アシャラトの降りられない階段
黄泉の国への入口は、ヴァサリの森の奥深くにひっそりとその姿を隠している。
ヴァサリの森の霧は、狡猾な捕食者だ。
揺れ動き、絡みつき、視界を奪い、そして、うっかり迷い込んだ者を飲み込んでしまう。
だが、もっとも偉大な神々の王、アシャラトは今、自らの意志でここに立っている。
冷たく湿った空気が彼の肺を満たすたび、胸の奥に小さな痛みが広がり、心臓が激しく鼓動する。
だが、愛する娘、幼き王女ルナリアを失ったときの深い悲しみに比べれば、この程度の痛みなど、取るに足らない。
「この場所は、いともたやすく、その心を蝕みます」
突然、霧の中から声が低い男の声が響き、アシャラトはそちらに目を向けた。
そこに立っていたのは、死を司る神、忠実なるエシロンだった。鎧をまとった騎士の姿で現れた彼は、処刑用の剣を杖の代わりにして、静かにその場に佇んでいた。
忠実な下僕であるエシロンの悲しみは、そばにいたアシャラトが誰よりも理解していた。彼もまた大切な者を失ったのだ。伴侶である希望のアリアーナを。
「アシャラト様。もっとも偉大な神々の王ともあろうお方が、何ゆえこのような場所へ?」
アシャラトは彼と視線を交わすことなく、ただ一つの言葉で命じた。
「エシロンよ、黄泉への階段を開くのだ」
エシロンは影を落とした表情でしばらくアシャラトを見つめ、やがて深く頭を垂れた。
「かしこまりました。しかし、アシャラト様。この階段の性質をお忘れなく。ここを降りるたび、大切なものが次々と奪われていきます。最初は些細なものかもしれませんが、進むたびに、より多くの代償が求められるでしょう。この道は、心の強さを試すものです。偉大なる神々の王であっても、無傷では済みません」
「承知している」
忠臣である彼の言葉は重くのしかかったが、アシャラトの決意が揺らぐことはなかった。
「たとえ何を失おうと、愛する娘にもう一度会えるなら惜しむものはない」
エシロンは不安げな様子でアシャラトの瞳を見つめた。「かしこまりました」
彼は手にした剣を持ち上げ、霧の中にすっと刃先を差し入れる動作を取った。
すると、霧に裂け目が生じて、古びた石の階段がぼんやりと浮かび上がった。下へ下へと伸びた階段の先は暗く、果てがなかった。
「どうか、お気をつけて。貴方が真の王であるならば、必ずや試練を乗り越えられるでしょう」
「心配は無用だ。無理を言ってすまないな。忠実なる我が剣、エシロンよ」
そうしてアシャラトはエシロンと軽く抱擁を交わすと、深き闇の底へと続く階段の一段目に足をかけた。
闇の中、冷たく鳴り響く石の感触が、衰えた心に不安が忍び寄ってくる。
それでもアシャラトは、背筋を伸ばし、弱き心を振り払うように歩みを進めた。娘に会うためなら、何を失ってもかまわない──そう信じていた。
最初の数段は、何も感じなかった。
眼前には一点の光も刺さぬ漆黒の闇が広がり、動物の革でできた靴の底に石の冷たさを感じるのみで、アシャラトの心を揺るがすようなものはなにも訪れなかった。
だが、あるとき、ふと胸の奥で何かがで消えたのを感じた。
ルナリアが好きだった童謡の旋律が、思い出せなくなったのだ。
彼女が遊ぶときにも、眠る前にも、何度も何度も、飽きるほど口ずさんでいたその調べが、まるで闇の中に吸い込まれるかのように、アシャラトの頭の中から消え去ってしまったのだ。
旋律が消える瞬間、それまで記憶の中でかすかに流れていた残滓が、突然ぷつりと途切れ、胸の奥にひやりとした隙間が残された。
さらに数段降りると、愛してやまなかった娘の声の響きが、頭の中からぼんやりと薄れていくのをアシャラトは感じた。
小鳥のさえずりのような笑い声や、いつまでも眠りにつかずおしゃべりをしたあの響き、そういった思い出のすべてが、次々となにもない空白に置き換わっていく。
大切だったはずのその音色を思い出そうと、必死に思い出のなかで探し求めたが、やっとの思いで掴みかけたその輪郭はなすすべもなく消えてしまうのだった。
焦燥感が、アシャラトの胸を締め付ける。
喪失の恐怖が押し寄せるたびに足を止めたくなったが、もはや引き返すことはできなかった。
引き返すという選択肢は、最初からなかったのだ。
どれほどの時間が経ったのだろうか。まだ先は見えない。
私の中から、いったいどれだけのものが失われてしまったのだろう。
最初は何が失われたのか、おぼろげながら感じ取ることができた。だが、次第にその感覚さえも曖昧になり、思い出そうとするたびに、まるで指の間をすり抜ける砂のように、追いかけても追いかけても、手応えなく、消えていく。
残ったのは、ただ大切な何かが自分のなかから永遠に欠けてしまったのだという、漠然とした不安だけだった。
ふと、冷たい風が階段の奥底から吹きつけ、アシャラトの頬にあたった。思わず目を閉じて、まぶたに圧を感じたかと思うと、その風は、彼が知りえないはずの記憶を運んできた。
ぼんやりと佇むアシャラトの眼の前で、幼い少女が森の中を駆け回っているようすが目に飛び込んできた。
ルナリア!
