艶やかな葡萄

つるよしの

艶やかな葡萄

 新人賞に挑んだ年月を長い春として、受賞と晴れやかなデビューの二年前を一瞬の夏とする。


 そうしたらいまこのときは、私にとって、どんな季節なのだろうか。

 私は少し考えて、それは秋なのだ、と気づく。


 たしかに、私の小説家としての日々はいまだ連綿と続いている。しかしながら、その毎日に鮮やかで熱いスポットライトのひかりは失せつつある。日常はゆっくりと涼しさを増し、心の気温はずるずると下がりながら過ぎ行く。とはいえ、執筆の手が止まるほどの凍える寒さは、まだ、感じない。だとしたら、いまは、冬でもない。だけど、もたらされた栄光に、華やかに心が躍った夏の日はもう遠い。


 つまり小説家としての私はいま、静かに秋を生きているのだ。

 そして、その先には、きっと間違いなく冬が来るであろうことを、私は知っている。そう、いつの間にか、物語の構想、いや情熱すら消え失せて、筆を持つ手が凍ってしまう長い冬が。

 いま、私には、そのことが死ぬほど怖くて、仕方ない。



 夏から初秋の葡萄農家の朝は早い。


 私の勤める「金田観光ぶどう園」の開園時間は午前九時だ。だから、それまでの時間にお客さんを迎えるあらゆる準備をしなければならない。


 私は六百メートルほど離れた自宅を七時半に自転車にて出勤し、葡萄園に着くと、まず、外で客が葡萄狩りに使う鋏にカゴを揃え、駐車場の掃除と整備をする。それから事務所に戻り、事務仕事を行う。メールやFAX、あらゆるSNSを確認し、その日の予約状況を再確認するのだ。そして、その合間を縫って、各SNSの金田ぶどう園アカウントから「おはようございます」の発信をする。これらは全てパート従業員の仕事なのだ。つまりは、金田観光ぶどう園唯一のパートである私の。



 その朝も私は予約の確認を終えてから、スマホを片手に畑に出かけた。朝イチにSNSに投稿する葡萄の写真を撮るためである。九月初旬を迎え、頬を掠める朝風はだいぶん涼しく感じる。


 葡萄畑の棚の下には、麦わら帽子姿のふたりの人影が見える。私が映えそうな葡萄の房のアップや、きらりきらりと眩しい朝のひかりが差し込む畑の様子を数枚撮りながら歩いていると、さっそく声が飛んできた。


「おはよう、菜々子ちゃん」

「おはようございます、おばさん、敬文たかふみさん」


 私はふたりに近寄り、ぺこり、と頭を下げて挨拶した。

 にこにこと笑うおばさんの姿が見える。もう還暦を過ぎているわりには、はつらつとした声音だ。おばさんはその顔つきのまま、すぐ横に立って、建て付けの悪い棚を修理していたもうひとりの人影を腕でつついた。


「ほら、敬文、お前も挨拶しな」

「ああ、菜々子ちゃん。おはよう」


 おばさんよりも遥かに高い麦わら帽子が私の方を振り返り、続いて従兄弟の敬文さんの低い声が響いてきた。帽子の下から、ぼさぼさの長い髪、続いて無精髭の目立つ顎が覗き、敬文さんと私の視線が絡む。


 黒い双眼には昔から変わらぬ穏やかな色を揺れていたが、頬には幾つかの皺が刻まれ、ひとつに結んだもつれた髪の毛にはもう白いものが見受けられる。そこで、敬文さんはもう四十近くで、早く奥さんを見つけてこいと昨日も近所のおじさんに揶揄われていたことを、私は改めて思い起こす。


