔法使いが開発したゲートと呼ばれる空間魔法がそこここに設置されており、そこを潜ると城内までは一瞬で着くからだ。円柱と円柱の間にかかったアーチを姉たちに続いて潜ると、そこはもう城の中だった。驚くジルを姉たちがいつも使っているだろうと笑う。月に数回ほどの家族との食事の際に使っているはずだが、ぼんやりと過ごしていたせいで覚えてはいなかったらしい。

「ジルったら、本当にぼんやりしていたのねぇ。大人しい子だと思っていたけれど、ようやく自我が芽生えたみたい」

 そう言うアデルの声音には安堵と心配が入り混じっていた。ジルはじわりと頬が熱くなるのを感じて、彼女たちに見られないように俯く。ようやく自我が芽生えたとは言い得て妙だが、つい納得してしまった。もうすぐ十七になろうというのに、これまでの自分はなにをしてきたのだろう。姉たちと共に学んできた知識は頭に詰まってはいても、生きていく術は持ち合わせていない。今までは邸の中で大人しくしていれば誰かがどうにかしてくれる人生だった。けれどこれからは少しずつでも自発的に生きていかなければと思う。

 各国から来賓を迎えている城内は慌ただしかった。ジルはその中を悠々と歩いてく姉たちのあとを追いかけながら、正体がバレやしないかと内心ビクビクしていたが皆忙しくてそれどころではないのか、見慣れない少女がひとり混じっていることに気づいた素振りもない。ジルの行動範囲は酷く限定されているので、城で働く者で内情を知っている人間はここにはいないのだろう。

 城内を歩き慣れていないジルは自分がどこにいるのかさえよくわからなかったが、姉たちについていくうちに城壁に囲まれた演習場に出た。普段は兵士や騎士たちの鍛錬が行われている場所だが、建国祭の間は城や町の警備に出ているために閑散としている。そこを通り過ぎて別の棟に入ると、階段を上がったところに騎士団長の執務室があった。

 重厚な扉をライラがノックすると中から誰何する声がする。彼女が名を名乗るとこちらへと近づく足音が聞こえて、扉の隙間からエヴィが顔を覗かせた。

「ジルも一緒に来たのか!邸の外に出るなんて珍しいな」

 エヴィは快活に笑って三人を室内へと招き入れてくれた。ベルを使って執事を呼ぶとお茶と菓子を持ってくるように頼む。室内は広く、石造りの床や壁は絨毯やタペストリーに覆われ大きく取られた窓にはたっぷりとしたドレープがかかっている。窓の前にはどっしりとしたオーク材の執務机が置かれ、壁際には同じ材のキャビネットが並んでいた。部屋の中央には応接セットが設えられ、ジルはそのふかふかとしたソファに腰を埋めている。自分の邸以外の場所でソファに座るのは初めてだ。

 執事がお茶とお菓子を準備し終わると、エヴィがライラとアデルに水を向けた。エヴィは姉妹の中でいちばん背が高く、日々の鍛錬のお陰でしなやかな筋肉がついている。母親譲りのくすんだ金色の長い髪を高い位置でひとつに結わえ、動きやすいよういつもズボンを履いていた。男のような話し方をすることを王妃に咎められていたが、ジルはそんな姉の気さくさを好ましく思っている。ライラとアデルに比べたら逢う頻度は少ないけれど、彼女からは充分にあいされているのだとわかっていた。

「ジルに気になる人ができたの。城の騎士だと言うのだけれど、名前も階級もわからないんですって。それでエヴィお姉さまならわかるんじゃないかと思って」

「ジルがうちの騎士と?どこで出逢ったんだ?」

「ええっと、それは、」

 エヴィが怪訝そうに目を細めると、ライラとアデルが顔を見合わせて言い淀んだ。まさか自分たちと一緒に町にお忍びに出かけたなどとは口が裂けても言えない。かといってほとんど邸から外に出ないジルが城の騎士たちと関わりを持つ場面などないに等しい。ジルは取り繕う言葉を探したが、正直に言うほかないように思えた。意を決して口を開こうとすると、エヴィが察したように溜息を吐く。

「まぁいい。わたしもお前たちの年頃には無茶をしたものだしな。不問にしよう。それで、どんな男なんだ?ジルのお眼鏡に適ったのは」

 面白がるようににやりと笑われると、ジルは俄かに頬が熱くなるのを感じた。ライラたちに説明したのと同じことを繰り返しているうちにまた恥ずかしくなってきて、声がどんどんと小さくなる。そんな様子の弟をエヴィは微笑ましく見守りながら、幾人かの候補を易々と上げてくれた。

「長身で黒髪というと何人か候補がいる。この国で黒髪というと珍しいからそれほど絞り込むのは難しくないと思うが、実際にジルに確かめてもらうのが早いだろう。全員呼び出して並べてもいいが、ジルの存在を大々的に知らしめるわけにはいかないし、どうしたものか」

「それならお姉さま、舞踏会で探すのはどうかしら。そこなら警備に騎士たちがいてもおかしくないでしょう?」

「お姉さまが警備にその候補の人たちを配置して下されば、ジルはこっそり確認できるわ」

 ライラとアデルは急に水を得た魚のように生き生きとそう提案した。エヴィは考え込むように腕を組んで顎に指を当てていたが、どうやら悪くはない考えであると思ったらしい。急ににやりと表情を崩すと、悪だくみをするように身を乗り出した。

「お父さまたちが舞踏会に顔を出すのは中盤を過ぎてからだ。それまでに騎士の顔を確認する時間は充分ある。人が多いし他国からの来賓もいるから、ひとりくらい知らない顔がいても不自然ではないだろう」

 それで、そういうことになった。

 ジルが一言も口を挟めないままエヴィの執務室を追い出され、ライラとアデルと共に舞踏会へ向けての準備をすることとなった。通常舞踏会に出るとなったら、数か月前からドレスや装飾品を選び、どれがいちばん似合うのかを選定するのがお決まりだ。ジルは舞踏会に出る予定などなかったので舞踏会用の華やかなドレスは持ってはいない。家族との晩餐用のドレスはジルには充分に華やいで見えたが、姉たちに言わせればまったくもって駄目らしい。ちょっと人込みに紛れて人探しをするだけなのにと思ったが、このふたりがジルをすきに着飾れる機会をまんまと逃すはずがないのだった。

 そんなわけで、ジルは姉たちふたりによって盛大に着飾られて舞踏会の会場へと送り出された。幸いジルは小柄なので姉たちのドレスを少し直すだけで対応することができた。夕刻から始まった舞踏会は大広間で開かれ、各国から招待された王侯貴族たちが華やかに談笑している。ダンスまではまだ少し時間があるためか、令嬢たちもパートナーから離れて各々お喋りに花を咲かせていたので、ジルがひとりで人混みの中を彷徨っていてもそう目立たずに済んだ。本当は螺旋階段を上ったところから見下ろして探したかったが、そこには王族しか上ることを許されていない。ジルにはその資格があったが怪しまれるのだけは避けなければならない。

 エヴィは約束通り、ホールの壁際と扉の両脇に警備の騎士を配置してくれていた。ジルは広大なホールの人混みを掻き分けながら彼を探したが、そう簡単には見つからない。それに見慣れぬ令嬢に好奇心をそそられて声をかけてくる人が思いの外多くて、どうにか交わすのだけで時間を取られてしまう。こんなことなら姉たちが言う“地味なドレス”で来た方が余程楽だったに違いない。

「そこのお前」

 令嬢たちの好奇心からそそくさと逃げようとしたところで行く手を塞がれた。傲慢な物言いだったが周りの令嬢たちが慌てて頭を下げるのを見てジルもそれに倣った。α揃いの中でも圧倒的な存在感と自信が溢れて出ているように感じる。ちらりと目を上げると、金色の髪に碧眼をした中々の偉丈夫だ。

「俺と一曲踊る栄光をお前に与えてやろう。どうだ?」

 踏ん反り返らんばかりの物言いに、ジルは正直今すぐここから逃げ出したくなった。これだけ粒揃いの令嬢たちがいると言うのにどうして自分に声をかけてきたのだろう。どこの誰だか知らないが、関わり合いになりたくはなかった。他の誰とも関わりたくないのにこの男とダンスを踊るなんて絶対に嫌だ。ジルのことをΩだとは知らないだろうが、すべての人間は自分の足元に跪くべきだとでも思っていそうな態度が受けつけない。

「申し訳ございません。わたしは、」

「おい、俺の誘いを断るっていうのか?この俺が誘っているのに?」

 怒鳴るような声音に周囲が委縮した。ジルは怖くて顔を伏せたまま、どうしたら切り抜けられるのかを考える。ひそひそとした噂話から、この男がどこかの国の皇族らしいということはわかった。招待されている舞踏会でここまで不遜な態度を取れるなんて、同じ王族として恥ずかしくなる。

「とにかく一曲踊ればいいんだ。それくらいできるだろう」

 鼻で笑うような声音と共に男の手がジルの腕を掴んだ。絶対に逃がすまいと言いたげに強い力が指に籠って、思わず痛いと声が出る。このまま踊ってやった方が穏便に済むだろうかと諦めかけたところで、男の手首を誰かが掴んだ。そのまま捻り上げられでもしたのか、男が哀れな声を上げる。

「おいっ、俺が誰だかわかって、」

「どなただとしても、ご令嬢に無礼を働くことは許されません」

 その凛とした声にはっとした。顔を上げるとまさに探していた彼が涼し気な顔で男の手を捻り上げている。胸がいっぱいになって泣きそうになった。二度も助けてもらえるなんて、これを運命と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。

 男は怒鳴り声を上げていたが、駆けつけてきた他の騎士たちによって宥めすかされてどこかへ連れ去られていった。彼は安堵するように息を吐くと、胸に手を当てて頭を下げた。

「大変怖い思いをされたでしょう。大丈夫でしたか?」

「あ、ありがとうございました」

「少し休まれた方がよさそうだ。休憩室へご案内致します」

 彼の態度は丁寧だったが、あの日のように笑ってはくれなかった。どこか硬く余所余所しくて、案内されている間中話しかけることすらできなかった。きっと立派な騎士ならば貴族令嬢に気安く話しかけたり笑いかけたりはしないものなのだろう。そう言い聞かせていないと心が折れそうだ。

 休憩室は大広間を出てすぐの小部屋で、文字通り舞踏会で疲れた者なら誰でも使うことができる。壁際に長椅子が置かれているきりで風に当たるためにバルコニーに出られるようになっていた。長椅子に座ってしまえばあとは引き留める口実もなく、彼はあっさりとジルに背を向けてしまう。せめて名前だけでもと思うのに声が喉につかえて出ない。思わず彼の上着の裾を掴むと驚いたように彼が振り向いた。

「どうか致しましたか?」

「あ、ごめんなさい。つい手が伸びて、」

「それは構いませんが、なにか御用でしょうか?」

 立っているのが忍びなかったのか、彼がジルの前に膝をついた。背の高い彼に覗き込まれる形になると目線が近くて目を伏せる。今の自分はおそらく、彼の目には可愛らしい女の子に映っていることだろう。姉たちの渾身が功を奏して、少しでも好意的に映ってくれていたらいいのにと思う。だが、それは本来のジルの姿ではない。

「ずっとお礼を言いたくて」

「ずっと?」

「実はその、助けてもらったのは二度目なのです。あなたは覚えていらっしゃらないと思いますが」

 口から飛び出しそうな心臓をどうにか落ち着けてそう口にすると、彼が怪訝そうな表情を浮かべた。どこでと問われて、町でと答える。それで益々混乱したようで、彼の眉間に皺が寄った。

「申し訳ありませんが覚えがなく、」

「いいんです。今日も助けてもらえてうれしかったから。本当にありがとうございました。あの、せめて」

 お名前だけでも、というジルの言葉はノックの音に遮られた。失礼しますと断って入ってきた男が彼の姿を認めて安堵の表情を浮かべる。それからジルに気づいたように居住まいを正した。

「失礼致しました。どなたもいらっしゃらないと思ったもので」

「いえ、大丈夫です。あの、彼を引き留めてしまって」

「問題ありませんよ。リオ、戻るぞ」

 リオと呼ばれた彼が頷いて、ジルに頭を下げてから立ち上がった。その背が部屋から出てしまうまで見送ると、壁に背を預けて深い息を吐く。小さな声で彼の名前を呼んでみた。なんて素敵な、彼にぴったりの名前だろう。すぐにでもエヴィに知らせて彼が何者なのかを知りたい。



「ああ、それはイングリッド子爵の息子だな」

 翌日ジルの元を訪ねてきたエヴィは、あっさりと彼の正体を明かしてくれた。それはどういう男なのかとライラとアデルが問い質す中、エヴィは怪訝そうな表情を浮かべる。どうやらなにか引っかかるものがあるらしい。

「イングリッド子爵家は武芸に秀でた家柄だが、あの男はそう目立つタイプではないな。たしかに見目は麗しいが、寡黙で笑ったところは見たことがない。本当にイングリッドで間違いがないのか?」

「間違いないと思います」

 自信満々に言い切るジルを他所に、エヴィの表情は浮かばれない。一体なにが問題なのだろう、と思っていたら彼女が至極言いづらそうに口を開いた。

「わたしが覚えているところでは、あの男はβだったと思う」

「ではジルの運命ではないということ?」

 言葉を失ったジルの代わりにアデルがそう問うてくれた。エヴィはわからないと言葉を濁したが、本当にリオがβであるのならジルの感情とは裏腹に、彼がジルに対して態度を崩さなかった理由になる。その事実を突きつけられてもジルの心は彼に強く惹かれていた。たとえ運命でなくとも初めての恋は大切にしたい。

「それでもいい。僕は彼のことを知りたい」

「とりあえずジルの護衛につけよう。それでゆっくり見極めてみるといい」


◇◆◇


「誰か探しているのか?」

「いえ、別にそういうわけでは」

「集中しろよ。昨日みたいに問題が起こるかもしれないからな」

 ペアになっている先輩からそう注意を受けてリオは気を引き締めた。けれどどうしても気になって、目が彼女を探しているのがわかる。大広間では今日も舞踏会が開かれ、優雅な音楽に合わせて王侯貴族たちが華やかなダンスに興じている。有力なαが揃っている中で問題など起きるはずがないと気楽に構えていた騎士たちは、昨日の一見で気を引き締めざるを得なくなった。寄りにも寄ってエルシオンの皇太子が問題を起こし、国王によって謹慎を言い渡されたからだ。

 エルシオンの皇太子の怒鳴り声聞いたとき、なぜかすぐに行かなければと強く思った。駆けつけた先にいたのは可愛らしい容姿の令嬢で、その姿を視界に収めるたびに心の奥を強く惹きつけられた。男なら誰でも目を奪われてしまう可憐さを持ち合わせているのだからそう想うのも仕方ない。そう自分に言い聞かせて顔色が悪い彼女を休憩室へと案内した。踵を返したリオの服を彼女の手が掴んだ刹那、まるで心臓を鷲掴みにされたような気分になった。思わず振り向くと、戸惑ったような彼女が頬を赤く染めて目を伏せる。

 なんてかわいいのだろうと思った。一瞬息が詰まって鼓動が跳ね上がる。俄かに甘く好ましい匂いが漂っているような気さえした。そしてそれはこの間町の警備の際に助けた少年と同じ香りであることに気づいた。

 リオ・イングリッドはディリン王国と帝国エルシオンの辺境に領地を持つ子爵家の嫡男として育てられ、十四の歳に王立騎士団へ入団した。イングリッド家は武芸に秀で、これまでも優秀な騎士を数多く輩出している名門だ。リオも武芸の才には秀でていたが、父から目立つ行動は控えるようにと念を押されていたので、騎士団の中では中程度の実力に甘んじていた。階級は下から数えた方が早く、どちらかというと落ち零れだと思われている。

 それでいいのだと自分に言い聞かせながら、ただ淡々とした日々を過ごしていた。リオは幼少期の記憶がなく、幼い頃にイングリッド家に養子として迎え入れられたらしい。どれほど大切に育てられ愛情を注がれても、今の自分の人生はなんだか誰かからの貸り物のように感じていた。騎士団の中での友人付き合いも最低限で、仕事のあとに飲みに行くこともしない。付き合いが悪いと陰口を叩かれていたとしてもそれでよかった。

 そんなリオの乾いた人生に一滴の水を垂らしたのが、町で助けた少年だった。市井の人たちと同じような服装をしていたが、どこか不自然で零れ出る高貴さが隠し通せていない。小柄で中性的な容姿は整っており、悪い輩に連れ込まれそうになるのも頷けた。そのときも心の奥が強く惹きつけられる感覚があった。リオはβだと両親から聞かされており、これまでΩに出逢ってもそのフェロモンに惑わされたことはない。だからきっと気のせいだろうと無視をした。彼がΩである証拠はなかったし、そうだとしてもαでもないリオではその感覚に説明がつかない。

 注意深く目を凝らしても、彼女の姿は見当たらなかった。壁際からでは広間全体を見渡せるわけではないので、リオの死角のどこかにいるという可能性もある。ただなんとなく今日は参加していないのだなと思った。なんの根拠もないけれど、もしここに彼女がいたら見つけ出せる自信があった。

 今日はこのまま問題なく夜が更けていきそうだと安堵したところで、騎士団長から呼び出しを受けた。エヴィは本日、王家の一員としての役目に専念しているはずだ。特に呼び出されるようなことをした覚えはなかったが、応じないという選択肢はない。王女付の侍女についていくと王家の控室に通された。皆舞踏会に出払っているのか中には誰もいない。少し待つようにと頭を下げて、侍女も出てしまった。

 控室とはいえ広々とした室内は豪奢な内装と家具で設えられていた。座り心地のよさそうな椅子が置かれていたが、腰かけて待つわけにもいかない。手持無沙汰でうろうろしているうちに扉が開く音がした。頭を下げて待つと、足音がふたり分入ってくる。

「第二王女殿下にご挨拶申し上げます」

「ああ、頭を上げてくれ。遅い時間まで御苦労。呼び出して悪かったな」

 頭を上げるとドレスで正装したエヴィのうしろに見覚えのある少女が立っていた。リオと目が合うと恥ずかしそうに目を伏せる仕種が儚くて愛らしい。エヴィがわざとらしい咳払いをして初めて、リオは彼女に見惚れていたことに気づいた。

「この子はわたしの弟で七番目の王女だ。リオ・イングリッド、お前にはこの子の護衛をお願いしたい。引き受けてくれるか?」

 その願ってもいない申し出をリオは二つ返事で引き受けた。安堵したように彼女が笑うのがうれしくて、思わずリオの頬も弛む。しかしエヴィの奇妙な言い回しが引っかかった。今、彼女はたしかに弟と言わなかったか。

「殿下、今弟とおっしゃいましたか?」

「ああ、この子はわたしの弟だ。事情があって王女として城の奥で暮らしている。お前も知っているだろう。七番目の王女が冷遇されているという噂を」

「それはもちろん、存じ上げておりますが、」

「あれはこの子を護るための方言だ。この子はβで、それだけでも珍しいのに、王子ともなれば生きにくさは想像に難くない。そこで王妃殿下がこの子を城の奥で王女として育てることに決めた。だが、我々の弟は誰よりも美しいと思わないか?うん?」

 弟の肩をいとおしそうに抱き寄せたエヴィに同意を求められて、リオは素直に頷いた。六人の王女たちはαらしい気品と美しさと自信に満ち溢れているが、七番目の彼は儚げで、つい目を惹かれてしまう可憐さがある。今日からこの人の護衛騎士としてその身を護るのだと思ったら心が俄かに高揚した。こんな気持ちはけして明かしてはいけないけれど、王女の護衛騎士をしている者たちは少なからず憧れに似た気持ちを抱いているはずだ。敬愛と絶対的な忠誠。リオはそれにほんの少し、恋心が混ざっているというだけだ。

 七番目の王女のことは騎士や使用人たちの公然の秘密だった。実際にその姿を見た者はリオの周りにはおらず、随分と厳重に隠されているような印象を持っていた。国王が侍女にうつつを抜かしてできた子供だから人目に晒したくないだとか、冷遇されて閉じ込められているのだとか、そう言ったことがまことしやかに囁かれていた。けれどそれが偽りであることはエヴィの弟に対する態度でわかる。そしてそれを知っている者の中に、リオが招き入れられたのだということも。

 リオは彼の前に膝をつくとその手の甲に恭しく唇を落とした。華奢な掌はリオよりも小さかったが、触れてみると僅かに骨張っていることがわかる。

「リオ・イングリッドは本日より殿下の騎士として忠誠を誓います」

「よろしくお願い致します、リオさま」

 そう言って柔らかに微笑んだ顔にリオは心を鷲掴みにされた。どんなときにも頑なに動かなかった表情筋が彼の前ではいとも簡単に弛んでしまう。お前も笑えるのだなと呆れたように笑ったエヴィに肩を強めに叩かれた。急に気恥ずかしくなってきて、わざとらしく咳払いをする。

「そこの窓にゲートを開いてもらった。ジル、イングリッドに送ってもらいなさい」

「はい。お姉さま、ありがとうございました」

 ジルが微笑んで頭を下げると、エヴィの表情がとろけるように崩れた。いつも凛としている彼女がそんな顔をするなんて信じられなくて、リオは面食らってしまう。見てはいけない気がしてエヴィが出ていくまで顔を上げられなかった。

 ジルと連れ立ってバルコニーへと繋がる窓の前に立つと、促されるままリオはその窓を押し開けた。アーチ型に切り取られた窓の先には夜の庭園が広がっている。驚いて見渡すその先には可愛らしい作りの邸が建っているのが見えた。まるで御伽噺に出てくるようなそれはジルの住まいにはぴったりに思えた。

 ジルのあとに続いてゲートを潜った。振り返るとそれは庭園に造られた石造りのアーチだった。こういうものがあることは知識として知っていたが使うのは初めてだ。ぽかんとして感慨に浸っていると、ジルがくすくすと笑う。

「驚きますよね。さっきまで城の中にいたのに」

「ええ、ジルさまは使い慣れていらっしゃるのですか?」

「まさか。この前ライラお姉さまたちと使ったときにびっくりしました。晩餐に向かうときに使っていたようなのですが、まったく気づいていなくて」

「そうでしたか。とても便利ですね」

「便利ですけど、僕はあんまり使う機会がないから」

 なんともなしにそう言われて、リオは失言を悟った。ジルは城の奥のあの邸で隠されるようにして暮らしている。少し考えれば使う機会など多くないことはわかるはずなのに、人と会話することに慣れていないリオは推し量ることが苦手だ。ジルに気にした素振りがなくて幸いだったが、これからは気をつけなければと肝に命じた。嫌われてしまったら困る。

「こんなところがあるなんてびっくりでしょう?僕のためだけに王妃殿下が作ってくださったのです」

「ジルさまにぴったりな可愛らしいお住まいですね」

 そう言ったのは本心だったが、ジルは戸惑ったようだった。その白い頬にじわりと赤みが滲んで、そうでしょうかと小さな声が零れる。少年だとわかっていても可憐なその仕種にいちいち心が揺らいだ。どこからどう見ても少女にしか見えないのは、彼の本来の姿なのだろうか。鈴の転がるような声も、少女にしか見えない容貌も、どこか作り物めいて見える気がする。

「僕はあそこからあまり出ることはないので護衛と言ってもすごく暇だと思います。鍛錬などもあるでしょうから合間の時間にでも逢いに来てくださるとうれしいです」

「どうして俺を護衛に選んでくださったのですか?正直なところ、俺は騎士団の中では下から数えた方が早いのですが」

「そうなのですか?助けてくださったときも優秀な騎士さまに見えましたよ?」

「そう思って頂けたのなら光栄です。この前助けたのは二度目だとおっしゃっておりましたが、それはいつのことでしょう。ジルさまをお見かけしたのは一昨日の舞踏会が初めてだと思うのですが」

「ああ、この姿ではわかりませんよね。僕は男の姿だったから」

「よろしければ、本来の姿をお見せいただけませんか?」

 気づいたらそう口にしていた。本来の彼がどんな姿なのか知りたい。驚いたらしいジルがなにかに躓いたので、慌ててその身体を支える。しがみついてくる華奢な身体をこのまま抱き寄せてしまいたい衝動に駆られた。その気持ちを律して彼から身を離すと掴まるようにと手を差し出した。

「夜の庭園は暗くて足元が見えづらいですからお掴まりください」

「お気遣いありがとうございます。ちょっと取り乱してしまって」

「いえ、俺の方こそ不躾なことを、」

「そんなことはありません。リオさまには本当の僕をお見せします」

 そう言ったジルがそっと指に填まる指環を外した。すると彼を覆っていた薄い魔法の幕が剥がれて、少女の仮面の下から少年の姿が現れる。容姿が大きく変わることはなかったがこちらの姿の方がしっくりと彼に馴染んでいた。どうでしょう、と恥ずかし気に目を伏せる仕種は少女だったときよりも可愛らしいし、柔らかなその声はリオの心を悪戯に擽る。その姿を見てようやく、あの少年とジルが一致した。

「あの日町で助けたのはジルさまだったのですね」

「覚えていてくださったのですね!どうしても逢ってお礼が言いたくてエヴィお姉さまにお願いしました。そうしたら舞踏会でも助けていただいて」

「色々と納得がいきました。町で逢ったときと舞踏会のときは姿が違っていらっしゃるのに、どうしてだか同じ方のような気がしていたのです」

 そう白状したらジルの目が丸くなった。それからすぐに頬が笑みに崩れた。それがどうしようもなく可愛くて、高鳴る鼓動を律するのが難しかった。出逢って間もない相手にこんな強い気持ちを抱いたことは初めてで戸惑う。それと同時に、どんなに恋焦がれても手に入ることなどないと知った。それでもこの気持ちはきっと、止まることを知らない。

「女の子じゃなくてごめんなさい。騙すつもりはなかったんですけど、僕はこの姿じゃないと外には出られないから」

「本来のお姿の方が素敵です」

「本当に?」

「はい、もちろん。次に町へ行くときは俺をお連れください。あらゆる危険からお護り申し上げますから」

「それは頼もしいですね。リオさまは町に詳しいのですか?」

「警備でよく出ていますからそれなりには。今度ご案内致します。もちろん、エヴィ騎士団長殿下には内緒で」

「それは楽しみです」

 そんなことを話しているうちに、広いはずの庭園はあっと言う間に終わってしまった。邸の入り口で侍女がやきもきしながら待ち構えていて、ふたりの姿が見えると安堵するように頭を下げる。

「おかえりなさいませ、ジルさま。遅かったので心配しておりました」

「大丈夫だよ、シャノン。リオさまが送ってくださったから」

「リオさま?」

「エヴィお姉さまが護衛につけてくださったんだ。これからこの邸に出入りすることが増えると思うからよろしくね」

「そうでしたか。わたしはシャノンと申します。ジルさまの侍女としてこのお邸にお仕えしております」

「リオ・イングリッドです。本日よりジルさまの護衛騎士を仕りました」

 かしこまった挨拶をするふたりを、ジルが可笑しそうに笑った。お茶でも飲んで行くかと誘われたが、遅い時間だったので遠慮する。それに護衛騎士とお茶をする主君というのもなんだか変な話だ。

「また明日参ります。それと俺にも砕けた口調で話してください。敬語は不要です」

「ですが、リオさまは年上の方ですし、」

「リオさまというのも禁止です。俺のことはリオとお呼びください」

 そう念押すとジルはなんだか不満そうな顔をしていたが、最後には渋々頷いてくれた。

「じゃあ、また明日。リオ」

 そう嬉しそうに笑う顔にまた、リオの心は甘く疼いた。


◇◆◇


 建国祭も半ばを過ぎようとした頃、町はサーカスの話題で持ちきりになった。これは海を渡った隣国から遥々やってきた大道芸人の集団で、珍しい動物を引き連れ、目にも新しい出し物を催すという。ディリンの建国祭は賑やかなので毎年そのような興行が回ってきていた。サーカスは高台の広場にテントを張り連日興行を行っている。その話題をジルにもたらしたのはシャノンで、この前の休みに見てきたのだそうだ。

「それで人が宙を舞うんです。落ちるんじゃないかとひやひやしました」

「へえ、それはすごい。僕も見てみたかったなぁ」

「それなら見に行きましょう」

「イングリッド卿!いつからいらっしゃったのです?」

「楽しそうなお話が聞こえたので」

 驚いた声を上げたシャノンをリオが軽く受け流した。どうする?と問うような瞳に戸惑って、ジルはちらりと侍女を見る。彼女はこの前のことを思い出しているのか少々バツが悪そうな表情を浮かべていたものの、自分が話題にした手前止めることもできないのだろう。渋々準備しますと言って部屋を出ていった。

