とき遅きに失す

雨藤フラシ

遅れた時刻に魔がひそむ

 ドンドンと太鼓が鳴り、合いの手にシャン、と鈴が振られる。ドンドンシャン、ドンドンシャン、そしてピーヒャラララと笛の音。祭り囃子だ。

 深山幽谷な山中に、同じ旋律が執拗に響き渡る様を、古車ふぐるま矛一ほこいちは苦々しげに見た。車から降りて、音のもとを探る。


「あぁ……そうなっちゃったか」


 異形のものたちが列をなして徘徊する、終わりのない百鬼夜行。

 その中に、かつて知った男の姿を見つけ、古車は嘆息した。



 皆が言うには、おれこと杖野つえの久保くぼひとしは共感性や優先順位が狂った発達障害で、他人の時間を浪費させても何とも思わないクズの遅刻魔だそうだ。勘弁してくれ。

 幼稚園は母さんが連れて行ってくれたから、問題はなかった。小学校のころも、上級生に率いられたり、率いたりして集団登校していたのが良かったんだろう。

 しかし友だち同士の約束には、必ず遅れてしまう。


「ヒトシはのんびりやだからなあ」


 と許されることもあれば、「おそいからおいてっちゃったよ」なんて日もあった。幸い、頭が良くて優しいハルくんが「こっちから迎えに行けば問題ない」と気づき、毎回そうしてくれたおかげで、ひとりぼっちになることは避けられた。


 ことが深刻になったのは高校に上がってからだ。遊びに行く時も学校に行く時も、おれを迎えに来てくれたハルくんが転校してしまい、遅刻魔に逆戻りしてしまった。

 最初は他の友だちに頼んで迎えに来てもらったのだが、みんな微妙に家が遠く、長続きしなかったり、はっきり「迷惑だ」「学校ぐらい一人で行け」と断られたり。


 なのでおれは努力した。それはもう、必死でやった。寝起きは良かったから、朝の六時や五時に早起きすることなんて、何でもない。

 自宅から高校までの距離は徒歩でも十五分。わき目もふらずに学校を目指したおれは、しかし八時五十分の始業時間には一人ではどうしても間に合わなかった。


「途中で寄り道しているんじゃないの?」


 母さんも担任教師も、何度もおれを問い詰めたが、まったく身に覚えがない。公園のベンチで寝たり、学校をサボったりしているんじゃないかと決めつけやがる。

 学校をサボるなら、一限目開始五分や十分にわざわざ教室に入るもんかよ。


「みんなもヒトシくんを見習わないように」

「ごめんって謝れば済むと思ってんのか?」

「五人の待ち合わせに君が五分遅刻したら、五分かける四人で合計二十分の遅刻なんだよ。分かる? この感覚」


 どうやら他人が見ている町は、おれが歩いている町より曲がり角や分かれ道が少ないらしい。しかも一歩家を出るたびに、ぐちゃぐちゃと順序を変えてしまう。

 それを怪奇現象だなんだと気づけば良かったのかもしれないが、おれにとってはなじみ深い感覚だった。一人で外出すると、いつもこうだったから。


「遅れて来るぐらいなら来なくて良いよ」

「なんで先に連絡してくれないの。一瞬で一時間経つわけないでしょ」

「頭おかしいんじゃないの、お前」


 脳梗塞か何かの症状で、方向感覚を失った人間は自分の部屋からさえ出られなくなることがあるらしい。大学生の時に脳の異常を疑われたが、検査結果は正常だった。

 代わりについたのが発達障害とのレッテルで(診断名ではない)、その他の悪評は遙か前からおれを取り巻くものだ。現代社会は時間に厳しすぎやしないか?


「一分の遅刻も一時間の遅刻も同じだ」

「例えばさ、百人の敵に二百人で立ち向かうでしょ。その百人が一分ずつ遅刻したらどうなると思う? 百人の敵相手に、十人や五十人で戦ったら負けるんだよ」

「軍隊入って根性叩き直してもらえ!」


 おれは恥をしのんで、就職活動では母さんに付き添ってもらったが、面接官の心証に良いわけがない。かつ会場でも筆記試験をして面談して、と複数の時間割なんかがあると、移動した時におれだけ必ず遅刻する。

