水井は私の名前を呼ばない
雨虹みかん
水井は私の名前を呼ばない
ねえ、と私を呼ぶ声がする。振り向くと、そこには水井がいた。水井の右耳に付けられたシルバーの小さなピアスがきらりと光る。
「水井じゃん。今日は私の方が背が高い日だね」
「あなた厚底スニーカー履いてるからね」
「可愛いでしょこれ」
今日も水井と私は文芸部の部室に向かう。私は部室棟の少し埃っぽい匂いが好きだ。しんとした通路を歩き、文芸部の部室の前に来るとがちゃりと鍵を開けた。換気扇の音が部屋に鳴り響く。
水井と私の出会い方は嘘みたいで、だけど本当のことだった。
大学に入学して間もない私は授業が終わった後に夕日が差し込む廊下を通り過ぎ、部室棟をうろついていた。入学式で配られたサークル紹介の冊子に載っていた文芸部に入部したいと思っていたのだ。しばらく彷徨っていると扉に「文芸部」と書かれたポスターの貼ってある部室を見つけた。私は扉の小窓から中を覗く。しかし、部室には誰もいなかった。
今日は諦めて帰ろう。そう思い、部室棟から出ようと歩き出した瞬間、少し離れたところを学生が歩いているのを見かけた。
鎖骨くらいの長さの黒髪に金のインナーカラー。黒のスウェットにシルバーのネックレス。身長は私とほぼ同じくらいのように見える。
その女の子も私のように部室棟を彷徨っているようだった。私と同じ一年生だろうか。
何を思ったのか、気がつくと私は彼女に話しかけていた。
「一年生ですか?」
突然の声掛けに彼女は驚いているようだった。しかし特に私を警戒することもなく、
「そうです」
と答えてくれた。
名前を聞くと、彼女は「水井」と答えた。
「水井さん、よろしくね」
「よろしく」
水井さんは文芸部の隣の隣にある美術部の部室を見に来たようだった。しかし、文芸部と同様に美術部にも人がいなかったらしい。
私は初対面の人に自分のことをべらべらと話してしまう癖があり、水井さん相手にも自分語りを始めていた。
文芸部に入りたいこと。小説を書くのが趣味だということ。高校では吹奏楽部でホルンを吹いていたこと。
喋りすぎたかな、と反省していると水井さんが口を開いた。
「私も、小説書いてるんだよね。あと、ホルン。私、高校のとき吹部でホルン吹いてたよ」
それからというもの、水井さんと私は文芸部に入部し、時々空きコマに部室で会うようになった。水井さんと私には共通点が多かった。なんとなく性格も似たようなところがあるように感じた。部室での過ごし方は特に決まっていなかった。小説について熱く語る日もあれば、一言も喋らずに互いにスマホを触るだけの日もあった。水井さんと私の間には無言の時間が多いように思う。しかし気まずくならないのはお互いの性格が少し似ているのが理由だろうか。
そうやって部室で過ごすうちに私は水井さんのことを「水井」と呼び捨てで呼ぶようになった。
そして、2人で部室でお菓子を食べていたある日、私はあることに気づいたのだった。
そう、水井は私の名前を呼ばない。
ねえ、ミカ。おはよ、ミカちゃん。やっほー、ミカりん。
水井が私の名前を呼ぶ日が来たとしたら、私はなんて呼ばれるのだろう。
まあ、私だって水井の下の名前を呼ばないのだけれど。名前を呼ばなくたって案外会話はできるものだ。
私と水井ってそういう関係。
そういえば、私たちはツーショットを撮ったこともないかもしれない。
部室で明日の大学祭のための準備をしながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
文芸部は廃部寸前だった。私たちが1年前に学生課を通じて入部したときには既に部員がおらず、廃部になりそうなときだったらしい。
だから部室は水井と私のシェアルーム。
「何ぼんやりしてるの」
「水井のこと考えてたよ」
「何その少女漫画に出てくるキザ男みたいなセリフ」
私たちは無言で明日使う物を整理する。準備が終わった頃には、20時になっていた。
「なんか、青春」
突然、水井が口を開く。
「そうだね」
私が言う。
しんとしたキャンパスの廊下を歩く。階段を下る。
秋の夜は暗い。夏の記憶をなくしたかのように急に冷たくなった空気が頬を撫でる。
水井は別れ際に「さようなら」と言う。私は「ばいばーい」と言う。そして私たちはあっさりと別れる。
大学祭が終わると、私は打ち上げという口実で水井をファミレスに誘った。20歳になりたての私は今まで見ようとしたこともなかったメニューのワイン一覧を眺める。
結局、お酒は飲まずに無料の水で乾杯をした。
「ちょっと焦げてるね」
そんな会話を交わし、水井はグラタンを、私はドリアを食べ始める。
食べている最中は何も喋らなかった。だけど気まずくならない。そんな関係。
私たちはファミレスを出ると、バスターミナルに向かった。
「さよなら」
水井の「さようなら」は「また明日」であり、「ねえ」は「ミカ」なのだ。
水井は私の名前を呼ばない。
私は今日も、水井を水井と呼ぶ。
「水井、また明日」
ばいばーい、と手を振り合って背を向ける。
バス停に並ぶと、水井からLINEが来ていた。
「ミカ、月、出てる」
三日月の写真。
きっと水井なりに考えて私の名前を呼んでくれたに違いない。三日月とも読み取れるが、わざわざ読点で区切っているのだから、これは水井が計画した上のことだろう。
「ありがとう、水井」
そう返信すると、水井から投げキッスの絵文字だけが送られてきた。
夜空を見上げると、口角の上がった唇のようなミカ月が浮かんでいた。私はそれを人差し指でなぞると、バス停に向かってくる市営バスのライトを見つめた。
水井は私の名前を呼ばない 雨虹みかん @iris_orange
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