 シャノンが準備してくれたのはこの前町に出たときと同じ服だった。リオは騎士服の上着を脱いでシャツを着崩し皮のベストを羽織っている。腰に剣を吊るしていてもどこかの傭兵だと思ってもらえそうな出で立ちだ。リオがお忍びに出ている貴族の息子と用心棒という設定にしましょうと言ったので、そういうことになった。

 シャノンの手引きで裏口から出してもらうと、夕方までには戻ってくるようにと念を押された。リオが必ずと請け負うと小さく嘆息を漏らしたあとで木戸が閉まる。初めて町へ出た日と同じ道を下っているのに、今日の方があのときよりもずっと心が高揚していることに気づいた。それはきっと隣にリオがいるからだ。

「ここからだと高台までは少し歩きますね。表通りはできるだけ避けましょう」

「リオの言うとおりにするよ。案内してくれるんだろう?」

「お任せください」

 リオがお道化るように胸に手を当てて頭を下げた。その様子につい頬が弛んでワクワクする気持ちが加速する。他愛ない話をしてるうちに坂を下り切って目抜き通りに出た。賑やかな表通りは人でごった返していて、楽しそうな声がそこここから聞こえる。リオの先導でその通りを上手いこと抜けるとすぐに細い路地を抜けた。裏通りに出ると一本道を入っただけなのに人通りがぐっと減る。リオが先の路地の方へと歩き出したので、思わずジルはその腕を掴んで止めた。

「その先は危ないから行かない方がいい」

「誰からそのようなことを?」

「そりゃあ俺だな」

 呑気な声にふたりして振り返ると、あの日忠告してくれた露天商がにやにやしながら手を振っていた。丁度客が途切れたらしくこっちへ来いと手招きする。リオが重苦しい溜息を吐いて仕方なしにジルを店前へと連れていった。

「おいおいそんな嫌そうな顔をするなよ。あんたそこのにいちゃんの連れかい?」

「そうですが」

「それならちゃあんと捕まえておくことだな。この前この子がここに来たとき、ガキどもがにいちゃんの話をしてたんだよ。それで心配してたんだ。その様子じゃあ大丈夫だったようだが」

「あのときはご親切にありがとうございました。この人に助けてもらったので大丈夫です」

「おいおい、助けてもらったってことはなにかあったんじゃないか。まったく、あのガキどもは始末に負えねぇな」

 やれやれと言ったように男が首を振ったので、どうやらあの日ジルに絡んできた男たちはこの辺りでも目に余る行いをしている輩たちらしい。露天商の様子だと店の品物をちょろまかされたことがあったのかもしれない。リオがぐっと唇を引き結んで辺りをぐるりと見回した。この辺りにあの男たちがいたら今度こそ捕まえてやろうとでも思っているのだろう。

「もしまたその男たちを見かけたら警備兵へご一報ください」

「見かけたらな。あいつら逃げ足だけは速いからなぁ」

 ふたりが話している間、ジルは店先に並べられた商品を眺めていた。目新しい物や見慣れないものがいくつもあって飽きない。その中に黒い宝玉が填まったカフスボタンを見つけた。リオの瞳と同じだと思ってそっと手に取ると細部まで細かな細工がなされていることがわかる。結構しっかりとした作りのように思えるのに随分と無造作に置いてある。これでは商品を盗まれても文句は言えまい。

 そろそろ行こうと促されて名残惜しく商品を手放した。リオにプレゼントしたら似合うだろうと思ったが生憎と今日は持ち合わせがない。ポケットの中にこの前のお釣りが入ったままになっていたが、銅貨二枚では足りないことくらいはジルにだってわかる。躊躇う様子に気づいたのか、男が声を潜めて気になっているのかと問うてきた。リオは少し離れたところでジルが来るのを待っている。

「彼に似合うかなと思ったんですけど、生憎今日は持ち合わせがなくて」

「ああ、なるほど。それじゃあ次に来るまでに取っておいてやるよ。これはとっておきでね、この石には魔除けの効果があるんだ」

 男がにやりと笑って片目を瞑った。その言葉にどこまでの信憑性があるかわからなかったし、次ここに来れる保証もなかったけれどその親切に礼を言う。急かすようにジルを呼ぶ声に今行くと返事をすると、男のにやにや笑いが深くなった。

「あんた、この前の女の子よりもあの人の方が似合いだね」

 その言葉の真意を聞き返そうとしたところで別の客が露天商に声をかけた。それで仕方なしにリオの元へ戻ると、彼に先の路地の方へと促される。建物の間に造られた道は薄暗かったが道幅は思っていたよりも広い。緩やかな上り坂を上り切ると開けた視界の先には住宅が犇めいていた。背の低い石造りの建物がいくつもも並び、その間を石畳の道が四方八方へと曲がりくねりながら伸びている。もう少し上にある広場の方から賑やかそうな声が微かに響いてきていた。あそこに話題のサーカスが来ているのだろう。

 階段を上って広場へと辿り着くと、石畳で舗装された広場はたくさんの人でごった返していた。メイン通りの方も大分賑やかだがこちらも引けを取らない。一際大きな円形の天幕を中心としてその周りに小さな天幕がいくつも立っているさまは、まるでひとつの小さな町のようだ。その周りにはサーカスの客相手に商売をする屋台が開かれており、土産物やちょっとした軽食などを売っている。昼時は過ぎていたけれどまだまだ屋台は混んでいて、嗅ぎ慣れない色々な匂いが混ざって漂ってきた。それを嗅いでいたら小腹が空いてどれがいいか見て回った。リオはこういうことに慣れているのだとばかり思っていたが、意外と買い食いした経験は少ないと言う。濃い味のタレが絡んだ串焼きとふわふわの皮に肉の餡が詰まった饅頭とぎっしりと餡子が詰まった焼き菓子を買って半分こをして食べた。ジルの慣れない様子をリオが笑う顔に胸がときめく。彼といるだけで楽しくて、この時間が永遠に続けばいいのにと願った。初めて町に出た日は人混みがあんなに不安だったのに今日は全然平気だった。周りにいる誰もが楽しそうでその気配にジルまでワクワクする。

 サーカスの名前が書かれた大きな看板のところにけばけばしい衣装を着て可笑しな化粧をした道化が立っていた。呼び込みも兼ねているらしく大袈裟にお道化ながらビラを配っている。腹ごしらえを終えて彼に近づくとサーカスの次の本公演は夜だと教えてくれた。今日の昼公演は午前中に終わってしまったのだという。

「演目は見れないけど、周りの天幕でちょっとした出し物をやっているよ。それだけでも充分楽しめるよ」

 がっかりした雰囲気を察したのか、道化がすかさずそう付け加えた。たしかに周りの天幕からは楽しそうな声が漏れてきているし、観客たちも立ち去らずに様々な天幕を覗いてみている。折角だからちょっと覗いてみようということになって道化に礼を言って別れた。

「残念でしたね。シャノン嬢に時間を聞いておくべきでした」

「僕はリオと出かけられただけで充分楽しいよ。それにちょっとした出し物も面白そうじゃない?」

 サーカスの本公演を見れなかったのは多少残念だけれど、ジルはその言葉通り大分楽しんでいた。市井の雰囲気を満喫できたし、道化が言うちょっとした出し物も目新しくて面白そうだ。ジルがそう笑うとリオが一瞬だけ丸くした目をすぐに笑みに崩した。はぐれないようにと差し出された手を取ると大きな掌に包み込まれてどきまぎする。

 サーカスの敷地は広く、天幕と天幕の間に設けられたスペースでは大道芸人たちが得意の芸を披露していた。ある男は火を噴き、ある男は刃物と果物を危なっかしげなくジャグリングし、ある女は丸い大きな玉の上でしなやかな身体を見せびらかすように逆立ちした。誰もがわざと危なっかし気な場面を演じて観客たちをはらはらさせる。外で行われているのが大々的なショーであるのとは対照的に天幕の中は奇術や占いが行われているようだった。ある天幕では奇術師が魔法と見紛うような奇術を披露して観客を沸かせ、ある天幕では天井に着きそうなほど巨大な水槽の中を鰭を付けた女が優雅に泳いでいた。小さな動物が人間顔負けの芸を披露していた天幕もあった。人気の天幕や出し物の周りは人でごった返していてすり抜けるのも一苦労だったが、初めて見る光景にジルの胸は沸き立った。身分も立場も違うたくさんの人々と一緒になって同じように驚き、同じように笑うのが楽しい。城の外の世界をなにも知らずにいた自分が信じられなかった。そしてこんな風に笑えている自分に初めて逢う。

「世の中には凄い特技を持っている人がたくさんいるんだなあ」

「生きるために様々な芸を身に付けたのでしょう。貴族たちの中にははぐれものの集まりだと言う者もおりますが、実はこっそりお忍びで俺たちのように見に来ている人間も多いのですよ」

 リオがジルにだけ聞こえるように声を潜めてそう笑った。名のあるサーカス団はあらゆる国からの招待を受けて公演をするそうだが、一般的なサーカス団は雑多な人間の集まりで勝手にやって来て勝手に去っていく。代表的な庶民の娯楽を貴族たちは認めようとはしないものの、評判になっていれば気になるのは致し方ないことだろう。前座のような出し物だけでもこんなに素晴らしくて面白いのだから、ジルたちと同じようにこっそり庶民に紛れ込もうと思う気持ちも頷ける。サーカスは城の中でも話題になっているようだから、建国祭に招待されている来賓たちもこの観客の中に混じっているかもしれない。プライドの高いαたちがサーカス見たさに庶民に紛れ込むところを想像すると可笑しかった。

 ひと通りぐるりと見終わって入り口に戻ってくると、看板の傍に新しい小さな天幕が立っていることに気づいた。数人が入ればいっぱいになってしまうくらいの大きさで、色あせた天幕が多いのに対して金の縁取りがついた鮮やかな紫色をしている。その天幕についてリオに話を振ろうとしたら、つい今しがたまで繋いでいたはずの手がいつの間にかに離れていた。はぐれる程の人混みではないはずなのにすぐ傍にいたはずの彼の姿はない。たったひとりこの場所に取り残された恐怖で背筋を冷たい汗が流れ落ちた。慌てて振り返っても背の高いリオの姿はどこにも見えない。

「あんた、はぐれでもしたのかい?」

 そう声をかけられてそちらの見ると天幕の入り口に背の低い女が立っていた。占い師のような衣装で目元以外を隠しているせいで子供のようにも老婆のようにも見える。喋り方は年寄りくさいのに年齢不詳の声をしていた。ジルがどう答えたらいいか逡巡している間に入れと言うように顎でしゃくる。その背が入り口の布の向こうに消えてしまったので、ジルは仕方なしにあとを追った。

「さて、お嬢ちゃん。そこに座りな」

「僕はお嬢ちゃんでは、」

「表向きはそうだろう?大丈夫、連れの男はそのうちここへ来るよ。それまであたしとお喋りをしよう」

 露になっている目元が笑みを作った。もう一度座るようにと促す声は優しかったが有無を言わせぬ響きがある。女は凝った作りの台の向こう側に座って、天板に肘をついてこちらを見ていた。ジルは渋々と言った風を装いながら座り心地がよさそうな椅子に腰をかけた。天幕の中は狭いうえに薄暗く嗅いだことのない匂いが立ち込めていた。香を焚いているのか少し煙っている。

「リオをどこにやった?」

 その問いに女の笑みが深くなった。さっきは単純にはぐれただけだと思っていたが、この女の対応を見ているとやはりどこかおかしい。城には空間を操る魔術師がいるが、この女も同じような魔術を使えるのかもしれない。おそらく知らないうちに結界のようなものを踏み越えてしまったのだろう。

「その考えはなかなかいいよ。ただあたしはあんたのとこの有能な魔術師さまほどの力はない。ただのしがない占い女さ。あんたの男はそうだねぇ、あんたのことを血眼になって捜しているよ」

「なにが目的なんだ?僕のことを攫ったってどうにもならないのに」

「ああ、本当にそうしたら案外いい金になりそうだねぇ。あんたは随分と大切に、それこそ桐の箱に大事にしまわれているようなもんだ。ディリン王家の唯一の王子がΩだなんてまさに青天の霹靂。αの家系にΩが生まれるのには特別な意味があるんだよ。それはもう大国を揺るがすほどの意味が」

 女は組んだ両手の向こうからジルの反応を読むように目を眇めた。占い女だという割にはそれに使う水晶玉やタロットの類は見当たらない。けれど言われていることは的を射ていた。魔術師ほどの力はなくとも過去や未来を視通す力なら誰にも負けやしないのだろう。

 大国を揺るがすほどの意味、と言われたところでどうしたらいいかわからなかった。ただ唖然として返す言葉が見当たらない。この辺りで大国といえばエルシオンのことだろう。それが小国の秘匿された王子であるジルとどんな関係があると言うのか。そう考えていることもお見通しのように女は可笑しそうにジルを見ていた。その答えはわかっているだろうに、どうやら教えてくれる気はないらしい。

「運命っていうのはちょっとしたことでころころと行先を変えるんだ。ただあんたのそれは一貫して揺るがない。あんたはもうそれに出逢っているが、今はまだそのときではない。ときが満ちれば自ずとわかるだろう。あんたは運命を背負って生まれてきた。それを王妃さまは知っている」

 突然王妃の名が出てきたのでジルは返す言葉を失った。生みの母のことを知っているかと問われて首を振る。物心ついてからしばらくは王妃のことを本当の母親だと思っていた。それがいつだったか、今より大分幼い頃に彼女と髪の色や顔つきが似ていないことに気づいて本当の親子ではないこと知った。そのときに実母はジルを産んだ際に亡くなったとだけ聞かされた。それ以外はなにも教えてはくれなかった。それをこの女は知っていると言うのだろうか。ジルさえも知らないことを視通せると言うのだろうか。

「あたしはなんだって知っている。あんたが知りたければ教えてやってもいいよ。まぁ、そう気負う必要はない話さ。あんたの母親は伯爵家の娘で気立てがよくて美人だった。ただαの家系に生まれたβという異分子で、それゆえに他の兄弟たちには邪険に扱われていたようだね。貴族たちは挙って娘を行儀見習いという名で王城に上がらせて、王や宰相などの権力者の目に留まらせようと躍起になる。あんたの母親は運よく王妃に目をかけられて王妃付の侍女になった。そのうち実家が事業に失敗したが王妃の取り計らいで城に残れることになったようだね。そこで王に目に止まってあんたを身篭った」

「王妃殿下はどのようなお気持ちだったのだろう。侍女が子供を身篭ったと知ったとき」

「どのような?あんたの母親はこれで家を再興できると思ったのかもしれないし、王妃さまにそう言われたのかもしれない。どちらにしろ、王妃さまはあんたが運命の子だと気づいた。ただそれだけの話さ。だからあんたは大切に城の奥に仕舞われている。他のαに目を付けられないようにね」

「それじゃあ僕はその運命の相手のためにΩとして産まれてきたと言いたいのか?」

「Ωに産まれた意味があるなんて言うのなら誰だってそうだよ。Ωは漏れなく全員が運命の相手に出逢うべくして産まれてきたんだ。あたしはそう思うね。それにあんたはもう運命の男に出逢っているんだろう?少なくともあんたはそう思っている」

 違うか?と問うように女の目がにやにやと笑った。思わずリオを思い浮かべてしまってじわりと頬に熱が滲むのがわかる。もし女の言う運命の相手がリオならこんなに素晴らしいことはなかった。それと同時にリオがβであることを思い出して、その相手ではないと突きつけられる気分を味わう。けれど女はそうだともそうではないとも言わなかった。他のαに目を付けられなければ、βならば構わないとでも言うのだろうか。

「今はまだどちらとも言えない。ただ間違っているわけではないだろうということくらいしかね。あんたの男に関しては上手く視えないんだ。なんだか魔法の膜に覆われて大切なことを覆い隠されているような」

「魔法の膜?」

 それはいったいどういうことなのかと問おうとした刹那、勢いよく入り口の幕が開いた。薄暗い空間に光が差して思わず眩しくて目を覆う。荒い息をしながら入ってきたリオがジルの腕を引いて背後へと庇った。その様子に女が笑みを深めて、面白いねぇとまろい声を出す。

「なにが面白い?この方を攫う気だったのか?」

「ちょっとお喋りしていただけだよ。よくここに辿り着いたねぇ。大したもんだよ」

 女が感心したように手を叩いた。リオが戸惑ったように女とジルを交互に見たので、この人に敵意はないことを伝える。本当にどうやってここに辿り着いたのかわからなかったが、ジルが通った結界のようなものにリオも上手いこと迷い込めたのだろう。

「この人は僕の未来が視えるみたいなんだ。それで色々なことを教えてくれた」

「当たっていたんですか?」

「この先のことはわからないけど、昔のことは概ね当たっていたと思う」

「じゃあ証明してもらおう。俺の未来も視えるのか」

「あんたのことは過去も未来もなにもわからない。だから面白いんじゃないか。あんたは魔法の膜で護られているんだよ。その指環があんたを護っている」

 怪訝そうな表情で話を聞いていたリオが最後の言葉ではっとしたように目を丸くした。それから右手を見る。彼の小指には肌に馴染むようにして細い金色の指環が填まっていた。目立たないデザインなのでジルも言われるまで気づかなかったくらいだ。

「あたしがひとつ言えるのは、あんたはこの子から目を離しちゃあいけないってことだ。まあ、手放す気はないんだろう。さて、話はここまでだ。これだけ話したんだからお代はちゃあんと貰うよ」

 さっきまでの饒舌が嘘のように、女はそれ以上なにも確信的なことを言うつもりはないようだった。早く寄越せと言うように女が手を差し出すので、リオが盛大な溜息を吐いたあとで金貨を一枚放ってやる。それを受け止めた彼女が満足げに目を細めて追い払うように手を振った。彼に促されて天幕を出ると外の光が眩しい。ようやく目が慣れてくると、振り返ったそこに天幕など存在していなかった。

 地面に箱を積み重ねたものを台にして占いをやる女がいるにはいたが、さっきの女とは似ても似つかない。彼女はしがない占い女だと言っていたが、ふたりを別の場所に迷い込ませるほどの力がある魔女だったのかもしれない。

「いったい今のはなんだったのでしょう?」

「魔女の気まぐれに化かされたのかなぁ。僕の正体を知っていたし、たまたま見かけて揶揄ってみたくなったとか?」

 そう言ってはみたものの、あまり納得がいく答えにはならなかった。あの女がなんのためにジルに未来の忠告をしたのかもわからない。ただ金貨を稼ぐためにそうしたのかもしれないが、あれだけの力があるのならジルに持ち合わせがないことくらいお見通しだったはずだ。考えれば考えるほど、あれはふたりを天幕から追い出すための話の幕引きだったように思えた。

「なにはともあれ、あなたから目を放してはいけないってことはわかりました。急にいなくなってどれだけ焦ったか」

「ごめん。僕も急にリオがいなくなって怖かった。そうしたらあの人が声をかけてきたんだ」

「あの女、何者だったのでしょう。ジルさまのことは視えるくせに俺のことは視えないなんて胡散臭いですよ」

 サーカスを出て帰路を辿りながらリオがそう言った。たしかに彼からすれば胡散臭い女に見えたかもしれないが、ジルは彼女の力をすっかり信じる気になっていた。ずっと知りたいと思いながら心の奥へ押し込めていた母のこともほんの少しだけ知れたような気持ちになっている。それにリオだって指環のことを指摘されたときたしかに驚いていた。それはきっと思い当る節があるからだ。

「指環のこと、指摘されて驚いていたじゃないか。僕はお前が指環をしていることにそう言われるまで気づかなかったし、少なくともそれだけは当たっていただろう?」

「たしかに、俺を護っているっていう点では正しいかもしれません。俺はイングリッド家の養子なのですが、あの家に迎えられたときにはもうこの指環を填めていました。おそらくお守りのようなものなのだと思います。思い出せない両親の形見とか」

「案外本当に魔法の指環かもしれないよ。リオのご両親がリオを護ってくれるように念を込めたのかもしれない」

 本当にそんな気がした。その言葉を受けたリオが面食らった顔をして、それから綻ぶように表情を笑みに崩す。照れ隠すように口元に手を当てるのが可愛らしくて、ジルも思わず笑みを零していた。たった数時間一緒に出かけただけなのに、随分と彼の人となりを知れたような気がしてうれしかった。シャノンが話してくれた空中を舞う演目が見れなかったことは不思議と残念に思わない。ジルはそれで、サーカスが見たかったというよりはリオとふたりで出かけたかっただけなのだということに、ようやく気づいた。


         ◇◆◇


 七番目の王女の護衛騎士に劣等のリオ・イングリッドが抜擢されたという噂は、瞬く間に騎士団や兵士たちの間に広がっていた。貴族の息子たちが多く在籍する騎士団の中ではα性を持っている者が圧倒的に多い。プライドが高く有能なαの中では、βであるというだけで馬鹿にされたり劣等生のレッテルを貼られたりする。リオは自分からその地位に甘んじていたものの、ジルの護衛騎士に任命されてからその実力は右肩上がりだった。今までは鍛錬では適当に力を抜いていたが、本気を出せばエヴィとだって対等に打ち合える自信がある。能ある鷹は爪を隠すものなのだ。

 そうして本気で鍛錬に勤しんでいるうちにエヴィから呼び出しを受けた。執務室へと向かいながら、この間ジルを町へと連れ出したことに気づかれたのだろうかとひやりとする。シャノンの話を盗み聞いて急に実行したことだったが、上手いこと変装して町へ出たので警備兵や騎士たちにもバレなかったし、抜け出したことは邸の侍女たち以外は知らないはずだ。見慣れないものを見て驚き笑うジルの隣で、自分はこんなに笑えたのかと思うほど一緒に笑った。彼と一緒にいると知らなかった自分の一面が垣間見えるようだった。

 執務室の扉の前で気持ちを落ち着けた。ノックのあと中から返事があるのを待って、頭を下げてから入室する。執務机に座るエヴィは騎士団長の制服に身を包み、長い髪を高い位置でひとつに括っていた。机に肘をついて両手を組み、その向こうからリオをじっと鋭い目線で見つめてくる。やはり城を抜け出したことが耳に入ったのだろうかと肝が冷えた。リオが町へ出ることは禁止されていないが、ジルを伴っているとすれば話は別だ。危険な目に遭わせてはいないとはいえ、大目に見てもらえはしないだろう。

「ジルとは仲睦まじくやっているようだな」

 咎められる前に自分から謝った方がいいのではないか、と逡巡していたところでエヴィが態度を弛めたので、リオは拍子抜けしてしまった。彼の姉からそう思われていることがこそばゆい。ジルはほとんど邸から出ることはなく、リオは毎日鍛錬が終わると彼の元を訪ね、今日あったことやお互いのことなどを時間が許す限り話をした。許される範囲で庭園やその先の森を散歩することもある。この前のように町へ連れ出して色々な物を見せてやりたかったが、王子である彼をリオの一存で連れまわすわけにもいかない。きっとジルは楽しそうだと笑ってくれるとわかってはいるものの、また行こうと誘う勇気は今のところ出ていなかった。

「はい、恙なく」

「お前が最近急に実力を発揮し出すようになったのもジルのお陰か?七番目の王女の護衛が落ち零れではジルの顔が立たないものな」

「今までのことを咎めてらっしゃるのなら謝ります。ただこのままではジルさまの名折れになると思ったのです」

「お前はβだがそれなりの実力者なのだと思ってはいた。まさかわたしと対等に渡り合えるほどの実力を隠していたとは恐れ入ったが」

 エヴィがたっぷりの嫌みを込めてそう笑ったので、リオの背を嫌な予感が這い上がった。どうやらお忍びのことを咎めるつもりではなさそうだし、ジルとのことを聞きたかったわけでもなさそうだ。そうなると呼び出された理由はひとつしか思い当らない。

「まさかとは思いますが、闘技大会のことでしょうか?」

「そうだ。出場してみないか?」

「お断りします」

 即断で断るリオにエヴィは読めない笑みを零した。リオは毎年この時期に開かれるこの大会に出場するのを避けていた。騎士団からは実力者が毎年必ず出場していて、その出場者はエヴィの独断で決まる。そのお眼鏡に適わなくても出場することは自由だが、エヴィから声をかけられた者は基本的に断ることができないし、その栄光を胸に喜び勇んで参加していく。だからリオは声がかからないようにわざと力を抑えていたのだった。本気で挑んでいいところまで進んでしまったら、あまり目立つなと言った父の教えに背くことになる。

 闘技大会は建国祭の終盤に開かれる最大の催しで、国内外問わず腕に自信のある者は誰でも参加することができる。ディリン王国騎士団の実力は折り紙付きだと評判で、そこに所属する実力者と手合わせがしたいがためだけに遠くから訪れる者も少なくはない。優勝者には賞金が支払われ、その年の世界で五本の指に入る実力者だと認められる。剣で身を立てようと思っているのならまだしも、できるだけ目立ちたくないリオにとっては最悪の大会だ。ジルのために落ち零れてはいないところを周りに見せる必要があったが、少々やり過ぎてしまったかもしれない。

「目立つことはするなと父から言われておりまして」

「目立つ自信があるのか」

「いえ、そういうことではありませんが」

「ジルにいいところを見せるチャンスではないか?もしお前が出ると言ってくれたら、わたしはジルを闘技大会に招待すると約束しよう。それに大会には各王女の護衛騎士たちも参加する。もしお前がその中で勝ち上がったら、ジルの評判も上がるだろうなあ」

「ジルさまを餌に釣るのは狡いですよ」

「なんとでも言うがいいさ。お前は今まで実力を隠して闘技大会から逃げていただろう。その分のツケを払ってもいいと思うが?」

 そう言われてしまうとぐうの音も出ない。どうする?と問われて、リオはエヴィの笑顔の圧力に屈した。父の言いつけに背くことにはなるが、ジルにいいところを見せられるというのは実に魅力的な提案でもある。想い人に少しでもよく想われたいと思ってしまうのは馬鹿な男の性だろうか。

「わかりました。謹んでお引き受けします」

「最初からそう言えばいいものを。ジルのことはわたしが引き受けよう。誰にもバレることなく、お前の試合を見物できるようにな」

 満足げにそう言われてリオは溜息を吐きたくなる気持ちをぐっと怺えた。これ以上なにか余計なことを言われる前に退出すると、廊下に出てようやく重苦しい溜息を思う存分吐き出した。

 いつもよりまだ少し早かったが訓練に戻る気にもなれず、その足でジルの元へ向かうことを決めた。リオは演習場の隅にひっそりと位置している石造りの扉を開ける。これは魔術師が新たに開いてくれたゲートでジルの邸前の庭園へと繋がっていた。彼の邸は自力で向かおうとすると馬を使いたくなるくらい遠いのだ。エヴィがこれを魔術師に頼んで開いてくれたときは随分と恐縮したがとても重宝していた。移動時間を短縮できれば、その分少しでも長くジルと一緒に過ごすことができる。

 ジルはテラスで本を読んでいた。ラタンを編んだ背もたれ付きの椅子に膝を立てて座り、難しい場面なのか眉間に皺が寄っている。その真剣な様子が可愛くてリオは少しの間離れたところから様子を観察していた。ジルは仕立ての良いシャツとズボン姿で寛いでいて、ドレスを着ているときよりもずっと魅力的に見える。いつまででも見ていられるな、とつい頬を弛ませていると、お茶を淹れ替えに出てきたシャノンに見つかった。なにをしているのだと言いたげな目線に晒されながらジルに声をかけると、弾かれたように上げられた顔が嬉しそうな笑みに綻ぶ。

「リオ!今日は少し早かったな」

「エヴィ騎士団長殿下に呼び出しを受けたので、そのままこちらに参りました」

「もしかして町に行ったのがお姉さまの耳に入ったのか?」

 エヴィに呼び出される理由としてジルがリオと同じことを思い浮かべたことが可笑しかった。笑いを嚙み殺して首を振ると、じゃあなんだろうと首を傾げる。シャノンがもう一脚椅子を用意してくれたので華奢な丸テーブルを挟んで座った。春先の陽射しは柔らかく、テラスでお茶をするにはよい季節だ。

