一角獣のため息

霜月れお

🦄



 外の乾いた空気で吐く息は白く、見上げた冬の夜空は高く冴えている。

 さて、今日は何缶にしようか。

 昨日はツンデレ猫吸い缶で、これが思いの外、心に安寧をもたらしてくれた。ちなみに、セイウチの吐息缶なんてものもあったが、これはお勧めできない。

 一人暮らしの家に帰る途中のスーパーに立ち寄り、缶ビールはもちろんだが、最近では、今夜のお供に缶詰をその日の気分で選ぶことが、何よりの気休めになっている。

 一人暮らしが始まって、今まで任せていた食事に洗濯に掃除、諸々の労働が壮年の身体に堪えた。これ程までに大変なことだったとは知らなかった。

 あぁ……妻が恋しい。妻に言いたかった言葉すら届かずに、彼女は逝ってしまった。

 まだ部屋には妻の趣味にしている紅茶缶が残されていて、とうに賞味期限は過ぎているのだろうが、飲むことも捨てることもできずに、そのままにしてある。

 ――残していたら、もしかしたら彼女が飲みに戻ってくるかもしれない。

 それに、あっという間に他界した妻の遺していった物たちを、どうしたらいいのか想像もできなくて、仕事をしているのだからしょうがないという呪文を唱えているもんだから、もうすぐ一回忌を迎えようとしている。

 これも、知ろうとしなかった自分が悪いのだ。

 料理も儘ならないから頼るようになったスーパーの総菜。立ち寄るとつい買ってしまう缶ビール。そして、今日も缶詰コーナーに立ち寄り、並べてある缶詰を選ぶ。

「うーん、犬の肉球の裏缶にウミガメの涙缶か。どれも微妙じゃないか……」

 犬の肉球の裏缶の匂いは、ツンデレ猫吸い缶に劣るし、ウミガメの涙缶は、しょっぱすぎて全くビールに合わなかった。

 ふと横に目をやると、離れた陳列棚に見慣れない缶詰がひとつ置かれていた。手に取ってラベルを見ると『一角獣のため息』と書かれていた。

「一体、どんなものが出てくるんだ?」

 想像がつかなくて、裏の説明書きを読んだ。

『効能は、ため息が運んできます。睡眠前に枕元で開封し、ご利用ください。』

 ほう。何が運ばれてくるか書いていない。

 好奇心に勝てなくて、手にした缶詰をカゴに放り込み会計をして店を出た。


 さっそく家に戻り、缶ビールを開ける。窓の外には冴えた月が浮かんでいる。今夜は冷えそうだ。

 夕飯もそこそこに寝る支度を整え、『一角獣のため息』を取り出し、握った。

「キミのため息は、何を運んできてくれるんだろうか」

 右手でプルタブを力いっぱいに引っ張る。カシュっと音がして、枕元にそっと置き寝床に滑り込んだ。


 台所から良い香りがする。いつぶりだろうか。

 気になって目を覚ますと、台所では妻が右へ左へと蟹歩きをしながら朝食の支度をしていた。匂いから察するに、ベーコンエッグか。いや……待て、待てよ!

「おい、キミはこんなところで何をしてるんだ?」

「いやぁね、あなた。『一角獣のため息』を開けたでしょ。だから、来たんじゃないの」

 出来立てのベーコンエッグをテーブルに運ぶ妻が、いつも通りの手順で朝食の支度をしているのを見て、目の前の人は、自分の妻だった人で相違ないと実感がじわりと湧いた。

「もう。いいから、食べましょう。あまり時間もないのよ」

 せかされるようにして食卓につき、朝日を浴びる妻と向かい合わせで座る。懐かしい。

 ベーコンエッグの半熟卵を割らないよう、そおっと茶碗に載せる。

「あなた、食事はきちんと摂るんですよ。スーパーの総菜とレトルトでいいんですよ、一汁一菜を意識して食べてたら、それでいいんです」

「うん、わかった」

「それに、缶ビールは控えてくださいね。もう、お互い若くないのですから」

「うん、わかった」

「あなた、わたしに言いたいことは無いのですか?」

 もそもそと食べていた口と箸を止めた。

 言いたいことは山ほどある。どうして、なんでキミが、これからどうすれば、堰が溢れないようにするために飲み込んできた言葉たち。

「もっとキミと話をしておけばよかった、と思っている」

 ベーコンエッグを飲み込んで、絞り出した言葉。嘘じゃない。聴いているのか聴いてないのか、妻は窓の外の朝日に目を細めた。

「本当にそう、ね。家に戻ってこれてよかったわ」

 そう言って、昔のように微笑む妻は、掴む間もなく霧のように消えて行き、彼女は耳元で囁いた。

「手紙を置いていくから、ちゃんと読んでくださいね」

 彼女が座っていたほうに回り込むと、テーブルに妻の文字のメモ書きが置かれていた。皿の影になっていたらしい。


アイリッシュモルト

レディグレイ

オレンジティ―

バーベナ

アールグレイ

ウバ


 なんとも彼女らしい手紙で、どれも彼女が好きだった紅茶の名前だ。

 書かれている紅茶缶を棚から取り出し、順番を揃え、缶を睨みつけ、書かれているカタカナとアルファベットを見比べた。


Irish malt

Lady gray

Orange tea

Verbena

Earl grey

Uva


 あぁ、そうか。

 今も昔もキミへの返事は同じ「you too」だ。



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