三月のメルト

音愛トオル

三月のメルト

 実はね、もみじ、私ね、あなたと友達になれると、思ってなかったんだ。



※※※



 厳かな空気に背中を押されたまま、わたしたちは高校3年間で最後のホームルームをすべく、教室へと歩いていた。思い思いの言葉をかけあい、この旅立ちの日を自分なりに受け止めているクラスメイトたちがいるなかで、わたしは心ここにあらずだった。

 なぜなら――


「……では、最後に学級委員長お願いします」


 担任の最後の言葉も、クラスメイトたち一人ずつの挨拶さえ耳を滑っていく。

 窓辺で揺れるカーテンさえ涙しているようにはためく中で多分わたしだけがここにいない。配られたばかりの卒業祝いをそそくさと鞄に入れて、わたしは自らの3年の日々に背を向けた。


陽毬ひまり――!」


 なぜなら、わたしの大切はここにはないから。



 わたしが通う高校からはかなり離れた場所にあるこのカフェ。かといって自宅の最寄り駅付近にあるわけでもないここを知らずに終わる人生も、きっとどこかにあったのだろう。

 それを想像すると胸が張り裂けそうになる。

 欲しかった雑誌を求めて本屋を何件も回ったのはもうほとんど3年前、入学してすぐの時期だ。結局こんな場所まで来てようやく手に入った雑誌を片手に、休憩に立ち寄ったカフェにまさか、3年も通うことになるとは思わなかったけれど。


「ごめん、遅れた!」


 カフェに入るというよりも友達の家に入るような軽さで扉を開けると、中には客も店員も誰もいなかった。カウンターに置かれたメモには、「今日は2人の為に休みにしといたから」と可愛らしい絵と共に書かれている。

 わたしは胸に満ちる温かさにそっと目を伏せ、お決まりになっている窓際の席に座った。


「あ、もみじ。おかえり」

「陽毬!ただいま。今日、めっちゃ素敵だね」

「ん?ああ、ありがと。卒業式だし、椛も来るし――頑張った」


 しばらく待っているとカウンターの奥から制服姿の同年代の女の子――わたしの大切、陽毬がやって来た。普段は軽くハーフアップにまとめている髪を今日は編み込んでいる。

 わたしはいつもよりも化粧に時間をかけた、お互いのハレの日の姿。


「椛も、雰囲気が違って見えていいね」

「えへへ、ありがとう」


 窓際のこの席は対面の2人席だったが、陽毬はわざわざ椅子を持ってきてわたしの隣に腰かけた。閉店後の定位置だ。

 1年生のあの日、このカフェに訪れたわたしは陽毬と出会う。ちょうど、初めて正式に実家の手伝いとしてホールに立った陽毬と。


「いやぁ、あの日の陽毬はうぶで可愛かったなぁ」

「は?何言ってんの。知らない町の初めて入るカフェで緊張してた椛の方が可愛かったけど」


 同年代の子がアルバイトをしている(ように見えた)わたしも、新品の知らない制服を着た子の接客をした陽毬も、お互いに興味が湧いたのだ。勤務中だというのに陽毬から話しかけてきて、それで話が盛り上がって。

 今日も書置きをしてくれたおばさん、陽毬の母に言われたものだ。


『あら、陽毬あんたもう友達出来たの――って、制服が違うね。どこから来たの?うん……って、そんな遠くから?あ、陽毬今日はもういいから、えーと――椛さんね、椛さんをもてなしてあげて』


 手際よく紅茶を2杯注いできた陽毬にお礼を言って、わたしは鞄から卒業証書とアルバムを取り出した。見れば、陽毬もカウンターの向こうからその2つを持ってきていた。

 目が合って、わたしはこの日初めて同級生たちみたいな泣き笑いを浮かべた。


「卒業おめでとう、陽毬」

「そっちこそ。色々あったけど、おめでとうだよ。椛」


 見せあった証書は高校が違えば細部も異なって面白かったし、アルバムに映った緊張した面持ちの陽毬は可愛かった。わたしが行けなかった陽毬の高校の修学旅行の写真で、景色にらんらんと目を輝かせている陽毬を見つける。