「ジルさまは闘技大会をご存じですか?」

「ううん、初めて聞いた」

「我が国の建国祭では終わり頃に闘技大会が開かれます。これは各国の腕自慢が集まっていちばんを決める大会なのですが、そこに騎士団の精鋭たちも参加するのです。それに出ないかと誘われました」

「すごいじゃないか!でも、下から数えた方が早いと言っていなかったっけ?」

 柔らかな声で揶揄されると、心を擽られたような心地がした。こてん、と首を倒す仕種が可愛くて思わず笑みが零れる。揶揄しないでくれと言えば可笑しそうに声を上げた。誰かとこんな風に過ごすことは苦手だったはずなのに、ジルとならずっとでもいい。

「それで、出るつもりなの?」

「断れる雰囲気ではありませんでしたから。それにエヴィ騎士団長殿下から直々に声をかけられるのは騎士として光栄なことなのです。騎士の中でも折り紙付だと証明されますから」

 エヴィの前では渋っていたことをお首にも出さずにリオは平然とそう言ってのけた。騎士としてエヴィから認められることは誉れなので嘘を吐いているわけではない。その物言いにどうしても多少の仕方なさが滲んでしまうのは、本心から出たいと思っているわけではないからだった。

「もしよろしければ見にいらっしゃいませんか?ジルさまが見にきてくだされば俺も頑張ろうと思えるのですが」

「でも闘技場って城の外だろう?」

「騎士団殿下がジルさまを招待してくださるそうです。責任持ってそうするとおっしゃってくださいました」

「本当に!?」

「はい。是非ともおいでください。ジルさまがいてくだされば俺は百人力です」

 それは半ば本心だったのだが、ジルは冗談だと思ったのかくすくすと笑う。傍で聞いていたシャノンも行きたいと言い出したので大丈夫だろうと快諾した。姉と一緒だとはいえ大勢の中にひとりなのは心細いだろうし、気心知れた侍女が一緒にいた方がジルも安心だろう。

「楽しみですね、ジルさま。闘技大会は毎年すごく盛り上がるんですよ。女の子たちの間ではお目当ての騎士さまに勝利を願って贈り物をするのが流行っているんです」

「それは知らなかったな。令嬢たちの間のことは疎くて」

「貰ったことないですか?ハンカチとかカフスボタンとか、身に付けられる小さなものが人気なんですけれど」

 シャノンが意外そうな目でリオを見たが、それもそのはず、リオはこれまで闘技大会に参加したことなどない。そのことを簡潔に伝えて苦笑うと、彼女の表情が申し訳なさそうに曇った。きっとリオが中の下くらいの実力だと案じてくれているのだろう。ジルの護衛騎士になったから無理を押して出場するのだと思ったのかもしれない。リオが弁解しないでいると、シャノンは気まずさを打開するためか会話の矛先をジルに向けた。わざとらしく明るい声を出して、リオのためになにか贈り物をするのはどうかと言う。

「贈り物はお守りようなものなのです。怪我無く勝ち抜けるよう祈りを込めるので」

「それはいいな。僕もリオになにかプレゼントしたい」

「それは楽しみです。必ずやジルさまのために勝利を勝ち取ってみせましょう」

「無理だけはしないで。怪我をしたら大変だから」

 ジルの心配そうな表情がリオの活躍を見てどう変わるのか。それを考えると出たくないと思っていた頃が嘘のように、俄然やる気が湧いてきた。



 リオから闘技大会に出ると知らされた数日後、早速ジルの元にエヴィから当日に着ていく服が届いた。届けに来たのは王宮付魔術師のケイオスだった。ジルは特にヒートのときに世話になっているが、届け物のためだけに駆り出せるような人間ではない。どうやらエヴィに頼まれた別の用事のついでに届け物をしに来てくれたらしい。

「エヴィ王女殿下は人使いが荒くて困ります。昨日の今日でこれを作れなんて」

 ソファに腰を埋めたケイオスがわざとらしい溜息を吐いた。痩身で見目が良く青年にしか見えない男だが、実際は百を裕に超えているという噂だ。王宮付魔術師の中では若手だが実力は申し分なく、広い城内を快適に行き来できるようにとゲートを開いたのも彼だった。自然の摂理と空間を捻じ曲げる魔法の使い方に重鎮たちは眉を顰めたというが、その利便さに文句は挟めなかったようだ。捻くれ屋なので文句が多いが次の魔術師長は彼だと噂されている。

 ケイオスが勿体ぶって小さな箱を寄越した。ローテーブルを滑ったそれを受け取ると、掌に収まるサイズで箱の素材は滑らかなベルベット張りだ。彼が開けてみろと顎で示すので、ジルはその不遜な態度を苦笑いながら箱を開いた。台座に収まっていたのは細身で、石などがついていないシンプルなデザインの指環だ。戸惑っているジルを感じ取ったのか、ケイオスが満足そうな笑みを浮かべて新しい護身具だと言った。これがエヴィに頼まれたものらしい。

「侍女が身に付けていても目立たないデザインにしたので怪しまれないでしょう。あとこの服にも目眩しの魔法を織り込んであります」

「僕はエヴィお姉さまの侍女に化けるのか」

「それがいちばん近くで観戦できる最善の方法ですから。ただ国王陛下と王妃殿下と席が近いのが厄介なのです。この国で銀の髪は珍しいので、万が一にも見破られる可能性もあります。そこでその指環の出番です」

 試してみろと言いたげな笑みをケイオスから向けられたので、ジルは指環を人差し指に填めた。しっくりと指に馴染むそれは、いつもお世話になっている指環よりもたしかに目立たない。彼が満足そうにどやったのはわかっても、どんな変化がそうさせたのかはわからなかった。不思議そうにしているジルにケイオスがご覧くださいと言って、テーブルの上の手鏡を示す。先ほどまではなかったはずのそれは、彼がどこからか魔法で持ち出してきたものだろう。

 ケイオスはそうやって息をするように魔術を操る。長老たちは勿体ぶって長々と呪文を唱えたり大仰に宝玉や木の枝や蛇の皮などの道具を使ったりするが、彼にはその必要がないらしかった。魔術師にも得意不得意があるようだがケイオスは万能な方だ。最も得意とするのは空間魔法で、時空に切れ目を入れてどこからか物を移動させたり、あちらの切れ目とこちらの切れ目を繋げて道を作ったりする。城のゲートはこの魔法の応用だが、彼ひとりくらいならいつでもどこからでもすきな場所へ移動することも可能だった。また空気中の物質を固体化させることも得意で、ジルが貰った指環もその魔法で作られていた。その他にも未来を視たり天気を読んだり怪我を治癒したりして役に立っているが、いざ戦争に駆り出されたとしたらあまり役には立たない。王宮付魔術師たちは攻撃特化型の者が多く、いざ国が危機に晒されたときには騎士団と共に真っ先に出陣する。幸いディリン国は未だその危機に瀕してはいないので、ケイオスはのうのうとしていられるのだった。

 手鏡は見事な銀細工で触れるのが躊躇われた。ジルは見たことがないが、何番目かの姉の化粧台から拝借されたものだろう。ケイオスが痺れを切らして手鏡を取り上げると、見てみろとジルの目の前に翳した。それでジルは目を見張る。

「すごい!すごいじゃないか、ケイオス!」

 思わず声が弾んだ。そこに写っているのはたしかに自分の顔なのに、髪の色も目の色も違う。ジルの銀の髪は亜麻色に、アイスグレーの瞳は深い茶色に染まっていた。これにケイオスの目眩ましの魔法が合わされば父と義母にバレる可能性は限りなく低くなる。

「こんなことよく思いついたな。エヴィお姉さまにアドバイスされたのか?」

「まさか。エヴィ王女殿下はいつだってわたしに丸投げしかしませんよ。これはジルさまの護衛騎士殿から着想を得たのです。随分と面白いものを身に付けていらしたので」

「面白いもの?」

「ええ。たしか右手の小指に指環を付けていらっしゃったかと。あれは本来の姿を隠すまじないがかかっておりました。古典的な、それでいて強力な呪いとでも言いましょうか。それでそのまじないを応用すれば、髪と目の色を変えることなど容易いと思いつきまして」

 ケイオスは嬉々として指環にかかっている魔法について蘊蓄を述べていたが、ジルの耳には途中からなにも入ってこなかった。町にサーカスを見に行った際に出逢った、あの占い女の言葉が思い出される。リオはあの指環によって護られ、見通せるはずの過去も未来も視ることができない。リオはその指環をお守りのようなものだと言っていたが、きっと彼の本当の両親が願いを込めたものなのだろうと思った。だから魔法の指環かもしれないと言ったのだが、ケイオスがそう言うのなら本当に魔法の指環だということになる。

 本来の姿を隠す魔法をリオが使う必要性が思いつかなかった。けれど彼を護るためにそうしているのならどうだろう。リオの反応を見る限り魔法のことは知らないようだったから、正体を隠してジルを欺いているわけではなさそうだ。それにΩの王子であるジルに近づいたところで彼に利益があるとも思えない。強いて言えば護衛騎士になれたということだろうが、それもジルから懇願したことだ。

「あの指環は本当に魔法の指環なのか?リオはお守りのようなものだと言っていたけれど」

「ではイングリッド卿もご存じないのでしょう。呪いというのは元来、気づかれたらかけた本人に跳ね返るものです。指環を媒体にしていますから外せなければ呪いは解けない。そしてもうひとつ、なにか別のまじないも絡まりあっているような」

 ケイオスは顎に指を当てて、小さな声でぶつぶつとなにやら呟き出した。時々知っているような単語がジルの耳にも届いたが、それがどういう意図で繋がるのかはわからない。彼は自分の成果を誰かにお披露目するのがすきな質だが、こうなってしまうとしばらくはひとりの世界に籠ってしまう。彼はただリオの指環にかかっているまじないを参考にして新しい魔道具を作り出しただけだった。その成果を褒めてもらおうと思っていたら、ジルと話しているうちに新たなる疑問が生まれてしまった。どうしてリオはそんな呪いをかけられているのか、なぜもうひとつ強力なまじないと複雑に絡み合っているのか。ケイオスは生憎古典魔法には明るくないので、どういう類のまじないであるのかくらいしかわからなかった。もっと詳しく調べることができれば呪いの種類は解き明かせるかもしれないが、おそらくそれを解くことはかけた本人でさえもできない。呪いとはそういうものだ。

「髪と目の色を変えているのは我々がそうするのと理由は同じでしょう。本人だと気づかれないように別人になりすますためです。どうしてそんな呪いをかけられているのかはわかりませんが、古典魔法を使える魔術師は多くありませんし、強い力を持つ者がほとんどです。この国の魔術師たちを寄せ集めたところで誰にも解くことはできないでしょう。呪いはかけたが最後、解ける鍵を見つけるまでは解けません。もしくは気づかれて呪いが跳ね返るか」

「その呪いは命に関わるのか?あの女は指環がリオを護っていると言っていたけれど」

「あの女とは?」

 ついそう言ってしまったらケイオスが怪訝そうな顔をした。なんでもないと誤魔化すわけにもいかず、ジルは心の中でリオに謝りながら占い女に言われたことのあらましを話した。彼は興味深そうにジルの話を聞きながらなにかを考えているように見えた。

「ジルさまのお話を聞く限り、ただの占い女というわけではないでしょう。おそらくれっきとした魔女です。魔術師協会に加入していない魔術師たちは気まぐれな輩が多いので、その女も人を揶揄うのがすきなのかもしれませんね。ただそれ程の力がある魔女なら、言っていることは本当でしょう」

「じゃあリオは大丈夫ってこと?」

「そうですね。まぁ、そこが面白いのですが」

「面白い?」

「だってそうでしょう。普通呪いをかけるといえば、相手の不幸を願うものです。商売の失敗や病気や怪我や最悪死を願う。ですがイングリッド卿にかけられているまじないは彼の命を脅かしてはいない。その魔女の言葉を貸りれば身を護るための呪いということになる。それにもうひとつ絡まっている魔法というのも、」

「それが古典魔法とどう関係があるんだ?現代の魔術師にはできないのか?」

 そのまま再び自分の考えに沈んでいきそうなケイオスに質問することで彼を考えの深淵から引き戻した。ケイオスが考えていることの半分もジルは理解できていなかったが、リオにかかっているらしい呪いが彼の命を脅かしていないことだけわかれば充分だ。ジルにとってリオがリオであるのならば、本当は違う人間なのだと言われたとしても構わない。

「古典魔法というのは御伽噺の妖精や魔法使いが使うような古い魔法のことです。たとえば悪い魔女に呪いをかけられたお姫さまが永い眠りに就くお話があるでしょう?あれは王子さまとのくちづけで呪いが解ける。人魚姫が足を貰った呪いや、意地悪な王子が醜い野獣に変えられたのもそうです」

「そんな魔法が実在するというのか?本当に?」

「実在した、と言った方がいいですね。理屈も原理もわからないので使うのが難しいのです」

 そんな魔法があるだなんて話を聞けば聞くほど信じられなくなってきた。御伽噺は幼い頃乳母から寝物語として読み聞かせてもらったし、字が読めるようになってからは自分でも読んだことがある。悪い魔女に呪いをかけられたお姫さまは妖精の祝福で死の呪いを免れる。継母の嫉妬で毒林檎を食べてしまったお姫さまは魔法使いの助けはこないが、王子さまのくちづけで目を醒ますことができた。人魚姫が魔女の魔法で足を貰ったあとで結局海の泡になったのは、王子さまと結ばれることができなかったからだ。そう考えると、御伽噺の中の呪いは王子さまとくちづけすることで解けている。リオの呪いがそういった魔法と同様であるのであれば、呪いを解く鍵は案外簡単に見つかるのではないか。

「王子さまとのキスでその呪いが解けたりしないかな」

「試されてみてはいかがです?」

 そう揶揄されてジルの頬に熱が滲んだ。そういうつもりで言ったわけではなかっただけに、ケイオスににやにやとした顔を向けられると恥ずかしさが募る。そんなジルの様子に満足したのか彼が気を取り直すように咳払いをした。

「そう簡単でないから、呪いの鍵として使われるのですよ。王子、あるいは王女であれば誰でもいいわけじゃない。そこに真実の愛がなければ意味がないのです。真実の愛があれば王子でなくたっていい。だからこそ難しいのです」

「真実の愛?」

「魂で惹かれ合う運命の相手とでも言いましょうか。そんな相手に出逢える確率は限りなく低いでしょう。これがイングリッド卿を護るための呪いであっても、それこそ現れるとわかっていない限りその呪いは絶対に解けない」

 なんだか引っかかりのある話し方だった。ケイオスはそれ以上話を続ける気はないようで、すっかり冷めてしまった紅茶を淹れ直してもらおうとするジルを止めた。すっかり長居をしてしまったのでそろそろ戻らないといけないらしい。

「せっかくですからそのまま演習場へ行ってみては?闘技大会が近いですし、最近イングリッド卿と逢えていないのでしょう?」

 なぜ知っているのか、と問うことはこの男の前では無意味だとジルは知っている。エヴィから聞いた可能性もあるけれどジルの頭の中が見えたという方が正しかろう。優秀な魔術師であるケイオスが今更ジルの考えを当てたところで驚くには値しない。

 闘技大会に出ると決めてから、リオは鍛錬に勤しむためにジルの元を訪れるのを控えていた。邸から滅多に出ないジルに護衛もへったくれもないし、その時間を鍛錬に充てた方がリオの実力も伸びるだろうと思ってジルが来なくていいと言ったからだ。本当に落ち零れだなんて思っていないけれど、少しでも多く実践を積んだ方がいいに決まっている。優勝して欲しいとまでは思っていないけれど、少なくとも怪我はして欲しくない。

 そこでようやくジルはケイオスに頼みごとがあったことを思い出した。立ち上がって暇乞いをしようとしている彼を引き留めると、面倒くさそうな表情を浮かべられる。それでも渋々座り直してくれるところが彼らしい。

「リオに逢いに行くついでにこれを渡したいんだ。ケイオスにその、ちょっとまじないをかけて欲しくて」

 ジルはキャビネットから取り出した小箱をケイオスの目の前で開けた。布張りの台座には黒々とした宝玉がついたカフスボタンが収まっている。シャノンから贈り物の話を聞いたとき真っ先に頭に浮かんだのがこれだった。本当は自分で買いに行きたかったのだがそういうわけにもいかなかったので、シャノンに頼んで買ってきてもらった。露天商は約束通りちゃんと取り置いてくれており、露店に似つかわしくない箱にまで入れてくれたそうだ。

「ジルさまが自ら選んだというだけで充分な効果がありそうですけどねぇ」

「そんなこと言わずに頼むよ。防御魔法は得意だろう?リオの実力は下から数えた方が早いらしいから、怪我をして欲しくないんだ」

「本気でそう思ってらっしゃるんですか?あの男が下から数えた方が早いなどと?」

 ケイオスが信じられないと言いたげな表情を浮かべたので、ジルはつい首を傾げてしまった。その様子を見てぐっと言葉を呑んだケイオスがわざとらしい溜息を吐く。

「まぁ、必要ないと思いますが防御のまじないをかけておきましょう。ただし軽いやつです。不自然に見えない程度にしておきます」

「ありがとう、ケイオス。それで充分だ」

「そんな魔法が必要ないことはすぐにわかると思いますけどねぇ」

 ケイオスはそんなことを言いながらも、カフスボタンの上に掌を翳して小さな声で呪文を唱えてくれた。一瞬きらりと宝玉が光ったほかに変化は見受けられなかったが、しっかりと魔法はかかっているのだろう。今度こそ立ち上がって暇乞いしたケイオスがジルが返事をするよりも早く、頭を下げた格好のまま目の前から掻き消えた。あっという間の出来事にこれ以上余計なことを言われないうちに逃げ出したのだとわかって笑う。忙しい彼のこと、これ以上油を売っている暇がなかっただけかもしれないが。



 ふと集中力が途切れるとなにやら演習場が騒がしいことに気づいた。窓際に立って見下ろすと、侍女らしいシンプルなドレスを着たふたりが騎士たちに飲み物を配っているのが見える。目を眇めるとひとりはシャノンであることがわかったが、もうひとりの亜麻色の髪の少女には見覚えがない。そこでエヴィはその理由に思い当たり、口元を笑みに弛めた。やはりケイオスの魔法の腕はたしかであるようだ。

 仕事を中断して演習場へ降りると、彼女に気づいた全員が頭を下げた。気にするなと言ってからジルの方へ近づくと、彼が悪戯っぽく笑いながらスカートを持ち上げて頭を下げた。

「エヴィ第二王女殿下にご挨拶申し上げます」

 それに倣うようにシャノンも頭を下げた。ふたりがこっそりと視線を合わせて微笑み合うのには気づかないふりをしてやる。それでも思わず笑い声を零してしまうと、どうかしたかと周りの騎士に問われた。なんでもないと誤魔化してどうにか冷静を取り繕う。

「ジル、上手く化けたな」

 こっそりと耳打ちしてやれば弟が悪戯が成功した子供のように笑った。その姿はどこからどう見てもジルとは別人の少女にしか見えず、エヴィも気を抜くと誰かの侍女だろうと思い込みそうになる。それほどケイオスがかけた目眩しが完璧で強力なのだろう。これならたとえ目と鼻の先に国王と王妃がいたとしても気づかれる心配はない。

 不意に休憩中の騎士たちが歓声を上げた。何組かが手合わせ中であったが、リオが相手の太刀を跳ね返し追い詰めたところだった。相手は騎士団の中でも手練れで闘技大会にも出場する予定の男だ。毎年参加しており優秀な成績を収めている。エヴィはその試合を腕を組んで面白く見守りながら、傍のジルが目を輝かせてリオを見つめていることに気づいた。あの男はβでありながらここの誰よりも腕が立つ。エヴィでさえ本気で挑まなければ圧倒されてしまうだろう。ジルが見出す前のリオはエヴィの歯牙にもかからなかった。一体どこにこれほどの実力を隠し持っていたのかと驚かされる。有能過ぎるからこそ適当に手を抜くことができることはエヴィが身をもって知っている。

 相手が体勢を崩した隙にリオが切っ先をその喉元へ突きつけた。エヴィは両掌を打ち合わせるとふたりの健闘を讃える。まさかエヴィに見られていたとは思わなかったのか、ふたりが慌てて居直ると頭を下げた。気にせず続けるように言えば、次の組が場に出て手合わせを始めた。

 春先とはいえ昼間の陽射しは強く、日除けがない演習場の土を容赦なく焼く。たった今手合わせを終えた者たちは皆汗みずくで、ジルたちが差し出した飲み物を美味そうに煽った。シャノンに勧められてエヴィも飲んでみたが、ハーブと果物を煮出した茶のようだった。よく冷えていて喉越しもいい。おそらく魔術師の誰かに頼んで冷え続けるようにしてもらったのだろう。騎士団への差し入れだと言えば断る者はいまい。

 ジルがリオに飲み物を手渡すと、受け取った彼が驚いたように目を見開いた。どうやらジルだと気づいたらしいと見えて、エヴィはつい感心してしまう。初々しいふたりは微笑ましくていつまでも見ていられそうだったが、見たいものも見られたことだしそろそろ仕事に戻ることにした。

 エヴィが皆に励むようにと言い置いて去ってしまうと、ジルはリオに角の方へと連れていかれた。彼の反応が可笑しくてくすくすと笑うジルに、リオが困ったように笑い事ではないと言う。ふたりの仲睦まじい様子が気になるのか、他の騎士たちが囃し立ててきた。やめて欲しそうに眉を寄せるリオが見たこともない表情を浮かべているのが更に可笑しい。

「なんだお前、第七王女殿下に忠誠を誓ったはずがどこぞの侍女さんにうつつを抜かしてんのか?隅におけねぇなぁ」

 誰かがそう言って、周りが同調するようにどっと笑い声を上げた。豪快な笑い声が賑やかでジルもつられるように笑みを浮かべていたが、リオの表情は少々引き攣って見える。ジルだって揶揄っているだけだとわかるのに、もしかしたらこういった屈託ない冗談が苦手なのかもしれない。

「少しあちらに参りましょう。ここは少し賑やかなので」

 耳元でそう囁かれて、ジルは彼に連れられて演習場から宿舎の方へと向かった。宿舎は演習場から少し距離を隔てていたので、そこまで行けば向こうの喧騒も大分遠くなった。二階建ての石造りの建物は城内の中でいちばん簡素に見えた。リオの話によれば外側は簡素だが中はそれなりに豪華に設えられているらしい。テラスにあたる部分に丸石がいくつか置かれており、彼に促されるままに腰かけた。リオもすぐ隣の丸石に座る。普段はここで騎士たちが剣の手入れや気兼ねない世間話をしている場所であるらしい。

「よく僕だってわかったね。シャノンもわからないって太鼓判を押してくれたのに」

「たとえジルさまがどんなお姿をしていようともわかります。たしかに今は別人に見えますが」

 そう言って少し照れ臭そうに笑うので、ジルも頬を笑みに崩した。ああすきだなと想う気持ちで胸がいっぱいになって、じんわりとした熱が身体中へ巡っていく。リオが向けてくれる柔らかな視線や優しい言動のひとつひとつから、彼が自分のことを大切に想ってくれていることはわかっていた。ただそれがジルの抱える想いと同じなのかはわからないし、問うことはできない。もし口に出してしまったら、この関係は続けていられないだろうとわかっている。

「僕じゃない姿でリオに逢いに行くのは少し嫌だったんだ。でも、リオが僕だって気づいてくれてうれしい」

「そのお姿もかわいらしいのであまり無防備に出歩かないでくださいね。懸想する輩が出てこられては困りますから」

「これはリオの試合を見に行くための変装だよ?」

「そうだとしても、あなたが他の男に構われているところを見るのは、その、あまりいい気分がしないので。先ほどのようにああやってすぐ軽口を叩く連中なのです。それに可愛い女には目がない」

「リオはああいうのが苦手なのか?僕は楽しそうに見えたけれど」

「俺はあまり人付き合いが得意ではないのです。父に目立つことは控えるようにと言われていたので、これまではあまり人と関わらないようにしていたものですから。先ほどもどう答えたらいいものやらわからなくて」

 心を開けば気安く付き合えそうな男たちのように見えたけれど、リオの立場からすれば一概にそうとは言えないのだろう。王国騎士団に入団させておきながら目立たぬようにしろとは一体どうゆう了見なのだろう。気になったもののその理由がリオを護っているという指環の魔法と結びつくような気がして、気安く口にすることはできなかった。

「今回の変装はよくできていますね。髪や目の色まで違う」

 さり気なく話をそらすようにそう言われて、ジルは内心ほっと胸を撫で下ろした。余計なことを口走らなくて済んだことに安堵する。

「この服にも目眩ましのまじないが織り込んであるらしいんだけど、髪と目の色はこの指環のお陰なんだ。エヴィお姉さまがケイオスに頼んで作ってくれたんだよ。ケイオスは王宮付魔術師なんだけれど」

「そうなのですか。そのケイオス殿というのはすごく有能な魔法使いなのでしょうね」

 ケイオスの名を口にしたところでジルは本来の目的を思い出した。ジルは彼に贈り物を渡すために来たのだ。渡したいものがあるのだと前置きしてスカートのポケットから小箱を取り出す。小箱には細いリボンを結んでおいた。

「これを俺に?」

「この前町に出たときに露店で見つけたんだ。シャノンに頼んで買ってきてもらった。石の色がお前の目の色と同じだろう?」

 箱を開けたリオが惚けたような表情を浮かべてから、その頬をじわじわと笑みに溶かしていった。礼を言う声にじんわりとした喜びが滲んでいるのがわかって、ジルまで嬉しくなってくる。付けてくれないかと言われたので、少し緊張しながらリオの袖の穴に通した。防御魔法がかかっていることは言わないでいるつもりだったが、先程の彼の戦いぶりを見たあとではケイオスの言葉にも頷けた。だから必要ないと言っただろうと言いたげな彼が容易に想像できる。

 緊張する指でどうにか取りつけ終わると、ジルの少し震えていた指にリオが触れた。手の甲に唇を落とされるとなんだかこちらの方がご褒美を貰ったような気分になって、じわりと熱が滲んだ頬を俯いて隠した。うれしそうに笑むその表情が本当に綺麗で直視できなかった。心臓が口から飛び出そうなくらい高鳴って息が苦しい。

「大切にします。贈り物を貰ってこんなにうれしいのは初めてです。必ずやジルさまに勝利をお返し致します」

「ふふ、落ち零れなんて言っていたくせにあんなに強いなんて知らなかった」

「ジルさまの驚く顔を楽しみにしていたのですが、早々にバレてしまいましたね」

 リオが悪戯っぽく笑ってジルの手を離した。もう少し触れていて欲しかったのにと思ってしまう心が煩わしい。いくら彼が親し気に接してくれても、それはジルが彼を護衛騎士として選んだからだ。人付き合いが得意ではないと言っていた彼がこんな風に接してくれているだけでもよいと思わなければいけない。

 そうわかっているのに、どんどんと欲張りになる。彼はβだからいくらジルが運命を感じていても番になることはできないし、いくら隠され続けているとはいえジルは王子だ。身分の差や立場を鑑みれば、この想いを明かしたところできっとリオは困るだろう。目立たないように生きてきたと言われたとき、護衛騎士になりたくなどなかったのかもしれないと思った。そんな彼がジルの我儘で護衛騎士になったばかりか闘技大会にまで出ることになってしまった。それでもジルのためならと言ってくれるリオをこれ以上困らせたくはない。彼が屈託なく接してくれて、笑ってくれるのならこのままで充分過ぎる。

「闘技大会で本気を出したら目立ってしまうだろう?それでもいいの?」

「父はいい顔をしないでしょうね。でもこれでいいのです。落ち零れのままでいたらジルさまの評判に傷がつくでしょう?」

「僕はなにを言われてもいいのに」

「俺が嫌なのです。俺の方こそなにを言われても構いません。でもあなたのことを悪く言われるのは許せない。さっきだってジルさまをどこぞの侍女などと」

「それは誰も僕だって知らないんだからしょうがないよ」

「ええ、本来のジルさまがもっとお美しくて魅力的なことは俺だけが知っているのです。そう想えるのがどんなにしあわせなことか、きっとご存じないでしょうね」

 ふふっと擽ったそうにリオが笑った。なんだかとんでもないことを言われたような気がするのに理解が追いつかない。だって、どうしてもジルの頭は都合のいいように解釈する。世辞を言うことが苦手な彼のことだからその言葉は本心だろう。その言葉の意味を問いたかった。けれどそうする勇気が出ない。

