第12話「嘆かりしモスクワ」
雪の積もった平原を進んで、ぼくらは恐らくいくつかの町を知らず知らずのうちに通り抜けているようで、ここの二日はよく後ろを向けばそれなりに大きな市街地を背にしていたことが何度もあった。凄い勢いで走れていることは理解しつつ、しかし本当にモスクワに着くのかどうかがぼくの中で疑念になり始めていた。だが、ぼくはアルマの言うことを信じた。何故信じたのかはぼくにもわからなかったけど、信じてみたかった。思えば、ぼくは人を信じたことがなかったように思う。だから、アルマに対してのそれはぼくにとっては初めてのことで、ではそれだけの気持ちをぼくに抱かせたアルマという少女は、いったいぼくにとって何に当たるのだろう。
セルゲイなら、ぼくが抱くこの薄靄のような感情をすぐに名前を付けてくれる気がする。彼は聡明だ。彼は物事の真理を素早く見抜く力があって、もし彼にこの世界全ての情報を与えたら、これから起きる全ての事柄を完璧に言い当てて見せるだろう。ぼくにはそんなことは出来ない。出来なくてはならないというのに、ぼくはフランソワの暴走ひとつ予見できなかった。
「若様!」
ナビンスキーが枯れた声で叫んだ。ご覧くださいと彼は言うが、ナビンスキーはぼくの右斜め後ろにいるため、何をして、見ろというのかよくわからず自分の馬を驚かせないよう、細心の注意を払って彼の方を振り返った。
ナビンスキーは双眼鏡を覗いて、遠くを指差していた。ぼくも自前の双眼鏡を、ナビンスキーと同じ角度で覗いた。
だが見ても、青か白かはっきりせぬ薄靄の空が見えるだけ。しばらくぐりぐりと、見る方向を微妙に変えていると、一瞬何かが横切った気がした。
馬による動揺を加味しながらもう一度向け直すと、見覚えのある尖塔が見えた。
「クレムリン宮殿か、あれは!」
ぼくはフランソワに教わった歴史書のページを頭で捲りながら、クレムリン宮殿の写真を思い出す。そういえば、確かに写真で見たクレムリンにはなかなか高い尖塔が聳えていた。もしそれが、朝靄に紛れて少し見えているのだとしたら、ぼくたちは少なくともモスクワ市街の30キロメートル圏内にいることは確実ということになる。
旅の終わりが実質見えてきたようなものだ。ぼくは小躍りするように鞭を叩き、ナビンスキーとフランソワを置き去りにする勢いで、尖塔の方向へ突っ走った。
馬を預けて、ぼくたちはすぐにペトログラード行きの列車を予約した。前線への物資輸送などの都合で、民間列車、特に長距離路線はなかなか運行が出来ていないらしく、次のペトログラード行きは明日の夕方頃になるという。それからはずっと列車に乗るだけなので、このモスクワが実質的に旅の終わりのようなものかもしれない。
この旅の終わりとは何だろう。ぼくはフランソワに、旅の終わりに解雇すると告げていたが、ぼく自身は終わりを明確にこれと定義していなかったことを思い出した。ペトログラードに着いたら終わりなのか、父に会ったら終わりなのか、それとも村に帰るまでが旅なのか。
今更、どれが良いかなんてフランソワに訊くことは出来ない。フランソワはアルマの狩り小屋で解雇を告げて以来、一度も口を利いていない。ぼくは話し掛けないし、彼女も話し掛けてこない。ナビンスキーはぼくらの晩秋を察してか、何も言うことはないし、思うところがあるのか彼も口数は少ない。
指導力が試されているような気がした。これから粛清する臣下と、これからも付き合っていく臣下を連れていながら、ぼくはそのたった二人すらきちんと統率できていない。
急に、数日前に固めていた決意が揺らいできた。家を継ぐという決意が、砂漠に建てた基礎のない神殿みたいに崩れ去っていく。そんな気がして、やはり自分は器でないことを知る。
モスクワの現状を見るにつれて、ぼくの固めた決意は、無根拠な自惚れがそうさせたのだということをむざむざと見せつけられていく。
「パンを寄越せ!」
「明日赤ん坊に飲ませ、育てるためのミルクすらないのよ!」
「戦争をやめさせろ!」
クレムリンから少し離れた区画では、大勢の民衆が隊伍を組んで行進していた。どうやら、物価高に苦しむ民衆が食糧を求めてのデモらしい。デモというのを初めて見たぼくは初め困惑したが、彼らの訴えを聞くうちに前述の自信喪失に直結していった。
