第10話「撃って解決するのなら」

「ここらへんは冬になると、地面が凍るようになっちゃって、穴倉を掘れずに冬眠に失敗した狐がうろつくようになるの。私たちは、その狐を狙ってるのよ」


 少女はライフルを軽々担ぎながら、森の奥へと歩いていく。ぼくたちもそれを追いながら、へぇ、と説明を聞く。


「詳しいんだね、狩りの知識。どこで習ったんだい」

「マカロフが教えてくれるの。彼は物知りで、何でも知ってるの。私が利きたいことは全て答えてくれるわ」

「何でもは存じ上げませんな、私が知ることは、私が学んだことだけです。全てをご存知であらせられるのは、天上に御座す主のみです」


 はっはっは、とマカロフは豪快に笑う。まるで常に酒に酔っているかのような笑い方だが、酒の匂いは一切しない。その代わり、風呂に入っていないのか少し酸っぱいような、錆びた鉄を煮込んだような臭いがする。ぼくやナビンスキー、フランソワも、風呂に入ったのはオリョール以来なので少し体臭がきつくなってきてはいるが、マカロフはそれより臭く、近くにいるだけで鼻孔を押し広げるように入って来る臭気だ。

 そんなぼくが鼻を鳴らして無理矢理臭いを感じないようにする息遣いに気付いたのか、少女は「マカロフ」と呼んだ。


「小屋に着いたら、すぐ風呂にしましょう。薪は私がくべるから、あなたは水を用意なさい」

「おや、では一番風呂は私がいただきましょう」

「客人が先よ馬鹿者。あなたはくさいから、一番最後!」


 そんなやり取りをしていると、こぢんまりとした、小屋というより小さな家のような木造の小屋が、雪の間に隠れるようにして現れた。近くには馬留の小屋もあり、また少し離れたところにレンガ作りの小屋もある。小さな家だが、あれら全てが彼女の、もしくはマカロフの所有物なのだとしたら、一体どんな身分なのだろう。別にここに住んでいるようでもないから、貴族以上の身分なのは確かなようだ。

 そんな狩り小屋とは名ばかりの、私邸じみた住居に着く頃には、すっかり日は傾いていた。元々この近くで野宿する予定だったから、一晩泊めてもらえるという申し出には、ぼくやナビンスキー、フランソワから何一つ文句はなかった。ただし、ナビンスキーは木こりに、フランソワは食事の支度に駆り出されることになった。ぼくは小屋で手持ち無沙汰にしていると、そこで少女がやって来た。


「ちょっと、そこのあなた!お風呂を沸かすために薪を割るから、手伝ってちょうだい」


 ぼくは斧を手渡されて外に連れ出されると、少女が木材庫から引っ張り出してきた、人の胴ほどの太さの丸太を切るように言われた。ふん、と思い切り斧を振り下ろすけど、丸太はまるで割れない。薪割は給仕たちにやらせていたが、これは思ったよりも重労働で、ぼくが何度か打ち込んで、ようやく割れた。ただし、割れたというより欠けたというのが近い。

 それだけでどっと汗をかくぼくを見かねてか、少女が斧を持つぼくの両手を掴んで、「こうするの!」と耳元で言った。


「ああ、もう!男の子のくせに、どうしてこんなに下手なのよ。ほうら、貸して。私が手解きをするから、覚えたらさっさと済ませてね」


 馬の蹄で丸石を打ったような音がした。その時には丸太は真っ二つに割れていて、ちょうど暖炉や風呂にくべるには、良い塩梅の大きさになっていた。

 手袋越しなのに、とても暖かかった。


「わかった」


 ぼくは彼女の手を離れ、何となく斧を振り下ろした。今度は一発で割れて、彼女が割ったのと同じ大きさになった。

 どんどんいこう、と丸太を次々引っ張って、ぼくは次々に割ってみせる。少女も、「負けないんだから」と言って同じように割っていく。女の子なのに、ぼくよりずっと早く割っている。ぼくはいつの間にか、少女の提案に乗った理由を忘れていた。