 会場の中まで、親の付き添いが許可されるわけがないのだ。いっそ診断がつけば、障害者枠で就職できただろうに。


 おれは年に一度か二度、奇跡的に間に合うことがあった。それはもう天にも舞う心地で、やった! これで遅刻からはおさらば! だと思う。

 結果、結果、結果、「時間に間に合った」という結果が出せない限り、おれがどんなに死に物狂いで努力しても、そのために疲れ切っても評価されない。罵倒される。

 だけどさ、時間に間に合うのって「人として当然のこと」「出来て当たり前」で、特別褒められるわけでもないんだよな。


「あっそ、良かったね。で、次はどうせ遅刻するんでしょ」


 おれを昔から知っている奴は、みんな冷ややかに言った。クズを見る眼で、お前には何も期待しないよ、とすっかり突き放した顔で。

 そして言葉通り、おれは次もまた間に合わない。


「簡単に言うと、〝親の因果が子に報い〟って奴ですね。あまり好きな言葉じゃないんですが、これが分かりやすいので」


 古車と名乗る白髪はくはつの男は、喫茶店でおれたち母子に告げた。

 家にこもって家事と内職にうちこみ、三十を目前にしたおれに母さんが「合わせたい人がいる」と言って、久しぶりに外出したらこれだ。

『古車心理瑕疵かし相談所 所長 古車矛一』という名刺は、何の仕事をしているのかパッと分かりづらい。おれが社会経験が少ないことを差し引いても、胡散臭かった。


「まず杖野久保仁さんの重い遅刻癖は、仁さんご自身の問題ではありません。失踪した父親の、杖野久保とおるさんを害する存在が、息子さんも標的にしているんです」


 親父はおれが小学校に上がるかどうかのころ、ふらっと蒸発している。母さんは女手一つでおれを育ててくれたが、コイツにそんな話までしていたのか。

 古車の髪は白いが肌つやは良く、三十路にも四十路にも見える。実は五十路かもしれないという年齢不詳具合が、よけいに得体が知れなくておれは気味悪かった。


「それは……息子に何か、悪いものが取り憑いている、とか?」


――もしかして、自称霊能者ってやつか。


 心理瑕疵相談、という文字列がやっとおれの中で意味を結ぶ。母さんは完全にそのつもりで、古車に相談していた。


「憑いているのとは違いますね。遠くに居て、祟っているんです。あ、遠くというのは比喩というか、まあ少し世界が違うという意味で。物理的には近い距離にそれを祀っている場所、神社や祠があるはずです」