 その刹那リオの指環が陽の光を受けて光った。最初は陽の反射だろうと思ったが、次第にきらきらと輝きを増して存在を誇示していく。ジルの目線に気づいたのかリオも不思議そうに自分の指を見た。手を動かしてもきらきらと輝く光は消えない。

「もしかして本当に魔法の指環なのかな?」

「そうかもしれませんね。それに外そうとして外れないのです」

 その言葉でジルはその指環が魔法の指環なのだという確信を得た。光り続けている指環を不思議そうに眺めるリオの横顔はジルになにかを隠しているようには見えない。それにかかっているのがリオを護るための魔法なら解けなくてもよいのだと思える。

「ケイオスが言っていたんだ。僕のこの新しい指環はリオの指環を参考に創ったんだって。その指環にはリオの外見を変化させるような、そういう類のまじないがかかっているらしい」

 光るのを目の当たりにした以上、その指環の魔法をリオにも知る権利があると思った。もうひとつ絡んでいるらしいまじないについてはジルもよくわからないので話すことは止めておく。目を丸くしてジルの話を聞いていたリオが戸惑うように目を伏せた。急にそんなことを言われたところで簡単に受け入れられやしないだろう。

「ケイオス殿がそうおっしゃるのならそうなのでしょう。俺は一体何者なのでしょうね。罪人の息子でないことを祈るばかりです。もし本当にそうなら、ジルさまのお傍にはいられないでしょうから」

 困ったように力なく笑うリオの様子に胸が締めつけられた。抱き締めたくなる衝動をどうにか怺える。もし隠された彼の過去になにか重大な秘密が隠されていたとしても構わなかった。それだけは伝えなければいけない。

「きっとその魔法をかけた人はリオのことを護ろうとしているんだと思う。それにお前が言うようなことがあったとしても僕は気にしないよ。だから僕の傍にいて欲しい」

 そう言ってしまってから、驚いたような顔をするリオを見てとんでもないことを口走ったことに気づいた。もちろん護衛としてだと慌てて付け加えると、彼の表情が可笑しそうに和らぐ。彼の手がジルの指に触れてそっと握り締められた。少し冷たいのは緊張しているせいだろうか。そうしているうちに指環の光が収まった。外れないと言ったそれは皮膚と溶け合っているように見える。

「お許しいただけるのならいつまでもジルさまのお傍におります。俺が何者でも」

「僕にはお前が悪い人間のようには思えないよ。僕のことを二度も助けてくれたじゃないか。きっとリオを護るためになにか事情があったんだ。今のご両親からなにか聞いていないの?」

「義理の母が昔、寝物語として聞かせてくれたことがあります。たしか悪いお后さまに魔法の指環で姿を変えられてしまった王子さまが、隣の国のお姫さまに出逢って呪いが解ける話でした。この話がなにか関係あるのでしょうか?」

「なんだか御伽噺みたいだな。ケイオスが言うにはそういう物語に出てくるような古い類のまじないだと言っていた。もしかして、お前はその話の王子さまなんじゃないか?」

 半ば揶揄する気持ちでそう言ったらリオが声を上げて笑った。

「まさか。指環が出てくる話だから聞かせてくれただけだと思います。でももしそうだったら、」

 じっと見つめてくる黒曜石の瞳に吸い込まれてしまいそうだった。リオのその言葉の先はシャノンのふたりを呼ぶ声に遮られる。思っていたよりも随分と長くふたりで話し込んでいたらしい。リオが慌てたように返事をして、ジルが立ち上がるのに手を貸してくれた。並んで闘技場の方へと歩きながら、ジルは先程聞けなかった言葉の先をあれこれと夢想せずにはいられなかった。



 闘技大会の日は雲ひとつなく晴れていた。太陽が高く照りつけ普段よりも暑かったが、時折爽やかな風が熱狂する観客たちを撫でていく。闘技場はすり鉢状の建物で、段々に造られた観客席は熱狂する観客たちで埋め尽くされていた。観客は上に行くほど身分が低く、上の方からでは豆粒ほどの大きさでしか見えない。それでも市民たちにしてみれば建国祭最大のイベントをこの目で見られるだけで儲けものだ。町の東側にある闘技場の周りには食べ物や土産物などの臨時の屋台が立ち並び、入りきれなかった市井の人たちで溢れ返っていた。

 ジルは幸い変装を見破られることもなく、シャノンと共にエヴィの侍女として彼女のうしろに控えていた。国王と王妃は真ん中辺りの高さに儲けられた特別席におり、その周りにはエヴィ以外の姉たちもいる。本来その近くにいるはずのエヴィは騎士団長としていちばん下の席にいて、すぐ傍には王宮付魔術師たちも護衛として控えていた。滅多にないが得物が飛んできたときなどに観客を危険から護るためだ。ケイオスもその中にいてジルと目が合うと自分の魔法の出来に満足そうに目を細めた。

 熱狂の渦の中、リオは圧倒的な強さで着実に勝ち進んでいた。明らかに体格さがある他国の傭兵とも対等に打ち合い、寸でのところで打倒したときには割れんばかりの歓声が沸いた。流石に手練れ揃いなので手に汗握る場面も多かったが、リオの反射神経は並大抵のものではなく、どこにそんな強さを隠していたのかとエヴィが呆れているのが可笑しい。ジルは間近でその勇姿を見て胸を高揚させているうちに、身体の熱が普段より高いことに気づいた。相手を打ち負かして額の汗を拭ったリオと視線が合った刹那、跳ね上がった心臓が鼓動を速めて、腹の奥からじわりと熱が滲んでくる。これはまずいと思ったが、高揚しているせいか意識ははっきりとしていた。けれど次第に身体から力が抜けていく。

 ジルの変化に気づいたケイオスが立ち上がって人混みを掻き分けながら近づいてきた。彼に貰った指環のお陰でフェロモンは抑えられているはずだが、これ以上長くここにいては周りのαたちに影響が及ぶ。ケイオスに支えられて立ち上がると、彼が魔法を使ったのか、気づいたときには邸の寝室にいた。ふらふらとベッドに倒れ込むと熱に浮かされ始めた身体を抱き締めるように丸まった。

 あと二回ほど勝てば決勝戦といういいところだったのに残念だ。ヒートの予定はもう少し先のはずだったが、慣れない環境に置かれたせいで早まったのかもしれない。ジルはヒートのときの身体が熱くなって腹の奥が疼く感覚が嫌いだった。身体が勝手に発情して誰彼構わず抱かれたくてたまらなくなるのも嫌だし、これがΩの本能だとわかってはいても自分の身体がはしたなくて泣きたくなる。Ωのヒートには個人差があり、ジルの場合は二日から三日程で収まる。幸いケイオスが手づから煎じてくれる抑制剤がよく効くので助かっていた。

 ケイオスは戸棚から小瓶を取り出すと、グラスに一回分を注いで掌を翳した。渡されたグラスを受け取って煽ると、少しずつ身体の熱が落ち着いていくのを感じる。ジルはグラスをケイオスへと返すと、ゆっくりとベッドから降りてクロゼットを開けた。まだ少し身体に力は入らないけれど、着替えるくらいならできそうだ。

「あの男、本当にβなのですか?」

「あの男?」

「イングリッド卿です。ジルさまのヒートを誘発したように思えましたが」

 もぞもぞと着替えだしたジルに背を向けたケイオスが怪訝そうな声を出す。ケイオスの言い分も一理あるが、周りはαだらけだったので一概にリオのせいとは言えない。彼はジルが知る限りはβであり、リオ自身もそう信じているように思えた。もし本当にヒートが誘発されたのだとしても、それはジルの中の彼へ焦がれる気持ちが昂っただけだ。リオの最高に格好いい姿を目の当たりにして、あの男に抱かれたいと本能が願った。なんと不毛な想いだろう。

「気のせいじゃないか?リオはβだし僕のフェロモンに狂わされたりしない」

 わかり切っている事実なのに言っていて哀しくなってきて、ジルはベッドに潜り込むと身体を丸めるように膝を抱えた。腹の奥で渦巻いている欲は大分収まってきていたが、リオのことを考えるとじわりと滲み出てこようとするのが厄介だ。ケイオスが納得いかないように小さく唸ったが、残念ながら彼を満足させられる答えは持ち合わせていない。

「ケイオスも僕のフェロモンに惑わされないな。αだろう?」

「そうですが、魔術師にバースもへったくれもありませんよ。魔法でどうとでもなりますから。わたしも魔道具でΩのフェロモン感じないようにしていますし」

「知らなかった」

「ジルさまに噛みつこうものならエヴィ殿下に殺されかねませんからね。もしかしたらイングリッド卿の指環にも同じような魔法がかけられている可能性があるかもしれません。調べてみましょうか」

 ケイオスの声にそうに違いないと言いたげな響きを感じ取って、ジルは弱々しい苦笑いを零した。希望を提示されるたびにそうだったらいいのにと願ってしまう。それが嫌だ。

「やめておく」

「もしイングリッド卿がαなら番になれるかもしれませんよ?」

「リオがβだと言うなら僕はそれを信じる。それに僕は彼にΩだと知られたくない」

「ジルさまは臆病ですね。勇気を出して手を伸ばせば応えてくれるとわかっているくせに」

「わかっているからやらないんだ」

 自分に言い聞かせるようにそう言うと、ケイオスがわざとらしく溜息を吐いて寄越した。彼の言い分は充分に理解できるし、ジルのことを思って言ってくれていることもわかってはいた。ジルはこんな浅ましい身体をしていることをリオに知られたくなかったし、打ち明けて受け入れてもらうつもりもなかった。リオが少なからず好意を抱いてくれていることには気づいている。

 だからこそ、手を伸ばす勇気がない。


         ◇◆◇


 リオが翌日の朝いちばんにエヴィの執務室を訪れたとき、彼女はまるでこうなることがわかっていたようだった。昨日最後の相手を打倒して優勝を勝ち取ったとき、真っ先に視線を向けた先にジルはいなかった。なにかあったのだろうかと一気に昂っていた身体から血の気が引いて、勝ち抜いた嬉しさなどどこかへ吹っ飛んだ。そのあとの諸々を終えてすぐにジルの元へと向かったが、シャノンから門前払いを食らって邸の中へ入ることすらできなかった。ジルは具合が悪くてしばらくの間誰かに逢える状態ではないと言う。

 最初は慣れない人込みの中にいたから人に酔って気分が悪くなったのかと思った。けれどそれであれば回復し次第リオに逢ってくれたはずだ。シャノンはどれだけ問い質してもジルの様子を詳しく明かそうとはせず、困ったようにはぐらかしながらも詳しくはエヴィに聞いて欲しいと言った。それでエヴィを訪ねてきたのだが、リオと対峙している彼女は困ったように頭を抱えていた。それ程ジルの容体が悪いのかと問えば、そう言うわけではないと言う。早く傍に飛んでいってやりたいのにそれが叶わないのがもどかしかった。リオが試合を見に来て欲しいなどと言わなければこうなりはしなかったかもしれない。

「お前の気持ちはよくわかるが、こうなるとしばらくの間、わたしたちは誰も逢うことができない。あの邸に入れるのはケイオスとβである使用人たちだけだ。この意味がわかるか?」

 そう問われてまさかと思った。それでいて妙に腑に落ちている自分もいる。心の奥が強く惹き寄せられる感覚や彼から香る甘い匂いにはちゃんと根拠があったのだ。

「ジルさまはΩなのですか?」

 エヴィの沈黙がなによりの答えだった。彼女が重苦しい溜息を吐いて鋭い視線をリオに向けてくる。エヴィに見られていると腹の内を見透かされているような気分になった。彼女はおそらく、リオが抱えるジルに対する想いに気づいている。バース自認がβであるリオがジルに惹かれるのはなにも彼が甘く香るからではない。毎日逢いに行って他愛のないことを話して笑い合っていると、ふとしたときにすきだなと想う。手を伸ばしても触れられる相手ではないとわかってはいるのに、ジルの方も好意的に想ってくれていることが手に取るようにわかるから、つい欲張る心が顔を出す。わざとジルに甘い言葉をかけてそのかわいい反応を見るのがすきだった。少なくとも嫌われてはいないことを、そうやって確認している。

「イングリッド、お前が間違いなくβならジルの元へ行くといい。その方があの子も楽になるだろうから」

「なにをおっしゃりたいのですか?」

「βならジルの相手ができるだろう。想う相手がいるΩのヒートは普段よりもつらいと聞く。お前が真摯にジルを想っているのなら、その気持ちを伝えてやってもいいのではないか?」

 懇願するような視線に言葉が詰まった。どうする?と言葉の外で問われている気がして逡巡した。彼女の執務室は城内でも外れの方に位置しているからか、まだ朝早い今は酷く静かだ。エヴィは辛抱強くリオの答えを待っていた。許されるのなら、自分の望み従うのなら、答えは決まり切っていた。ただそれを口にしてジルとの関係が壊れるのが怖い。

「ジルさまに選ぶ権利があると思います。ご存じの通り俺はβです。ジルさまを想う気持ちは誰にも負けないと自負しておりますが、俺の気持ちだけでは、」

「もちろん決めるのはジルだ。わたしたちは皆、あの子にしあわせになって欲しいと思っている」

「それならばどうして俺を惑わせるようなことを言うのですか」

「ジルがお前を選んだからだ。αであるかどうかは関係ない。ジルはΩの王子という希少な存在で、そのことをお父さまは知らない。あの人のことだからあらゆる国の優秀なαを婚約者にと連れてきて、ジルの運命を探すに決まっている。だからわたしたちはジルをβの王女だと偽って世間から遠ざけていた。ジルにもそのうち縁談の話がくるだろう。それでもわたしたちは少なくともジルが自分で選んだ相手と結んでやりたいと思っている。この際お父さまの意思は関係ない。これはお母さまとわたしたち姉妹の願いなのだ。イングリッド、もう一度言う。お前はジルに選ばれたのだということを忘れるな」

 強い響きの言葉がリオの心に重く落ちてきた。それは迷っている背を押してくれる力強さだった。そうだ、自分は選ばれたのだ。その事実を目の当たりにすると勇気を振り絞ることができそうだった。許されるのならジルに触れたい。華奢な身体を抱き締めたら、きっと自分の腕にすっぽりと収まってしまうだろう。そう考えるだけで胸の奥からいとおしさがじわりと溢れた。彼はきっとすぐには首を縦に振らない。Ωだと知られたことに脅えるかもしれない。

 リオは何者であれ傍にいてと言ってくれたジルの言葉をずっと宝物のように抱えていた。だからどんなに拒まれても諦めるつもりはない。



 ケイオスが煎じてくれた抑制剤を呑んでいるのに腹の奥に熱が燻っている感覚が残っていた。普段なら少し怠いくらいなのに今回のヒートは若干様子が違う。リオのことを考えると途端に欲が顔を出すので、想う相手がいるせいなのだろうと解釈するしかなかった。彼のことだから大会半ばで消えてしまったジルのことを案じてくれているに違いない。誰かが上手いこと誤魔化してくれていればいいけれど、と考えながら甘い息を吐いた。頭を擡げ始めた欲を押しとどめるように、寝返りを打って身体を丸める。今はただ何も考えず今が過ぎるのを待つしかない。そうしてヒートが明けたら素知らぬ顔でリオに逢うのだ。

 断続的に訪れるうとうととした眠りの隙間にノックの音が入り込んできた。ヒートの間は食事を届けることとケイオスが様子を見にくる以外に誰かが訪ねてくることはない。もう次の食事の時間だろうかとぼんやりとした頭で考えながら重たい身体を起こした。シャノンならばノックのあとに声をかけてくれるのに、今は逡巡するような気配だけ伝わってくる。

「だれ?」

 誰何すると戸惑うような時間が流れた。そのあとでずっと聞きたくてたまらなかった声が名を答える。甘い響きを含んだその声がジルの心臓に絡みついて呼吸を忘れる。胸の奥に潜んでいたいとおしさが溢れ出て、身体中を巡るのがわかった。腹の奥が段々と熱くなって、息を潜めていた欲が鎌首を擡げ始める。

「エヴィ第二王女殿下よりお許しを頂いて参上致しました。どうかこの扉を開けていただけませんか?」

 そう懇願する声さえ甘く響いてジルの理性を揺さぶる。駄目だ駄目だと思っても、今すぐリオを招き入れてその胸に縋りつきたくてたまらなくなった。甘い疼きがじわじわと身体中を支配し始めてつい小さく甘い声が漏れる。答えられずにいるとリオが心配そうにジルの名を呼んだ。彼はβだとわかっているのに、扉の隙間からいとしい香りが漂ってくるような気がしてならない。

 少しでも傍に行きたくてベッドを降りた。力が入らない足で扉に近づいて、あと数歩のところで頽れる。石貼りの磨かれた床の温度が熱に浮かされた身体にひんやりと冷たかった。それで少し、頭が冴える。

「どうして来た?」

「βであるのならとお許しを頂きました。俺にできることがあれば、」

「ここにいては駄目だ。僕は大丈夫だから、」

「俺では役不足ですか?」

「違う、そうじゃない。僕が言ってしまったらお前は拒めないだろう?僕はリオを困らせたくないんだ。だから、言わない」

 扉の向こうの彼がどんな表情をしているのか見えないのに、もどかし気に唇を噛むのがわかるような気がした。ジルさま、と名を呼ばれるだけで頭の芯が痺れて、彼の懇願に屈したくなる。これだから恋心は厄介だ。将来別の誰かと番うことがあっても、リオを想う心だけはきっとずっと消えない。だからここで甘えてはいけなかった。いつか彼と離れなければいけなくなったとき、身を引き裂かれるほどにつらくなるとわかっているから、

「ここへは俺の意思で参りました。だからどうかここを開けてください。俺はあなたに触れたい。抱き締めたくて仕様がないのです」

 どうしようもなくすきで、いとおしい男にそこまで言われて拒める勇気などどこにあろう。駄目だと思うのに、気づいたら力の入らない指で扉の鍵を開けていた。かちゃりと鳴る音が妙に響いて、許しを得たように扉がゆっくりと開いた。外に立っていたリオがその表情をいとおしそうに歪めてジルの前に膝をつく。そのまま強く抱き寄せられると、彼から香るいとおしい香りで頭がくらくらした。このまま彼に暴かれて、抱き潰されたいと願ってしまう。

「いい匂いがする、」

 そう言って擦り寄るとリオの鼓動が跳ねるのがわかった。息を呑んだ彼が柔らかな笑みを零して、それはジルさまでしょうと唇を瞼に押し当てられた。普段なら絶対にできないことも、今ならヒート中のぐずぐずにとろけた思考のせいにできる。ずるいとわかっていても、今だけは許されたい。

 不意に伸びてきたリオの指にうなじを撫でられてぞわりと背骨が痺れた。擽るように触れられているだけなのに、身体の疼きがどんどんと増していく。つい甘い声を漏らして縋るようにリオの服を掴むと、それが合図になったように軽々と抱き上げられた。驚く間もなくベッドへと運ばれてそのままシーツへと落とされる。見下ろしてくるリオの瞳に欲情の色を読み取って、興奮しているのが自分だけでないことがこんなにもうれしい。

「だめ、」

 首筋に唇を押し当てられてびくりと身体が跳ねた。短い笑いを零したリオが大丈夫だと甘い声音で答える。

「俺はあなたに噛みついたりはしません」

 耳朶を甘く噛まれると悦びが腰へと溜まっていくようで、早く触って欲しいのに本性を暴かれるのが怖い。身体はジルの意思を離れて昂っていくのに、最後の最後に残った理性が彼に嫌われることを恐れている。

「お前だけには知られたくなかったのに、」

「俺は知りたいです。本当のあなたがどんな風なのか」

 甘い声音がとろりと耳から入り込んで身体に染み渡るようだった。頬を撫でてくれる優しい指が本性を知られる恐怖を解いていく。

「ほんとう?嫌じゃない?」

「お許しいただけてこんなにうれしいことはありません。ジルさまが満足するまで、思う存分可愛がって差し上げます」

 リオがジルの手を恭しく取って、甘い声音で囁いた唇を手の甲に押し当てた。じっと熱に浮いた瞳に見つめられると、身体の熱が更に上がるのがわかった。そう言ってもらえたことがうれしくて思わず笑みが零れる。リオがもどかしそうに上着を脱ぎ棄ててシャツを脱ぐのを見ながら、ジルは最後の理性を手放した。


         ◇◆◇


 ディリンでは建国祭が終わると夏の気配が漂い始める。太陽の陽射しがじりじりと照りつけ石造りの町並みの気温は増すが、空気が乾いているお陰で比較的過ごし易い。そして夏が半ば過ぎた頃にジルは十七回目の誕生日を迎える。これまでは姉たちがささやかな誕生日会を開いて祝ってくれていたが、今年は俄かに周辺が騒がしかった。

 十七歳になるとこの国では成人と認められ、婚約者がいるものは結婚することが多い。一足先に十七歳を迎えたライラとアデルは未だ婚約者を作るつもりがなく、数多の求婚を断り続けている状況だったため、ジルは自分は彼女たちのあとだろうとすっかり安心していた。それにリオとの関係を姉たちも見守ってくれていたので、すべてがこのまま都合がいいように過ぎていくような気さえしていた。

「生誕祭?」

「ええ、そうよ。あなたの十七の生誕祭を盛大に開き、美しく育ったあなたを大々的にお披露目する。そう国王陛下がお決めになられたわ」

 そう宣うて、王妃は優雅に紅茶のカップに口をつけた。王妃が突然ジルの邸を訪ねてきたのは誕生日を一か月後に控えた午後のことだ。青天の霹靂に侍女たちが慌てふためいてどうにかお茶の準備を整えたのだが、王妃はそんなことは気にも留めずにまずジルを抱擁した。ジルを息子として養育することを決めたこの人は世間から七番目の姫を冷遇している黒幕だと思われているが、ジルのことを誰よりも気にかけてくれているのもまた彼女なのだった。姉たちほど頻繁に城を離れることができないので、こうして逢えたときはまず抱擁される。豪奢なドレスが多少邪魔をするものの、ジルは母からの温かな抱擁を受けるたびに自分は愛されているのだと実感する。

 そうして向かい合って落ち着くと、王妃はまず人払いをした。控えていたリオは留め置かれ、それ以外者たちは皆部屋の外に出された。ジルが座るソファのうしろに立つリオを見上げると、冷静を装いながらも戸惑いを隠せない瞳と目が合う。そんなふたりの様子を満足そうに眺めていた王妃が開口いちばんにジルの生誕祭を開くと言う。それをわざわざ王妃直々に告げに来たのだから、話はこれだけではないのだろうとジルは身構えた。嫌な予感が足下から這い上がってくるような気がする。

「お義母さまがこうしていらっしゃるくらいだから、それだけじゃあないんでしょう?僕になにをさせたいのですか?」

「一応、あなたの耳にも入れておこうと思って。ジル、あなたにエルシオンの皇太子殿下より婚約の申し入れがきたわ。国王陛下とエルシオンの皇帝陛下はアカデミー時代の学友でね、いずれ自分の子供たちを結婚させようと約束していたの。エルシオンの皇太子といえば誰よりも優れたαだと言えるでしょう。まぁ、実際があれでは信じがたいでしょうけれどね」

 建国祭の舞踏会での失態を思い出したのだろう、王妃はそう呆れたように吐き捨てた。ジルもあの夜のことを思い出して絶望の淵に落とされる。ジルは特定のαと番うために城の奥に隠されていると言った、あの占い女の声が脳裏に蘇った。王妃はそのことを知っていて、ジルの運命は大国を揺るがすと言う。

 エルシオンはかつての領土戦争で周辺の小国を手中に収めて建国され、その領土はディリンとは比べ物にならない。あの予言は次期皇帝との縁談のことを言っていたのだろうか。いつかこういう話がくるだろうとわかっていた。けれどリオとしあわせな日々が続いている矢先だっただけにショックが大きい。大国との縁談であれば自分よりも姉たちの方が余程相応しいと思えた。いくらジルの運命がそうだと言われても、不相応にも程がある。

「僕には勿体無いお話だと思います。お姉さまたちの方が相応しいのでは、」

「あちらはあなたを所望しているのよ、ジル。一体どこから嗅ぎつけたのか疑問に思っていたの。それで魔術師たちに探らせてみたら、どうやら建国祭の舞踏会であなたを見初めたらしいじゃない。クレイグ皇太子殿下と問題を起こした令嬢はあなただったのね」

 ふふっと王妃が可笑しそうに笑うので、てっきり怒られると思っていたジルは拍子抜けした。随分と雰囲気が寛いだお陰で、婚約を告げられたショックが段々と和らいできた。この母のことだからおそらくジルをあんな男の元へ嫁がせはしないだろう。不安でリオの方へと視線を泳がせると、彼が大丈夫だと言うように小さく頷いてくれた。

「無断で舞踏会に行ったことは悪いことだとわかっています。どうしてもリオに逢いたくてエヴィお姉さまにお願いしたのです」

「ええ、エヴィから聞いたわ。イングリッド卿は随分と優秀な騎士であるようね。先日の闘技大会での優勝も見事だったわ。それに随分と仲睦まじく過ごしているそうね」

 にこやかに笑んでいるように見える鋭い視線を投げられて、リオが息を呑んだ。弁解しようと口を開いたジルを遮るように、リオが胸に手を当てて頭を下げる。

「お褒め頂きありがとうございます。僭越ながらジル王子殿下とは大変親しくさせて頂いております」

「ジルが自ら選んだ相手ならば間違いはないでしょう。βであることが残念だけれど」

「お義母さま、お言葉ですがリオはαに引けを取りません。闘技大会での優勝も見事だったとおっしゃったでしょう?それに、」

 そこまで言ったところで、母が微笑まし気にジルを見守っていることに気づいた。急に恥ずかしくなって縮こまると、熱い頬を隠すように俯く。母にリオとのことが認められたようでうれしくなって、危うく彼への気持ちまで吐露してしまうところだった。いくら王妃にリオが認められていても、それとジルの婚約とは別の話だとわかっている。

「ジル、あなたの気持ちはわかっています。わたくしはあなたをあんな男の元へ嫁がせたりはしないわ。最もあなたが嫁ぐのはエルシオンの皇太子殿下の元であって、あの男の元ではない。エルシオンにはもうひとり正当な血筋の皇子がいらっしゃるのだから」

「もうひとりの?そんな話は聞いたことありませんが」

「ええ、あなたと同じように秘匿されていることだもの。一部の人間しか知らないわ」

「ではその皇子さまが現れたら、その方が僕のお相手ということですか?」

「もし現れたら、の話よ。どこにいらっしゃるのかわからないの。婚約はもう少し待つように陛下に言っておくわ。それとイングリッド卿、生誕祭ではお前がジルのエスコートをしなさい」

「お言葉ですが、俺はジルさまの護衛騎士であって、」

「その日は子爵令息として参加なさい。それならジルとダンスを踊ることもできるでしょう?わたくしはジルを冷遇する悪い継母だもの、パートナーを子爵令息にするくらいお手のものだわ」

 王妃はそう笑ったあと、すぐに和やかな表情を引っ込めた。それから真摯な眼差しをリオに向ける。

「生誕祭にはクレイグ皇太子殿下もいらっしゃるの。ジルを護るのはお前の役目。ジルのことを頼みます」

 その言葉を噛み締めるようにリオが頭を下げると、王妃は満足げな笑みを浮かべた。そして紅茶を飲み干すとそろそろ行くわと立ち上がる。邸の外までエスコートを頼まれたリオが恐縮しながら母と出ていった。ひとりきり残されたジルはなんだかどっと疲れてぐったりとソファの背に身体を預ける。

 どうやら自分は帝国の皇太子と婚約することになるらしい。その事実が急に重たくのしかかってきた。王妃が言ったようにもうひとりの皇子が現れたとしても、それがリオでないのなら誰と結婚しようが同じことのように思える。リオと話した、彼の魔法の指環のことを思い出した。もしリオが魔法にかけられた王子さまだったならどんなにいいだろう。そうしたらきっと物語はめでたしめでたしで終わる。

 あの女の声がまた脳裏に響いた。ジルはもう運命に出逢っていると言う。それがリオだったのならどんなによかっただろう。

 そう思わずにはいられない。



 一方部屋の外に連れ出されたリオはそこに誰も控えていないことに驚いた。城の奥深くで襲撃される可能性は限りなく低くともあまりに無防備だ。王妃は傍仕えと騎士を連れてきていたはずだが彼らの姿はどこにも見えない。戸惑うリオに王妃が微かな笑みを浮かべて、少し話をしようと誘った。回廊に置かれたベンチに腰を下ろしてもらうと、リオは彼女の前に膝をついた。

