第9話「雪の少女」

 オリョールの街を出る頃には、空は常に鉄の壁みたいな雲がオーケストラの天幕みたいに掛かっていて、同時に大滝のような雪が降っていた。

 寒さにも慣れ切ったのか、ぼくは顔が凍て付くような寒風にさえ目を開けたままでも平気になって、ぼくより先に馬がへばりそうになっている。ナビンスキーは「若いとはすばらしいですな」と称賛していたが、フランソワは冷めた目でぼくを「調子に乗られているようで」と毒を吐く。そんなつもりはないが、しかし、得意にもなる。

 はっきり言ってこの旅はぼくにとって、最高のものになりつつあった。それはロシアという帝国の正しい姿を見るにつれ、より深くより大きくそう思うようになった。

 国家の未来は若者にある。だがその未来たる若者を、戦争という消費行為で食い潰し、いよいよこの国は中都市でその行政を不能たらしめる手前に至っている。

 端的に言えば、このままでは未来はない。この国を変えるには何が必要だろうか。ぼくはそんな悩みを胸に、馬を走らせた。

 広大なロシアの大地。西に数百キロ行けばドイツ人との前線がある。それを意識すると、今にも東へ、ウラルへ逃げ込みたくなってしまう。エカテリンブルグまで行けば安全だろうか。だがドイツ人たちはぼくたちを許しはしないだろう。同盟だからと英仏の仲間となり、ドイツを倒そうとしたぼくたちロシア人を、一人残らず探し出して必ず絶滅させようとするだろう。

 白い矢のような吹雪を押し退けて、ぼくたちは馬を走らせる。オリョールはハリコフとモスクワの中間だ。補給を澄ませたから、あとはモスクワまで走り続けるのみだ。

 そう思っていたが、ぼくらは道中であることに気付いた。


「ナビンスキー。路銀が足りないぞ」


 財布代わりの銭袋を覗いたぼくは、その中にあったルーブル銀貨が残り数枚しかないことに気付く。これでは、モスクワに着いても3人でペトログラードへの列車に乗れないじゃないか。


「やはりそうなりましたか」


 ナビンスキーはどうやらこの状況を予期していたようで、馬たちを近くの木に留めるとモシンナガンに弾を入れ始めた。

 何をしているのかと訊けば、彼は「金がないなら、稼げば良いのです」などと言ってパイプの火を消すと、辺りの地面を念入りに確認し始めた。

 フランソワも理解したのか、一緒になって雪原に落とした針を見つけるように、何かを探し回っている。ぼくも少し申し訳なくなって、馬から降りてフランソワの近くまで行った。


「ぼくも探すが、何を探せばいいんだ」


 するとフランソワは「狐の足跡を見たことはおありですか?」とよくわからないことを言う。


「いいや、狐はハリコフの動物園で昔見たことがあるくらいだ。それが金の不足と何の関係があるんだ?」

「狐の毛皮は、高く売れるのです。狐を採って、その毛皮をモスクワの毛皮商に売るつもりなのでしょうね」

「いくらほどになる?」

「質にもよるでしょうが、数匹も捕まえればわたしたち3人がペトログラードから往復する程度は簡単に稼げるでしょう」


 貴族という恵まれた身分に生まれたぼくは、これまで金銭に困って来たことはなかった。それは父やフランソワの教育もあってか、近くにあるもの以上の物質を求めたことは一度もなかった。

 だが今は違う。ぼくは行くべき場所がある。父が入院するペトログラードへ、ぼくは行かねばならない。馬は長旅が祟ったのか、時折手綱を無視して休むことも増えたし、何より出発時より痩せた。出発時は鈍器を思わせるようだった馬たちは、今に至っては銀細工のように細い。モスクワに着いたら新しい馬に替えるか、ペトログラードにしばらく滞在して馬たちに休ませる時間を与えるかを考えていたが、いずれも金銭がなくては話にならない。

 ぼくたちには金が必要だ。この旅は本来、ナビンスキーだけで行われるはずだった。ぼくとフランソワが強引に同行したせいで、路銀は尽きかけている。この金欠はぼくの責任だ。であるなら、稼ぐべきはぼくの責任だ。


「ナビンスキー!狐を探しているのだろう!ぼくにも探し方を教えてくれ、ぼくはおまえの足を引っ張るつもりはない!」


 ナビンスキーは少し嬉しそうにしたあと、「それでは、少し手厳しく教えますぞ」と言った。



 雪原に出来たゆるい窪みから、尖った耳をひょこりひょこりと動かしながら、目を細めて狐はのそのそと歩み出た。腹が減ったか、喉が渇いたか。少なくとも、単に遊びたくなって出てきたわけではなさそうだ。


「出てきたな、狐めが」


 まるで何かの暗喩のように、うつ伏せに銃を構えるナビンスキーは呟いた。暗喩ではなく、本当にただそれだけの意味なのだが、今日日ロシア文学の精髄をフランソワに叩き込まれたぼくには、やはり歴戦の鬼軍曹が、語るところの強敵を向こうに戦いを挑む前触れのように思えてならない。

 だが意味合いの大小はどうあれ、ナビンスキーはその風格に足る気迫と気合で、狐を遠くからねめつけている。

 彼のモシンナガンは銃口を狐に向けている。200メートルはあるだろうか。風下に立って、決してぼくたちの存在を悟らせぬように、ただ静かに黙して、必中の距離を見定める。風は弱くはなく、弾道に影響するやもしれない。けれどナビンスキーは狙いを定めている。狐の首か、脳天か。軍でも使用される小銃が、小動物を仕留められないはずがない。

