第3話

 職場の若い女性社員から花束を渡されたとき、すべての花の名前がわかるようになっていた。廉が亡くなってから菜々美が放心したような毎日を送っていることに危機感を抱き、頻繁に花を送るようになってから、お互い花が好きになった。無事に定年を迎えたわけだが明日からシルバー雇用として通常通りの勤務内容で出勤するため、いまいち晴れやかな気分にはならなかった。

「シルバー雇用なんて給料安いんだから家でゆっくりしたらいいのに」

 湯呑に熱い茶を淹れてくれた菜々美の手の甲は血管が樹木の根っこがアスファルトを盛り上げるように浮き出て、無数の皺が網状に刻まれているのが証明に反射して見えた。

廉を事故で失ってから三十五年。会社は定年を六十五歳から七十五歳に引き上げたのはもういつか

だったか覚えていない。廉を轢いた老婆は判決後に病であっけなく死んだ。恨み続ける対象をなくした菜々美と和中の棲む家の中は黒い霧から緞帳な幕が張っているようになっていた。定期的に買う花も暗澹とした空気を完全に跳ねのけるまでには至らなかった。

 だから、定年が長引いたのはむしろ喜びだった。何か手を付けていないと廉のことを思い出してしまう。菜々美のことは今でも大切に思っている。不倫など一度もしたことがない。でも二人きりだと、どうしても廉を思い出してしまう。にもかかわらず節目以外は廉の話を持ち出さないようにお互いが気を遣っていた。実際、菜々美がシルバー雇用で勤めることを強く反対しなかったのも、二人でずっと同じ空間で過ごすことに耐えられる自信がなかったからだろうと推測した。

 いつのまにか職場には若い部下がたくさんできていた。シルバー雇用となった今、部下ではなく、むしろ上司の立場になった元部下もいるが、正社員時代に親身に対応していたからか、みな和中を思いやって仕事をしていた。和中はそれが嬉しい一方、つい集中が逸れるともし廉が大人になっていたらこういう青年になっていたのか、と想像してしまい、深く長いため息がでることがよくあった。

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