第8話「退潮せるルーシ」

 翌朝から、ぼくらは休むことなく馬を走らせた。相変わらず風はきついし、馬の振動で鞍と股がよく擦れて痛い。けれど、そんなつらさも2日経つ頃には慣れてきて、またハリコフからベルゴロドを経由してクルスクに入る頃には、中央ロシア丘陵の起伏が思っていたより緩いことも知った。


「若様!少し休みましょう!馬が疲れてしまいます!」


 ぼくの遥か後ろから、ナビンスキーの声がした。どうやら、ぼくは慣れ過ぎたあまり彼らを置いてけぼりにするほどの速力を出していたらしい。


「鉄の馬があれば、馬の為に休む必要などないのに」


 水筒の水を飲んでいると、フランソワはぽつりとそう言った。


「アフタマビーリ(自動車)のことか」

「パリでは一般的に使われてますわ」

「この国には過ぎたものだ」


 ナビンスキーは馬を撫でながら遠くを見た。少し離れた丘の上を、馬車の一団が這うような速度で走っていた。行者は馬に鞭を振るいながら、幌の揺れる馬車の荷台を気にしている。道の状態が良くないのか、この距離からでもからからと車輪の音が微かに聞こえた。


「道ひとつろくに整備できないこんな国には、馬が似合いだ」


 がぶりと干し肉にかぶりつくと、彼は双眼鏡を覗き込んだ。そんなナビンスキーに、ぼくは訊いた。


「ロシアには、道を整備する力もないというのか」

「あるなら、我々は今頃アフタマビーリに乗ってモスクワまで行き、ペトログラードまで鉄道旅をしていたはずです」


 ああ、と、何故かぼくはセルゲイの姿を思い浮かべていた。寒々とした初雪を、仲間たちと必死に掻きだす様は、それ自体がロシアの無力の象徴と言えるかもしれない。農奴に頼らねば、雪にすら対処できない。少し前のハリコフに至っては、そもそも雪かきをする人の姿さえない。歩くのが億劫なくらい道がよく滑ったのは、記憶にまだ新しい。


 人こそが国の力だ。だが、その人が疲れ切っている。だからロシアは農奴という、民草の更に下の層を作り出した。だが、それではもうどうにもならないほど、この国は疲れている。

 無理をして背伸びをし続け、踵と土踏まずがはち切れかけている。それが今のロシアという国で、大国のふりをした限界状態の村落なのではないかと考えたのが、ぼくのこの時の結論だった。


 結論から言えば、ぼくの考え────ロシアという国は、大国のふりをした限界状態の村落なのではないかという論────は、正しかった。

 それはクルスクを越え、オリョールに入った時だ。オリョールはモスクワとハリコフのちょうど中間地点で、殆ど休みなしに進んできたぼくらは疲れていた。ここで1日か2日ほど休んでからまた出発し、モスクワで馬を預けて鉄道に乗り換えてペトログラードへ向かう。

既に村を出て1週間近くになるからか、ナビンスキーとフランソワには疲労の色が見えて、2日と言わず、3日は休むべきじゃないかとぼくは考えていた。

 だが、ぼくはオリョールに着くなり、多くの驚き────それも、あまり遭遇したくない類いの────を得た。

 まず、道の状態だ。明らかに補修が必要な状態で、路面から飛び出た丸石は道行く婦人や馬の足を痛めている。それだけでなく、多くのガス燈は硝子の部分が割られて使用できなくなっていて、その状態になってから日が経っているのか、カラスか何かの巣が作られている。雪もひどく、路面は凍った湖の水面のようになっていて、明らかにハリコフ以上に公共サービスが機能していない。

 何より、街全体から独特の臭気があった。これは農奴たちが人糞を使った肥料を畑に撒いているときによく似た臭いと気付くまでそう時間は掛からず、同時にごみの回収や、便所の汲み取りなどのサービスすら提供できていない証左だ。

 また街の至る所で、路上で横になっている人の姿も散見される。多くは寒さに震え、あるいはなるべく日の当たる場所を求めるか、路地裏でうずくまるなどして、まるで冬眠でもしているみたいにじっとしている。

 ぼくはそのうち、雪を被って寝ている人を起こそうとすると、そいつはゆっくりと仰向けになった。人形みたいに手足をこわばらせながら氷みたいに冷たくなっていて、顔などは砂のような色になっている。そいつが死んでいることに気付いた時には、ぼくはフランソワに肩を掴まれて「触ってはなりません!」とそいつから引き剥がされた。

 宿の痩せたろう店主から部屋を取ると、ナビンスキーはベッドをソファ代わりにパイプに火を点ける。


「ハリコフやモスクワ、キエフのような都市に比べればオリョールなど木っ端のようなものだが、それでもルーシでは10本の指に入るはずの都市だ。それがこんな有様とは」


 用済みになったマッチ棒を爪で弾いて窓から捨てると、「きっと、このマッチ棒も片付けられやしないのだろうな」なんて彼はうそぶく。

 ぼくは「それなら捨てなければ良いじゃないか」と言うが、今度はフランソワが首を振った。


「よそさまへ捨てようと考える時点で、その状態こそが問題なのです。然るべきところに働くはずの力が、今は失われている。そうなれば、民草は自分にとって都合のいい場所に物を捨てるでしょう。現に、この部屋にごみ箱はありますか?」


 見渡すが、それらしき箱は見当たらない。宿の主人は、宿泊客が文字通り「他所へ捨てる」ことを期待してか、もはやそんな程度のサービスすらしてくれないらしい。いや、したところでごみを回収してくれる行政機能がない、ということだろう。戦時とはいえ、最低限すら維持できていないよう見えてしまう。

 途端にぼくの心には暗雲が差した。ペトログラードで、本当に父は治療を受けることが出来ているのだろうか、と。

 ぼくはその懸念を口にすると、ナビンスキーは「帝都でございますから、流石に大丈夫でしょう」と言った。だが、その声もどこか不安げだ。

 ハリコフ、オリョールだけではない。クルスクもベルゴロドも、期待したほど良い状態ではなかった。街から男が消え、物が消え、それら全ては戦争のために費やされている。

 いや、違う。戦争は、ロシアの衰退を早めているだけだ。ロシアはいずれ手折れる。向日葵とて強風に煽られれば、にべもなく折れてしまうだけだ。だがこの向日葵は、そもそも根が腐っている。


「ロシアが滅んだ時、ぼくはどうすれば良いのだろうな」


 ぼくはひたすら、己の若さを呪った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る