「ねぇ、…………あ、ええっと」

「アルマって呼んで」


 ぼくが呼ぼうとして詰まると、、少女はようやく初めて名乗ってくれた。アルマはぼくを、目の片隅に置いて笑うと、「なかなかやるじゃん」と褒めてくれた。


 それからぼくたちは、薪を数えきれないくらい割って、手が棒のようになった頃に、ナビンスキーとマカロフが大きな木を担いで帰ってきたのを見て、「あれを割るのは、流石にむりだ」と目で会話して、小屋に戻った。

 小屋に戻ると、フランソワはボルシチを作って待っていた。


「あら、美味しそうなボルシチね。よい香りだわ、きっとみんな喜ぶわ」

「自前で食事も用意できない女は、二流以下と教えられてきましたので」


 暖炉はきちんと燃えていて、シューバを着たままだと暑いくらいに小屋の温度は高いのに、その瞬間だけ、山脈が出来そうなくらいの吹雪が吹いた気がした。

ずいぶんと挑戦的な目で、フランソワはアルマを見据えていた。アルマは居心地が悪そうに「ええ、と、とてもお育ちの良い家の方なのかしら。失礼を申しておりましたら、申し訳ないわ」と、さっきぼくに見せたような気丈な物言いと姿勢は鳴りを潜めて、今はどちらかと言えばまるで機嫌を損ねた臣下を気遣うような態度だ。

 もしもこれ以上刺激したら暴発する、ニトログリセリンみたいに慎重に扱って、フランソワを刺激しないようにしている。それに気を悪くしたのか、「いいえ、お気になさらず」と言ってからそっぽを向いて、それきり鍋敷きのほつれを直していた。アルマは居づらさを感じたのか、「それじゃ、あ、わたしは風呂を沸かしてくるわ」と言って、小屋の外へ出て行った。

 残されたぼくも、少し苦しさを感じた。居心地が悪くて、湿った土の上に裸足でいるような気分だった。フランソワと一緒にいたくないと感じたのは、これが初めてだった。今はフランソワの顔を見るのが怖くて、ぼくもアルマの後を追って小屋を出ようとすると、ぼくの肩をフランソワが掴んだ。

 素手なのに、氷みたいに硬くて、冷たかった。


「あの娘のことが、そんなに気に入りましたか」

「気に入っていたら、なんだというんだ。ぼくの勝手だろう、フランソワ。この手をどけてくれ」

「ええ、ええ、そうですとも。あなたの勝手になさったらよろしいでしょう。いつもそうです。あなたは勝手で、ナビンスキーや、お父上、そして給仕どもの言葉なんてついぞ無視してしまう。私の言うことだけを聞いて、自分のお好きなように物事を考えて、お好きなようになさる方です。

 でもどうしてでしょう。いつからでしょう。私以外の人間の言うことを聞くようになったのは。…………あの農奴のせいなのでしょう?私も含めて人間全てをけだもののように見ていたあなたが、今はああして、あんな小娘なんかに気を許している…………」


 肩に、フランソワの爪が食い込んだ。ぼくはフランソワの力に抗えない。フランソワの腕力なんてぼくより遥かに弱いのに、ぼくは彼女を払い除けることが出来なかった。

 フランソワは、明らかに平静ではなかった。何でこんなことを言うのか、ぼくにはわからない。ただひとつ言えることは、ぼくは彼女に支配されていることを、たった今思い出した。

 獰猛な猛獣に圧倒されてしまうのは人の常だ。だからぼくはフランソワに奪われ、抗う術を持たない。


「あなたはね、私以外に気を許してはならないし、私とすらも心を通わせてはならないし、人間全てを見下していなきゃならないのです。そうなってくれないなら、せめて…………」

「っ!」


 ぼくは小屋の壁に押し付けられた。両手を彼女の手に掴まれて、彼女の柔らかな唇がぼくの鼻筋を舐った。初めてのことだった。彼女が接吻を求めてくるなんて、何度も交わってきたのに一度だってなかった。

 この瞬間にぼくは、フランソワに強烈な嫌悪感を催した。腹の底に沈んだ何かが浮かんできて、開けた口から放たれそうになるくらいに気持ちが悪かった。そうなった理由はわからないけれど、何故か頭に浮かぶのはアルマのことだった。


「やめろ、フランソワ」


 彼女の唇がぼくの唇の先に触れた時、ぼくは不意にそう言ってしまっていた。フランソワの吐息が止まったのを、顔の肌で感じた。目だけ動かして彼女の瞳を見ると、細かい傷が無数について光沢を失った金属みたいに無機質に、虚ろになっていた。