 それと同時に、思う。


 ――家に遊びに行けば漫画を必死に描いていたあの大きな背中は、だいぶん遠くなったなぁ。


 そんな私の心中など知らないだろうに、敬文さんは優しく顔を緩めると、私にこう話しかけてきた。


「今朝アップする写真、もう撮れたの?」

「いいえ、まだなんです。巨峰の棚見てきたんですけど、どうも今朝は、いい角度で撮れそうな房が見当たらなくて」


 すると敬文さんは、棚を這う葡萄の蔦に目を投げる。そうして、ひとつの房を手に取り、もう一方の手に握っていた鋏を差し向ける。


 ぱきり、と音が響けば、敬文さんの手には黄緑に眩しく光る葡萄が一房、握られていた。


「じゃあこの房なんかどうだろう。照りが良くて映えると思うよ」

「わぁ、シャインマスカット! ありがとうございます、やっぱりシャインマスカットの写真上げると、いいねの数が爆上がりなんですよね」


 私は敬文さんが差し伸べたシャインマスカットを受け取りながら、笑顔で答えた。目の前で見ると黄緑の粒の艶は実に瑞々しく輝いている。


 ――まるで宝石みたい。眩しいなぁ。


 するとおばさんが上機嫌でこんなことを言った。


「そうだろう、そうだろう。若い人に人気あるからね、シャインマスカット。菜々子ちゃんはまだ若いから、そのへんの機敏がわかってるねえ。助かるよ」


 私もおばさんに笑顔を返した。気がつけばもう朝も遅い時間だった。


 ――さっさとシャインマスカットをSNSにアップしなきゃ。ああそうだ、事務所にある皿に盛ったらきっと映えるわね。


 そう思い私は、葡萄を手にして踵を返す。

 そのとき、おばさんの声が、私の背を叩いた。


「そういや菜々子ちゃん。小説はまだ、書いてるの?」


 私の足が止まる。

 おばさんの声音は相変わらず明るくて、朗らかだ。そこには皮肉などは、なにも込められてはいない。それは良く理解している。だが、私の心の臓はそのときたしかに、どきり、と跳ねたのだ。


 だけど私はそれを悟られぬように、極めて平然と、だけどもこれ以上ない曖昧な返事をする。


「ええ、まあ」

「そうかぁ、じゃあまた駅前の本屋さんを賑わす日も近いねえ。楽しみにしてるよ。敬文にも菜々子ちゃんの才能、爪の垢でも煎じて分けてあげてほしかったわぁ」


 再び事務所に向けて歩き出した私の耳を、変わらず朗らかなおばさんの言葉が打つ。そして、最後に、まるで嘲るかのように、自分の息子に向けてこう零す声も。


「結局、世の中に認められない道楽なんてねぇ、負け犬のすることなんだよ」



 敬文さんは元漫画家だ。だけど、私は敬文さんの漫画を読んだことはない。


 たしかに、子どもの頃から敬文さんの家に遊びに行けば、彼はいつも机に向かっていて、なにかを必死に描いていた。幼かった私はそれが読みたくてたまらなかったのだけど、見せて見せてと敬文さんの背中にしがみついてせがんでみても、彼は恥ずかしいから、と決して漫画を見せてくれることはなかった。


 そういうとき、私は仕方なく、部屋の片隅に転がっていた漫画雑誌を勝手に読んで、親戚の家での暇なひとときをやり過ごすのだけど、漫画を読むのを快く思わなかった私の両親の目を盗んで読むそれらはとても面白く、夢中になって読んだり、ときにはお気に入りの作品を見つけては、ひとしきり笑い転げたりした記憶がある。


 敬文さんは、一度デビューした。

 だけど、その後が続かなかったと、おばさんは今日も私に、ため息混じりに漏らす。


「あの子は才能がなかったのよ。その後も家を出て、どこかでアシスタントとやらをやって食い繋いでいたみたいだけど、結局だめでねぇ。それで三十を過ぎてウチに戻って来て、家業を継ぐことになったわけだけど、それでも農作業の合間に何か描くことはやめないのよ。そのせいか、今年四十になったというのに、嫁も来やしない」


 その日も葡萄畑を賑わす観光客を横目に見ながら、休憩と称して事務所にやってきたおばさんは私に言う。おばさんは朱塗りの盆にのせたお煎餅をぼりぼりと食べている。そして私にも盆を差し出す。私は、もうすぐお昼なのに、おなかがいっぱいになっちゃうな、と思ったものの、断る術はない。