「ふたりで話をしたくて人払いをしてもらったの。護衛は近くに控えているから安心して。万が一襲撃を受けても、お前ひとりで充分対処できると思うけれど」

「ジルさまには聞かれたくないお話なのですか?」

「ええ、お前にだけ知っていて欲しい話なの。わたくしも詳しくは話せないのだけれど、あの子のために危険を冒す価値はあるわ。リオ、お前は自分のことをどれくらい知っている?幼い頃の記憶がないのではなくて?」

 図星を抉られたのを悟られないようにしながらも、どうして彼女がそのことを知っているのだろうと考えた。リオと親し気に呼ばれたことで緊張が一気に高まる。

 この人はリオの隠されている過去のことを知っているのかもしれない。そう考えたら、気持ちを落ち着かせるように息を吐いても左程意味がなかった。

「幼い頃イングリッド家に養子として引き取られたと聞いています。王妃殿下のおっしゃる通り引き取られる前の記憶はありませんし、どこの馬の骨かわかりません。もしや王妃殿下は俺がジルさまの相手には相応しくないとおっしゃりたいのですか?」

「あら、そんなことを心配しているの?お前がジルに選ばれたのなら、それ以上に正しいことなどないわ。わたくしはお前がジルをしあわせにしてくれると信じているもの」

「ですが先ほど、ジルさまはエルシオンの皇太子と婚約すると」

「そうよ。正しい血筋の正統な皇太子が現れたのなら」

「王妃殿下はクレイグ皇太子殿下が正統ではないとお考えなのですか?」

 人払いはしてあるとは言え、リオは王妃だけに聞こえるように声を落とした。彼女は小さく頷くと、今はこれ以上は言えないのと困ったように眉を寄せる。

「ひとつだけ言えるのは、今皇太子の座にのうのうと踏ん反り返っているあの男は皇帝の器ではないと言うこと。皇太子ともあろう者が舞踏会で令嬢と問題を起こしたりはしないでしょう。陛下もお怒りになられていたから、あの男からの求婚を承諾するとは思わなかったのだけれど」

「皇帝陛下とのお約束があったから仕方なく、ということでしょうか」

「それもあるでしょうけれど、あの人はただジルにいちばんしあわせな嫁ぎ先を用意してやりたいだけなのよ。わたくしはエルシオンに嫁がせるくらいならお前と結ばれた方が余程しあわせなことだと思うけれど。まぁ、結局は同じことね」

 頭が痛いと言いたげに王妃は額に手をやった。それから重苦しい溜息を吐き出すと、両手でリオの手を握り締める。あまりのことに動けずにいると、王妃のか細い指がリオの指環を撫でた。慈しむような指の動きに戸惑いを隠せずにいると、けしてこれは外しては駄目だと念を押される。

「母からもそう言われております。その理由を王妃殿下はご存じなのですか?」

「ええ、もちろん。これにはお前を護るための魔法がかかっているの。時が満ちたらその魔法は解ける」

「それははいつなのですか?」

「わたくしにもわからないわ。けれどそのときが来たらすべてを話すと約束する」

 王妃の話はそれで終わりのようだった。わかったかと念を押されて頷いたものの、リオの混乱は収まるどころか増すばかりだ。王妃が立ち上がるとどこからともなく侍女と護衛が現れた。その背を頭を下げたまま見送って扉が閉まると、今ここに彼女がいたことも話された内容もすべてが夢のように思える。

 第一、リオは王女の護衛騎士とはいえ王妃に謁見できるような立場ではなかった。彼女が突然訪ねてきたときもジルに逢いに来ただけで自分には関係ないとさえ思っていた。彼との関係を認めてもらえたのは予想外の収穫ではあったものの、話された内容に関しては疑問しか残らない。リオが覚えていない幼少期の記憶がこの指環を外す鍵なのだろうか。もしかして彼女はリオが正統な皇子となにか関係があるとでも言いたいのだろうか。

 急に頭に鋭い痛みを覚えて、リオはそれ以上考えることができなかった。ズキズキとした締めつけるような痛みに思わず蹲ると、頭の中で今し方聞いた話がぐるぐると反芻された。しばらくそうしているうちに痛みが和らぎ出した頃には、不思議となにを考えていたのかわからなくなっていた。


         ◇◆◇


 ひた隠しにされてきたジルの生誕祭が初めて開かれるとあって、国中が驚きと祝福で満ち満ちていた。各国からも噂を聞きつけた商人などが集まり、賑やかしいお祭り騒ぎとなっている。王宮内にもジルの存在が周知され、王女ではなく王子であった事実と共に驚きを持って受け入れられた。王妃や姉たちが上手いこと説明してくれたお陰で大きな混乱も起きず、ジルは生誕祭の準備のためだと姉たちに宥めすかされて城内の一角に住まいを移すこととなった。新しい居室は嫁いでいった三番目の姉が使っていた部屋だったが、設えや家具はすべて新調されていた。クロゼットの中にはめいっぱいの洋服が詰め込まれていたが、そこにドレスが一着もかかっていないことが少し変な感じだ。

 以前何度か父王が折を見てジルを城内へ移そうと試みたことがあったが、そのときは王妃や姉たちの反対に合って実現はしなかった。使用人との間にできた子供を城に住まわせるわけにはいかない。そう言い放った王妃のひと言が決定打だった。本当は誰よりもジルのことを案じてくれている彼女の迫真の演技は父王の口を黙らせるのには充分だった。意地悪な継母役に徹してくれた王妃のお役もこれでようやくご免だろう。

 城の中はライラとアデルが交代で案内してくれたが、広過ぎでどこがどこだか迷ってしまう。度々警備で出入りしていたリオの方が詳しいくらいで、一度案内された道筋はすぐに覚えてくれるのでジルは迷わなくて済んでいた。常に一緒にいるせいか、新しい王子を見る物珍しそうな視線に俄な微笑ましさが混じっているようにも感じる。双子の姉たちは不思議そうにしているジルを面白がって、お似合いなのよと揶揄う始末だ。

「生誕祭でのジルのエスコートはイングリッド卿だともっぱらの噂だもの。どんな男なのかとみんな気になるのは当然だわ。それに闘技大会で優勝したでしょう。あの容姿に加えて能力もあるだなんて、βとはいえ侍女や令嬢たちの注目の的なのよ」

「それだけ注目されているリオの相手が僕で大丈夫なのかな。Ωの王子なんて前代未聞なんだろう?」

「あら、特別感があって素敵じゃない。それにあなたをエスコートできる栄光を噛み締めなきゃいけないのはイングリッド卿の方よ」

 鏡越しに目線を送る先でライラが呆れたように嘆息した。ジルは鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめながら、姉たちや他の令嬢たちの方が余程美しいのではないかと思ってしまう。意を決して舞踏会に行ったあの日はケイオスの指環があったから勇気を出せたのだ。素の自分のまま生誕祭の主役として披露されなければならない重圧は、今からジルを押し潰さんばかりだった。

 誕生日当日は朝から城中が夕方から始まる舞踏会に向けての準備でばたついていた。ジルは身に付ける衣装の最終調整という名目で鏡の前に立たされていた。お針子たちがジルの周りにまとわりつき、細かなデザインや寸法の調整をしているのをライラが厳しい目で見張っている。思えばこの衣装のデザインに辿り着くまでの試行錯誤は大変だった。王子として披露される以上はドレスを着るわけにもいかず、かといって男物のスーツではリオと並んだときのバランスが取れない。毎日のように何度も衣装合わせが行われた結果、ドレスのように広がった上衣の下に細身のパンツを合わせる中性的なデザインに落ち着いた。上衣のデザインは華やかでドレスにも引けを取らない。実際出来上がった衣装はジルによく似合っていたが、どういう反応を持って受け入れられるだろうと考えると気が重い。社交界は新しいことに敏感だが、それと同時に伝統も大切にしているので審査の目が厳しいのだ。

 ジルが少々うんざりし始めた頃、隣の部屋で衣装を合わせていたリオがアデルに伴われて戻ってきた。リオは少々恥ずかし気な様子だったがアデルに背を叩かれて胸を張る。形は普段の騎士服とそう変わりはしないものの、生地の色や細やかな装飾がジルと並んだときに揃うようにデザインされていた。長身の彼がそれを着ると見惚れるくらいによく似合う。あまりにその姿が素敵なので隣に自分が立つのだと思うとまた気が重くなった。この姿のリオが舞踏会に放り込まれたら、我先にと令嬢たちが群がるに違いない。

「どこからどう見てもお似合いね!これならつけ入る隙がないと見せつけられるでしょう」

 ふたりをまじまじと見たアデルが満足そうに頷くとすかさずライラが、

「ジル、舞踏会にはエルシオンのクレイグ皇太子殿下もいらっしゃるわ。婚約の件は保留中だけれど、あなたにはパートナーがいるのだとしっかりと見せつけてやらないとね」

 と意気込む。そんなことをして大丈夫なのだろうかとほんの少し不安もあるものの、彼女たちがそう言うのなら大丈夫なのだろう。

 婚約は国王が妻の意見を鑑みて一端保留となったものの、破談までには至らなかった。王女だと思われていた七番目の子供が王子であってもΩならば子を孕める。他の王女ではどうだろう、と言うわけにもいかず、話し合いは平行線を辿っているらしい。そんな最中に相手の皇太子が訪れるとあっては、姉たちもなにもせずにはいられないのだった。

「いかがでしょうか?あまりこういう服は着慣れなくて。おかしくないですか?」

「すごく恰好いいよ。僕が見劣りしないか心配になるくらい」

「まさか。ジルさまはそのままのお姿がいちばん素敵です。俺だけの秘密にしてずっと隠しておきたかったのですが残念ですね」

 リオがそう冗談めかして笑うので、思わずジルの頬も笑みに崩れた。彼にそう言われただけで憂鬱も不安もすべて吹き飛んでしまう。鏡に並ぶ姿を見てみると中々に釣り合っている気がして安心した。エルシオンの皇太子を牽制することができるかはわからないが、少なくとも美しい令嬢たちには太刀打ちができそうだ。

「ジルさまをエスコートするに足る男に見えるでしょうか?」

「お姉さまたちのお墨付きだもの、大丈夫だよ。それにお父さまだって認めてくださっただろう?」

「一時的に、という感じでしたけれど。まさか王妃殿下に続いて国王陛下に謁見する機会が巡ってくるとは夢にも思いませんでした」

 そのときの緊張を思い出したようにリオが苦笑う。国王はリオがジルをエスコートすることは認めたが、渋々といった様子を隠そうとしていなかった。王妃が説き伏せて承諾させた、と言った方が正しいだろう。それでも容認があるのとないのとでは雲泥の差だ。しかし彼がジルの恋人に近しい男であるということは未だ伏せられていた。娘だと思っていた子が男で、しかもΩであった事実をまだうまく呑み込めていないようなので、そのことは機会を見て説明した方がいいと王妃が決めたからだ。

「いつか認めてもらえる日がくるでしょうか?どこの馬の骨ともわからない男にかわいい息子を奪われるわけですから」

「反対されたらどうする?」

「そうですね。攫って逃げましょうか?」

 揶揄するように笑った唇を恭しく手の甲に落とされると、そこからじんわりとした熱が全身に広がっていくようだった。擽ったくなって身を捩るとリオの袖口に付けられたカフスボタンが目に入る。彼はそれをジルが贈ったときからずっと大切に身に付けてくれていた。彼の瞳とお揃いの真っ黒な宝玉が光を受けて艶やかに光る。

「これ、付けてくれたのか?」

「ジルさまから頂いた俺の宝物ですから。アデル王女殿下にご相談したら、これを付けられるように調整してくださったのです」

 リオがうれしそうに笑う横でジルもうれしさを隠し切れなかった。頬が笑みに崩れると彼の指が擽るように伸びてくる。いとおしそじっと見つめられると、頬にじわりと熱が滲むのがわかった。

 ヒートを共に過ごしてからというもの、彼の行動には恋人に対するような甘さが含まれるようになった。それがジルの心を甘く熟ませて、どんどんと欲張りにさせる。

 本音を言うと舞踏会などすっぽかして彼とふたりきりで過ごしたかった。生誕祭は二日通して行われジルは明日十七歳になる。自分のために国中がお祝い騒ぎをしてくれていることはうれしかったが、姉たちが祝ってくれるささやかな誕生日会の方がいいし、たくさんの人に祝われるよりも大切な人たちから貰う祝いの言葉の方がうれしい。十七歳の誕生日は一度きりで、成人を迎える特別な日だ。初めての恋に浮かれているジルにとって、その特別な日をふたりきりで祝いたいと願うのは仕方のないことだ。

「緊張してらっしゃいますか?」

「まさかこんな日がくるなんて夢にも思わなかったから。お姉さまたちは毎年大々的に祝われていたけどそれに出たこともなかったし。今年もそうなんだと思ってたんだ。僕はただお前やお姉さまにおめでとうと言ってもらえるだけで充分なんだよ」

「では、舞踏会のあとふたりきりでお祝いしましょうか?」

 リオがジルの耳元に唇を寄せてそう声を落とした。驚いて彼を見るとあとで部屋に行くからと笑う。耳心地のよい甘さが滲んだ声が身体に染み渡って、心臓を柔く握られるような切なさを覚えた。こんなことをするくせに、リオはジルとの間にきっちりとした境界線を引いている。たとえばヒートのときはジルに触れるだけで最後まで抱こうとはしないし、くちづけを交わすこともない。ぐずぐずになったジルがいくら強請っても、彼の理性はΩのフェロモンで失われたりはしなかった。きっとそれは彼なりのけじめのようなものなのだ、とジルは思っている。

 王族に恋慕を抱き、その身体に触れるのは大罪だ。いくつか例外はあるものの、基本的には婚約者以外の者が触れることは許されない。リオが許されているのはジルが彼を選んだという大前提の元、彼がβであることが大きい。Ωのフェロモンに惑わされはしても自我を失わず、ヒートの間中理性を保つことができるからだ。姉たちはリオがαだったのなら丸く収まったのに、と言いたげな雰囲気を醸しているが、もしそうだったのなら今のような関係性は築けていなかっただろう。婚約者以外のαが相手だったら、いくらジルが運命だと主張しても身分の壁が立ちはだかったはずだ。

「いいの?もしかしたらほら、ご令嬢たちといい雰囲気になるかもしれないし、」

「まさか。俺はあなたのお傍にいるためだけに舞踏会に参加するのです。それに俺は誰よりも先ににジルさまを祝いたい。その権利を俺にくださいませんか?」

 甘い笑みを浮かべたリオが強請るようにジルの指にくちづけを落とした。ジルが断わるわけがないと知っていてやっているのだとわかってはいるのに、うれしくてたまらないのだから仕様がない。胸が高鳴って気分が高揚してきた。彼との甘い約束があれば、このあとの舞踏会だって乗り切れそうな気がしてくる。ジルの憂鬱な気持ちを見越してそう言ってくれているのなら、彼は相当優秀だ。

 すっかりふたりの世界に入っているのを半ば呆れたように見守っていたライラとアデルは、顔を見合わせて苦笑いを漏らすとわざとらしい咳払いをした。しあわせそうなふたりを眺めているのも悪くはなかったが、今日は生憎と忙しい。リオはこのあと警備に関しての確認に赴かなければならないし、ジルも式典の流れを確認しなければならない。我に返ったジルが照れ隠すようにもじもじするのを見てリオが慈しむような笑みを零した。

 タイミングを見計らったように扉がノックされエヴィが顔を出した。どうやらリオを呼びに来るついでにジルの顔を見に来たらしい。警備責任者として式典に参加する彼女は騎士団長の制服姿だった。その姿は惚れ惚れするほど凛々しかったが、貴重なドレス姿を拝めないとあっては残念がる令息たちが多くいるに違いない。エヴィが部屋に入るに合わせてリオが頭を下げた。ジルとライラとアデルも軽く頭を下げる。

「エヴィ騎士団長殿下にご挨拶申し上げます」

「さまになっているじゃないか。ジルもよく似合っているぞ」

「そうでしょう、お姉さま。これでは誰も文句は言えないわ」

「ふたりがお似合いだと見せつけなくては」

 ジルがなにかを言う前に、ライラとアデルがそう畳みかけた。エヴィはその意気込んだ様子に苦笑って、そうだなと認める。

「貴族たちの中にはβとΩを下に見る者もいる。ジルの容姿は好き勝手噂されているし、イングリッドの方はαを破ったβとして持て囃されている。表立って口にする者はいないだろうが嫌な思いもするだろう。令息たちの中にはジルをどうにかしようとする者が出るかもしれないし、イングリッドと踊りたい令嬢も多々いるだろう。特にエルシオンのクレイグ皇太子がなにか仕掛けてくるかもしれない。ジルが王女じゃなくとも諦める気はないようだからな」

「大丈夫です、ジルさまのことは必ずお守り申し上げます」

「令嬢たちからダンスを求められたらどうする?お前よりも爵位が高い者に誘われた場合はどうするんだ?」

 舞踏会には若い貴族令嬢や令息も多数参加するため、婚約者がいない者たちにとってはよい出会いの場だ。爵位の低い者が高い者からダンスに誘われた場合、断ることは失礼だと見做される。βのリオがαの令嬢からダンスを請われ、更に爵位がリオよりも上の場合は断ることが難しい。大半がαである貴族の中ではβである者の情報は出回っているし、この度の闘技大会で名を上げたリオは令嬢たちの間でもっぱらの噂だ。βでありながら能力が高く容姿も整っているリオは、その辺の家名を笠に着て威張り散らすαの令息たちよりも余程隣に立たせるに相応しいと思われ始めていた。もしリオが他の令嬢と踊っている隙にジルに魔の手が忍び寄ったら、と考えるとエヴィは背筋が寒くなる。その気持ちを知ってか知らずか、リオはエヴィを真っ直ぐに見返してきた。

「俺はジルさま以外と踊るつもりはありませんし、お傍を離れるつもりもありません」

 あまりに真摯なその視線に思わずエヴィの口元が綻んだ。突然笑い出した上司にぽかんとするリオをライラとアデルが笑う。ジルは姉たちに合わせて微笑を浮かべながら、真っ直ぐなリオの想いに胸を打たれていた。彼がいればどんな誹謗にあったとしても大丈夫だと思える。

「そこまで言うならお前を信用しよう。お前ならジルを危険な目に遭わせやしないだろうがな」

「勿論です。必ずやご期待に応えましょう」

「馬鹿な行いをする者がいないことを願うが、用心に越したことはない。ジル、これを必ず付けてくるように」

 ジルがエヴィから差し出された小箱を開くと台座に指環がふたつ収まっていた。細身のシンプルなデザインで、今までケイオスが作ってくれた魔道具とよく似ている。またエヴィに無茶を言われたと文句を言う彼の顔が目に浮かぶようだった。きっとこれも彼女に無理難題を言われて彼が拵えたものだろう。

「ふたつ?」

「ジルの方にはαのフェロモンを防ぐ魔法がかかっている。もちろん、ジルのフェロモンを抑える効果もある」

「ありがとうございます、エヴィお姉さま。リオの方にもなにか魔法が?」

「いや、どうせなら揃いで付けていた方が牽制になると思ってな」

 にやりと悪戯に笑ったエヴィの意図を汲んだのか、リオがジルの手から小箱を取り上げて目の前に片膝をついた。恭しく右掌を持ち上げられると心臓が逸って、息が上手くできなくなる。薬指に指環を通されると彼の指が微かに震えているのがわかった。正式なことではなくともリオもジルと同じように緊張しているのだ。

 ジルも同じようにリオの指に指環を填めると姉たちが祝福の拍手をくれた。感極まったリオにきつく抱き寄せられると、彼の鼓動と自分の鼓動が合わさってどんどんと高鳴っていく。呆れたような感嘆を零した姉たちがひそひそとなにか話している気配がしたが、リオの腕の中にいるとあとのことはどうでもよくなってしまう。

 もしかしたら彼と正式に指環を交換する未来はこないかもしれない。だから今だけは、どんな理由があれ彼のものだという証がうれしかった。縋るように彼の服を握り締めるとリオが少し身体を離してジルの頬に唇で触れる。その擽ったさに笑みを零すと、彼の唇がジルの鼻頭を啄んだ。

 姉たちはどうにかしてこのふたりをしあわせにしてやりたいと願いながらも、さり気なく目配せをし合ってふたりに自分たちの存在を思い出させた。気恥ずかし気に離れたふたりを揶揄するように笑ってから、エヴィがリオを連れて部屋を出ていった。ジルは先ほどのことを姉たちに見られていたことに頬を赤らめたが、ライラとアデルは知らんふりを決め込んでくれたらしい。式典の流れの説明をさっさと済ませると、侍女を呼んでお茶の用意をさせる。

 普段着に着替えて一息吐くと、先程リオに填めてもらった指環をまじまじと見つめた。今までの魔道具と大して変わらないのに、これが彼とお揃いであるという事実が特別な物にさせる。そんな様子のジルにライラとアデルが微笑ましい笑みを浮かべた。

「ジルはいい人を見つけたわね。βなのが信じられないくらい素敵だもの、令嬢たちが噂するのも無理はないわ。あの人はβでありながら隣に立たせても恥ずかしくはないと認められたのよ」

 ライラの言葉に被せるようにアデルも同意する。

「わたしもそう思う。貴族同士お互いの家門のことは大体把握しているけれど、イングリッド卿のことは今まで話題には上がっていなかった。それが急に頭角を現したのはきっとジルのためよ。多くのαの中で不安でしょうけれど、あの人の傍にいれば大丈夫だと思うわ。けれど充分に気をつけてね。あなたはΩだけれど王家の血筋。番になれれば抜きんでられると考える輩もいるかもしれない」

「大半の貴族は常識がある人達よ。ただクレイグ皇太子殿下のように権力を笠に着て下の者を見下す者たちもいるわ。聞こえるようにわざとひそひそ話をするような人たちだっているのよ」

「わたしたちはあなたが傷つかないか心配なの。だから誰にも負けないくらい美しく着飾らせたい。イングリッド卿とお似合いだと誰もが認めれば、お父さまだって婚約を諦めるかもしれないわ」

「色々と心配してくれてありがとう、お姉さま。リオが一緒にいてくれるから大丈夫だと思う。さっき僕を絶対に護るって言ってくれたとき、すごくうれしかったし安心したんだ」

「そうね。ただイングリッド卿も顔には出さないけれど不安に思っていることはあると思うわ。ジル、彼はβなの。あなたたちが想い合っているのはわかっているし、わたしたちも認めている。でも残念ながら番にはなれないでしょう?」

 アデルの言葉が鋭さを持ってジルの心に落ちてきた。わかり切っていることを改めて突きつけられるつらさに言葉を失う。その様子を見たライラが慌てたようにアデルの言葉を補足した。

「ジル、アデルは今日招かれたαたちの中にあなたの本当の運命の番がいるかもしれないと懸念しているのよ。イングリッド卿だってわかっているはずだわ。そして出逢わないことを祈っている。噂に聞くだけだけれど、運命に出逢ってしまったらそれまでどれほど愛した人がいようとその人に問答無用で惹かれてしまう。人はそれを運命と呼ぶのでしょうけれど、相手がいた者にとってこんなに残酷なことはない」

 なんだ、そういうことかと身体の力が抜けた。手を優しく握りしめてくれるライラの手は、少しひんやりとしていて滑らかだった。姉たちの懸念は理解できたし、ジルに現実を見せようとしているわけではないとわかってほっとしたが、運命の相手云々は自分には関係ないことのように感じる。ジルはリオと初めて出逢ったとき、彼がβとは知らずに運命の相手だとわかった。心の奥を強く惹かれて問答無用で恋に突き落とされた。ひと目惚れによる錯覚だと言われればそうかもしれない。それでもジルはリオに感じているような愛情を他の誰かに感じることは、きっとこの先ないだろうと思う。

「僕に運命の相手が現れることはないと思う。リオはαではなかったけれど、彼に出逢ったときにこの人が僕の運命の相手だってわかった。だからもし仮に別の相手が現れても僕はリオを選ぶ。それにリオからは微かに甘い匂いがするんだ」

「甘い匂い?」

「ヒートのときにその匂いを嗅ぐと、この人なんだなって思う」

 ライラとアデルが怪訝そうな顔を見合わせた。それは気のせいだと言われそうな気もしたが、ジルは確実にリオの香りを嗅いでいる。あの甘やかで優しい匂いを吸い込むとしあわせな気持ちになるし、その香りに包まれると安心して身を委ねられる。ヒートのときにしか感じないのでそれを証明することは難しい。リオ自身も気づいていないようなそれは、ジルにだけ感じ取れる特別なものなのかもしれない。

「ジル、それはおそらくαのフェロモンよ。イングリッド卿はたしかにβなのよね?ヒートのときに我を忘れたりは?」

 ライラにそう問われて首を振った。アデルと顔を合わせた彼女が考え込むように唇に指を当てる。

「アデルはどう思う?もしもイングリッド卿がαだったら…?」

「たしかに彼はαに匹敵する能力を持っていると思うわ。βにしては有能過ぎる程よ。けれど彼はβだと何度もわたしたちに言っているじゃない。エヴィお姉さまもβだとおっしゃっていたし」

「それはあくまで自己申告でしょう?なにか事情があって本人にも隠されているのかもしれないわ。ケイオスなら、」

「闘技大会のとき、リオが僕のヒートを誘発したんじゃないかってケイオスが疑っていたけど、調べるのは止めてもらったんだ」

 ライラの言葉を遮るようにそう言うと、彼女が意外そうに目を丸くした。この話がこれ以上飛躍していくと、リオにかかっている呪いのことまで明かさなければならなくなる。それはジルたちが勝手に暴いていい類のものではないような気がしていた。それにジルは彼が返してくれる気持ちが本物であれば充分だ。

「もし彼がαなら番になれるのよ。可能性に賭けてみてもいいと思うわ」

「ケイオスにも同じことを言われたよ。でも、僕はリオがβだと言うのなら彼の言うことを信じたいんだ。それにもしそうだったとしても、リオの運命の相手が僕だとは限らない。それなら今のまま、僕をすきでいてくれるリオがいい」

 真っ直ぐに姉たちを見返すと、彼女たちは再び顔を見合わせると観念したようにわかったわと頷いた。

「ジルがいいならいいのよ。まぁ、もし彼に別の運命があったとしてもあなたを選ぶと思うけれどね」

 嘆息交じりにそう言われたアデルの言葉に、そうだったらいいのにと思った。思うだけで口には出さなかったけれど。



 式典は滞りなく始まり、ジルは思っていたよりも寛容に貴族たちに受け入れられたようだった。国王に紹介されてリオとダンスを踊ったあとはしばし歓談となっていたが、少なくともあからさまに非難する言葉は聞こえてこない。ライラとアデルがさり気なく近くにいてくれるお陰で、令嬢たちのグループもこちらを盗み見てひそひそと話すだけに留めている。

 事前に挨拶に来る令息が多いだろうと言われていたものの、こんなに目まぐるしいのは予想外だった。年配の貴族たちが挙って息子や甥を紹介したり、渋々娘や姪を連れてきたりする。今まで貴族社会には明るくなかったが、それでも重要な家門の名前くらいは覚えていた。その人たちが我先にと挨拶に訪れたものだから、ジルはダンスの相手を断るのに苦労した。慣れていないおずおずとした態度がまたαたちには珍しかったのか、はたまたΩと知って見下しているのか、妙に馴れ馴れしくされたりする。結局誰もが傍に控えているリオに睨まれて退散するので、βに追い返されるαの悔しそうな様子が面白いのか、ライラとアデルは口元を扇子で隠して終始笑っていた。

 主役のジルが目立っているのは仕方がないものの、リオも姉たちが太鼓判を押した通り粒揃いのαの中でも抜きん出ていた。容姿も申し分ないし、令嬢たちも隣に立たせるには充分だと思っているのが手に取るようにわかる。社交界の華と称賛される美しい令嬢たちからこれ見よがしに視線を送られてもリオが全く相手にしないので、終いには誰もがどんどんとやきもきしていく。舞踏会ではパートナーがいても同じ相手とばかり踊ることは少なく、社交を深めるために色々な相手と踊るのが習わしだ。彼女たちはまさか相手にされないとは思ってもみず、プライドがへし折られていくのが哀れだった。共に踊れるとなれば自慢できるような令嬢たちばかりだ。

