第5話「父の便り」

 セルゲイと出会ってから、2カ月が経つ。長袖の外套(シューバ)を羽織らないと、いや、羽織っても、隙間から入る冷気が過冷却を起こした水みたいに冷たくて、つらい冬が来た。

 父上からの便りが届いたのは、例年より少し早めの初雪の翌日だった。


 馬を厩舎に入れた頃に訪ねてきた、新しく雇った女給仕の調教を給仕長のカサンドラに任せて居間から人を払った。払った理由は特にはない。あるとするなら、何か怖いものを感じたからだ。

消えかけていた暖炉に、乾かした薪を放り込んでから手紙の封を切った。


《拝啓、親愛なる我が息子へ。長らく連絡をしなかったことをまず詫びる。だが賢いおまえのことだから、私が文筆を執ることに余念がないことを知っているだろうし、またその私が文を寄越さないことに気を揉まず、それだけの暇がないことだろうと解釈してくれているだろう。

 だが、今は私はおまえに向けた筆を握るだけの時間を手にしてしまったことは、幸いなのか不幸なのかは、今から書くことを読んで、おまえが決めてもらいたい。

 私は今ペトログラードの軍病院にいる。近くにオーストリアの野砲弾が落ちて、それは不発弾だったが私は間抜けにも砲弾を踏んでしまった。

 運良く近くにウラソフ伯父がいたので、私はすぐに手当てをしてもらえて、死ぬことはなかったが、一緒にいたマリコフ、スミルノフ、ミハイロは助からなかった。みな私たちに尽くしてくれた、良く有能な家来だったが、塹壕の中では等しく1かゼロとして扱われるようだ。私も今後はゼロとなる。足を失ってしまったから、馬には乗れないし冬宮殿で傅くための、膝も靴もないのだ。

 私はこのひとつきで、ひどく気弱で小さくなったように思う。傷口が治る頃に戦争は終わるだろうが、フョードル公の城で私が座る椅子はきれいさっぱり取り払われてしまうだろう。我が息子よ。私はお前に会いたい。会えるなら会いにゆきたいが、今の私では這ったとてドニエプル河の畔にもゆけぬだろう。

 そのことがただ悔しくてならない。神よ、我が息子に祝福を乞い願わん》


 ぼくはすぐにナビンスキーの農場へ、雪を蹴飛ばしながら走った。今朝会ったばかりのセルゲイと3時間ぶりに再会して、ナビンスキーの元へ案内してもらう。飯場の椅子でパイプを燻らせていたナビンスキーは、いつもみたいに右目の眼帯のひもを少し弄りながら農奴たちを怒鳴りつけていたが、ぼくを見るなり「どうしたんです、若様」とたくわえた髭の隙間から訊いてきた。


 ぼくはおおまかな事情を、手紙よりも簡潔に伝えると、ナビンスキーはさっそく旅支度を始めると言って自分の小屋に向かった。


「どこへ行くんだ」

「決まっていますよ、ペトログラードです。私はお父上様のお留守を預かる身であり、そして最後の家来なのです。そのお知らせを請けて動かざるは、父祖の代より仕えた家来の名折れです」

「なら、ぼくも連れていけ」

「…………」


 ナビンスキーは少し考え込むように、パイプを口から離した。


「はっきり言って、若様にはお辛い旅になりますよ。あなたはミンスクまでは行ったことがあっても、ノヴゴロドにはその膝元にすら行ったことはないはずです。まして、これは火急の用と言える事態ですから、ロバ車なんかでは用の足しにはならないでしょう。厩舎から足の速い馬を見繕って、今すぐに出発しなければならない。それでも雪まで降り始めましたから、ペトログラードまでは1週間以上は掛かるでしょう。

 そしてその間、我々は不眠不休で走り続けることになる。ふかふかのベッドと暖かい暖炉に沈む快適な夜も、手を叩けば飯炊き女どもが作る食事も、それどころか満足に飲める水だってないかもしれない。

そんな思いで着いてみれば、病院でお待ちしているのは私たちの想像よりも酷い大怪我をなさっているお父上様かもしれないのです。あなたにそんな程度の旅が、いったい耐えられますか?」

「それは!」


 それは…………なんだというのだろう。ナビンスキーは、バーバヤーガ(山姥)が乗り移ったみたいに怖い目をしていたが、声は驚くほど静かだった。いや、そのバーバヤーガのような目にしたって、魚が水面から釣り上げられたばかりみたいにきょろきょろしている。

 動揺している。ナビンスキーは、ナビンスキー自身が思っているよりも、この手紙の存在を信じたくなくて動揺している。ぼくはそう感じ取ったし、実際それは正しかった。


「ナビンスキー、私も連れて行きなさい」

「フランソワ!」


 きょとんとしたセルゲイに連れられて、フランソワが立っていた。白いシューバは足元が泥に濡れていて、きっと解けかかった雪を踏み抜いてきたのだろうことが窺える。

 彼女は汗に上気する額を拭いながら、「事態は伺っております」と簡潔に言った。


「フランソワ。君と主の仲は知っているが、君はけっきょく家庭教師でしかないのをわかっているのか」

「それではこうしましょう。私は今ここで、若様の家庭教師の任を降ります。ですがそれを承認するのは、あなたではなくペトログラードの彼です。ですから私はひとりでもペトログラードへ行き、承認を取り付けます。

道中は長引いている戦争の不況で苦しむ浮浪者が数多くいるでしょうが、あなたはそこを私ひとりで歩かせるのでしょうね」

「…………悪女め」


 ナビンスキーは舌を打って、踵を返した。


「フランソワは、おれが若様を連れて行かぬなら自ら強姦されに道に出るつもりらしい。おれとしては別に構わんが、そうしてお怒りになられるのは誰か、おれは良く知ってるつもりだ。

 おれはあの人を悲しませる気はない。怒りを買うつもりもない。君が行くならおれは君を守らねえといけねえし、そうなると若様も連れてくことになるのか…………」


 ぶつぶつとナビンスキーは小屋に入っていく。その背中を見て、ぼくは一抹の不安を抱きながら、フランソワの顔を見上げたが、胸に隠れてその口元は見えなかった。嗤っているようにも見えたし、蔑んでいるようにも見えた。

 彼女の手は、ぼくの背をせわせわと撫でて、まるで猫のように扱っていた。

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