 無言で煎餅を受け取り、口に運ぶ。


「ねぇ、菜々子ちゃん。あんた、うちに嫁に来ない?」

「なに言ってるんですか、私と敬文さん、従兄弟ですよ」

「そうだったねぇ。ああ、残念。でも、あんたみたいな別嬪さんが来てくれたら、あの子も誰にも読んで貰えないつまらない漫画なんか描くのも、やめるんじゃないかと思うんだけどねえ」


 おばさんはなおも煎餅を咀嚼しながら、何気なく愚痴をこぼす。いつものことだった。だから私はうんうん、と軽く頷き、同意するふりをしながら、食べたくもない煎餅を食み続ける。


 だけど、そのあと話の矛先が私に向かってきたことは、まったくの想定外だったので、私は思わず軽くむせた。


「それはそうと、菜々子ちゃんももう二十八よね。いつまでも小説ばかりに夢中になってると、嫁に行き損ねるよ。あの子のようになっちゃだめよ」


 虚を突かれた私の目は空を泳ぐ。

 そのとき、葡萄狩りを終えた客がひとり、事務所の窓越しにこう声を掛けてこなければ、私の瞳にはもしかしたらうっすらと涙すら浮かんだかもしれない。


「すみません。この摘み取った葡萄のお会計、したいんですけど」

「あらどうも、どうも! 菜々子ちゃん、葡萄測って、レジ打って」


 途端に愛想の良い笑みを顔に閃かせて、おばさんが畑に面した窓へと駆けてゆく。私は数瞬遅れて後を追う。つん、と痛んだ鼻の奥の痛みを、なんとか意識から遠ざけるべく紛らわせながら。そして、客から籠いっぱいの葡萄を受け取り秤に乗せる。


「シャインマスカットと紅富士、合せてちょうど一キロです。千五百円になります。ありがとうございます」


 そう言いながらも、不意打ちのように突きつけられた現実に、私の心はなおもじくじくと疼いていた。


 ――友だちの多くのように結婚もせず、定職にも就かず、どこかに出せるあてもない小説を書きながら、近所の葡萄園で季節限定のパートでお茶を濁す。こんな私の冴えない日々はいつまで続くのだろう。


 考えまいとしていた事柄が胸を渦巻き、そう思うほどに、私の腕はぶるり、震える。手の動きが止まった。

 そんな私におばさんは訝しげに声を投げる。


「なにやってるの、菜々子ちゃん、葡萄さっさと包んじゃって。お客さん、待ってるよ」

「あ、はい」


 なんとかそうとだけ答えて、手元に山と積まれた葡萄に意識を戻せば、狂おしいまでに甘い匂いが私の鼻腔を擽る。

 とってもとってもいい香りなのに、それはなんだか、そのときの私にはすごく息苦しかった。


 

 夕方、仕事を終えた私は事務所でスマホに向かっていた。


「菜々子ちゃん、もう上がっていいんだよ」

「あっ、はい。でもちょっとこのメールを打っちゃってからにします」


 畑から窓越しに声を掛けてきたおばさんに返事しながら、私はなおをスマホを慌ただしく弄る。メールを打っていたというのは嘘だった。私はその日の勤務中に思いついた新しい小説のネタをエディタに書き留めるべく、スマホに向かっていたのだ。


 しかし、エディタに向かいながらも私の気持ちは晴れない。


 ――こんなこと、やっていてなにになるんだろう。私が面白いと思っても、編集さんが気に入ってくれなかったら、なんの意味もないのに。


 でも、私はやるしかないのだ。なんとか拾ってもらえるプロットを作り続けるしかなかった。


 デビュー作に続いて出版した作品が世に出てから、早くも一年が経過していた。デビュー作の売れ行きも決してよくはなかったが、二作目の売れ行きはさらに悪かった。受賞のときの編集さんとの話し合いでは、二作品目までは面倒を見てもらうことが決まっていたが、それは裏返せば、成果を出さねばそれ以上の付き合いはないと断言されたのも同じだ。

