第11話「バーニャ」
「きみは、蒸し風呂(バーニャ)は初めてかね」
怪紳士は薄く笑いながら、石炭と見分けがつかないほど真っ黒になった石に勺で水を掛けた。一瞬で蒸発した水は、蒸し風呂全体に熱気を振り撒いて、ぼくにとって前例のないほどの酷暑となる。服を脱いでいるのにまだ暑くて、いっそ、皮も肉も剥ぎ取りたくなるくらいだ。
酷暑と言えば、アフリカという大陸はとにかく暑い、とフランソワに教わったことがある。彼女自身も行ったことはないそうだが、ピラミッドとかいう遺跡を背景に写した、貴族の写真を一枚見せてくれたことがある。裏にはフランス語で「シャルロット」と書いてあって、ずいぶん大事そうに彼女は持っていた。彼女が屋敷に来てすぐの時期は、彼女はぼくに授業をする合間によくその写真を見ていたような、そんな気がする。
いつからだろう。フランソワがぼくを求めるようになったのは。
「ずいぶんお悩みのようだ。いいや、それは何も問題ではないよ。悩むのは人が人である証拠であって、獣とは違うことをきみは今証明している」
「証明して何になるんですか。ぼくは獣のように彼女を犯した」
「姦通が罪であると?」
「正教会ではそう定義しているはずだ。そしてマカロフ、聖職者であるあなたはぼくを糾弾しなければならないはずだ」
汗が染み付くくらいベンチに身を預けていて、ぼくは尻と背を火傷しそうになっていた。火傷することはついぞないが、自分の内奥から噴き出る汗と共に、ぼくが知らないぼくを曝け出しつつある様な気がした。
人はそれを告解という。
マカロフは笑った。
「人に、人の罪は裁けませんよ」
「なんだと」
「姦通は確かに神のご意志に背くものかもしれない。ですが、結局、それを罪と称して咎めるのは人です。人が人に罪を与え、人が人の罪を裁くのです。
私はね、これをおかしいと思うのです。人の世界には人しかおらぬというに、神の法を持ち出して人を従え、裁き、統べようとするのです。神の法があり、人を裁くというなら、神の法の裁判官は神でなければならん。
不敬な信徒である私は、そう思うのですよ」
人の罪を神が裁くなら、神の道理に背く最大の行為は戦争だ。神の子であり、その寵愛を受けるべき人間たちが殺し合うことを、いったいどうして神は許すのだろうか。
「なら、ぼくの罪は誰が裁くんだ」
「誰もおりませんよ。人は真に罪を受け入れることはなく、ただ逃げるように現実という名の神の大地をひた走るのです。罪とは、罰とは、そもそも人に背負わせることなど出来ないのです。異端の咎めと十字架は、人に背負わせ読み上げさせ得るものではないのです。何故かはおわかりですね」
マカロフは柏の葉を扇のように煽いで、部屋の空気を掻き混ぜた。鍋の底みたいに暑くてたまらないが、ぼくの頭は加速的に冴え冷えていく。
「石を投げるためなんだな。罪人(つみびと)を見て安堵を覚えたい諸人が、しかしただで石を投げてはならぬから、その理由と安堵の根拠を与えるために、罰として投げてよしとするための」
「はっはっはっはっは。まことに聡明であらせられる。罪とは、罰とは、否、神とは人の裡にしかないものでしかなく、あるいは人々の夢幻空想の中に鎮座するものでしかない。だがそれが時に実に都合よく人々を統べるため、あるいは為政者の感情の代弁者として神は利用されていくのです」
水が欲しくて、手元にあった雪をかきいれただけの水差しを口にした。雪は既に解けていて、ぬるい水になっていたが、この極小の熱帯では吹雪のように冷たく思えた。
「マカロフ、あなたはアルマと、どういう関係なんだ。彼女はただの女の子には見えない。貴族の身分の子なんだろう。そこについて深くは訊かないが、せめて関係性についてだけ教えてくれないか」
「質問ばかりですな。ですが、それは良いことでしょう。若人は年長者によく学ぶことが肝要ですからな。
わたくしめとアルマは、まぁ、貴方様のご推察通り、普通の身分ではございませぬ。知れば誰もが仰天し、解すれば諸人が納得する事でしょう。ですから、この際はお気遣い通り仔細は伏せさせていただきましょう。
さすればわたくしめが気になるでしょうが、この身はいわば、教育係とでも言うべきでしょうか、聖職者が一個人に向ける最大級の奉仕をしておるつもりでございます。無論、それはあくまで師と教え子の関係で、ですが」
莫大な含蓄と強烈な皮肉をぼくはわからないわけではないが、そのいずれに反論し、怒るだけの資格をぼくは有していないことは明らかだ。何故ならぼくは完全にマカロフの言うことを正しいか、もしくは真理に近いとわかってしまっていて、それを素直に受け入れるだけの度量を持ってしまっていたからだ。ぼくの不幸は、そこから更に少しものを考えるだけの能力があることで、自発的にマカロフへの反論を封印していたのだ。
そしてマカロフが暗に言う通り、、フランソワとぼくの関係は、少なくとも健全とは言えない。だが、今更突き放せるものではない。
灼熱の中、ぼくは湧き上がる蒸気と共に、煙突から吹き上がる煤煙のような衝動が胃から喉へ這い上がるのを感じた。多くの人はそれを決意と言うが、ぼくはそれを必然だと思った。
「この旅を終えたら、フランソワ、ぼくは君を解雇する」
バーニャ小屋の外で、雪を捨てながらぼくたちを待っていたフランソワに、ぼくはそう告げた。フランソワは「そうですか」と蚊が霧に紛れてしまうような幽かな声で応えて、次は青い目を伏せるようにして「承知しました」と素直に従った。
この度の終着点は、ペトログラードだ。同時にぼくは、これをこそ決意としたく思っていた。
父から当主の座を継ぐ。きっと父は反対するだろう。けれど、ロシアという世界は急速に終焉に向かおうとしている。いち村落を治める程度のぼくの家は風前の灯火が如く弱っている。だからこそぼくは立たねばならない。ペトログラードに行く目的は大きく変わった。
「はい、これ」
狩り小屋を発つ日の朝、アルマはぼくにずっしりと重い内容物のせいで、箱のような形になった麻の小袋を渡された。中を少し覗いてみれば、数えるのも馬鹿馬鹿しくなるくらい分厚く重なった、ルーブル紙幣だった。
「あなたたちはペトログラードに行くんでしょう?狐の皮で、モスクワからの鉄道代金を賄おうとしてたみたいだけど、でもあの狐は私のものなんだからね。だから代わりと言っては何だけども、これぐらいのお金があれば、戦争の不況でもなんとか往復は事足りるでしょう?」
アルマは雪の妖精のように笑って、次に雲ひとつなく晴れて、雪に映えた真っ白な世界となった大地の、その向こうを指した。
「あっちに平地があるわ。この雪じゃ道は機能してないけれど、平地なら馬で何とかなるわ。モスクワまで、一気に走れるはず」
「なんで、ここまでしてくれるんだい。君は、一体誰なんだい」
ぼくの素朴な疑問に彼女は答えなかった。ただ決してぼくを忌んでいるのではなく、これはぼくの個人的な見解と願望を込みにして言えば、ぼくらを尊重してくれるからこその沈黙だったのだと思う。
ぼくはアルマの沈黙を受け容れて、ただひとつの心残りを捨てたくて、質問を重ねた。
「また会えるかな」
アルマは笑った。
「当然でしょう。…………あなたに善き旅を」
そう言って握ってくれた手は、手袋越しなのに、やっぱり暖かかった。
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