「ジルさま、もう一曲お相手願えますか?」

 懲りずにダンスに誘う男を一瞥して、リオがジルの前に膝をついた。丁度音楽が流れだしたのでその手を取って広間の真ん中へと移動する。ジルはリオ以外と踊るつもりはなかったものの、ここまで誘われ続けると断るよりも一曲くらい踊った方が無難なのではないかと思い始めた。ライラとアデルも曲が変わるたびに誘われるがまま色々な相手とダンスに興じている。彼女たちには婚約者がいないので、あわよくばと思っている者も中にはいるに違いない。王女と踊れる栄光を手にできただけでもここへ来た価値がある。

「ねぇ、リオ。他の人とも一曲くらい踊ってあげてもいいんじゃないかな」

 リオに相手にされない女の子たちがなんだか憐れに見えて、ついそんなことを言ってしまった。リオが他の令嬢と踊っている間はライラかアデルに付き添ってもらえばいい。

「俺はあなたと踊れる栄光を他の男に渡すつもりはありません。それに、その間にクレイグ皇太子殿下が近づいてきたらどうされるのです?」

「お姉さまたちと一緒にいたら大丈夫じゃないかな。一曲くらいなら」

「それではジルさまは俺が他のご令嬢と踊ってもなんとも思われないのですね?こんな風に密着しても?」

 リオが揶揄するようにジルの腰をわざとらしく抱き寄せた。不意の出来事に思わず息を呑むジルを、挑発するような光を湛えた瞳が見下ろしてくる。言われた通り、リオが他の女の子と身体を密着させて踊るところを見るのはいい気分ではないかもしれない。リオだっていい気分がしないからジルを他の男と踊らそうとはしないのだ。大人しく非を認めるとリオが満足そうに眦を弛めて、ジルの身体を持ち上げた。軽々と持ち上げられてしまうとうれしいような哀しいような、男としては少し複雑な気分になる。くるりと華麗にターンすると感嘆するような声が周りから漏れて、音楽が終わる頃には割れんばかりの拍手が起こった。

 その最中を攫われるように隅の壁際に追い詰められた。近しい距離に鼓動が跳ね上がったが、間近で見上げる彼の顔が先ほどとは打って変わって緊張に張り詰めていた。少し顔色も悪いような気がしてその頬にそっと触れる。広間では立て続けに次の曲が始まっていた。幸いふたりを追ってくる者はなく、今しばらくは放っておいてくれそうだ。

「リオ?顔色が悪いよ」

「急に嫌な予感に襲われたのです。鋭い殺意を感じたような気がして」

 リオがさり気なく辺りを見回してようやく表情を弛めた。安堵するようにジルの手を握り締めてそっと頬を摺り寄せる。広間の警備は万全なはずだが、これだけの人間がいればひとりくらい刺客を紛れ込ませることもできよう。彼の肩越しに見る限り怪しい人物はいないようだが、日々鍛錬で研ぎ澄まされた感覚でしかわからない微かな気配があったのだろう。ここに集まっているのは有力者の娘や息子が多いので標的がジルだとは限らない。

「もう大丈夫そうです。俺の気のせいであればいいのですが」

「念のためエヴィお姉さまに知らせておく?」

「そうですね。ケイオス殿に知らせてもらいましょうか」

 ジルがその言葉の意味を訪ねる前にリオがカフスの宝玉にそっと触れた。一瞬だけ光が瞬いてすぐに元の状態に戻る。これで大丈夫だと彼が得意げに笑うので、どうやらケイオスがなにか魔法を仕込んでおいたらしいことに気づいた。

「それでこちらの様子が伝わるの?」

「そのようです。この宝玉を通して我々の周りに怪しい者がいないかを監視しているようです。俺がなにか気づいたら触れて合図を送ることになっています。おそらくそのうちにケイオス殿もこちらにいらっしゃるでしょう」

 ケイオスが監視してくれているのなら危ないことは起こらないだろうと思えた。おそらく広間全体にも悪いことを防ぐ防護魔法がかけられているに違いない。音楽に合わせて優雅に踊っている貴族たちはあくまでも礼儀正しく、逸脱した行動をしている様子は見受けられなかった。騒ぎが起こっている様子もないし、このまま和やかな時間が過ぎていくように思えた。

 夜が更けてくると舞踏会を見守っていた国王と王妃が退席した。それを機に帰る者もいたが、若者たちはまだ多く残っていた。国王夫婦の目がないからか少し賑やかしさが増し羽目を外す者も増えてくる。令嬢たちはサロンに移動してお喋りに花を咲かせたり、令息たちが気になる令嬢を口説く様子がそこここに見られ始めた。それも当たり前の光景であるようで、見かけるたびにはらはらするジルを尻目にリオは平然としている。

「ジルには少し刺激が強いわね。そろそろ部屋に戻っていいのよ」

「そうよ、随分と頑張ったわ。明日もあるのだし、今日はもう休むといいわ」

 夜が大分更けた頃ライラとアデルがそう気遣ってくれたので、ジルは一足先に部屋に戻ることにした。舞踏会自体は日付が変わる頃まで続く予定だが、まだ一時間以上もある。ジルたちに興味を示していた貴族たちも今はそれぞれのお相手に夢中で、こっそり抜けてしまっても誰にも気づかれないように思えた。姉たちにお暇を告げたジルに、彼女たちがふたりきりを楽しんでねと声を潜める。頭の片隅でずっと考えていたくせに目の前の対応で手一杯だったジルは、その言葉でようやくこれからリオとふたりきりで誕生日を祝うのだという実感が湧いてきた。急にそわそわし出して彼の顔を見ると、柔く笑んだ顔が不思議そうに見返してくる。甘酸っぱいような気持ちで胸をいっぱいにしていたら、不意にどんっと肩に衝撃が走った。誰かにぶつかられたらしい、と気づくのと同時に慌てたリオに抱き留められる。相手を見ようとすると庇うように抱き寄せられた。大丈夫かと問われて頷くと、どこからか現れたケイオスが警備兵を連れてふたりを庇うように立ちはだかっていた。

「ジルさま、お怪我はありませんか?」

「大丈夫。ちょっとぶつかられたくらいで大袈裟じゃあ、」

「相手はクレイグ皇太子殿下のようです」

 周囲はなんの騒ぎかと騒然としていた。お喋りに興じていた令嬢たちまでもがサロンから出て事の成り行きを見守っている。ケイオスの向こうにクレイグが側近を侍らせて踏ん反り返っていた。どうやらジルにぶつかったのは彼の側近のひとりらしい。

「お前、俺が誰だかわかって盾突いているのか?そこにいるのは俺の婚約者だ」

「クレイグ皇太子殿下、失礼ながらそのような事実はございません」

 滅多なことで緊張しないケイオスの表情が張り詰めていた。慎重に言葉を選んでいるのがわかる。不遜な笑みを浮かべたままのクレイグがそうだったか?と傍の従者たちに惚ける。遠巻きにしている貴族たちの多くは愛想笑いを貼りつけていた。こんな男とはいえ次期皇帝になる人間であり、目をつけられたらたまったものではない。

「すぐにその通りになる。数日後、今度は直々に申し入れに伺う予定だからな。そこまでするなら断れまい。たかが小国のΩがこの俺の求婚を無碍にはできないだろう」

 随分と酷い言葉を平然と吐き捨てるものだと思った。姉として弟への侮辱を許せなかったのだろう、ライラとアデルが険しい表情でケイオスの前に出る。リオはジルを抱いたままじっとしていたがその腕には強い力が籠っていた。今すぐにでも食ってかかりたいところをどうにか我慢しているのがわかる。ジルはあまりの言葉に怒りを通り越して呆れ果てていた。そんな酷い言葉を吐ける相手にどうして、この男は求婚したのだろう。Ωだからどう扱ってもよいと考えるような男の元に嫁ぎたいと思えるわけがない。

 クレイグはライラとアデルの抗議を面白そうに見下しただけで取り合おうとはしなかった。どれほど否定されても、どうやらあの男はジルと婚約すると信じて疑わないらしい。どこからそんな自信が湧いてくるのだろうと思っていたジルは、不意に甘い匂いが鼻孔を擽ることに気づいた。それはヒートのときにリオから香る匂いとまったく同じで、しかし出処は彼からではない。それを意識した途端身体が熟れたような感覚に包まれた。まるで無理矢理ヒートに突き落とされたようだ。目を見開いた視線の先でクレイグが口元を下卑た笑みに歪めるのが見える。どうしてあの男からリオと同じ匂いがするのだろう。

 立っていられなくなってリオに縋りついた。異変を感じ取った彼がジルの身体を支えたままその場に座らせてくれる。リオが鋭い声でケイオスを呼ぶと、事態に気づいた彼が素早く手を振った。ジルから漏れる甘いフェロモンを一時的に遮断したのだろう。大丈夫かと問われて小さく頷いたが、もうリオに抱かれることしか考えられなくなっていた。抱き寄せて肩を撫でてくれるその手で早くすべてを暴いて欲しい。

 誰にヒートを誘発されても欲しいのはリオだけだった。彼以外には惹かれないし欲しいとは思わない。ぼんやりする頭の片隅でそう想えている自分に酷く安堵した。

「ほら、ちょっと目が合っただけでこれだろう?俺たちは運命で繋がっているんだ」

「誘発フェロモンを出しただけでしょう。ただジルさまはそれを防ぐ魔道具を付けていたはずです。一体どうやって、」

「優秀な魔法使いはうちの国にも五万といる。お前が探しているのはこれだろう?」

 にやりと笑ったクレイグがなにか小さなものを投げて寄越した。それを受け取ったケイオスが目を見開いてジルを振り返る。リオがジルの手を調べるとジルの指から指環が消えていた。先ほどぶつかられたときに魔法で抜き取られたのかもしれない。けれど近づくことでしか魔法を正確に発揮できないのなら、ケイオスの恐れるところではなかった。不敵な笑みを浮かべたケイオスが微かに指先を動かすと彼らを中心として円形に結界が広がっていく。境界線が張られると向こう側の貴族たちが曇りガラスの先にいるようにぼやけた。何事かと騒ぎ出した彼らを警備の騎士たちが宥める声がぼんやりと聞こえた。今日はこれで舞踏会はお開きとするのだろう。

「Ωのフェロモンが漏れないようにしたのか」

「いくらなんでも全員の鼻を塞ぐのは非効率ですからね。我々だけに限定させて頂きました。我々が我を忘れてはジルさまに危険が及びますから。まぁ、そちらの優秀な魔術師殿にも簡単にできたでしょうけれど」

 挑発するような鋭い視線を投げられた男がびくりと肩を震わせた。ひょろりと高い背を縮こまらせるように存在を消す。その様子を鼻で笑ったケイオスがリオを振り向いて行けと促した。

 リオに抱き上げられたジルはなんだかすべてが他人事のように感じていた。甘い怠さに支配された身体は指を動かすことさえ億劫で、熱に浮かされているように熱い。無意識にリオに擦り寄ると力強い腕がジルをしっかりと抱え直した。先ほどまで張り詰めていた彼の雰囲気が少し綻ぶのがわかる。

「おい、お前。俺のΩに触れていいと許した覚えはないが?」

「あら、ジルはあなたのΩではないわ。それにイングリッド卿はあなたより余程優秀よ。ジルが選んだのだから」

 そう答えたのはライラだったかアデルだったか。もうひとりが同意して勝手なことを言うなと畳みかけた。エルシオンの皇太子は他の国の国王さえ謙る身分だが、姉たちはジルや自分たちの国を貶されて随分と頭にきているらしい。食ってかかるといった表現が妥当だがその剣幕に誰も止めに入る者はいない。クレイグの従者も主人の態度に辟易しているのかできるだけ気配を消していた。クレイグは黙ってふたりの反論を聞いていたが、にやにやとした面白がるような表情を浮かべている。

 自分のことで揉めているとわかってはいたが、ジルはただひたすらにリオのことしか考えられなかった。服越しに触れている場所からその腕の熱が伝わるようで、じわじわと皮膚が熟れていくような感覚を味わう。あの甘い匂いも今はリオから香っているように感じる。

「リオ、早くふたりになりたい、」

 強請るような自分の声音が甘かった。小さな声を聞き取ったリオが頬を綻ばせて頷く。

「俺もです。早く参りましょう」

 姉たちがクレイグの気を引いている間がここから逃れるチャンスだったが、リオがその場を動こうとした刹那にクレイグの声が飛ぶ。そのままライラとアデルを乱暴に押し退けると、ケイオスたちが止めるのも聞かないままにリオの目の前まで迫った。強い力で掴まれた腕がぞわりと嫌悪感に粟立つ。ヒートの熱に浮かされていても、いくらこの男がどれほど高貴なαであろうと、ちっとも心惹かれなかった。ジルを庇うように身を引いたリオが触るなと言う。怒りが滲んだその声は怒鳴ったわけでもないのによく響いた。その場の空気が凍ってクレイグさえも慌てたように手を放す。

「乱暴なことはお止めください。ジルさまはあなたのΩではありませんし、この先そうなることもないでしょう」

「随分な口の利き方をするな。イングリッドといったか。お前、建国祭のときも邪魔したな?」

「ええ、流石に目に余りましたので」

「それでそのΩのお眼鏡に適ったのか。だが所詮はβだろう。αでもないくせにΩを満足させられるとは思わんが」

「Ωをそのような存在だと考えているあなたには一生わからないでしょう。この方は誰にも渡しはしない」

 自分よりも格下の相手に歯向かわれるとは思ってもいなかったのだろう。平然としたリオの態度にクレイグが言葉を呑んだ。それを見計らったように従者が近寄ってきて、もういいだろうと主を諭す。ライラとアデルがクレイグとの間に立ちはだかると、早く行けとふたりを追い払った。リオが有難くその好意を受け取ってケイオスの作った結界を出る。あとのことは彼女たちとケイオスに任せておけばいい。

 結界を出ると不思議なことに、そこは元々ジルが住んでいた城奥の邸だった。住む者がいなくなってからも手入れがされているのか、掃除がきちんと行き届いている。寝室に運ばれてベッドへと降ろされると離れようとするリオの服を掴んだ。これ以上はもう待てない。

「リオ、早く、」

 普段なら絶対に言えない言葉も、今なら容易く口にすることができた。じわりと滲んでくる羞恥も、すぐに覆い被さってきた彼のとろけるような笑みに引っ込んでしまう。リオの指で頬を撫でられただけで柔らかな悦びが身体中を満たしていった。早くこの男に抱き潰されたいと願いながら、こうして愛でていて欲しいとも想う。

「そんなかわいいこと、俺以外には言わないでくださいね?」

 甘い声音でそう囁かれるとぞわりと肌が粟立った。ただし先ほどあの男に感じたそれとは似ても似つかない、甘い痺れにジルは思わず小さな吐息を漏らす。了承するように肯くと満足そうに笑んだ唇が眦に落ちてきた。そのあとで身体を起こされると上衣のボタンを外してくれる指先から目が離せなくなった。脱がしにくい服だとわかってはいても、その動きがもどかしくて永遠に感じる。ようやく上衣を床に落とした頃、ジルの我慢は限界を迎えていた。少しもどかし気に自分の上着を脱いだリオに抱き着くと、シャツ越しに感じる肌の熱がじれったい。

 しっかりと抱き返してくれる腕の力強さがいとおしかった。そっと身体を離してその瞳を覗き込むと、整った造作が美しい笑みを浮かべてジルの瞼へとくちづける。擽るようなくちづけが鼻頭や眦を啄んでも、それはけして唇に触れることはなかった。そしてきっと彼は今日もジルを最後まで抱こうとはしないだろう。

 そう考えたら胸の奥が掌に握り潰されたようだった。同じ気持ちを抱えているはずなのに、ふたりの間には超えてはいけない一線が引かれている。リオに触れてもらえるだけでしあわせなことだとわかってはいる。それでも触れられるたびに身体も心もどんどんと欲張りになって、甘やかされるたびに際限がわからなくなる。もしもこの先、万が一クレイグの元へ嫁ぐことがあったとしたら今のうちにリオのものになりたかった。他の誰かに奪われる前に全てを彼に捧げたい。だってリオはジルが選んだ、たったひとりの運命の人なのだから。

 リオの指に頬を撫でられるたびいとおしさが肌に沁み込んでいくようだった。その唇に触れてみたくて手を伸ばそうとすると、甘い声で叱られて指を絡めとられてしまった。けれど今日は誤魔化されたりはしない。

「どうして、?僕だってお前に触れたいのに」

「そう想って頂けるだけでどんなにしあわせなことか」

 リオが柔らかな声音を零した唇をジルの手の甲へと押し当てた。いとおしそうに頬擦りまでされると、ジルの胸も彼へ焦がれる気持ちでいっぱいになってしまう。運命的にひと目惚れをした相手が同じように自分をすきでいてくれて、触れ合うことをしあわせだと思ってくれている。本来ならばそれで充分だと満足して然るべきだ。

 ジルは彼に出逢ってから自分が随分と欲張りな人間であることを知った。もしあのとき、初めてのヒートのときに彼がジルに触れることを諦めてくれていたら、ジルも分別を持ったまま彼との密やかな恋を守っていられただろう。けれどもう、ジルは知ってしまった。大切な宝物に触れるくせに少し乱暴な指も、優しく抱き寄せてくれる身体の熱も、いとおしそうに見つめてくる瞳や睦言を紡ぐ唇さえ、すべてが狂おしいほどに恋しい。だからこれ以上は我慢ができなかった。リオが大切に守っている一線を守り続けてはやれない。

「リオ、僕はお前のことがすきだ。初めて逢ったときからずっと、運命はお前だけだと思っている」

 本当に心からそう願っていた。縋るように頬を寄せた彼の胸からいつもの甘い香りが漂ってくる。これがもし運命の相手の香りだとするのなら、同じ匂いを持つクレイグだってそうだということになってしまう。ふたりの違いがあるとすれば、リオがβであるのに対してあの男がαだということだ。その絶対的な事実はリオがジルのフェロモンを目の前にしても本能に支配されることはないことを意味している。だからといってあの男がジルの運命の相手だなんて思えなかった。いくらあの男がジルを運命だと言おうと絶対に違う。

「初めてのヒートのとき、僕に触りたいと言ってくれてうれしかった。お前と恋人同士みたいに過ごせてどれほどしあわせだったか」

「それを言うなら俺の方こそ、こんなにしあわせだったことはありません」

 顔を上げさせられると真摯な瞳がジルを射抜いていた。彼の立場上はっきりと言葉にはできなくとも、同じ気持ちを抱えてくれていることは顔や仕種から充分過ぎるほどに伝わってくる。そんな彼を困らせたくはないのに、どうしても諦める気持ちにはなれなかった。意を決して彼をベッドへと押し倒すと戸惑った声が名前を呼ぶ。ジルなど簡単に跳ね除けられるとしても彼にはそれをすることができない。わかっていてやっている自分が随分と質の悪い人間のように思えてくる。けれど恋なんてきっとそんなものだ。

 震える指で自らのシャツのボタンを外した。邪魔くさい布を取り去ってしまうと、今度はリオのボタンを外していく。唖然としていたリオがようやくジルの手を阻んだ。ジルがなにをしようとしているのか気づいたのだろう。

「ジルさま、落ち着いてください。ヒートの熱に浮かされては、」

「僕は一時の感情に流されているわけじゃない。リオ、僕のことを最後まで抱いて欲しい」

「本気で仰っているのですか?」

「困らせてごめん。でも、どうしてもお前がいいんだ。僕はこの国の王子としてこの国のために有益な婚姻をする義務がある。みんな僕のために策を考えてくれているけれど、クレイグ皇太子殿下直々に申し入れがあったとしたら断ることは難しいかもしれない。僕はそれが怖いんだ。お前と二度と逢えなくなってあの男に暴かれるのが、怖い」

 ぽたりとリオの頬に涙が落ちると彼の目が驚きに見開かれた。あれ、と思っているうちにぽろぽろと零れ出して拭っても止まらなくなった。口に出してようやくあの男に感じている感情の正体が恐怖であることに気づいた。あの男が真っ直ぐにジルへと向ける乱暴な感情の得体が知れない。どうしてそこまでジルに執着するのかもわからなかった。わからないから怖い。

 国同士の婚姻は国王同士が同意すれば当人が嫌がろうとも抵抗することはできない。もし国王がクレイグの申し入れに頷いてしまえばジルはもう、リオに触れることすら叶わなくなる。

 乱暴に目を擦るジルの手首をリオが掴んだ。起き上がった彼に抱き寄せられて眦に唇を落とされる。泣かないでくれと懇願するような声に鼓動が柔く握り潰された。

「ごめん、こんなつもりじゃなかったんだけど、全然格好がつかなくて」

「俺の方こそ謝らなければなりません。俺はただ国王陛下に認められるまではと思っていただけなのです。もしあなたが他の男と婚約しようと俺の気持ちは変わりません。あなたをあの男に渡したりはしない」

「じゃあ、抱いてくれる、?」

 恐る恐るそう問うたらリオの表情が泣きそうに歪んだ。けれどすぐに笑ってこつんと額同士を合わせる。いとおし気に頬を撫でられているうちに彼の唇がジルの唇に触れた。ようやく焦がれた唇に触れていると気づいた刹那には、唇を食まれて開いた隙間に舌を捩じ込まれた。舌の奥地を探られて吐息まで奪われる。甘いくちづけに夢中になっているうちにベッドへと押し倒されていた。見下ろしてくるリオの瞳が真摯にジルを射る。その頬に触れると擦り寄ってきた彼が柔らかな笑みを零した。いとおしくて仕様がないとでも言いたげな甘さが滲んでいる。

「もし誰かから咎められることがあったら全部僕のせいにしていいから」

「なにを馬鹿なことを。俺があなたを抱きたくて抱くのです。俺がもしαだったらきっと無理矢理番にしていたでしょう。それくらい俺はあなたのことが、いとおしくて仕様がないのです。俺がどれほどこうしたかったか思い知らせて差し上げます」

 見上げる彼の顔に欲情が浮かんでいるのが見て取れた。そんな風に見つめられたら彼のすきなように抱き潰されたって構わないと思える。

 再び落ちてきた唇を甘受しながら、ジルはこれから訪れる幸福に胸を震わせた。


         ◇◆◇


 腕を伸ばすとそこには冷えたシーツがあるだけだった。はっとして起き上がると全く知らない部屋のベッドの上にいた。広い部屋を見渡すと調度品は豪華だが薄暗く冷え冷えとしている。大きく取られた窓からは月明かりが差し込み、石造りの床に反射していた。

 恐る恐るベッドから降りた。立てかけてある大きな姿見の前に立つと、そこに映っていたのは十になるかならないかくらいの少年だった。薄暗くてもわかる陽に透けるような金色の髪とサファイアのような碧眼の彼はたしかに自分だ。リオはこれが忘れていた幼少期に関する記憶の一部なのだと悟った。

 ふと、指環がなくなっていることに気づいた。小さな手はまだ子供で剣を握ったことがないように見えたが、実際は鍛錬と称しておもちゃのような剣を騎士団長相手に振るっていた。忙しい暇を縫って遊びに付き合ってくれたのは今の養父だったことを思い出す。どうやらここはリオがイングリッド子爵家に養子に入る前の世界であるらしい。

 ここはリオの子供部屋で普段は乳母と傍仕えの侍女が常に彼の行動を見張っていた。彼にはふたつ下の腹違いの弟がいて、母親はずっと南方の国から嫁いできた王女だったはずだ。皇妃となった彼女は皇后であるリオの母とも良好な関係を築いていて、身体が弱く床に臥せりがちな母に変わってリオの遊び相手にもなってくれた。故郷の国で重宝されている身体によいとされるお茶を皇后に差し入れて、よくお茶に興じていた。優しくて気立てのよい彼女をリオは慕っていたが、彼女が傍に侍らせている魔術師のことは怖かった。真っ黒な髪と目は光を吸い込みそうなほど闇に染まり、気に入らないことがあれば蛙にでも変えられてしまいそうだった。彼は皇妃が故郷から連れてきて皇室に献上した魔術師だったが、皇帝の傍ではなく常に皇妃の傍にいた。皇妃とその子であるクレイグの傍を片時も離れようとはしなかった。

 奥底に押し込められていた記憶が怒涛のように溢れ返ってきていた。あまりの膨大さに頭を抱えてよろめく。未だ詳細な部分はぼんやりとしていたが、自分がエルシオンの第一皇子として生まれ育てられていたことはしっかりと思い出していた。記憶をなくしていた頃のリオはディリンの王妃にそれとなく示唆されたとき、まさかそんなはずはないだろうと思っていた。今もまだ信じられないが、これが事実であるのならば彼らが待ち望んでいた正統な血筋は自分で、ジルと婚約する権利はリオの手にあるということになる。リオはどうやら記憶を封じられてその立場や権利を弟に奪われていたらしい。それでようやく、あの日王妃に言われた言葉の意味が腑に落ちた。ジルと結ばれたから指環の呪いが解けた。

 彼がリオの運命の相手だったから。

 ジルのことを想うと幼い胸が疼いて、いち早くここから戻らなければという気持ちにさせられた。けれど戻り方がわからない。そもそもこれが夢であるという確証もなかった。夢だというにはあまりにも現実味を帯びているし、立っている感覚もなにかに触れる感触もはっきりとしている。考えているうちにジルと過ごした日々が甘やかでしあわせな夢だったように思えてきた。ついさっきまですぐそこにいて、その肌に触れていたのに今は随分と遠くにいる。心ゆくまで愛し合ってそのまましあわせな眠りについたはずなのに、一体どうしてこうなっているのだろう。これも指環にかかっていた魔法の仕業なのだろうか。

 今やれることは可能な限り記憶を鮮明にしておくことだろう、と細かな部分まで辿っていると、不意に廊下を走る慌ただしい足音が聞こえてきた。その足音は子供部屋の前で止まり、続くようにノックの音がする。それに返事をするとすぐに扉が開いて、入ってきた三人の男たちがリオの前に膝をついた。

「リオネル第一皇子殿下にお目にかかります。夜更けに申し訳ございません」

「なにかあったのか、ルーカス」

 言葉が勝手に口から出た。いちばん前でそう発言したのは今よりも若い養父だ。そのうしろに控えているのは彼の部下だろう。ルーカスは低姿勢のまま顔を上げると真っ直ぐにリオを見た。落ち着いて聞いてくれと言うようなその瞳に胸の内がざわつくのを感じる。

 リオネル・エルシオン。それがこの城で第一皇子として生まれたリオの本当の名前だった。

「只今皇后陛下の容体が急変されました。リオネル殿下に逢いたいと申されております」

 その言葉を聞いて、これはリオが皇子として過ごした最後の一日の記憶だと気づいた。リオはルーカス・イングリッドに抱き上げられて皇后宮へと急いだ。母はこの頃特に具合が悪くずっと臥せっており、リオが訪ねても逢えない日が続いていた。医者の話ではいつその日が来てもおかしくはないとのことだったが、父はあらゆる手を尽くして妻を回復させようと尽力していた。それでも万策が尽き、皇妃付の黒い魔術師がなにやら怪しい呪術を使っているという噂まで流れ出していた。それが本当かどうかは定かではないが、リオは何度か母の宮殿に彼が出入りしているところを見ている。あの男にどれ程の力があるかはわからないが、もしここにケイオスがいてくれたらなにか変わっていたかもしれないと無駄な願望を抱かずにはいられなかった。もうこれから先、なにが起こるかわかっている。そしてこれがすべての始まりだということも。

 寝台の上に力なく横たわる母は一見息をしているようには見えなかった。かつては美しかった長い髪には艶はなく色も褪せて見える。やせ細っていても美しい造作はリオによく似ていた。床に降ろされて傍に駆け寄るとその顔が微かにこちらを見る。薄く開いた瞼の奥の思慮深い瞳がリオをしっかりと捉えていた。懐かしい想いが一気に溢れ出て思わず泣いてしまいそうになる。涙の気配に気づいたのか、か細い手がゆっくりと持ち上がってリオの頬に触れた。撫でるように動く指はかさついていて、彼女の命がもう永くはないことを予感させる。

「リオネル殿下をお連れ致しました」

「ありがとう、ルーカス。そこのふたりは下がらせてお前はここへ残りなさい」

 その声はか細い身体から出たとは信じられないくらい威厳に満ちて力強かった。ルーカスがその言葉通りに部下を部屋の外へと下がらせる。母は傍にいた侍女たちもすべて下がらせると、最後の力を振り絞るように起き上がった。慌てて背とヘッドボードの間にクッションを差し入れてやれば、嬉しそうに笑う顔が優しげにリオを見た。