 だから、私はここ一年、泣きそうな思いで二作目の本の評判を窺っていた。今日もSNSに葡萄をアップする合間に、自分のプライベートアカウントからエゴサをする。


 悪口が引っかかるときは、まだいいのだ。それはなんとか本を手に取ってもらえている証拠だから。

 だがしかしこの半年というもの、エゴサをしてもなんの感想も拾えない、そんな日々が続いていた。

 焦りばかりが胸を掻きむしるのに、なんの手ごたえもない毎日。それに私はいい加減へこたれていた。小説を書くのが億劫で、怖くなるほどに、気分は落ち込んでいく。


 だけど私は諦めきれない。だから、今度こそ売れそうなネタを必死に考えて、スマホのエディタに打ち出す。そして編集さんにメールする。その繰り返しが幾度となく続いていた。


 ――いまの私は秋を生きている。なら、なんとかして、もう一度夏に立ち戻らなきゃ。


 そう思うほどに、私は無我夢中になってプロットを纏める。

 そうやって、狂ったようにエディタに向かっているうちに、空気がひんやりしてきて、私は我に返る。窓の外に目をやれば、空は赤く染まっていた。夕暮れがやってきていた。


 ――陽が落ちるのもだいぶ早くなったなぁ。そろそろ帰らなきゃ。


 そう思いながら夕陽の眩しい葡萄畑を見つめていると、不意に手元のスマホが震えた。私はびくり、として視線を戻す。

 メール着信の通知が来ていた。しかも、差出人は担当編集さんではないか。


 ――前に送ったプロットの返事、やっと送ってくれたのかな?


 心が逸る。いつのまにか、どくどくと激しい動悸を刻み出した心の臓を抑えながら、震える指先でメール画面を開く。

 その次の瞬間。


「うちからは、次はないですね」


 無機質にそう綴られた文が、目に飛び込んできた。



 私は、葡萄畑の棚の下に座り込んで、呆けたように暮れゆく空を見つめていた。


 涙はあらかた零れ落ちてしまったようだけど、こんな泣き腫らした顔では事務所にもいられないし、家にも帰れない。だとすれば私はそこにいるしかなかった。


 なのに、誰もいないはずの畑の奥から、がさり、と音がして私は思わず飛び上がった。


 振り向いてみれば、麦わら帽子を脱いだ敬文さんが、ぼさぼさの長い髪を片手で弄りながら立っていた。ちょっとばつの悪そうな顔をしている。いったい、いつからそこにいたのだろうか。泣いていたところを見られたかもしれない。そう思うごとに、私の頬は夕空と同じ色になる。


 すると、敬文さんが右手を差し出しながら、こう言った。


「菜々子ちゃん。葡萄、食べるかい?」

「え?」

「好きなんだろ? 巨峰。昔うちに来てた時、貪るように食べてた」


 見れば敬文さんのいかつい手のひらの上には、艶めいた巨峰が一房乗っていた。それから敬文さんはゆっくり私のそばに歩み寄り、隣に腰を下ろす。

 葡萄畑の地べたに並んで座った私たちの鼻先を、赤蜻蛉がすーっ、と横切っていく。


 私は腫れ上がった瞳が敬文さんの目につかないよう祈りつつ、日焼けした大きな手の上の巨峰を一粒、ぷちり、と房からむしり取った。そして、皮を剥きながら口に運ぶ。


 それは極上の葡萄だった。舌の上で甘露が蕩ける。


「美味しい」


 私はほう、と深く感動のため息をつきながら、敬文さんに話しかける。


「実は私、シャインマスカットより好きなんです、巨峰。どっしりしてて、種があるところとか」

「俺もそうだ。なんというか、芯のある甘みだよな」


 皺のよった頬を緩めて、敬文さんはそう言いながら笑った。そして敬文さんも、自分の手から巨峰を拾い上げて口に放り込む。

 それから、手のひらに視線を落とし、こうちいさく囁いた。


「こいつは、こんなに熟すまで誰にも摘んでもらえなくて、畑で所在なげにぶら下がっていたけど、こうして食べてみれば、とてもちゃんと、美味い。やたらもてはやされるシャインマスカットと、なんら遜色ない」


 そうして、敬文さんは改めて私の顔を見つめる。その視線があまりにも真摯なものだったから、私はなんだか恥ずかしくなったが、その次に投げかけられた言葉は、思わず息を飲むものだった。