そうだ。この少女はルナリア。死んでしまった私の娘だ。小鳥のような高い声、お日さまのように輝く笑顔! どうして今まで忘れていたのだろう!
アシャラトは思わず手を伸ばしたが、彼女に触れようとしたその手は虚しく空を切る。
そこにいるアシャラトには実体がなく、ただ彼女を見つめていることしかできない無力な存在だったのだ。
小さな足が次々と落ち葉を踏みしめる音が、彼の耳を楽しませる。
楽しそうに笑い声をあげる亡き王女の姿が、彼の目の前に確かに存在した。
「そうだ。ルナリアは、いつだってこうして笑っていたのだ……」
だが、次の瞬間、ルナリアは苦痛に顔を歪めた。小さな足が、錆びた釘を踏み抜いたのだ。血が滲み出し、痛みに震える彼女の姿。なんと生々しい光景だろう。思わず目を覆いたくなるほどに。
「これは……ルナリアの記憶なのか?」
錆びた太い釘を踏み抜いてしまったことが、今は亡き王女の死の原因だった。
アシャラトも、その事実は人や神々から聞いて知っていた。
だが、彼女が釘を踏み抜いた瞬間の記憶など、アシャラトにあるはずもない。
それでも、ああ、彼の脳内に流れ込んでくるその情景はあまりに鮮明で、まるでその場で目撃したようではないか。
そして、アシャラトは夢から覚めた。
一点の光も刺さない闇の中に、アシャラトは存在した。
あれからどれほど歩みを進めたのか、もうわからない。
終わりが見えない階段を、ひたすら降り続けている。
ふと足を止めたとき、また新たな記憶がアシャラトの胸に流れ込んできた。
それは、神殿の内部の薄暗い片隅での光景だった。エシロンが神殿でルナリアを抱きかかえ、必死に手当てをしている。
ルナリアの呼吸は荒く、汗が額に滲んでいた。エシロンの手は震えており、ルナリアの額にそっと布を当てているようすが見えた。
しかし、いくら薬を与えても、祈っても、どれだけ手を尽くしても、結局ルナリアの容態は回復しなかった。
ルナリアの小さな体から最後の温もりがゆっくりと消え、体温が失われていく。まるで世界そのものが闇に飲まれるかのように、光が、この世界から遠ざかっていく。
あの瞬間の命が凍えるような感覚。忘れたくても忘れられない。
だが、さらに階段を降りると、その記憶も次第に霧のように薄れていった。エシロンが懸命に手当てをしている姿も、ルナリアが短い一生を終えた瞬間の悲しみも、彼女の最後の囁きも、彼女の柔らかさ、日差しに透けるほど細い髪、体温、思い出の輪郭は次第に形をなくし、遠い夢のように消失する。
次に彼の胸に呼び醒まされたのは、この世界にルナリアが誕生した日の記憶だった。
アシャラトは神々の王であることなど忘れ、ただ一人の父として喜びに打ち震えた。小さく柔らかなその体を初めて抱いたときの温かさ、その温もりが、アシャラトを父親に変えたのだ。この子が成長する姿を見ていたかった。誰かに恋をする姿を見ていたかった。しかし、やはりその記憶もまた一瞬のうちに霧散した。娘の笑顔や声は次第に曖昧になり、まるで夢の中で見た幻のように離れていく。どれだけ求めても、もう手遅れだ。
そして今、アシャラトの中には、この階段を下りなければいけないという意志だけが残された。理由は思い出せないが、足を止めてはいけないという思いだけがあった。
そして、さらにもう一段、階段を降りたとき、アシャラトの中から最後の光が失われた。
だが、消えてしまったものがなんだったのか、もはや彼には思い出すこともできない。
彼は何か、大切なものを求めてこの道を進んでいるはずだった。
それが何であったのか、今ではもうわからない。
ただ、冷たい石段を踏みしめる足の感覚だけが、彼がここにいる現実を伝えている。
「私は一体、こんなところで何をしているのだ……?」
思わず呟いた言葉が、石の通路に幾度か反響し、やがて闇に溶けて消えていった。黄泉から吹く冷たい風が、頬を撫でていく。まるでアシャラトの弱き心を嘲笑っているかのように。
そして、彼はついに足を止めてしまった。
もう階段を降りる理由はどこにも見つからなかった。
この先の暗い道を進むことに、目的も意味も感じられず、彼はただ暗闇の中に立ち尽くすだけの存在になり果てていた。
黄泉の国はまだ遠い。
試練は、越えられなかった。
これを乗り越えるには、娘を失った彼の悲しみは、あまりにも深すぎた。
彼はすでに、王である資格を失っていたのだろうか。
ここはどこだ? 私は何者だ?
