ノートという機能を本日初めて発見した。実を言えばただそれだけなので、特段報告するべきものはない。
実のところ記念すべき最初のノートは「ロシアに関する考察」というもので、現在掲載中の「セルゲイとぼく」を補完する内容として3時間ほど執筆していたものの、日々生産が常となる上記作の本日分がまだ完成していない状態であることを思い出して「考察」の執筆は後回しとなることが決まった。
「セルゲイとぼく」は6話の時点でストーリーの半分が終了したつもりであったが、ディスコードのフレンドから新たなインスピレーションを得てしまい、恐らくたかだか10話と少しで終わる筈だった「セルゲイとぼく」は大幅なシナリオ変更を余儀なくされる。それでいい。おれは王道が書きたいのであって、冷笑的かつ皮肉的な話を書くのは、完全に不本意なことだ。不本意ながら書いていたのは、一種の自分の作家としての特性に、一種の見切りと諦め、あるいは複雑化した自分の人生観と暴力性に対して、一定の蹴りを付けたかったからだ。
今日、このおれを支えてくれるのは多くの友人と読者のお陰であり、また環境の恵みによるものだ。おれはそれらに「足りぬ」と文句をつけて、多くの者がなりたくてもなれない「何者か」になろうと悪戦苦闘している。飛び込まなくても良い地獄に自ら足と首を突っ込み、血肉を目に見えぬ悪魔に喰わせている。愚かなことと自分では思いつつ、しかしおれは自分に「何か特別なものがあるはずだ」と割り切れず、ズルズルと創作活動をしている。
その結果、「セルゲイとぼく」は一定の成果を得ることが出来ている。共感か興味か、ともかく自分が様々なサイトで投稿してきた作品全てを合計した以上の閲覧数と評価を貰っている。
これは報いだろうか、始まりだろうか?創作人生の終活として作ってみたはずの作品が、一定の成果を出していることを、おれはどう評すればよいのだろう。
そんなものは後から考えればいい。おれはおれだ。今おれは自らを励ましながら、また自らの手足を喰うように筆を執っている。終わらせて、その結果を見てから考えるでもいいだろう。
少なくとも、今はそう思えるようになっている。