 手から力抜けていた。なんだか呪いが解けたようになって、ぼくは体が動かせることに気付いた。フランソワの肩を押して離れると、ぼくはシューバを暖炉にかけて乾かす。


「フランソワ。ぼくとおまえの関係は、正しいとはけして言えない。こんなことを、おまえをブルゴーニュで拾ってきたお父上が喜ばないはずだ」

「あなたのお父上は私を奴隷として買ったのですよ」

「奴隷だと。何の奴隷だ、言ってみろ」

「おわかりにならなくて?若くて金のない、元貴族の女なんかに農夫や鉱夫の真似事が、出来るとでも?」

「…………違う。父上がそんなことをするはずがない」

「あははははは!あなたはそう言うでしょうね、無理もありませんわ。だってあなたのお父上様ですから。けれど家庭教師としてお教えしますけれどね、あなたが思うほどお父上様は高潔な方じゃないし、本当は私だって一晩の伴で買われただけなのよ!それを気に入られて、あなたに宛がわれた!素晴らしいご趣味の方ですわ、あなたのお父上様は!」


 ぼくはこの女に、暴力の本質を見た。いいや、もっと昔から見ていたし、知っていた。ぼくはフランソワが形作った箱庭に囚われていて、世界をまるで俯瞰するつもりで見過ぎていた。けれど違う、もっと近いところに“世界”は、“社会”はあったのだ。

 セルゲイが言っていたことを思い出した。


『農奴同士でもけんかはあるのさ』


 何故思い出したのかはぼくにだってわからなかった。けれど、きっとこの状況によく合致しているような気がしてならない。同じ立場であろうと争う。ならば、ぼくとフランソワなら?


「フランソワ。ぼくはおまえがわからない。わかることが出来ないんだ、おまえのことが。ぼくの父上を莫迦にして、いったいなにがしたい」

「さあ?わかりませんわ。わかるのは、あなたはもう二度と私を抱いてくださらないだけ」

「おまえは自分を父上に買われた身、奴隷である身だと言ったな。だがぼくは、おまえに支配されていた。おまえに、奪われていただけだ」

「けれど受け入れたのはあなたよ」


 ぼくは言い返す言葉が見つからなかった。茶色い木造小屋の中が、血よりも赤く見えた。その赤は自分の目の、更に内側にあるのもわかった。顔の肌の内側が炉から出したばかりの錬鉄みたいに熱くなるのがわかる。

 ぼくの手は、自然に腰に伸びていた。ナビンスキーに貰った、ピストルの感触が確かにあった。


『撃って終わるなら、それでよろしいではないですか』


 ハリコフの夜、ナビンスキーはそう言っていた。ナビンスキーの言う通りだ、とぼくは思った。フランソワを断ち切る瞬間があるとするならそれは今でしかなく、そして撃つだけで断ち切れるなら、それで済ませてしまう方が良いに決まっている。

 撃鉄を起こして、外しようもない距離でぼくはフランソワに銃口を向けた。


「おまえは、生きてちゃいけないやつだ」


 ぼくの引き金は、思いの外軽いようだった。でも人差し指に力を込めた時、やっぱり、撃ちたくないという気持ちも、僅かにあることに気付いた。けれどそれに気付いた時には全てが遅くて、ぼくは向けたピストルの薬室が、漂ってきた臭気と共に回ろうとする瞬間を見ていた。


「おやおやいけませんな、これを使うのは」


 むずっと大きな手が、回ろうとする薬室ごと掴んで発砲を止めた。その手はぼくの背後から伸びていて、目を向けるとマカロフがいた。

 マカロフは相変わらずにこやかに胡散臭く笑いながら、ぼくの銃をすっぽりと手に納めると、まるで手品でもやるような慣れた手つきで薬室の弾丸を吐き出させた。空っぽの銃と弾丸を懐に仕舞うと、マカロフはフランソワに視線を向けながらぼくに声だけ向けた。


「若様、このわたくしめとお話しされませんかな。暖まれる良い場所がございますから、。そちらでどうでしょう」


 いつも通りのにこやかさだが、それでも有無を言わせるつもりのない、強い語調だった。ぼくは思わずうなずいて、マカロフに付いていくことになった。

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