 陽毬もわたしを見つけたようで、2人で指をさしあいながらアルバムを楽しんだ。


「じゃあ、どこで撮る?お店の前?」

「うーん……いや、ここでいいんじゃない?私たちの場所だし」

「そうだね、じゃあここにしよっか」


 日が落ちてきたころになって、2人ぶんしかない寄せ書きも書いて、わたしたちは記念写真を撮ることにした。髪型やメイク、胸元の飾り、違う制服。

 そんな姿で、ほとんどいつも通り撮った2人の自撮りはけれど、この3年間で一番特別な写真になった。そして、この日はじめて撮った写真でもあって。

 もはや記憶が薄れかかっている母校での卒業式に、ああ、陽毬が居たらどんなに……。


「そろそろ母さん帰って来るし、それまで部屋に行こうか」


 陽毬はそう言うとわたしの返事を待たずに、手を引いて2階へと向かった。窓際の席の机上に寝そべるティーカップと証書2つ、アルバム2冊。

 その全部を置き去りにして、わたしたちは陽毬の部屋へとやって来る。写真を撮ってからほとんど会話が落ちなくなった2人の間には、3月に溶けていくような寂しさが漂っていた。

 口に出さなくても、陽毬もわたしと同じ気持ちなのだと分かる。分かるよ。


「電気、つけなくていい?」

「うん。陽毬の好きにしていいよ」

「分かった」


 カーテンを閉め切った3月の終わりの夕方の部屋は柔らかい暗闇が満ちていた。その闇の中、クッションの前まで移動した陽毬はわたしをそこに座らせて、自分はというと、わたしの脚の間を選んだ。そこに陽毬が腰を下ろす、身長差もあって収まりがよくて、たまにやったりする定位置。

 ぼすん、とクッションがへこんで、とすん、と陽毬の頭がお腹に触れた。


「――陽毬?」

「お願い。ちょっとこのままいさせて」


 陽毬を抱くわたしはクッションに抱かれ、このまま2人で夕闇の部屋に溶けてしまいそうだ。穏やかに上下する陽毬のお腹は暖かくて、少し冷たかったわたしの手を包み込む。

 数分か、あるいは十分以上、降りたままの沈黙を開いたのは、陽毬の吐息だった。


「――ずっと、考えないようにしてたのに。さっきアルバム書いて、写真撮ったらさ、私。椛と同じ学校でさ、一緒に帰ったりさ、お昼ご飯を一緒に食べたりさ。そんな3年が良かったって、思っちゃうよ」

「陽毬……。わたしも、おんなじだよ」


 陽毬を抱く手に、陽毬の指が重なる。控えめに人差し指だけをきゅ、と掴まれる。

 わたしもそれに返すように、人差し指をく、と少しだけ曲げた。


「春からは同じ学校だけどさ。私――」


 続く陽毬の言葉を、わたしは聞くべきだと思った。きっとそれは、わたしもずっと思っていたことだから。

 、わたしは陽毬を遮る。


「あのね、陽毬。わたし、陽毬に会えてほんとに良かったと思ってる。それがこういう形で良かった、ともね。だっていつもの席、秘密の密会みたいで楽しかったでしょ?」

「それはっ、まあ、そうだけど」

「だから、だからさ――そんなこと言われたらっ、陽毬……」

「――椛?」


 仮の話などいくらしてもしょうがない。入れもしないであの机におきっぱなしにしてあるミルクと同じだ。

 それでも、口に出してしまったら、届かないものを、思う必要のないものを、思ってしまうじゃないか。


――例えば、とか。


「……ぅ」

「陽毬?あれ――寝ちゃったのかな」


 問いかけが吐息に、重なった熱が優しい重さに変わって、わたしは陽毬が寝たことに気が付いた。確かに陽毬の身体は温かくて、手を除けばだいたいわたしも同じだろうから、逆だったらわたしも眠っていただろう。

 とはいえ、これでは叶わぬ感傷の為に結びかけの言葉の行方がなくなってしまった。


「……まあ、今日はこのあとおばさん含めて3人で卒業祝いもあるし。言わなくてもいい言葉も、あるよね……ねえ、陽毬」


 あるいは、今ここでそれを言うことで、思い出に後悔を滲ませたくなかったのかもしれないけれど。

 いずれにせよ陽毬が寝てしまったから、おばさんが来るまでわたしもいっそ寝ようか、と思った時に、ふいにある考えが浮かんだ。それは卒業式で、おめかしして、特別な日で、そんな諸々があったからでももちろんあるけれど――