「リオ、母はもう長くはありません。だからあなたをどうしても護らなくてはいけないの。わたしが死んだらきっとあの女が力を持つでしょう。そうしたらきっとわたしだけには飽き足らずあなたの命も狙うはず」

「あの女とは皇妃殿下のことですか」

「そう。あなたはあの女を随分と慕っていたけれど、あなたに優しくしていたのはすべてわたしが亡きあとで自分の息子を皇太子に据えるため。陛下とわたしがあの女の策略に気づいた頃にはもう手遅れでした。わたしの命は削られもうどうにもなりません。だからあなただけはどうかそのときが来るまで生き延びて。この国をあの女から護って」

 リオの手を握った母の手は思いの外ずっと強い力が込められていた。ああそうか、とすべてのことが腑に落ちる。優しかったあの人がそんな酷いことを企んでいたなどと信じられないのは一度目のときと同じだった。けれど今はそのあとの人生を生きているからこそわかる。

 母はあの女に命を、リオはクレイグに自分の人生を奪われた。そしてなによりも大切なジルまで奪われようとしている。ふつふつとした静かな怒りが腹の底から湧いてきた。子供らしく喚き出したい気持ちをぐっと怺えて強い眼差しを母に向ける。本当はその胸に縋りつきたかった。久々に逢った母とはもう二度と逢えない。どうせならもう少し早くここへ戻って彼女の運命を変えたかった。大切な人に出逢ったことを伝えて喜びを分かち合いたかった。けれどこの人はきっと、リオのことをずっと見守っていてくれるだろうとわかってもいる。

「必ずや母上の願いを叶えます。どうかご安心ください」

「頼もしく育ったわね、リオ。それではこの指環を小指につけなさい。これは代々我が家に伝わる魔法の指環です。持ち主の願いをひとつだけ叶えてくれるの」

 母がリオの指に填めたのは見慣れたあの指環だった。小さなそれはぴたりとリオの指に収まると癒着するように皮膚に馴染む。これは母がくれた物だったのかと知った途端に掛け替えのない大切な物に変わる。母はリオを抱き寄せるとその腕に精一杯の力を籠めた。母の身体を抱き締め返すとその細い身体は今のリオでも簡単にへし折れてしまいそうに思えた。

「この国を出たらあなたが皇子だったこともここで過ごしたこともすべて忘れます。髪の色も目の色もαの性もすべて奪われるでしょう。それがこの指環にかけられたまじないです。けれど時が来たらすべての呪いは解ける」

「自然と解けるのですか?」

「いいえ、あなたは運命の相手に出逢うの。この世で一番大切に想える人と結ばれたら晴れて呪いが解けるでしょう。それまではルーカスが面倒を見てくれます。あなたはルーカスの養子としてディリン王国の騎士団に入るのです。そこであなたは運命に出逢うから」

 言い含めるようにリオの顔を見つめていた母がきっと素敵な人でしょうねと笑った。彼女が本当にジルとの出逢いを予見していたのかはわからない。一度目のとき、リオは言われていることの半分も理解できていなかった。けれど今ならすべてその通りなのだとわかる。

「はい、とても素敵な人です。いつか母上にも逢わせて差し上げられたらいいのに」

 だからついそう言ってしまった。叶うことのない馬鹿な願いだとわかってはいても、本当に素敵な人に出逢ったのだと知って欲しかった。母が面食らうように目を丸くして、それから眦を笑みに弛めた。そうねと頷く声には涙が滲んでいた。ルーカスが申し訳なさそうにそろそろ時間だと告げる。夜が明ける前にここを出て少しでもディリンに近づいておきたいのだろう。

 母をもう一度抱き締めると名残惜しさを噛み締めながら部屋を出た。これが母を見る最後だと思うと何度も振り返らずにいられない。リオは人目につかぬようにマントを着せられ、密やかに準備されていた箱馬車に乗って城を出た。それから何日も馬車に揺られている間ずっと残してきた母のことが気がかりだったが、そのあと彼女がどうなったのかを知ることは遂になかったのだった。



「皇后陛下はその日の明け方に亡くなられました。リオネル殿下のことをエルシオンの人々は誰ひとり覚えてはおりません。それほどその指環の魔力が強いのです」

「あの子らしい護り方だと思うわ。あなたのことを誰も憶えていなければ危害も加わることはない。あとは運命が訪れるのを待つだけだもの」

 ルーカスの言葉に王妃がそう応じた。ふたりはどうやら昔馴染みらしく、王妃は母のことも随分と詳しく知っているようだ。母のことを聞きたい気持ちは山々だったが、今はそのときではない。話し合いはケイオスを含めた四人で行われるらしく、部屋の中央に向かい合わせに置かれたソファにふたりずつ向かい合わせに座っていた。間のローテーブルにはケイオスが魔法で取り寄せたお茶と軽食が並んでいる。

 ディリンへ向かう馬車の中でうとうとと眠りについたリオは、次に目醒めたときには無事にこちらの世界に戻ってきていた。朝早い時間でジルまだ深い眠りの中だったので、起こさないようにそっとベッドを抜け出して今ここにいる。王妃はまるでリオが訪ねてくることがわかっていたように待ち構えていて、丁度ケイオスがルーカスを連れてきたところだった。どうやら王妃から事前に連絡を受けていたらしい。

「まずはこれまで詳しくお話しできなかったことをお詫び申し上げます、リオネル皇子殿下」

 ようやく座って落ち着いたと思った途端に王妃がそう畏まって頭を下げた。彼女に呼応するようにルーカスとケイオスも頭を下げたので、リオは狼狽えて頭を上げてくれるように頼んだ。エルシオンの第一皇子として生まれた記憶を取り戻しても、今のリオはディリンで騎士として生きてきた自分の方が本来の自分であるような気がしていた。皇子と呼ばれることには慣れいないし、身分の高い人間に謙られる筋合いもない。リオにとっての第一皇子、皇太子という身分はただひとえにジルの婚約者になるために必要なものに過ぎなかった。そう考えていることが知られたら呆れられそうだが、彼が隣にいてくれたら次期皇帝という重圧にだって耐えられそうに思える。

「きっとあなたなら皇子として育っていても驕ることなく、よき皇太子になったでしょう。クレイグ皇子はあの子が懸念した通りに育ってしまったし。あなたが正統な皇子として凱旋することを帝国は両手を挙げて喜ぶでしょう。もちろん皇帝陛下も」

「それは間違いございません。これで皇帝陛下もご安心なさるでしょう。この頃はクレイグ殿下に跡を継がせることを不安に思われておりましたから。最愛の妻を亡き者にした女の子供ですが、皇妃は南の大国の王女ですからね。皇后の座を空いたままにしておくくらいしかなす術がなく」

 ルーカスが重苦しい溜息を吐いて頭を抱えた。罪人だとわかっていながら裁けないもどかしさを噛み締めているのだろう。

 皇后亡きあと、エルシオンでは今に至るまでその座は空いたままになっている。それは帝国の歴史の中でも異例なことで皇妃を皇后にという声も少なからずあったが、皇帝は頑として首を縦には振らなかった。新しい妻を娶ることもせず長きに渡り哀しみにくれており、それ故に跡継ぎはクレイグただひとりだ。皇后の死が彼の健康に暗い影を落とし、ここ最近は彼の健康を不安視する声も聞かれた。クレイグはまだ十七だが最近は皇帝と共に国政会議などに出席し、彼の代わりに政治の指揮を執る場面もあるらしい。皇妃側の貴族たちは彼の手腕を褒め称えて止まないというが、皇帝や国民、皇帝側の貴族たちは頭を抱えているという。リオがディリンの一貴族、騎士の教養として知っているのはそれくらいだ。

 クレイグは能無しで皇妃の傀儡らしいとディリンの貴族たちは陰口を叩いていたが、まさか本当に粗雑で横暴な男だとは夢にも思っていなかった。そして今は彼が自分の弟であることに驚いている。少なくともリオが知る頃の幼い彼はもう少し素直な性格をしていたはずだ。リオが記憶を封じられて生きていた間、彼は一体どのような育て方をされたのだろう。

 王妃は紅茶を飲んで一息吐くと、真摯な眼差しをリオに向けた。笑むように細められたその瞳には慈しみが滲んでいるように思える。まるでかつての、幼い頃の皇子を今のリオに投影しているようだった。もしかしたらリオは昔彼女に逢ったことがあったのかもしれない。彼女にあの子と呼ばれるくらい母は王妃と親しかったようだから、少なくとも写真くらいは見たことがあるはずだ。

「本当に立派になられましたね。あの子が生きていたらどんなによかったか。けれど仕方のないことね。すべてわかっていてあなたをディリンへ寄越したのだもの。あの子が言った通りあなたは運命に出逢って記憶を取り戻した。それは来る時が来たということ」

「来る時とは?」

「エルシオンの皇帝陛下は昨今お身体の具合が悪く、クレイグ殿下が執政をされることも増えています。表に立っているのはクレイグ殿下ですが、実際に裏で操っているのは皇妃殿下と皇妃付の魔術師です。彼らはクレイグ殿下を皇帝に据えてエルシオンを手中に収めようとしている。急ぎ正当な血筋の存在を知らしめなければエルシオンは終わりです。皇帝陛下のお加減がよくないのもあの男が呪いをかけているせいかもしれません」

 ルーカスが見解を求めるようにケイオスを伺った。彼はソファに身を埋めて気配を消していたが、ようやく出番が来たと言わんばかりに身を乗り出した。

「可能性はゼロではないと思いますが、命を奪う魔術は禁じられております。一般的な魔術師を名乗っている者はまず使わないでしょう。ただ昨日クレイグ殿下の傍仕えの男から微かな黒魔術の気配がしました。あの男、まともな魔術師とは呼べないでしょうね」

「そんな危険な男を城の中に入れたというの?エヴィに問い質さなくては」

「エヴィ殿下のせいではありませんよ。わたしでさえかろうじて気づいたくらいですから」

「なぜケイオス殿は気づいたのです?」

「クレイグ殿下もリオネル殿下と同じような指環を付けていました。殿下の指環は母君がかけられた魔法に他のまじないが絡んでいる。そのまじないの先がクレイグ殿下の指環へと繋がっているようなのです。おそらくあの魔術師が母君の指環にこっそりと呪いを加えたのでしょう。その魔法の気配がクレイグ殿下の魔術師からもしたのです」

「それはどのようなものなの?」

「おそらくですが、リオネル殿下の外見や能力をクレイグ殿下へ投影させるものではないかと。つまりあの髪色や目の色、それに強いα性は本来リオネル殿下がお持ちのものだということです。なぜそうしているのかはわかりませんが」

「以前王妃殿下はクレイグ皇太子殿下が正当な血筋ではないとお考えのようでしたが」

 リオが口を挟むと王妃が硬い表情で頷いた。ケイオスがそれですべてを察したようになるほどと呟く。

「クレイグ皇子は皇帝陛下の子供ではないの。あの男はあなたの持つ正統性を象徴する髪と目の色、それにαの性もすべてクレイグ皇子が纏えるように細工をした。自分の子供であると隠すために」

 王妃が重苦しい溜息を吐いて額に手をやった。それからその指環はまだ外さないようにと念を押す。重苦しく沈黙していたルーカスも彼女の言葉に同意するように頷いて、自分たちの切り札はその指環なのだと明かした。

「指環を外せば国にかかっている魔法も解けて殿下の存在を皆が思い出すでしょう。そしてクレイグ殿下にかかっている魔法も解けてしまう。そうすればあなたが記憶を取り戻したことが向こうに知れてしまいます。なにをされるかわかりません。指環を外すのは誤魔化しが効かない状況に追い詰めてからです。我々を裏切らない第三者がいる場ですべての悪事を白日の下に晒してからでなければなりません。皇帝派の貴族たちは我々のことを歓迎してくれるでしょう。国政会議の場ですべてを詳らかにすることがいちばんの得策かと考えていたのですが、悠長なことは言っていられなくなりました。クレイグ殿下からジル王子殿下へ直々に求婚の申し入れがあったようなのです」

 王妃が再び重苦しい溜息を吐いてルーカスに同意した。流石に皇太子直々の申し入れを断ることはできなかったらしい。昨日クレイグが自信満々にそう言っていたのは本気だったということか。ジルのことを最愛の運命だと思っているリオにとって、この状況は芳しくなかった。小国のΩなどと卑下するくせにどうしてそこまで彼に固執するのだろう。エルシオンの皇太子という肩書があるのなら、もっと大国の王女とだって婚約を結べるはずだ。皇帝と国王の口約束が根底にあるのは仕方ないとしても、執着している割に見下しているのが気に食わない。

 あんな男に自分とジルの人生を奪われるわけにはいかなかった。それにあの男に大切な故郷を明け渡すわけにもいかない。自分の方が皇帝に相応しいかどうかはわからないけれど、帝王学を学んでいてこそのあれでは皇帝が心配するのも頷けた。

「クレイグ皇子は二日後に会談を申し込んできたわ。あまり時間はないけれどこの機を逃す手はない。場所はイングリッドの邸を指定するつもりよ。ジルがいる王城の中にあの男を立ち入らせるわけにはいかない。会談にはわたくしが挑みます。陛下では皇帝陛下との約束を反故にできないでしょうから」

「それは口約束ではないのですか?」

「ええそうよ。でもあの子が、あなたのお母さまが予言しているの。ディリンの末の子とエルシオンの皇太子は運命の糸で結ばれている。つまりジルと婚約できればエルシオンの皇太子という立場がより明確になる。だからクレイグ皇子はジルのことをどうしても手に入れなければいけないと焦っているのよ。ジルのヒートを誘発して無理矢理番にしようと画策までするくらいなのだから」

「母には予言の力があったのですか?」

 そんな話は初耳だった。リオが一緒に過ごしていた頃の母にはそんな素振りはなかったし、予言と言えるのはリオが運命の相手に出逢うと言っていたことくらいだ。驚く彼に王妃が懐かしそうに目を細める。

「わたくしとあの子はアカデミーの同級生だったのだけれど、時々未来が視えるようだった。わたくしたちは気が合って年中一緒にいてね、そのときにあの子が言ったのよ。“わたしの息子とあなたの末の子が結ばれる運命を見たわ”。今は廃れてしまっているけれど、昔々はエルシオンにも魔力のある子供が生まれる家門があって、あの子はそこの末裔だった。だからあの子がそう言うのならそうなるのだろうと思った。そしてジルが生まれてΩだとわかったとき、その予言が正しいのだと悟った。あの子が産んだ皇子はαだったから。その時点で婚約という形を取らなかったのはあの子がそう望まなかったからよ。きっとこうなることを見越していたんだわ。あのとき婚約を結んでしまっていたら、あなたの存在が消えたあと皇太子の座に座るクレイグとジルが結ばれることになってしまうから」

「そこまで視えていたのなら、母はクレイグ殿下が皇帝陛下の息子ではないとわかっていたのでは?それに気づいたから、」

「殿下のおっしゃりたいことはわかります。ただどちらにしろ母君のお命は狙われていたのです。皇妃殿下がクレイグ殿下を身篭られた頃には既にあの男が皇妃殿下に入れ知恵をしていた。殿下は覚えていらっしゃいませんか?皇妃殿下が母国の身体によいお茶だと言ってよく母君をお茶に誘われていたことを」

「ああ、俺も飲んだことがあります。独特な風味でしたがごく普通の茶のように思えました」

「あれは健康な人には身体によく、身体の悪い者には毒となる葉なのです。実際母君の死に関与を疑われた皇妃はその茶を堂々と人々の前で飲み干された。それで疑惑は疑惑のままに留まっておるのです。病人に試してみるわけにもいきませんから」

「皇妃の罪を暴くことはできなくとも、クレイグ皇子が不義の子であることを暴くことはできる。皇妃は輿入れした当時皇帝陛下から見向きされていなかった。帝国との関係強化のためにどうしてもと頼まれての輿入れだったようね。あの男が皇妃とどのような関係性で一緒に来たのかはわからないわ。唆されたのかもしれないし、本当に恋人だったのかもしれない。ただ生まれた子供は黒髪で黒い瞳の持ち主だった。エルシオン皇家は金色の髪に碧い瞳を持つ者が多いわ。少なくとも目の色は必ず遺伝する。それを見た皇妃は取り乱してあの男にどうにかするように頼んだのでしょう。バースがαであったことが幸いしたようね。最初の頃は魔法で髪と目の色を偽っていたのではなくて?」

「おそらくそうでしょう。クレイグ殿下は幼い頃ほとんど公の場に姿を現しませんでした。身体が弱く、皇妃がそれはそれは大切に育てているという話でしたから我々も手出しはできなかったのです」

「魔術師も万能ではありませんから、もしかしたらその男は人の見た目を変える魔法があまり得意ではなかったのかもしれません。それで極力人目を避けていたのでしょう。指環を通じてリオネル殿下を投影することにしたのも苦肉の策だったのかもしれません」

 ケイオスの説明に王妃とルーカスは納得したようだった。魔法に関しては彼以上の識者はいないので実際にその通りなのだろう。リオは彼が作った魔道具でジルの姿が変化しているところを目の当たりにしているが、あれはケイオスだからできた芸当だったということか。皇妃のうしろに立ってじっとリオを見つめていたあの男の眼差しを思い出すと、この年になっても背筋が粟立った。あれは正当な皇子であるリオを恨み蔑む視線だったのかもしれない。

「あの男はよく皇妃殿下と共に母上の宮殿に来ておりました。そこで指環の存在に気づいたのでしょうか」

「そうでしょうね。その指環はあの子の家に伝わる由緒ある魔道具で本当に力のあるものなの。たったひとつだけどんな願いも叶えてくれるのだと言っていたわ。あの子はそれを我が子を護るために使った。あのままあなたをエルシオンに残しておいたらいずれ命を狙われるとわかっていたから。それにしても運命の相手と結ばれて解けるなんて御伽噺みたいね」

 あの子らしいわ、と王妃の顔がようやく綻んだ。場の空気が和んだ隙を見計らったように、ケイオスがそろそろ戻った方がいいのではとリオに言う。リオがここに来てから随分と時間が経っていた。ジルが目覚めていたらきっと不安な思いをしているに違いない。そう考えた途端に胸が柔く締めつけられて、いても立ってもいられなくなった。

「王妃殿下、申し訳ありませんが一端席を外してもよろしいでしょうか」

「ええ、もちろん。ジルのヒートが明けないうちに悪いけれど、あなたにはクレイグ皇子との会談に同席してもらうことになるわ」

「この先何度でもヒートは共に過ごせるでしょう。ジルさまは俺の番ですからあの男には渡しません」

 そう言う声につい強い力が籠った。王妃が満足そうに口元を綻ばせて早く行くようにと促す。頭を下げてから立ち上がるとクレイグが扉をジルの邸へと繋げてくれていた。礼を言ってから扉を抜けると、そこはもうジルの寝室の目の前だ。

 そっと扉を明けて中に入ると彼はまだベッドの上で丸まっていた。昨日リオが脱ぎ捨てた上着を抱き締めて丸まる、その姿がいとおしい。

 初めてジルに触れてからずっとリオは彼を甘やかしたくてたまらない上に、近づく男に対しての敵意をひた隠しにしていた。その感情は彼に恋するが故の独占欲だと思っていたが、本来持つαの性によるものだろうと今ならわかる。無意識のうちにジルが自らの運命だと認識していたからこそ、クレイグに対して強い敵愾心が生まれた。そんな気持ちを抱えていたと知ったらジルはどんな反応をするのだろう。リオが本当はエルシオンの皇子で、ジルの運命だと知ったら。

 その反応を予想するだけで自然と頬が笑みに崩れた。そっとベッドに腰かけると男にしては華奢なうなじにかかる髪を指で除ける。早くそのうなじに噛みついて自分だけのものにしたかった。βであると信じて疑わなかった頃から、そうできたらいいのにとずっと願ってきたのだ。ジルに選ばれたとはいえβでは番になれない。本来の意味でΩを満足させてはやれないのだとわかっていたからこそ、クレイグの言い分に腸が煮えくり返った。ジルのことを誰かに渡すつもりなど最初から微塵もなかったし、ジルがくれたすきだと言う甘い声が耳から離れない。抱いて欲しいと言われてどんなにうれしかったことか。

 そっとうなじに唇を落とすとジルの肩が小さく震えた。その瞳がゆっくりと開いてぼんやりとリオを見る。舌足らずに名前を呼ばれて返事をすると、起き上がった彼に勢いよく抱きつかれた。夢かと思ったと言われると抱き返す腕につい力が籠る。

 この身体に初めて触れたとき、どうしてαに生まれなかったのだろうと生まれて初めて思った。ジルに出逢って自分がβであることを実感し、それでも選ばれた光栄に縋りたかった。この男がいとおしくて仕方がなかったから誰にも明け渡したくないと願った。けれどもう、リオは彼が自分の運命の番だと知っている。

「夢だなどとどうして?」

 少し身体を離して顔を覗き込むと、拗ねたような瞳が見上げてきた。そのかわいさに口元がむずむずして、気を抜くと頬が脂下がりそうになる。今まではいずれ彼は自分の元から去るのだと自重できていたことがもうできない。裸の肩に先ほどまで彼が抱いていた上着をかけてやると、その白い頬にじわりと赤みが差した。それが美味そうで食べてしまいたくなる。

「だって目が醒めたらひとりだったから、都合のいい夢を見たのかなと思って、」

「昨日あんなに愛し合ったことをお忘れですか?」

「それはっ、そうなんだけど、」

 昨日はあんなに大胆だったくせに正気に戻った途端に恥じらうのがいじらしかった。戸惑うように目を泳がせてそのまま臥せる。胸の内にいとおしさが募って、その細い身体を抱き寄せた。首筋に鼻を寄せると馨しい甘い香りがする。今はまだ正気だけれどそのうちまたジルはヒートに溺れるだろう。その際に傍にいてやれないのだと思えば思うほど恋しさが募った。彼を手に入れるためのすべてを取り戻しに行くのだとわかってはいても、実際ジルを目の前にすると離れるのが惜しい。このまま押し倒せたらどんなにいいだろうと思いながら、その気持ちをぐっと胸の奥に押し込めた。

「どこに行っていたんだ?」

「火急の要件で王妃殿下とお話しておりました。クレイグ皇太子殿下よりジルさまとの縁談について会談の申し入れがあったそうです。俺は王妃殿下と共に赴くことになりました」

「いつ頃?」

「二日後、我がイングリッドの邸にて行われます。なのでしばらくジルさまのお傍にいることが叶いません」

「そう。ねぇ、リオ。もし僕があの男と婚約することになったら、一緒に逃げてくれる?」

 縋るように身を寄せてくるジルに胸が締めつけられて上手く息ができなかった。もちろんだと答える自分の声が情けなくも震えている。なにも知らないジルに本当のことを打ち明けて安心させてやりたかった。けれど今はまだ駄目だ。

「大丈夫です。俺はあなたを手放すつもりはありません。戻ってきたらすぐにお迎えに参ります」

「本当?」

「はい、お約束します」

 そう言い切った唇をジルの唇に重ねた。触れるだけで離れるとジルがへにゃりと嬉しそうに笑う。その眦に唇を押しつけると擽ったそうに身を捩るのがまたかわいい。

「リオ、僕欲しいものがあるんだけど」

「今日はジルさまのお誕生日でしたね。おめでとうございます」

 けして忘れていたわけではないけれど、目覚めたら過去に飛ばされていたり王妃に逢いにいったりと目まぐるしく、伝える機会を失していたのは事実だ。慌てたようにそう言ったリオにジルがぽかんとした。どうやら彼もそうだったことを忘れていたらしい。

「あ、そうだった。うん、ありがとう」

「お誕生日だから欲しいものがあるとおっしゃったのでは?」

「僕が本当に欲しいものは昨日貰えたから、」

 昨日?と問い返しそうになってジルの言葉の真意に気づいた。そこまで欲してもらえていたのかと考えるだけでたまらない気持ちになる。思わずにやけそうになる顔を隠すように手をやると、どうしたのかと心配そうに問われた。いとおしすぎてどうにかなりそうだなどと口にしたら、彼は一体どのような反応を寄越すのだろう。

「リオ?大丈夫?」

「ええ、大丈夫です。それでなにが欲しいのですか?」

「その、リオが身につけているものが欲しいんだ。さっきリオの上着を抱いていたのもお前の匂いがするからで、それが傍にあるとリオに抱かれているような気になれるから、」

 もじもじと指先をくっつけるジルはかわいかったけれど、なんだかそれさえあれば本人はいなくても大丈夫だと言われているような気分になった。一緒にいられないと言ったのはリオなのに全く理不尽な感情だと自分でも思う。その感情をこっそり小さく吐き出すとリオは上着を脱いだ。それからシャツのボタンを外していくと、彼が慌てたようにリオの手を掴む。

「なにして、」

「俺の身につけているものが欲しいのでは?」

「そうだけど、今裸になられると困るというか、」

 ジルが身体の変化を隠すように上着の前を掻き合わせた。リオはたしかに浅はかな行動だったと認めてボタンを留め直す。ジルからまた甘い香りが漏れ出し始めていた。彼もそれに気づいているのか、じりじりとリオから距離を取るように離れようとする。このまま近くにいては放してやれないとわかっているのだろう。葛藤するような健気な様子についその手を掴んでしまった。そのままシーツへと押し倒すと驚いた顔が見上げてくる。たしかに時間はなかった。けれどジルをこのままここへひとりで残していく未練がどうしても断ち切れない。

 ぽすんと彼の肩に額を落とすとジルが笑う気配がした。伸びてきた腕に抱き寄せられて擽るように頬を撫でられる。すきだと思った。そう告げることすら諦めて、彼がしあわせでいてくれたらいいと願っていた。それなのに手が届いてしまうと欲張りになって、彼のすべてを囲って仕舞い込んでおきたくなる。

「行かないといけないんだろう?」

「はい、色々と準備もあるでしょうから。でもジルさまを前にすると離れがたくて」

「大丈夫だよ、リオ。昨日お前に抱いてもらえて大分ヒートは落ち着いたから」

「強がってらっしゃるのでは?」

「それは、まぁちょっとはね。でも大丈夫なのは本当だから行っておいで。それで早く僕の元に帰ってこい」

 そこまで言われたら駄々を捏ねるわけにもいかなくなった。渋々ジルの上から身体をどかして身形を整えていると、その様子を可笑しそうに見ていた彼が起き上がった。素肌にリオの上着だけという恰好はよくよく考えれば煽情的でついそっと視界から外す。そんな様子も可笑しかったのかくすくすと笑う気配がした。

「笑わないでくださいよ」

「いつも完璧なリオが狼狽えているのが可笑しいんだもの。翻弄されているのは僕ばかりだと思っていたから」

「動揺を悟られないよう訓練を受けておりますから。ただジルさまを前にすると敵いませんね。今も押し倒したくて仕方がない」

「そんなこと言われたら僕も離れがたくなるじゃないか。戻ってきたら真っ先に逢いに来てくれるんだろう?」

「はい、もちろん。それと次にお逢いしたときに聞いて欲しいことがあります」

「悪いことなら嫌だ」

 そう言ってジルが揶揄するように笑うのでリオの頬が笑みに崩れた。床に膝をついて目線を合わせるとジルの手を取る。白く華奢で美しい指だった。そこにくちづけを落として誓いの言葉を口にする。

「リオ・イングリッドは必ずやジル・ディリン殿下の元へ戻ります。それまでしばしの間お待ちください」

 ジルを見上げるとじっと湿度のある瞳がリオを見下ろしていた。視線がぶつかるとその眦が笑みに弛んで小さく頷く。リオは抱き潰したい衝動をどうにか怺えて、身近にあるものは後ほど届けさせると約束してから部屋を出た。扉を閉めてようやく、そこに額を預けて重苦しい安堵の息を吐く。

 これからひとりでヒートを過ごす彼のことを想うと後ろ髪を引かれた。それでもこの先のしあわせを掴み取るためには心を鬼にしなければならない。すべての悪事を暴いて本来の立場を取り戻した暁にジルにもう一度愛を乞う。そしてそのときはもう誰にも文句は言わせない。


