第4話

 仕事のない日は菜々美と買い物に行くことにしている。近くのスーパーや体調の良いときは県内の繁華街まで車を運転することもある。和中は最近、腰の調子が悪かったが、整骨院で見てもらって薬を処方してもらってから、回復傾向にあった。

「なんだか混んでるね」

 菜々美が和中と手を繋ぎながら言った。菜々美が六十二歳の時、自転車に乗っていると段に乗り上げて激しく転倒してから、脚を引きずるようにしか歩けなくなっていた。

「今日は五パーセントオフの日だからじゃないか?」

 和中はショッピングモールに吊るされている巨大なのぼりを指した。どのテナントも若者向けで、和中や菜々美が惹かれるものはない。たまにある休憩スペースの席はすべて和中の同世代と思われる老人が座って、眠り込んでいる者もいた。

 和中は唯一空いている席に菜々美を座らせようとしたとき、モールの奥から男の野太い咆哮が響いてきた。

「何だ?」

 すっかり老眼となった目を声のする方へ向けると、足音が幾重にも重なった音が襲ってきた。数多の人々が和中の方向へ走って来る。慌てて眼鏡をかけると、みな一様に目を見開き蒼白の顔で何かから逃げ惑うようだった。席に座る老人たちもさすがに異変に気づいて同じ方向を見ている。

 奥の方へ目を凝らした。上下黒いジャージを着てフードを被った男と思われる者が包丁を振り回している。男の周りには逃げ遅れた人々が赤く染まりながら倒れていた。

「菜々美、できるだけ急いで逃げるぞ。俺が背負ってやるから」

 菜々美の前でしゃがみこむが手を肩に載せたままなかなか乗ってこない。「早くっ」と和中が催促するとようやく体を預けてきた。ゆっくりと立ち上がる。幸い腰に痛みは出ない。廉が亡くなってから菜々美はどんどん肉が削ぎ落されていったことも腰の負担を軽減させていた。とはいえ七十五歳という高齢では菜々美を背負って走ることはできない。

 悲鳴はまた幾重にも聞こえ、振り向くと男は和中の方へ向かってくるのが見えた。歯をぎりぎりと食いしばり、後のことを考えず歩みを早めた。しかし真後ろでしゃがれた悲鳴が聞こえてきた。身体の弱った老人たちが次々に刺されていった。灰色のカーペットの床はみるみる赤黒く染まっていく。

 和中は顔を戻す間際、男と目が合った気がした。そのとき、廉の顔を思い出した。廉と男の顔は似ても似つかない。それなのになぜ……。

 答えはすぐに分かった。あのときの廉の言葉が脳内に反響した。

 男はまた咆哮を上げて和中たちに近づいてきた。

「止めてくれっ、廉!」

 思わず男の方を振り向きながら和中は叫んだ。

「あなた、何言ってんの!」

 背負われた菜々美は大声で叫んでいる。男の細くは変わらず、大股で和中を睨みつけながら近づいてくる。

「おれだ! おとうさんだ! 廉だろう? もう止めてくれ。お前は優しい子だった。何でこんなことするんだ」

「あいつが廉なわけないじゃない! 止めてよ! 降ろして!」

 男はたちまち和中の目の前にまで迫ってきた。これではもう和中の逃げ足では男に捕まってしまう。男は握りしめた包丁を高く振り上げた。和中は菜々美を降ろして男の懐に飛び込んだ。

「目を覚ましてくれ、廉! お父さんだ! お前が生まれ変わる前に四歳のときに言ったことを覚えてる。あの時は真面目に聞いてやれなくて申し訳なかった。反省してる。でもお前にもうこんなことはしてほしくない。俺で最後にしてくれ!」

 男の振り上げたナイフは弧を描いて和中の胸から腹にかけて切り裂いた。異様な熱が切られた箇所から発した途端、激痛が全身をむさぼった。強烈な吐き気が襲い、視界が暗くなり、立っていられなくなる。かろうじて菜々美をゆっくりと降ろすが、直後、口から血の混じった吐瀉物を吐き出した。視界がぼやけて見えるのは老眼のせいか命の危機だからかわからなかった。

「あなた!」

 叫んでいるはずの妻の声がくぐもって聞こえる。やはりこの男は廉ではないのか。ただの殺人犯だったのか。

 男は和中の顔を覗き込んできた。わずかな体力を振り絞って男の顔を覗き込むとやはり廉とは全く違う顔つきの男だった。しかし男の様子は明らかにおかしい。黒目は左右に痙攣するように揺れ、額に脂汗が大量に噴き出している。和中の視界から男が消えたと思った途端、悲哀のこもった叫び声が聞こえてきた。

 次の瞬間、男が落下していく様子が視界の端に映った。ドンという音がモール内に響いた。和中は背中に強烈な痛みを抱えながら下を覗き込むと、男を中心として血だまりがじわじわと広がっていた。男の横顔は一瞬廉に見え、後を追おうかと思い、脚をかけたが、菜々美に停められた。

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後世の記憶 佐々井 サイジ @sasaisaiji

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