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花岡暮れ

Op.「下人の行方」

 尋常小学校四年生の頃だった。

 教室の片隅で読書に勤しむことが多かった私は、燻された木材特有の香りがする教室の中で活字の中にある別世界に思いを馳せる時間が好きだった。6人兄弟の長男であったから、帰宅すれば弟妹たちの世話に追われ、本を読む暇などなかった。そもそも日々生活するだけで精一杯だったし、本を自分のために買ってもらう金銭的余裕などもなかった。

 そんな私に、担任の教師は”書庫整理の手伝い”という名目で度々居残りを命じた。気になった本があれば貸し出してくれたし、返却がてら感想を伝えにいくと目尻を下げて嬉しそうに聞いてくれた。


「自分で筆を執ってみては」

 そう教師に勧められた時に、生まれて初めて私は将来というものを意識した。空想の前に生まれや建前といったしがらみはなく、貰い受けた裏紙に来る日も来る日も筆を走らせた私は、全能感の虜になった。


 彼の小説に出会ったのは、梅雨中の湿った空気が重たい時節。書庫に保管されていた数年前の女性向け雑誌。その中に、『蜃気楼』という短編が掲載されていた。起承転結という概念がおおよそ存在しないその短編に、私は困惑した。聞けば、彼は私が生まれる前より名を馳せていた文豪で、代表作はどれも聞き覚えのある表題だった。

 私は教師に頼んで、彼の本をいくつも借りた。読めば読むほど、私は彼の目指す文学に引き込まれた。薄く仄暗い影に、絡めとられていく気持ちがした。


 彼が既にこの世の者ではないと知ったのは、それから間も無くのことだった。「将来に対する、唯ぼんやりとした不安」とはなんだったのか、あの下人はどこへ行ったのか、まだ幼い私には知る由もない。しかし、このまま文学を志せば、いずれその境地に辿り着くことがあるのかもしれないと思えた。私の将来とは、一体——。

 

 遠くで稲妻の落ちる音がする。私は、恐ろしくなって本を閉じた。書きかけであった拙作は、全て燃やした。

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