         ◇◆◇


 大丈夫だと強がったものの、リオのいない残りのヒートは散々だった。彼の匂いのついた衣類をベッドの上にいくら積み重ねても切なさが増すばかりで、ケイオスが煎じてくれた抑制剤もよく効かないまま身体の怠さに耐えることしかできなかった。ようやくそんな日々が明けて城へと戻れた頃、王妃がジルの婚約の知らせを持って部屋を訪ねてきた。どうにか断ってくれたのだとばかり思っていたジルは、紅茶を飲みながらしれっと知らされた事実に動揺を隠しきれなかった。王妃はリオとのことを認めてくれているとばかり思っていたからだ。

「安心しなさい、ジル。あなたのお相手はクレイグ皇子ではないわ」

「正当な皇子殿下が戻られたということですか?」

「ええ。だからわたくしはあなたとの婚約を認めました。前々からそう言っていたでしょう?」

 たしかに正当な皇子が戻ったら相手はその男だと言われてはいた。けれどこれでは相手がクレイグではないというだけですきでもない男の元へ嫁ぐ結果は同じだ。ジルの相手として申し分ないとリオのことを買っていたようだったのに、一体会談の場でなにがあったのだろう。リオは未だ帰っている様子はないし連絡もない。それだけでも不安なのに追い打ちをかけられているような気になる。

「お義母さまはてっきりリオのことを認めてくださっていたのだと思っていました」

「もちろん、あなたが選んだ人だもの」

「それならばなぜ婚約しろと言うのですか?」

「すべては決まっていたことなの。それにリオ・イングリッドはしばらく帰ってはこられないでしょうね。色々と後始末をつけなければならないでしょうから」

 王妃はそれ以上詳しいことを話してくれようとはしなかった。婚約を認めた理由を聞いてもそれがジルにとっての最善だと言うばかりで話にならない。そして王妃がそう言うのならジルに逆らうことはできなかった。

「正式な婚約発表は一週間後に行うからそのつもりでね。皇太子殿下との顔合わせはそのときです」

「僕が嫌だと言っても今回ばかりは助けてくださらないのですね」

「あなたがどれほどイングリッド卿のことを想っているかはわかっているわ。でも王子として生まれた以上は国に利益のある婚姻を結ばなければならないこともある。これはΩのあなたにとって最善の選択です。皇太子殿下はあなたにとって最高のαでしょう」

「そうだとしてもリオじゃない」

 食ってかかるジルに王妃は曖昧な笑みを浮かべただけだった。彼女が部屋を出ていってしまうと、ジルは身体の力を抜いてずるずるとソファに頽れた。膝を抱えるように身体を丸めると心の奥が不安と哀しみで膿んでいくのを感じた。せめてここにリオがいてくれたら、真っ先に逢いに来てくれていたらこれほどまでの不安に飲まれることもなかっただろう。

 一緒に逃げてくれると約束したのに、戻ってきたらいちばんに逢いに来ると言ってくれたのに、いとおしくてたまらない男は今どこにいるのかわからない。王妃が言っていた後始末とはなんのことだろう。わからないことばかりでジルの頭はこんがらがっていく。

 シャノンがテーブルの上を片付けながら心配そうな視線を寄越した。少しひとりにしておいて欲しいと伝えると温かい紅茶を淹れ直してから部屋を出ていく。のそりと起き上がってひと口飲むと、その温かさに泣きそうになってしまった。リオにあいされる喜びを知ってしまったからこそ、余計につらいのだとわかっている。

 今、彼はどこでどんな気持ちでいるのだろう。リオのことだからジルの婚約の知らせを聞いたら飛んできてくれると思っていたし、その場にいたらどうにかして阻止してくれると信じていた。もし婚約することになったら一緒に逃げてくれると約束だってしてくれた。あの言葉に嘘偽りはなかったし、ジルを想ってくれる気持ちだって本当だとわかっている。それがうれしくてたまらなくて、少し舞い上がり過ぎていたのかもしれない。彼はきっと王妃の決定に楯突くことができなかっただけだ。

 憂鬱に沈むジルを急かすように部屋の扉が叩かれた。今は誰とも顔を合わせる気分になれなかったので無視していたら、ケイオスの声がジルを呼んだ。それでも無視を決め込んでいたら、根気強く何度も扉を叩かれた。諦める気配がなさそうだったので仕方なしにソファから起き上がる。扉を細く開くと彼が少し困ったように笑うのが見えた。

「どうかした?」

「イングリッド卿からジルさまにお渡しするものをお預かりして参りました」

 リオの名を聞いて思わず扉を開け放した。恭しく頭を下げたケイオスがおもむろに握り拳をジルの方へと差し出した。促されるままに掌を出すと小さな指環が落とされる。それはリオの小指に填まっていたのと同じもののように見える。けれどこれは魔法の指環だから外すことができないと言っていたのではなかったか。

「これ、リオの、?」

「イングリッド卿から伝言です。三日後、月が真上に上がる頃に我が邸へお越しください」

「それって、?」

「わたしがイングリッド卿の元へ送って差し上げます」

「本当!?」

 思わず出た弾んだ声は思っていたよりも廊下に響いた。ケイオスが苦笑いを浮かべながらすぐにその声を打ち消す。さっきまでの不安が嘘のように心が高揚していた。彼に逢えば鬱々としていることのすべてがどうにかなるような気がした。あとたった三日の辛抱だ。リオはきっとジルを他の男に明け渡したりはしないだろう。

「ジルさま、くれぐれもこのことはご内密に」

「わかっている。ありがとう、ケイオス。リオは元気なんだろう?」

「はい。すぐに逢いに行けないことを悔いておいででした。ご安心ください、ジルさま。あなたにとって悪いようにはなりませんから」

「リオが僕を攫ってくれるってこと?」

「攫う?随分と物騒なことをおっしゃる。一緒に逃げる約束でもされたのですか?」

 ケイオスが揶揄するように笑った。彼の様子でどうやら逃亡の待ち合わせではないらしいということだけはわかった。この男はどうやらすべてをわかっていてジルに話す気はないらしい。三日後の深夜訪ねてくることを約束して余計なことを話す前に戻ってしまった。

 それからの三日間は本当に長かった。婚約式のための準備で城内は慌ただしかったけれど、ジルは他人事のように部屋に籠ってじっとしていた。何度かライラとアデルが衣装の確認に来たり外に引っ張り出そうとしたけれど、頑ななジルの様子を見て諦めたようだった。大体姉たちの反応はどこかおかしかった。ジルがリオと結ばれるようにと応援してくれていたのが嘘のように、今は弟の婚約に沸き立っている。まるでリオの存在など最初からなかったのように振舞うのでジルの困惑は強まるばかりだ。

 待ちに待った三日目の夜遅く、ジルの部屋の扉が控え目にノックされた。緊張しながら待っていたジルがすぐに開けると、闇に溶けるようなローブを纏ったケイオスが滑り込んできた。部屋の明かりは落としてあるので窓から入る月明かりが案外明るく感じる。空には雲一つなく満月が煌々と光る明るい夜だ。

「今から入り口の扉をイングリッド卿の邸と繋げます。明日の朝までゲートは開いたままにしておきますからそれまでにお帰りください」

「わかった。ありがとう、ケイオス」

 礼を言うジルに彼が頷くだけで返事をした。それから扉に軽く手を添えるとなにか呪文を小さく唱える。閉じられた隙間から微かな光が漏れてすぐに消失した。どうぞと開かれたその先は同じように薄暗い部屋に繋がっている。

 ジルがその部屋に踏み入れると背後で扉が閉まった。振り返ると出てきた扉は部屋の隅に設えられたクロゼットのもののようだ。ぴたりとそれが閉じられてしまうと部屋がますます暗く感じた。窓から入る月明かりが磨かれた石の床に反射するだけで、窓から離れた部屋の隅までは暗くてよく見えない。秘密の逢瀬だろうからきっと灯りを灯しておけなかったのだろう。家具は置かれているものの殺風景に感じる部屋は怖いくらいに静かで、自分の呼吸音さえも酷く耳障りに思える。

 まるでこの部屋だけあらゆるすべての世界から切り離されているようだった。この部屋にたったひとり取り残されたようで、リオに逢える喜びに昂っていた心も萎みそうだった。てっきり扉の先にはリオが待っていてくれると思っていただけに、ひとり暗闇の中に佇んでいるのは心細い。一歩踏み出すたびに靴音が響くような気がして下手に動くのも憚られた。ここにいることが誰かにバレたら大変なことにはならないだろうか。

 ようやく目が暗闇に慣れてきた頃、少々慌ただしい足音がこちらへと向かってきた。緊張に鼓動が跳ね上がって思わず息を潜める。ゆっくりと後退ってクロゼットの扉に後ろ手をかけた。もし入って来たのがリオ以外の誰かであればすぐに逃げられた方がいい。

 そうしているうちにそっと部屋の扉が開いた。廊下の薄明かりが部屋の床を横切ってすぐに遮断される。誰かが入ってきた気配がしたが身を隠すように黒いローブを着ているせいでよく見えなかった。足音を忍ばせてゆっくりと近づいてきた誰かは背格好から男であることはわかる。もしそれがリオならどうして顔を隠しているのかわからなかった。邸の中を忍び歩くために着てきたのなら、この部屋に入った瞬間になぜ脱がないのだろう。

 男がジルの方に顔を向けた。その刹那に不思議とそれがリオなのだとわかる。考えるより先に足が床を蹴って彼の胸に飛び込んでいた。しっかりと抱き留めてくれる腕に力が籠って身体中に活力が漲るのを感じた。泣きそうなほどうれしくて上手く言葉にならない。

「リオ、逢いたかった」

 ただそれだけ言葉にするのが精一杯だった。思っていたよりもずっと彼に逢いたくて、逢いたくて逢いたくて仕方がなかったのだと今ならわかる。もしこのまま彼の消息もわからないまま知らない男の元へ嫁がされていたら、ジルはどうなっていたかわからない。離れてみてようやく狂おしいほどの恋情に気づいた。今再び出逢ってしまったら、きっともう離れては生きていけない。

「約束を果たせず申し訳ありません。すぐに戻ることができなかったのです」

 震える声音がいとおしくて、本気で悔いていることが伝わってきた。小さく首を振って怒っていないことを伝えると彼が安堵の笑みを漏らすのがわかる。そっと見上げてみても、フードの影で彼の顔をよく見ることは叶わなかった。そっとフードに手を伸ばすと阻むように手を取られる。そっと握り締められた掌からやんわりとした拒絶が伝わってきた。

「リオ、顔を見せてくれないか?そのままじゃあよく見えなくて」

「ジルさま、俺は今あなたの知るリオ・イングリッドではありません。髪も目もなにもかもが変わってしまったのです」

「それはいったいどういう、」

 言われていることの意味がわからなくて戸惑った。目の前にいるのはたしかに、顔はよく見えないけれどリオに違いない。それなのに彼はジルが知る彼とはなにもかもが違うと言う。ふと、リオがケイオスを通してジルに渡してくれた指環のことを思い出した。けして外れないはずのそれが外れたのなら、それは魔法が解けたということに他ならない。そしてきっと、リオは護衛騎士に甘んずる身分などではなかったのだ。

「隣の国のお姫さまに出逢って魔法が解けたのか」

 そうぽつりと呟くのと涙が零れるのは同時だった。リオを困らせたくなくて慌てて涙を拭っても次から次へと頬を伝う。ごめん違うのだと支離滅裂なことを口走った。リオにかかっている強力な呪いは運命の相手に出逢わなければ解けない。それであるのならば出逢ったのだ。彼は魂で惹かれ合う運命の相手に出逢って結ばれた。きっとジルと離れている間にジルの知らないなにかが起こったに違いない。

 喜びに満たされていた心が急速に冷えていく。このまま鼓動が止まって彼の腕の中で永遠の眠りに就けたのならどんなにいいだろう。そっとリオの腕から逃れようとするジルを彼が強く抱き寄せた。そんなことをされたら諦めきれなくなるのに、抗議の声は彼の唇に塞がれてしまった。あまりのことに驚いて涙が引っ込む。慈しむように眦を啄まれると触れられたところが熱を持つ。

「ジルさまは誤解されております。俺はあなた以外の誰にも心を許してはおりません」

「だって、お前の魔法は運命の相手に出逢ったら解けるって」

「ああ、あの話を覚えていてくださったのですね。俺はたしかに運命の相手に出逢いました。ようやくこの前結ばれたのです。そのときどんなにしあわせな気持ちだったか、あなたならおわかりでしょう?」

 甘く柔らかな声音が耳から流れ込んで冷えたジルの心臓に届いた。息を吹き返したそこがひとつ高鳴って鼓動の速度を上げていく。

 言われたことはわかるのに信じられなかった。彼の運命が自分だなんてそんな素晴らしいことがあっていいのだろうか。じっと見つめてくる真摯な瞳にいとおしさが滲んで、柔らかに微笑まれるとまた泣きそうになった。その顔を隠すように手で覆い隠そうとすると、慈しむような彼の笑みが深くなる。

「俺はあなたを手に入れるためにどうしてもやらなければならないことがあったのです。だからヒート中のジルさまを置き去りにして行かなければならなかったし、すぐに戻ることができなかった。でもそんなことは今回だけです。もう二度とあなたのお傍を離れたりはしません」

「でも、僕はその、エルシオンの皇太子殿下と婚約が決まってしまっていて、」

「じゃあ攫って逃げてしまいましょうか」

 揶揄するような声音を聞いてジルは身体の力が抜ける気がした。思わず頬が笑みに崩れるといとおしくてたまらないとでも言うようにリオの腕に力が籠る。

 ああ、この人なのだと唐突に思った。エルシオンに舞い戻った正当な皇子というのは魔法が解けたこの男なのだ。

「ジルさま、お話したいことがあります。聞いてくださいますか?」

「悪い話なら、嫌だ」

 あまりのことに頭がついていかなくて、ようやくそう返す。リオの表情が甘やかな笑みにとろけてどうでしょうかとお道化る。フードが取り払われた下から綺麗な金色の髪が現れた。月明かりに照らされると元々整っていたリオの容貌に神々しさが増すようだ。見つめてくる瞳は深い海のような碧眼で、きらきらと輝いているように見えた。

 これが本来の彼なのだと腑に落ちた。クレイグと全く同じ色なのにリオが纏っていると風格が全く違って見える。リオが膝をついてジルの手の甲に恭しいくちづけを落とした。そのまま綺麗な瞳に見上げられると鼓動が苦しくて上手く息ができない。

「俺の本当の名はリオネル・エルシオンと申します。ジルさまのお気持ちを無視して王妃殿下よりあなたとの婚約の承諾を頂きました。この婚姻は元より決まっていたこととはいえ、あなたを不安にさせたことは謝ります。申し訳ありません」

「先に言ってくれたらよかったじゃないか。お義母さまだって教えてくれたらよかったのに」

「すぐには言えない事情があったのです。ずっと行方不明だった第一皇子が戻っただけでも大変な騒ぎでしたし、クレイグや皇妃の後始末もつけなければなりませんでしたから。クレイグがジルさまとの婚約に拘っていたのは、皇太子とディリンの末子が婚姻するという俺の母の予言があったからです。あなたと婚約することで己の立場を確実なものにしたかったのでしょう。王妃殿下の賢明なご判断で延期にしていただき幸いでした。そうでなければ俺はこうしてあなたに触れることすら叶わなかったでしょうから」

 リオがジルの掌に頬を寄せた。いとおしげに頬擦りされると胸の奥が甘く疼いてたまらなくなる。立っていられなくなってその場に頽れると、服越しでもひんやりとした床の温度が火照った身体に心地よかった。こうして触れられていると、心の奥底が彼に強く惹きつけられているのがよくわかった。初めて彼に出逢ったときに運命だと思ったその感覚は間違いではなかった。もうとっくに落ちている底なしの沼にもう一度突き落とされたような気さえする。

 腕を伸ばして縋るようにリオに抱き着いた。抱き締めるつもりが抱き締められる格好になるのは、ジルよりも彼の方が体格がよいので仕様がない。不思議そうに自分の名前を呼ぶ声がいとおしくて、この先もずっと呼び続けて欲しいと願った。彼が何者だって構わない。ただジルのことを想って、慈しんで、すきだと言ってくれるのならそれで充分だ。

「お前が何者でもいいよ、リオ。護衛騎士でも皇子さまでも、リオであるのならそれでいい」

「俺もあなたが傍にいてくださるのなら立場などどうだっていいと思っていました。エルシオンの皇子だと思い出した今も、この立場に固執する気持ちにはなれません。ですが皇太子であれば誰に文句を言われることなくあなたと番える。ただそれだけのために俺は弟と皇妃の秘密を暴いた。俺は結構浅はかな男なのですよ」

 リオが自嘲するように笑った。エルシオンの皇太子だったクレイグが実は不義の子であったという事実は今やディリン中で囁かれていた。その姿は突然魔法が解けたように髪と目の色が変わり、その闇に染まったような色は皇族の血筋でないことを証明していた。皇妃は不貞を疑われた上にクレイグを皇子と偽り帝位に就けようとした罪に問われているらしい。すべては噂話の域を出なかったが、侍女たちが密やかに噂をしている声はジルの耳にも入っていた。

「クレイグは明らかに皇太子の器ではなかった。それでもその立場でいられたのは俺が国を出て姿を隠していたからです。俺はイングリッド子爵の養子としてディリンで育てられ、皇子であった頃の記憶と容姿を魔法によって封じられておりました。この前お渡しした指環は本物の魔法の指環で、母がそれに俺を護るように願ったのです。けれど母の知らぬうちに他の魔法使いが細工をしてクレイグに俺の容姿やαの能力が投影されるようになっていた。指環を外せばすべてのことが元に戻ってしまうので、その時が来るまでは外してはいけない。養母が絶対に外すなと言っていたのはそういうことだった、というわけです」

「あの会談の場で指環を外してクレイグ殿下の正体を暴いた、ということ?」

「はい。すべては王妃殿下とイングリッド子爵の考えでした。決定的な証人のいる逃げられない場所で悪事を暴く必要がありましたから。それで俺はこの通り、奪われていたものをすべて取り戻した。奪われようとしていたジルさまも含めて、です」

「それだけのことを僕のためだけに?」

「あなたの隣に立つ相応しい男になりたかったのです。それはβだと信じていた頃からずっと思っていたことでした。バース性など大したことではないとも思っていました。けれどあなたに出逢ってαでないことを強く悔やんだ。どんなに強く願ってもβではあなたと番うことができない。でも、今の俺ならできます」

「本当に僕で後悔しないか?お前はエルシオンの皇子で相手はより取り見取りだろう?」

「俺の話を聞いていらっしゃいましたか?ジルさまを俺のものにするためだけに皇太子になったのに」

 困ったように笑うリオを見ながらそれは流石に言い過ぎだろうと思う。彼がそこまで想ってくれていることは勿論うれしいし、ジルだって彼の番になれるのならこれ以上のことはない。今だって彼と番いたいと心の底から願っている。けれどそこに不安が見え隠れしていないといえば嘘になった。今のリオは大国エルシオンの皇太子で有能な美しいαだ。傍から見れば、隣国だというだけの小さな国で秘匿されてきたΩの王子との婚姻など、どこに利点があるのかわからない。

「僕だってリオと番になりたい。でもお前のことが他国に知れ渡ったら他の国からの婚姻の話も出るだろう?そのとき、きっと僕は冷静じゃあいられないから、」

 そう言ってしまってからそれが不安の種だったのだと気づいた。父王には王妃の他に側室がいるし、ジルの母もそのひとりになるはずだった。正室の他に側室がいることは珍しくないし、大国であればあるほど各国から娘の輿入れを打診する声もあるだろう。それが国益に繋がるのであればリオに拒否する謂れはないし、きっとその相手はジルよりも優秀で美しい者たちばかりに決まっている。

 まだ起こってもいないのに、そうなったときのことを考えると怖くてたまらなくなった。先ほどだって彼がジルでない誰かに触れたと考えただけであんな気持ちになったのだ。ぐずぐずと考えていたジルは、リオが可笑しさを怺えているような表情をしていることに気づいた。なにか変なことを言っただろうか。

「なにか可笑しなこと言ったか?」

「いえ、起こりもしないことを真剣に悩んでいらっしゃるので」

「起こるかもしれないだろう?お前と結婚したい者はきっと五万といるだろうし」

「それはジルさまの贔屓目です。多少そういった話は出るでしょうが俺は受けるつもりはありません。俺はあなたがいれば他に誰も要らない。不安になるのなら、そのたびに何度だって伝えましょう。俺の運命はあなただと」

 真摯な瞳に射抜かれて鼓動が高らかに跳ね上がった。この男が己のαなのだと改めて認識するとどうしようもなく鼓動が高鳴る。

「ジルさま、俺と番になってください。俺はあなたの、あなただけのαになりたい」

 そんなことを言われたら頷くだけで精一杯だった。伸びてきたリオの指にうなじを撫でられるとぞくりと背筋が粟立つ。そこに歯を立てられるところを想像すると心がとろけるようだった。初めてヒートを共にした日、彼はジルに噛みついたりはしないと言った。その彼が今、ジルに噛みつきたいと願っている。それがたまらなくうれしい。

「僕もお前のだけのΩになりたい。ずっとそうだったらいいのにと願っていた」

 最後の方は唇を塞がれて上手く言葉にならなかった。月明かりの下で交わすくちづけは静謐で、それでいてとろけてしまいそうなほどに甘かった。


         ◇◆◇


「ジルったら一体どういう風の吹き回しかしら。この前までどうでもいいって感じだったじゃない」

「あら、お戻りになった新しい皇太子殿下は素敵な方だという噂だもの。ああなるのも頷けるわ」

 それにしたって、とライラが言葉を続けるのを聞き流しながら、ジルは目の前の鏡に向き直った。ジルが部屋に籠っていた間の準備は姉たちが代わりに滞りなく済ませてくれていたようで、婚約式の衣装は細部の調整を残すのみとなっていた。生誕祭のときよりは少々落ち着いたデザインだったが充分な華やかさを備えているところは流石だと言える。微調整をしている針子たちもよく似合いだと口を揃えてジルを褒め称えてくれた。ソファでお喋りに興じている姉たちも満足そうにしているのがわかる。

 こうしていると生誕式典の衣装合わせを思い出した。つい数週間前のことなのに随分と昔のように思えるのが不思議だ。あのときはリオの隣に立って見劣りしないか不安に思っていたが、今回は最早諦めの境地だった。今やエルシオンの皇太子であるリオの容貌は陽の光の下で更に輝くに決まっている。それに彼ならジルがどんな格好をしていたって素敵だと褒めてくれるだろう。それがわかっているから少し気楽でいられた。

 滞りなく衣装合わせを終えるとどっと疲れて、姉たちの向かいのソファへと身体を沈めた。少々呆れたように笑ったアデルが手づから紅茶を注いでくれる。

「ジルったら、これくらいでへこたれていたら先が思い遣られるわ。エルシオンの皇太子妃といったら羨望の的だもの。常に身形には気を配っておかないとね」

「あら、大丈夫よ。ジルはそのままで充分に美しいもの。ジルはもう少し自分に自信を持つべきだわ。あなたは男の子だけれど、わたしたちの誰よりも美しく生まれたのだから」

「それは言い過ぎだよ。ライラお姉さまとアデルお姉さまより僕が美しいなんて有り得ないもの」

 それは謙遜でもなんでもなく本音だったのだが、姉たちは目を丸くしたあとで嬉しそうに微笑んだ。それから美しいことを自覚するようにと念を押されたので思わず苦笑いが零れた。

 窓の外が俄かに騒がしくなって歓声が風に乗ってここまで届いた。婚約式を明日に控えた今日、リオはこの城に到着する予定になっていた。魔法に頼らず遠路遥々訪れようとすると、エルシオンの帝都からディリンの王都までは丸三日かかる。ケイオスのような有能な魔法使いがいればその距離はゼロになるものの、どこの国にも優秀な魔法使いがいるわけではない。窓辺に駆け寄って下を見ると騎馬隊に先導された豪華な馬車が城へと向かっている最中だった。沿道に出た町の人々が歓迎するように歓声を上げて手を振っている。

「まさかエルシオンの次期皇帝陛下になるお方が我が国まで伴侶のお迎えにいらっしゃるなんて、お父さまもびっくりでしょうね」

「まったくよ。国益のためにジルを犠牲にしないように大切に護っていたというのに、エルシオンに搔っ攫われるとは思いも寄らなかったわ。わたしはてっきりあの人と、」

 そこでライラが不自然に言葉を切って不思議そうに眉を寄せた。アデルもその人物のことが思い出せないことに気づいたのか、そっくり同じ表情を浮かべている。ジルはそれを可笑し気に眺めていたが、それが誰であるのかを教えてやることはない。

 リオ・イングリッドという存在は最初からなかった者のように消えつつあった。イングリッド子爵家は最初から存在しないものとなり、騎士として名を上げていたリオの地位は別の者にすり替わっていた。リオの養父だったルーカス・イングリッドはエルシオンで騎士団長に復帰するという。ケイオスによるとすべての人々の記憶が正しく修正され始めたのも指環の持つ強力な魔法の力によるものであるらしい。

 リオはそのまま母の形見の指環をジルに託してくれた。心から願えばたったひとつだけ願いを叶えてくれるのだという。ジルの願いはリオが叶えてくれたので今のところそれが必要になることはなさそうだ。

「なんだか色々なことを忘れているような変な気分だわ。わたしたち、ジルの婚約を喜んでいたはずじゃなかった?」

「そうよね。それなのになぜこんな気持ちになるのかしら。きっと大切な弟と離れるのが寂しいのね」

 きっとそうだわ、と姉たちが笑ってジルを抱き締めてくれた。ずっと一緒に育ってきた姉たちと離れるのはジルだって寂しかった。このままずっと末っ子として姉たちに甘えていられたらどんなによいだろう。リオにあいされていることも彼の伴侶として認められることもうれしいのに、ここを離れるのはどうしても寂しい。この矛盾した気持ちをきっと、輿入れする者たちは皆味わってきたのだろう。まさかそれを自分が味わうことになるなんて可笑しな気分だ。

「お姉さまたちと離れるのは寂しいけれど、心配はしなくて大丈夫。リオは僕の運命のαなんだ。僕だけの」

「それはとても素敵ね。けれど皇太子殿下をお名前で呼ぶだなんて、どこでそんなに親しくなったの?アデルは知っていて?」

「野暮なことを聞くのはよしましょう。ジルがしあわせになるのならそれがいちばんよ」

 アデルの言葉にライラも納得したように微笑んだ。窓の外の喧騒が増して馬車が城内へと入ってきたことがわかる。それを見て居ても立ってもいられなくなった。本来ならば明日まで顔を合わせることは許されていない。それでもどうして我慢することができるだろう。

「僕、出迎えてくる!」

 部屋を駆け出るジルの背を姉たちの引き留める声が追ってきた。廊下を走り抜けて階段を駆け下りる間、すれ違う召使たちが何事かと振り向いたり止めようとする。それでも逸る心が抑えきれなくて、足が勝手に駆けていった。ただひとえに早く逢いたい気持ちばかりが先走っていく。

 ようやく正面玄関へと辿り着くと出迎えの人々がずらりと並んでいた。馬車がゆっくりと止まって恭しく扉が開かれる。皇太子殿下が降りてくるその光景はあまりに美しくて、ジルは人々のうしろに隠れて目を見張った。月明かりの下でも美しかった金色の髪が今や陽に透けて輝いている。出迎えが一斉に頭を下げたので見惚れていたジルは一瞬出遅れた。あ、と思った刹那にリオの視線に射抜かれて動けなくなってしまった。引き締まっていた表情が柔い笑みに溶けるのを見て泣きそうになる。

 従者が止めるのも聞かずにリオがこちらへ来ようとしてくれたのでジルも前に出た。慌てたように周りが止めようと伸ばす手をうまい具合にすり抜ける。リオがジルを呼ぶ声と同時に彼の胸へ飛び込んだ。しっかりと抱き留めてくれる力強さがいとおしい。

 周りが息を詰めて見守っているのが痛いほど感じられた。出迎えの中心に居た王妃が頭を抱えて、やれやれと言った様子で苦笑う。リオが膝をついてジルの手に恭しくくちづけを落とした。それに感嘆にも似たどよめきが広がる。

「ジルさま、お迎えに上がりました。お待たせして申し訳ございません」

 感極まって首を縦に振るだけで精一杯だった。きっとジルはこの日のことを生涯忘れはしないだろう。

 そう、想った。     


めでたしめでたし。

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姫と偽られたΩの王子は運命の騎士に初恋を捧げる なつきはる。 @haru_0043

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