「……奈々子ちゃん。俺がいまでも漫画を描いているのはね、昔、小学生だった奈々子ちゃんが、面白がって読んでくれたからだよ」

「え?」

「うちの片隅に転がっていた少年誌、夏休みに遊びに来た奈々子ちゃんが『これめっちゃ面白い』って笑い転げて読んでくれただろ? あれ、俺のデビュー作」


 私はぽかん、として、敬文さんの顔をまじまじと見てしまった。

 だが、その顔はやはりどこまでも真剣で、嘘をついてる様子はない。


 しばらくののち、私はこう呟くしかなかった。


「ごめんなさい……私、それ、覚えていない」

「うん、まあ、そうだろうな。だけど、本当のことなんだ。俺、漫画描くの、何度も嫌になりそうになるたび、あの菜々子ちゃんの笑顔を思い出してたんだ」


 敬文さんはふっ、と瞳を細めた。目尻の皺が優しく弛んだ。そして、また私の顔を見て、こう呟く。まるで、独り言のように。

 だけど、はっきりと。


「俺は、そうして今日まで過ごしてきたよ」


 私は敬文さんの柔らかな瞳を直視してられなくなって、なんとはなしに目を逸らしてから、やや早口でこう言った。


「ほんとうに? 敬文さんがまだ漫画を描き続けているのは、私のおかげなんですか? たかが従姉妹ですよ。それっぽっちのことで?」


 すると敬文さんは、葡萄を手にしていない方の手で、結んでいた髪を掻き上げながら、こう言ったのだった。


「人間はさ、他人から見れば『それっぽっち』って思うようなことで生き延びられる生き物なんだよ。奈々子ちゃん、君は違うかい?」


 静寂を縫って、りーん、りーんと、虫の音が草いきれから響いてくる。今年はじめて耳にする、鈴虫の鳴き声だ。

 やがて、ぽつり、と敬文さんが語を零した。


「奈々子ちゃん、なんで君は書いている」

「……書いている、って胸を張れるほど、いま、私、書いてないです」

「だけどちょっとでも、書き続けているんだろ? 諦めていないんだろ? だったらまだ書いている、ってことだ」

「……なんででしょうね」


 私は考えこむ。だが、気の利いた回答が浮かぶわけでもない。仕方なく私はこう訥々と話すことにする。


「ただただ……小さな頃から文を書くのが好きで。その沿線上で物語を考えるのが好きで、小説を書くようになって。それで、十八の頃から新人賞に応募し続けて。それでたまたま、二年前、受賞しちゃって」


 すると敬文さんが横で眉を顰める気配がする。


「たまたまじゃないだろう」

「たまたまですよ」

「嘘だね」


 その敬文さんの一言は、それまでにないほど語気が強かった。私の心の臓が、どきり、と震えた。


「たまたま受かっちゃうような情熱で書いてたなら、奈々子ちゃん、君はもうとっくに、書くことをやめていたんじゃないか? 小説家であることを、諦めていたんじゃないか?」


 鈴虫の鳴き声はなおも葡萄畑に響き渡る。陽はとうに山の向こうに落ち、宵闇が辺りを覆い始めていた。なのですぐ隣にいるのに、私には敬文さんの表情がはっきりと見えない。

 だけど、ということは私の顔も見えないということなので、私は安堵した。敬文さんの言葉に、また、鼻の奥がつん、と痛くなりつつあったからだ。

 瞼に涙が滲む気配を感じながら、私は囁く。


「でも、もう、私、だめかもしれない。今日も、もういいって編集さんに言われちゃったし。私の盛りは過ぎちゃったな、って思うんです」


 堪えきれず、涙が頬をまた伝い落ちた。だが、敬文さんの前で恥ずかしいな、とは思ったが、私の声は止まらない。まるで堰を切ったかのように。それまでの心細さを全部吐き出してしまうかのように。


