そんなもんどうでもいいから早く続きを書け、という正論はこの際いっさい受け付けないものとして進める。
実を言えば今書いている「セルゲイとぼく」は、手慰み或いは引退のつもりで書いていた。つまるところわたしからすると手抜きの極みのような作品で、力もディテールも何ら凝ったものではない。当時のロシアについてわたしは隅々まで語れる自信こそあるが、それら全てを作品内で展開すればおのずと書き手であるわたしがまた無駄に消耗してしまうので、意図的に適当にしている。ただし、その分の余力は不足しない範囲で人物描写に充てているつもりであるので、相対的にやはり労力の掛かっている作品なのかもしれない。
悩みとは何か、と言えば当作は本来、このわたしが書きたい類いの話ではない。わたしは日頃貯えたあらゆる学識は、自分が人生や舞い込む報道などに狼狽せず、斜に構えて楽しむべく積んでいるのであって、つまるところ小説作品に活かしたいわけではないのだ。
だが現在「セルゲイとぼく」は、自分があの時代のロシアについて知っていることを選別し、投入し、展開している。更には作品の方向性は、ひたすらに暗雲と暗澹を旨としたダークな色調が極めて強いものであり、本来書きたい王道ものとは程遠い。わたし自身は皮肉主義の権化だと思っているが、その思想は他者に持ってほしいものではないというに、出力されるもの全てがニヒリズムとなれば、やはり困ったものである。
語るべくもなし、創作家としての適性と性。悩ましきことなり。