第6話「砲弾の空」

 ペトログラードへの旅の支度と言っても、することはあまり多くはない。飼い葉と下着を数日分ほどブリーフケースに入れて、あとの物品は近くのハリコフで調達することにした。

 よって集められた3頭の馬は、「おや、荷物はこれだけなのかい」とでも言いたげに尻を浮かせて蹄鉄を鳴らしながら、出発の時を今や遅しと待っている。


「やあ、君。暫く会えなくなるようで、寂しいよ」

 屋敷の前で馬の見張りをしていたぼくに、スコップを持ったセルゲイがやって来て、話しかけてきた。どうやらセルゲイはナビンスキーに言われたのか、雪かきをしに来たらしい。彼の他には、何度か見たことのある農奴たちもいる。


「セルゲイ、しばらくおまえの朝食はお預けだ。だが恨むなよ」

「恨む?何だいそれは。本当はおらじゃありつけねぇ、上等すぎる飯だったんだぜ。食えなくて不満を持つなんざ、傲慢ってものだよ、君」

「そうか」


 ぼくはそう言うと、なんだかつまらないものを覚えて、その後は黙ってしまった。セルゲイも同じなようで、彼は他の農奴たちを連れて本来の仕事に戻った。てきぱきと雪を掬っては、道と言えるかやや怪しい街道の端に寄せていく。本来は農奴ではなく、村の若衆の仕事であった雪かきだが、今や若人たちは皆が戦争に駆り出されていて、農奴たち以外に労働力と言えるものはなかったのだ。

村も寂れたものだなぁ、とぼくは今にも雪が降りそうな、灰色の空を眺めていた。


「あの空は」


 気が付くと、ナビンスキーがいた。ナビンスキーは相変わらずパイプを咥えて紫煙をぷかぷか吐いては、眼帯の紐を気にしながらぼくに語り掛ける。


「きっと、何万発と弾けた砲弾が作ったのですよ」

「なぜわかる」

「昔、戦争に出たことがあります。その時はいつも、戦いの後は鉛色の雲が掛かっていて、火薬臭い雨が降ったものです」


 科学的根拠はなく、ただのジンクスです、と彼は言う。だが雨が降ったことが嘘ではないことは、失われた右目を覆う、一枚の皮革が雄弁に語っていた。

 次にナビンスキーは、道の雪かきをしていた農奴たちを集め、セルゲイを彼らの前に引っ張り出す。


「セルゲイ。おまえはおれが留守の間、農奴どもを仕切れ。読み書きが出来るなら、簡単なはずだ」

「おらにやらすんですか」

「おれは出来ねえ仕事を頼んだことは、一度もねえつもりだ」


 ナビンスキーは有無を言わせる気などさらさらなく、肯定を示すいくらかの語句以外は求めていないような素振りだった。ぼくは「セルゲイは、仕事場でもセルゲイと名乗っているのか」と不思議な感触を覚えながらも、ナビンスキーの指示に困惑していた。

 だが考えてみれば、セルゲイ以外で、この村の農場を管理できる人間はいないように思えた。


「セルゲイ。ぼくからもお願いするよ。君なら出来るはずだ。文字を覚えたように、今度は仕事を覚えるだけだ。カサンドラたち給仕どもにも、君を手伝うように言っておくから」

「…………君がそこまで言うなら、おらは受けるしかなくなるじゃないか。だが、期待はしないでくれよな」


 セルゲイは少し恥ずかしそうに、誇らしそうに、それでいて自信のある顔で、ぼくに頷いて見せた。ナビンスキーは相変わらず、パイプをぷかぷかやっていた。

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