 陽毬がこんなに近くに、いるから。


「――好きだよ、陽毬。聞こえてないんだろうけど。ずっと前からわたしの大切なんだよ」


 ぴく、と震えたお腹の指。


「もっと早く言ったら、週末にデートとかできたのかもしれないけどさ。わたしは今の関係が――あの窓際の席が、心地よくってさ」


 ぴくぴく、と揺れた誰かの手。


「特別な日だから許して。今日しか、陽毬が寝てる今しか言わないから――」


 がばっ、と誰かが跳ね起きた。


「嫌!起きてる時にも言って!」

「……起きてたんじゃん」

「おっ……!きてはないけど。寝てたけど!7割くらいだったから!そんなこと言われたら目覚めちゃうから……っ」


 取り繕った表情は陽毬をからかっているが、内心はかなり焦っていた。

 陽毬にこの気持ちは直接言うつもりは――少なくとも今のところは――なかったのに。いや、こうして口に出している以上、あるいは本心では言いたかったのかもしれない。

 違う、そこじゃない。言った言わないじゃなくて、わたしは、この関係が。


「……変わらないよ」

「え?」

「椛がそう言ってくれて私、今すごい嬉しかった。そりゃ、びっくりしたけどさ。でも嬉しかったってことは、ううん。それどころかどきどきもしてる」


 ああ、こんなことなら陽毬に電気をつけるよう言えばよかった。

 暗闇の中ぼんやりと見える陽毬は、会ってから今までで一番可愛い顔をしている気がする。


「うまく言えないけど、だから、その……窓際!変わらないからね。特等席だから、あそこは」

「えと……ありがとう?」

「あー、もう!そっちから言ってきたのになんで鈍いの!」


 どたどたと足音を立てて、陽毬は再びわたしの脚の間にやってきて、わたしの身体に沈んだ。わたしの両腕をわたしから奪い取って、ぎゅっ、と抱き寄せ、「いい!?」と叫んだ。

 わたしは焦りとか陽毬とか可愛いとかで整理がうまくついていない頭で、なんとなく目を閉じた。


「私もっ。椛が好きって、言ってんの!」

「……言ってた?」

「言った!窓際の特等席!」


 わたしの上でぎゅっ、と丸くなった陽毬は、そのまままくしたてる。


「それより椛ももう一回言ってよ。私寝てたんだしさ!?」

「え、ええっ」


 決して言うまいとひそかに胸にしまっていたわたしが馬鹿みたいじゃないか、と。

 思わないことはなかったけれど、陽毬が仰せだし、未だに状況をよく飲み込めていないがわたしの勘違いでなければ陽毬もわたしのことが好きだと言っている。


 ……え?


「ええ!?」

「な、なに」

「い、いや、あのっ、えと――陽毬ぃぃ……」

「ちょ、どうしたの椛」


 その瞬間、わたしはようやく世界に追いついた。

 つまり陽毬はわたしが好きなのだ。それは、窓際の席なのだ。


「ごめん、ちょっと……耳貸して」

「な、なに?」

「いや、陽毬みたいにでっかい声だせない――うん。そう、ありがとう。じゃあ、言うね」

「う、うん。くすぐったいから早くして」


 早くして、と言われたけれどわたしはたっぷり数十秒ほど間を置いて、胸中に渦巻くわたしの中の陽毬への全てを、たった一言に乗せるために息を整えた。そして、


「――好きだよ、陽毬。わたしの大切な人」

「~っ!」


 真っ暗な部屋の中、わたしたちは「好き」を介して2人の世界に溶けていく。

 思い出の隙間に挟まった叶わぬことへの後悔を、これからの日々で埋めていくために。



※※※



 同年代の子がお店に来るのは初めてで、私は舞い上がった。でも、遠い所から来ているというし、連絡先こそ交換したけど友達と呼べる関係になれるとは思っていなかった。

 それなのにこの子は毎週のように遊びに来てくれたし、私もそれをいつも楽しみにしていた。

 私はいつしか、この子ともっと仲良くなりたいと、もっと特別になりたいと、そう思うようになっていた。その想いを、気持ちを、「好き」だと言っていいんだと気づかせてくれたのは、


「――好きだよ、陽毬」


 この子の声だったんだ。


 卒業式の日、友達から恋人になった私たちは、母さんが帰って来るまでの時間、腕の中にがある幸せを、ただただ噛みしめていた。


――3月の今日、2人だけの沈黙に溶けたのふた文字を。

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