「祠……」

「奥さん、心当たりが?」

「そういえば……居なくなる直前、夫は自損事故を起こしているんです」


 母さんが記憶をたどったり、訂正しながら語ったことをまとめるとこうだ。

 まだ飲酒運転がそれほど深刻に捉えられていなかったころ。おれの親父は居酒屋でしこたま飲んだ後、自分の車で家路に就いた。

 三叉路に差しかかった時、親父は運転を誤り、路の中央に祀られた石造りのお堂に激突。物凄い衝突音がして、泡を食って近所のご老人が飛び出した。


『あんた、あの祠壊したんか!』


 それはそれは物凄い剣幕で、親父は必死で謝り倒し、後日修繕することを約束。警察を呼んで一通り手続きを終えて帰宅して、事故のことを母さんに説明した。

 翌日、銀行に金を下ろしに行くと言ってでかけたのが、親父を見た最後だ。


「夫が居なくなってから、祠は元通り直されていました。だから、それとこれが関係あるなんてこれまで思ったことなんかなくて」

「やめろよ、母さん」


 おれはムカついて古車を睨みつけた。ずっと苦労をかけているのは分かっていたが、とうとう怪しい霊感商法に引っかかりかけるとは。

 自分が嫌になるが、母さんの弱った心につけこんで、人の家のプライベートな事情に踏み込んできたコイツはもっと許せない。おれは古車の胸ぐらを掴んだ。


「親父が消えたのは、祠の呪いだ祟りだなんて言ってみろ、ギタギタにしてやる」


 遅刻魔で人生失敗しているおれだが、それ以外のことなら割りと何でも出来る。道に迷っていると変なのに絡まれることも多いから、喧嘩は強くなった。

 勉強だって出来るから、遅刻で内申が悪くても大学までちゃんと卒業できたのだ。


「落ち着いてください仁さん、話を聞――」


 おれは突き飛ばす形で古車を離した。

 詐欺師と話すなんてバカらしい、おれはおれの人生について真剣に苦しんできたのに、それを横から訳の分からん輩にやいのやいの言われるのは、もうたくさんだ。

 母さんの手を引いて会計を済ませ、店の出口へ向かう。


「仁、古車さんのお話をもうちょっと聞いて。お願い」


 ドアに手をかけた所で、母さんは足を踏ん張って抵抗した。


「母さん、しっかりしてくれよ。祠を壊した祟りとか、馬鹿にされて悔しくないの? おれも親父も、カモにしようとしてんだよ!」

「でも!」


 それなりに体格の良い成人男性のおれは、母さんを傷つけないよう外に連れて行こうとしたんだ。揉み合う内に手を離してしまって、おれは一人で外へ出た。

 一人だ。店へ来るまで、おれはずっと母さんといっしょに移動していた。だから電車やバスも時刻表通り利用できたし、古車との待ち合わせにも来られた。

 だが、母さんが居なければ?


 おれは店の玄関ポーチでたたらを踏んで、振り返ってドアノブを手に取ろうとした。ほんの一歩か二歩、腰を使って体を回転させれば、すぐ戻れるはずだ。

 目の前に車道が広がっている。自分が歩道をはみ出しかけているのを察して、おれは上体を背面の筋力で引き戻した。なんだこれは。


 おれは店を出た瞬間、振り返ったつもりが車道に向けて真っ直ぐ飛び出した格好なのだろう。道に迷うおれの姿は、傍からすれば馬鹿みたいな動きをしているらしい。

 振り返ると、店を出た母さんが追いかけてくる。後ろに古車が付いてきているのは気に食わないが、今は戻るのが先だ。このままでは家にも帰れない。


「母さん!」


 待っているのももどかしく、おれは店に向かって走り出した。古車もなぜかこちらに向かってくる。次の瞬間、踏み切りの信号がおれの耳をつんざいた。

 カンカンカンという甲高い大音響を聞きながら、目の前に遮断機が下りているのをボーッと眺める。なんだこれは。

 辺りを見回すと、元の喫茶店も、その周囲の街路とも景色はまったく異なっていた。もちろん母さんも古車もいない。


「どこだよ、ここ……」


 おれはまず街区表示板を探すことにした。

 だが、そんなものは意味をなさなかったのだ。


 その日からおれは、家に帰れなくなった。歩いても歩いても、知らない道にばかり出る。交番を通り過ぎて「そうだ、警官につれて行ってもらおう」と思ったら、今度は交番へたどり着けなくなる。おれが「目的地」とした場所はすべてそうだ。

 スマホはいつの間にか落としていた。カネはほとんど持っていない。


 自宅に似た建物を見つけた時、そこへ行こうとした途端屋根や壁や電柱の波に消えてしまう。最初の二、三日は早く帰りたいと思っていた。

 一週間ぐらいは母さんが見つけてくれると思っていた。

 一ヶ月ぐらいは、警察が失踪人として保護してくれるかもと思っていた。


 希望を捨てて、ホームレスとして生きていくことを決めたのはいつだっただろうか。段ボールハウスを作っても、どうせ戻れないだろう。

 服を引き千切った紐で持ち物を体に固定し、常に歩き続ける生活だ。「今夜寝る場所」「食べ物のある場所」なんて、間違っても探そうとしてはいけない。

 偶然出くわすことを祈りながら、おれは黙々と歩く。


 人と出会って会話する機会もなくなっていった。最初のうちは、警官だったりチンピラだったり、ホームレスやその支援者だったりと顔を合わせていたのに。

 おれがその人たちを通して、少しでも元の生活に戻ろう、あるいは今の生活を良くしようなんて、目的を抱いたのがいけなかったのか。


 気がつけばおれは、町の中ですらなく、山の中にいる。

 鬱蒼と木々が生い茂って、昼なのか夜なのかも分からない。霧も出ていて視界は悪いし、本当にここは山なのかさえ怪しいと思う。

 足元は土か、泥か、砂利なのか。靴と足はもう長い間ぴったり一体化していて、何だか感覚がおぼろげだ。いや、おれの頭はとっくにそうか。


 でも今日は良い気分だ。

 祭り囃子が聞こえる。

 少しだけ、おれは楽しい気持ちになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とき遅きに失す 雨藤フラシ @Ankhlore

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画