「季節が秋めいてきたこの最近は、とくにそう思う。朝、目覚めるとすうっ、って空気が涼しいのを感じるでしょ。そうすると夏は終わった、そう思うんだけど、同時にね、私の小説家としての人生もそうなんじゃないか、そう思うんです。もう出版社に目をかけてもらえることなんてないんじゃないか、ってことだけじゃない。私がものを書く情熱すら、このまま冷えていっちゃうんじゃないかって」


 一気に思いを吐き出してしまった私は、最後に、こう呟いた。


「もう夏じゃないんです。私、もう、秋なんです。敬文さん、私、それが寂しくて、仕方がない」


 葡萄畑は既に暗かった。棚を這う蔦の隙間から見える夜空に、星が煌めいているのがわかる。あれはカシオペア座だろうか。秋風に束ねた敬文さんの長い髪が、ふわり、躍る影が目を掠める。


 しばらく続いた沈黙を割ったのは、敬文さんだった。


「奈々子ちゃん。秋を生きる勇気はね、春を迎えるための勇気と同義だよ」


 低い声が横から響いてくる。その声は野太くも、柔らかい。そして優しくあたたかい。


「たしかに春や夏は眩しい。だけど、たとえ間に秋、そして厳しい冬が挟まることがあっても、それを乗り越えなけりゃ、再び輝く季節は来ない。葡萄だって同じだろう? 季節が巡らなきゃ、花は再び咲かず、実ることもない」


 そう言いながら敬文さんは手のひらの巨峰に、再び手を差し伸べているようだ。その証のように、ぷちり、と房から葡萄を摘む音がした。


「人生は一度きりだよ。だけど、生きている者はその間に何度も季節を繰り返すんだ。永久とわの春夏はないように、永久の秋も、冬もない。人間の一生は、そんな単純なものじゃないんだよ」


 そうして、巨峰をつまんだ敬文さんの指先が、私の唇に触れる感触がする。

 なされるがままに私が口を開くと、敬文さんの手によって甘い一粒が私の口内にすっ、と差し入れられた。


 舌の上にまた甘露が蕩ける。

 甘い。涙がまた止まらなくなるほどに、甘い。


「……なんて、俺も偉そうなこと言っているけど、それに気付いたのは、漫画を描くのに挫折しかかって、葡萄を作るようになってからだ。つまり俺は……ちょっと気付くのが、遅かったのかもしれないな」


 敬文さんは、そこで長い語りをようやく打ち切った。また、沈黙の帷が葡萄畑に落ちる。


 ややもってから、今度は私から囁いた。口の中でなおも香る葡萄を噛みしめながら。


「遅くないです、敬文さん」


 それから、私は闇の中、手探りで敬文さんの大きな手を探った。そうしてそこから、私も巨峰の一粒を摘み上げ、自分がされたように、敬文さんの唇と思われる箇所にそれを差し伸べる。

 無精髭がちくり、と指を刺す。


「敬文さんも描き続けてください。私も書くから」


 私はそう言いながら、そっ、と、敬文さんの口に葡萄を滑り込ませた。やがて、敬文さんがそれをゆっくり食む音がする。

 そしてその音が止んだ頃、すぐ隣から低くて穏やかな声が、こう響くのが私の鼓膜を打った。


「……そうだな。なら、そうすることにしようか」


 鈴虫の鳴き声が先ほどより大きく響き始めていた。

 夏はとっくのとうに終わり、秋が始まっている。

 だが、それでいいのだ、と、そのときの私には思えた。


 そのうち、秋も終わり、冬が来るのかもしれない。しかし、それでもいい。それはまた春を迎えるための摂理なのだと思えば、たしかに怖くはない。


 ――私は、ちゃんといまを生きよう。秋を受け止めて、生きよう。私ができることは、それしかないんだ。


 決意を胸に、私は敬文さんの手のひらの巨峰をまた一粒、ぷつり、とむしり、目の前にかざす。


 葡萄畑の宵闇のなか、わずかに輪郭を光らせる葡萄は、黒いビロードに包まれた宝石のように、いつにも増して艶めいている。私の目にはなんだか、それがこの世のなによりも美しく映った。


 そして今の私は、知っているのだ。その一粒が間違いなく、ちゃんと甘いことを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

艶やかな葡萄 つるよしの @tsuru_yoshino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画