還元

真花

還元

 そこには空間はない。あそことここが同じで、同時に無限に遠い。

 そこには時間がない。過去と現在と未来が同じで、同時にばらばらだ。

 世界の裏側、反対側、底の底、どことも言えないがそこは存在する。そこは全ての魂の元で、還るところで、集まった魂はそこの中で濃淡として在り続けたり、他の魂と混交したりする。物質世界に新たな命が生まれるとき、物質としての生物からの要請に従って、魂は物質世界へ生物へと供給される。魂を得て初めて、生物は生命になる。

 大腸菌から人間まで、常に無数の魂の要請が続く。

 僕はそこの中で自分を保っていた。前に死んだときまでの記憶と人格を保持していた。それがどれくらいの時間なのかは分からない。時間という概念のない場所だから。

 生物からの要請で、僕はそこから離れる。僕は他の魂と混交せずに僕単独で、そこから物質世界に出発した。そこから離れた途端に時間と距離が発生した。それはまるで天ぷらになってじわりと揚げられるような感覚だった。皮膚のような魂の表面がヒリヒリとして、進行方向から圧力を感じる。

 ぱっと視界が開けた。僕は空にいた。よく晴れた夜だった。ふわふわとしたクラゲのようにゆっくりと降下して行く。僕が行くべき場所が要請元の電波のようなもので分かる。ここが日本で、僕が前の人生を送った同じ街だと言うことも分かる。

「おたくは人間ですか?」

 見ると、中年男性の魂が僕と同じ速度で降りて行っている。男性はピンクのパジャマを着ていて、それは男性の心を表しているようだ。幼くもやさしい人。

「人間です。そちらは?」

 男性はちょっと黙ってから、少し僕に近付く。

「犬です」

 僕はそれが残念なことなのか、そうでないのか判別が付かなくて黙る。何に要請されるかは分からないが断れるし、ゆかりのあるものの要請が、自我を保っていた場合には多いようだ。男性はもう少し僕に近付く。

「でもいいんです。妻が僕の死後に飼い始めた犬の子犬ですから」

 少しずつ地上が近付いて来るが、まだ降り切るまでは時間がありそうだ。

「そうですか。よかった、んですよね?」

 男性は頷く。くまのぬいぐるみを持っていないのが不思議なくらいの純真な表情をしている。

「はい。では、僕はあっちなので、さようなら」

 男性は体に角度を与えて紙飛行機のように滑って離れて行った。僕はまた一人になって、周囲を見渡す。まるで流星群のように魂がそこかしこに降り注いでいる。僕は星の一つに過ぎないが、発生した人間が生命になるためには僕が必要だ。

 目的地に向かって降下しながら、前の人生のことを思い出す。娘のことが奔流のように僕を染める。娘が成人するまではなんとか僕は命を繋いだが、そこまでだった。やりかけの仕事、途中までの趣味、残した妻。短くそれらが脳裏に浮かんで、すぐに消えた。子供時代と両親、独身の頃、どれも本当は膨大な時間と気持ちを孕んでいるのに、カードにまとめられたみたいにさっさ頭を通過する。

「この記憶とももう少しでさようならだ」

 魂に書き込まれた記憶は、新しく生命になった後、上書きされて実質消える。

 なぜだか、そのことに未練がなかった。なかったからカードみたいに感じたのかも知れない。僕はゆっくり確実に降下して、マンションの一室に入った。

 そこには最後に見たときよりも十年くらい歳を取った娘が寝ていた。あまり老けた印象はなく、健康に生きている感じがした。僕は要請に抗って、その寝顔をじっと見る。ほっとしたような、僕はいなくても大丈夫なんだと言う事実を突き付けられたような、胸の中がざーっと流れて、きっと生きていたら涙になっていた。

夏美なつみ

 僕の声が聞こえるはずはない。それでも呼ばずにはいられなかった。夏美は平和そのものといった顔をして、返事をしない。

「そりゃそうだよな」

 僕は要請に抗うことをやめて、夏美のお腹の中に溶ける。これで新しい生命になった。しばらくは僕を保てるが、動き始めたら僕は掠れて消えるだろう。

 夏美が寝返りを打って、目を覚ます。

「パパ?」


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

還元 真花 @kawapsyc

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画