アシャラトは、もはや自分が何者であるかさえも思い出せなくなっていることに気がついた。
心は完全に空っぽで、不安も、恐れも、希望も、絶望も、責任も、生きていく気力さえ、アシャラトにはもう、なにもありはしない。すべてが綺麗に、拭い去られている。白紙だ。
だが、一点の光も差さない深き闇の中で感じたのは、不思議なほど晴れやかで澄み渡るような感覚だった。
それは、彼が生まれて初めて感じた『何もない』ということに対する安らぎだった。
アシャラトは、ゆっくりと周囲を見渡した。
足元には闇、彼が辿ってきた階段の上に広がるのも、無限に感じられる限りない闇だ。
もう何も考えることはできなかった。
記憶はほとんど失われ、彼はただその場に立ち尽くすのみ。
そうして無表情のまま、虚ろな目でなにもない場所を見つめ続ける。
どれくらいそうしていただろうか。
そんななか、不意に何かが近づいてくる音があった。
その音は、遠くから、ゆっくりと、しかし確実に、階段の下から彼に近づいてくる……。
ぴと、ぴとっ……ぴた。
足音だ。
軽くて小さくて、それでいて不規則な音が、徐々に彼の方へと忍び寄ってくるのだ。
ぴとっ……ぴと……
アシャラトはその不規則な律動に耳を澄ましていた。
やがて暗闇の中、階段の下から現れたのは、一人の少女。
彼女は脱力したようすで、片足を引きずりながら、ゆっくりと階段を登って、歩いてきた。
アシャラトは思わず顔をしかめた。
少女の姿は、お世辞にも綺麗とは言えなかったのだ。
髪はぼさぼさで、破れた衣服は血や泥で汚れ、皮膚は裂けて、露出した肌の大部分が血液や膿にまみれたまま乾燥し、ところどころ骨がむき出しになっている。
それに、無数の傷口からは大量の蛆虫が湧いていて、あたりにひどい匂いを撒き散らしている。
少女の名は、ルナリア――かつて彼が愛した娘であったはずの存在。
今はその面影をわずかに残すだけ。
その朽ち果てた肉体が痛ましい姿で彼の目の前に立っている。
彼女はボロボロになった腕を伸ばし、アシャラトの方へとゆっくり近づいてきた。
まるで何かを伝えようとしているかのように、弱々しく足を引きずって……。
「お父……さま……」
少女は今にも消え入りそうな、掠れた声でそう呟く。
だが、対するアシャラトの瞳には、なんの感情も、ほんの少しの愛情さえも浮かんではいなかった。
「私に、お前のような娘などいない……」
無意識のうちに、彼の手は腰の剣へと伸びていた。
刀身が鞘の内側を擦る音が、石壁に冷たく反響する。
高く振り上げられた剣はそのまま振り下ろされ、一撃のもと、少女は崩れ落ちる。
小さな朽ちた体が石の階段に倒れ、転がり、硬い石にぶつかりながら、何度も鈍い音を立てて闇の中へ消えていく。
剣を握る彼の手はかすかに震えていたが、その理由はわからなかった。なぜだろう。我が身に迫りくる、おぞましい化け物を退治しただけなのに。
アシャラトは剣を握る手をゆるめ、大きく息を吐くと、ゆっくり目を閉じた。
そのとき、なにかが彼の頬を伝い落ちる。
手を当ててみると、温かく濡れていた。
「私は泣いているのか……? 一体、なぜ……」
流れた涙は彼の頬を伝い、静かに地面に染み込んでいく。
何も知らぬまま、何も理解できぬまま。
いつまでも頬を伝い続ける熱いものが、砕かれた思い出の残骸の証であることに気づくことなく。
静寂が再び、辺りを包みこんだ。
甘美で穏やかな暗闇の中。
アシャラトはもう、何者でもなかった。
<おわり>
【慣用表現】アシャラトの降りられない階段
目的地に向かって進むたび、当初の目的そのものが失われていく状況のこと。
例文:
サチコは、幸せな未来を築きたいと思って大好きな彼と交際をはじめた。しかし関係が進むにつれ、彼の意外な一面が徐々に明らかになってきた。
暴力は振るうわ、酒は飲むわ、ギャンブルもする、借金はする、浮気はする、風呂で歌は歌うし、足も臭い。
気づくと彼女はアシャラトの降りられない階段に閉じ込められており、今では何のためにこの関係を続けているのか、さっぱりわからなくなっていた。
出典:民明書房
イセリアの閃光 つきかげ @serpentium
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