ぼくは彼らの訴えを耳にするうち、気になる主張が混在することに気が付いた。
「皇帝を操るラスプーチンは、宮廷から排除されるべきだ!」
「そうよ!ラスプーチンがロシアを戦争に追いやった!やつを引きずり降ろさなければ、ロシアは破滅する!」
ラスプーチン。どうやらそれは人の名前らしく、その人物がロシアに悪影響を与える仕儀を働いているという。ぼくはフランソワとナビンスキーを置いて、デモの参加者のひとりを呼び止めて、ラスプーチンという人物について訊いてみた。
「ラスプーチンがどんな奴かって、そりゃ、最低な奴だよ。なんでも、怪しげな術を使って皇帝一家に取り込んで、皇太子アレクセイ様を出しに政治を操ってるんだと。だからあんな馬鹿みたいな戦争になったんだ。しかも、この間は皇帝が前線に行かれたが、あれはきっとラスプーチンが皇帝陛下を前線で死なせて、自分がロシア皇帝になろうとしてるんだぞ。最悪だ、あいつがいる限りこのロシアに未来はないんだ!」
彼はそこまで興奮しながら言うと、そのままデモに戻ってしまった。ラスプーチンという人間がどういうものなのかを良く説明していないようだが、きっと、彼は説明したつもりなのだろう。例えそこが憶測と噂とそれが形作った根拠のないイメージであるとしても、本人はそれに永遠に気付くことはないのだろう。
「ロシアは────────」
ナビンスキーが不意に言った。
「いずれ滅びます」
「何故そう思う」
「今のような者が、平均的なロシア人だからです」
ナビンスキーはひどく醜いモノを見るような目で、デモ行進をする民衆を眺めていた。フランソワも、いつも見せている凍った雪みたいな硬い表情が、今はひび割れた氷河みたいに深いしわを眉間に作っている。
「ロシア人だけじゃない────民衆は、いつもこう。現実から逃げるため、いつも、常に、どこかで敵を作り続けて、居もしない敵の打倒に血道を上げるのです。敵に出来る者がいなくなったら、次は自分たちの中に敵を作って、それも足りなくなれば国をも唾棄するのです」
「ラスプーチンがいなくなれば、次は皇帝家に矛先が行くだけだ。フランソワ、おまえはそう言いたいんだな」
「ナビンスキー、あなたと意見が合うのはこれが初めてだと思うわ。願わくば、こういった形で意見の一致を見ることはないように願いたかったけれど、あなたの境遇を鑑みれば、これは当然だったのかしらね」
「…………」
ぼくは不思議なものを見ていた。ナビンスキーとフランソワが同調することなど、そうそうない話だ。だが、この一致は言うなれば「同類」ゆえに起きる同調なのかもしれない。奇妙なことに、少なくとも、二人は全く同じ視線の動かし方をしていて、注目する方向と焦点にまるで違いがないことを示していた。
「ロシアはドイツに滅ぼされるわけではない、おまえたちはそう言いたいんだな」
「ドイツはロシアを滅ぼせないでしょう。ナポレオンに出来なかったことを、あの愚帝ヴィリーに出来るはずがない。フランスにいた時、私はそう確信しました」
「なら、この戦争に勝つのはイギリスとフランスか。やつらがどこかで、我々を撃つと?」
「彼らがロシアに期待していることは、ドイツを消耗させ、同時にロシアにも消耗してもらうことです。何故なら…………」
フランソワは言い淀みながらも、言った。
「イギリスもフランスも、消耗しきるからです。この戦争に勝利者は誰一人として発生しない。誰も彼もが損をして、誰も彼もが痛みを分けるだけに終わって、後に残るのは憎しみと、矛盾した後悔だけ。それを糧に、あるいは理由付けをし、民衆は闘争を煽り、また同じような生産性のない無駄な戦争を何度も繰り返す。
人の歴史は、いつだってそうです」
フランソワの目には、強い憎しみの色があった。彼女が憎んで止まない敵は、あの民衆だったのだ。あの愚かさに、彼女は蹂躙され尽くしたのだ。
ぼくは彼女を突き放した。だから、その事情以上を知ることはもう出来なかったし、彼女がぼくに何を期待しているのかを理解することは、今後出来そうになかった。
セルゲイとぼく 音羽ラヴィ @OTOWA_LAVIE
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