6月8日土曜日

 ビル向こうに陽が沈む。分厚い雲がすっぱりと切り裂かれて、そこから覗く、目にも鮮やかな、くれない。やがてはゆったりと、その身を横たえていく。——ああ、赤く充血した瞳を閉じて、おまえも夜に眠るのか。


 通りの紫陽花は束の間の陽射しを目いっぱい受け止めようと、青い葉を広げていた。梅雨入りが発表されてからしばらく経つものの、本番はまだ先らしい。それどころか今日は気温も高く、すれ違うスーツを着た男性たちは上着を小脇に抱え、シャツの袖を捲っていた。

 その姿を尻目に向かうのは、町のはずれの廃ビル。彼女はおそらくそこにいる。

 そのビルの入口には立ち入り禁止の札が掲げられていたが、裏手のフェンスの破れている箇所から誰でも容易に侵入できるようになっていた。鞄は店に置いてきたから、幾分か身軽である。学生服の裾を引っ掛けないように気を付けながらくぐり抜けて、そのまま建物の脇の非常階段を登っていく。建物自体は四階建てで、さほど大きくはないが、四階から先は階段が腐食してしまっていて、目的地の屋上へ行くためには一度、建物の中に入るしかない。扉の鍵は先人が破ってくれているので問題なく進むことができるが、廃墟の内部はかび臭く、言いようのない不気味さが漂う。こんなところ、頼まれたって来たくない、のに。

 ひっそりと伸びる廊下の先を見ないように注意しつつ、中に入ってすぐの階段を駆け上る。そのまま体重を乗せて、一気に鉄製の重い扉を押し開けた。錆びついた蝶番から、耳を塞ぎたくなるような甲高い音がする。だが、僕がここまでの道のりを不気味に思うのは、おかしな話である。僕をこんな目にあわせている彼女の存在こそが、何よりも不気味であり、未知なのだから。


 吸い込まれるようにして吹き込んでくる風に思わず顔を背ける。が、その一瞬に彼女の姿を視認し、声を上げた。

「あのさあ!ここは危ないって、前にも言ったよね?——モカ!」

 彼女は夕陽を背にフェンスに凭れていた。肩口で切り揃えられた栗色の髪をふわふわとなびかせるモカの、その表情は読み取ることができない。それは、決して逆光のせいだけではない。

「ああ、カズヨシか」

「ああ、じゃなくてさ、少しはこっちの身にもなってよね。うろうろして、噂にでもなったらどうするのさ」

「むしろ少しくらい噂になってくれた方がいい、と私は思っているのだけれど」

「こっちは全然良くないの」

 屋上のコンクリートは所々がひび割れていて、その間から雑草が伸びている。退廃的な雰囲気のこの場に立つ彼女は、まるで後光のように差す橙も相まって、眩しすぎる。かつて、夕暮れ時の薄暗い中で相手を識別するために、「誰そ彼」と尋ねたという。そこから転じた物言い。

 にわかには信じ難いが、モカには目もなければ、鼻も口もない。そこに顔があるのは確かなのに、その相貌がまるでわからない。日本古来の妖怪、のっぺらぼうはつるんとした肌が印象的だが、彼女に至っては輪郭すらわかり得ない。この感覚をこれ以上どう伝えればいいのか、わかる人がいたらどうか教えてほしい。

「大丈夫だよ、気を遣ってくれなくても。流石に私はこっちの身になれなんて言えやしないからさ」

 ——そこを根に持つのかよ。

「もういいよ、何にしても早く帰ろう。マスターが心配してる」

 そう言うと、モカも片手を掲げて応じた。

「そろそろコーヒーフロートが飲みたい気分だった」


 都下。再開発が進む、高層ビル群が立ち並ぶ環状線沿い。そこから一本入った裏道に面して、「喫茶 天象儀 -プラレタリュウム-」は今日も営業している。木製の柱と漆喰で形作られた外観はモダン調だが、年季を感じる箇所が所々にあった。例えば、青々とした蔦がしつこく絡みついているし、窓のガラスは今時にしては珍しい黄ばんだ手製のものだ。そのガラスを通して微かに歪む店内を確認してから、よく磨かれて黒光りしている木製のドアを開ける。からんころん、と、ベルの音が僕らの来訪を知らせた。

「いらっしゃ——あら、カズヨシ。それにモカも、おかえりなさい」

「ただいま、マスター」

 僕らはそのまま、カウンターの一番端の席に腰掛ける。他に客はいなかった。いつものことだ。

「カズヨシはアイスコーヒーでいいかしらね」

「うん、氷なしでお願い」

「私はいつものでよろしく」

 見えなくてもわかるほどに得意げだ。

「はいはい」

 笑いながら、マスターはアイスグラスを二つ手に取った。

 ところで、この店のマスターは僕の父の弟、つまり叔父だ。脱色されたブロンドの短髪をポマードで丁寧に撫で付け、白いシャツと黒いエプロンをそつなく着こなす、自称妙齢の、しかしれっきとした男性である。黙っていれば女性からの好意も受けやすそうな見た目をしているのに、とは直接言ったことはない。それが余計なお世話であることを、僕は知っている。

 ほどなくして、アイスコーヒー(氷なし)と、アイスコーヒー(氷あり)の上にバニラアイスクリームが乗ったコーヒーフロートが差し出された。待ってましたと言わんばかりに、モカはパフェ用の細長いスプーンでバニラアイスを口に運ぶ。その行為には違和感しかないが、つまり、モカの目鼻口はたしかにそこに存在していて、何らかの理由で僕らが認識できていないということだろう。 

「ねえ、カズヨシはどうしてそのまま飲む?知らないならまだしも、知っていてやらないのは人生の大半を損しているよ」

「そういうこと、余計なお世話って言うんだよ。知ってた?」

「ふぅん、勉強になるね」

 モカはわざとらしく首を傾げて見せる。

「……少しは何か思い出した?」

「あいにく。もう一度あそこに行けば何かわかるかと思ったんだけどな」

「覚えていたのは名前だけ、それも下の方のだけ、ね」

 あの日から何もわからないまま三日が経ったが、それでもいくつか推察できることはある。出会ったあの日、モカは白衣を纏っていた。それに、現代版のっぺらぼうとも言うべき存在が、少しも噂になっていなかったのも気になる。一緒にいて、何かと常識がないこともわかった。

「本当に、どっかの怪しい研究施設から脱走してきたんじゃないの……」

「はは、あながち間違ってないかもしれないな」

「そんな他人事な」

 実際、警察に連れてくのが一番かもしれないが、彼女がどういう存在で、どういう事情でここに来たのかわからない以上、迂闊な行動ができなかった。そして何より、僕自身、この状況に心躍っていることを否定できなかった。

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