 あとはナビンスキーの狙撃精度しだい────ぼくはナビンスキーの傍らで、彼の引き金が静香に引かれるのを見た。

 ねばっこい、長い音の銃声。冷たい空気を引き裂く音がぼくの耳にも届いて、銃の煙が風に流れた先に見えたのは、どこかから血を流して倒れる狐の姿だ。


「やったな、ナビンスキー!」


 ぼくは快哉を叫んだ。ナビンスキーは少し満足そうにして、しかし何も言わずに狐が斃れた窪みへと足を進めている。冷徹武人な彼であっても、やはり人であることには違いないらしく、立てた手柄は嬉しいらしい。


「…………む?」


 ナビンスキーについていったぼくは、斃れた狐を見て不思議に思った。狐から流れる血が、尻の近くに開いた傷口からのものだったからだ。


「ナビンスキー、変だ。おまえ、本当に当てたのか?」

「手応えはありましたぞ」

「だが傷の角度がおかしい」


 ナビンスキーに狐の傷口を見せると、彼もやはり首を傾げた。彼とて自分の感じた手応えは信じたいだろうが、奇怪なるこの傷については一考を挟まざるを得ないようだ。

 フランソワに訊いてみよう、と馬たちの見張りをさせている彼女を呼ぼうと、窪みの上へ上がろうとした時だ。

 その窪みの上の方に、二人の人影をぼくは見た。ひとつは大柄な、黒いシューバの男。もうひとつは、白く華奢な、少なくともロシアではなかなか見ない防寒着を身に纏った、小柄な影。

 小柄なほうが、ぼくを手袋越しに指差す。その肩には、ぼくが見たことのないライフル銃が携えられていた。


「あ!それ、私の狐よ!」


 意外なことに、その声は女だった。それも、村で時折見かけるくらいの、ぼくとそう歳が変わらないような少女の声。少女は無邪気に雪を蹴飛ばして走ってきて、ぼくの前まで来ると、「もしかして、泥棒さん?」と怪訝な顔をする。


「泥棒…………ぼくが?」

「ええ、そうよ。あなた、私が仕留めた狐を横取りしようとしてるじゃない」

「何だと。証拠はあるのか、きみ」

「そのお尻の傷、私の銃弾が残ってるはずよ。私の銃はイギリス製だから、取り出してみればわかるわ」

「そんなのここでわかるわけがないだろう」

「わかるわ、すぐにペトログラードで…………」


 ペトログラードで、と言い掛けてから少女ははっと皮手袋で自分の口を押さえた。はっはっはっ、と男の少し高い笑い声が、少女の後からつけてくる。妖しい雰囲気を纏った紳士は、ナビンスキーよりも大きな体を軽々と駆ってぼくたちのところまで来た。


「お嬢様、同じ年の若人とお話しになられるのは初めてですかな」

「初めてじゃないわ。学校で、たくさんお話ししてるわよ。いっぱい、いっぱいね」

「はっはっは、そうでしょう、そうでしょう」


 髭面の怪紳士は朗らかに、人懐こく笑いながら、ぼくとナビンスキーの前に出て「若き貴族の方よ、わたくしはブラート・マカロフ。しがない聖職者で、この少女の目付をしておる者です」と名乗った。

 マカロフはひげをいじりながら、「眼帯のお方は、そちらの貴族の息子さんのお付き人とお見受けしましたが、いかに」と訊いてくる。ナビンスキーは怪紳士と、ひとつしかない目を合わせぬようにしながら「いかにも。おれは付き人のナビンスキーだ」と答えた。


「少し向こうには、フランソワってフランス女がいる。そいつも、おれと同じく付き人だ」

「そうですか、そうですか」

「あんたはどうにも、うそつきの匂いがする。若様には、近づかないでもらおうか」

「これはこれは、お手が厳しい。しかし、その評価は厭と言うほど聞かされてきた。脅かしにはなりませんよ」

「こら、マカロフ」


 少女が肘でマカロフを制した。マカロフは少女に少し弱いようで、「おっと、失礼が過ぎましたな」と引き下がった。厳密には、マカロフが何事かを少女に耳打ちした。少女はそれを聞き届けるなり少し目を開いては、一瞬でまた細めた。そしてマカロフの目を、その青い瞳の片隅でちらと盗み覗くようにして笑うと、ようやくぼくの方を見てくれた。


「まあ、良いわ。狐の件は置いておくとしましょう。どうかしら、こんなところで出会ったのは何かの縁かもしれない。近くに私の狩り小屋があるから、そこでお話ししないかしら」


 ぼくは提案されて、一瞬戸惑った。ぼくの側に、その提案に乗る理由がないからだ。少し迷ったが、しかしそこであることに思い至った。

 狐を仕留めたのがどちらか、その領有をいま争っていた。いったん棚上げになるとしても、ぼくらがここを去るなら、自動的に狐の所持権利はこの少女の側に帰属することとなる。それでは路銀を稼がねばならないというぼくたちの目的は果たされないが、少女の狩り小屋で話し合う、つまり交渉をすることで、狐を獲得できるかもしれないということだ。

 本来であれば足り得た路銀は、ぼくのわがままで食い潰したようなものだ。その償還をするのはぼくの責任であり、そのためにぼくは狩りに参加したのだ。実際は何の役にも立たなかったし、銃は撃てないし足跡もフランソワが見つけたのだ。ならばせめて、狐を取り返すくらいはしなければならない。

 ぼくはそこまで考えると、少女の提案を飲むことにした。

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