第7話「ハリコフの夜」
凍り始めた路面を蹄鉄が鳴らして、馬上のぼくら3人は西から吹く寒風に厚く着込んだシューバで耐えているが、ぼくはまだハリコフに着いてもいないのにきつくて早くも音を上げそうになっていた。
「若様、大丈夫ですか?」
「あ、ああ」
ナビンスキーが、少し速度を落としてぼくの横にぴったり付けるように馬を並走させる。少し速度を落としましょうか、と訊いてきたので、ぼくはそれに頷いて、やや早歩きくらいにまで馬の速度を落とした。
「街が見えてきましたわ」
…………どうやら、ナビンスキーはハリコフの街並みが見えたから、速度を落とすかどうかの提案をしたらしかった。ただ道中で気を遣われるより、よほど屈辱的だ。ぼくはやはり、足手纏いらしい。
だからと言って、ペトログラードへの旅をやめる気はぼくにはさらさらない。ぼくらはハリコフの市街地に入って宿をとると、さっそく商店へ足を運んだ。
コンパスと地図を買い、次に干し肉の束と大きめのパンを買う。マッチ箱とナイフ、寝袋を買い揃えたとき、ナビンスキーははたと目に留まった店へ入っていく。しばらくして出てきたナビンスキーの背には、ライフルが背負われていた。
「それは?」
「
「必要か、ライフルは」
「街をごらんなさい、ここはウクライナでよく栄えている方の街ですが、我らの村に建物をくっつけただけのような、寂れた具合です。これは不景気、ひとえに戦争の影響でしょう。食い扶持にあぶれ、止む無く街を出て盗賊となった者が道中に蔓延っているかもしれない」
「ライフルが使えるのか、ナビンスキー」
「わたしは昔、ルーシのいち兵卒として日本人と戦ったことがあり、銃の扱いは部隊の中でも、よく手慣れていた方だと自負しています。若様を守れるだけの力はあるものと考えています」
そこまで言うと、ナビンスキーはフランソワに、茶色い紙に包まれた、随分重くてずっしりしたものを手渡した。包装を剥がしてみると、1丁のピストルと数発の弾丸があった。
「私にこれは撃てませんわ。銃なんて」
「おまえは一応、若様の護衛という体裁を取っている。だからおれの責任でおまえを守るには、おまえの名目は弱すぎる。いざという時はその銃で、自分を守りなさい」
フランソワは少しつまらなそうな顔をした。いいや、フランソワはいつもつまらなそうだ。ぼく以外の人の前では、特に見聞きした全ての事象をつまらないものとして扱っていそうだった。
*
宿に戻って夕げを摂った後、ぼくの部屋にナビンスキーが訪れた。彼はぼくに、昼間フランソワに渡したのと同じような紙包装を渡されたので、もしやと思って開いてみると、やっぱりピストルがあった。
フランソワにはこれを自衛の武器として渡していた。だが、ぼくにはナビンスキーという男が付いているはずだ。
「ぼくに持たせるのは、なぜだ」
訊いたぼくに、ナビンスキーはわざわざ膝を折ってぼくに目を合わせる。彼の青い目がぼくを真っ直ぐ見ていて、ぼくはそこに吸い込まれるような優しさを見た。
「わたしでは、若様を守り切れないことがあるやもしれぬからです。私は最大の注意と努力で若様の御身を守るつもりですが、それが敵わなかった場合、若様は自分で自身をお守りにならねばならなくなる。武器とは、その為にあるのです」
「撃って解決するのか」
「撃って終わるなら、それでよろしいではないですか」
彼の左目はひどく淀んでいた。目の前のぼくじゃなくて、遠い東の地を見ているようだった。ナビンスキーはパイプを吸い切ると、「さあ、若様は早く寝てくだされ」と言ってぼくをベッドに寝かしつけた。
「明日からは北に向かって走ります。お休みになられて、体力を温存してくだされ」
ぼくはうんと頷いて、ナビンスキーが去った後に閉まったドアを、ランプの灯りの向こうに見詰めていた。
ぼくは何だか眠れなくて、ハリコフの街を宿から眺めた。ハリコフは栄えた街だと噂に聞いていたが、なるほど、ナビンスキーが言う通りで本当に活気はない。通りを往く人はどれも生気はないし、頬もこけて弱々しい足取りだ。夜であるというに、商店は早々に閉まるか、あるいはそもそも、開いてすらいない。廃業済みの看板がそこかしこに掲げられていて、建物の灯りもまばらだ。
家々の煙突はなかなか飯炊きの煙を吐かないし、その家に帰る人間もいない。
戦争による動員と、人手不足。そして物資不足から来る不況。そういえば、ただのマッチでも不相応な高額だったことも今思い出して、ぼくは全てに合点がいった。
「そうか、みな貧乏なんだ」
当たり前のことにぼくは気付いていなかった。
「そう、みな貧しい。だから暴力が蔓延るのですよ」
いつの間にか、ぼくのベッドにフランソワが座っていた。瀟洒にも胸を曝け出すような寝間着を着て、ぼくの太腿に指を這わせる。ミミズみたいにうねうねと動く。それがひどく気持ちが悪くて、けれどその熱はやっぱりいつもの彼女のそれで、嫌な安心感を覚えてしまう。
フランソワは砂糖を湯に溶かして混ぜたような吐息を漏らしながら、ぼくの耳元で囁く。
「富とは、服のようなものです。持てば持つだけ、品を得られる。富める者がひたすら暴力を嫌い、貧しき者がひたすら暴悪に訴えるのは、人という生き物の本質が、暴力的であるから…………」
「君は優しいじゃないか」
「本当にそうかしら」
フランソワはぼくをベッドに突き飛ばした。ぼくが目を開けたときには、彼女はぼくの上に乗って、寝間着を脱いでいた。白い柔肌が、夜に映えてその色彩をはっきりとさせる。蛇のような手がぼくのベルトのバックルに掛かる。
「あなたじゃ私は満たせない。けれど、私はあなたを奪うことが出来る」
「それが暴力の本質か」
「人の性よ」
その暴論にも聞こえる言葉に、ぼくは反論する訳を思いつかなかった。
究極の暴力行為が、東で行われている。ドイツを倒すためという名目で、人も物も無尽蔵に使い込み、全て無駄にしてまでその闘争を遂行している。
父もその中で“無駄”にされてしまった。
ぼくは虚しさを感じながら、彼女のへそが上下するのをただ見ていた。
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