蜘蛛の巣

SSS(隠れ里)

蜘蛛の巣

 あらゆることに挑戦し、悪い部分を見て、それでも好きでいられることが趣味になるからね。


 仕事は、誰かのためにやることで意欲があがるよ。その分、折れやすい。結局は、自分のためにやるほうが長続きするよ。


 良好な関係を築きたい気持ちから様々な努力を重ねたんだけど、期待しすぎて苦しい思いだけが残ってしまうんだよね。


 誰かに言われた言葉たち。俺を救えなかった言葉たち。通り過ぎていった言葉たち。心が動かなかった言葉たち。俺は、それらに別れを告げた。


 水面に波紋が広がる。そこは無音の景色だった。いつのまにか禁忌に立つ。気付くと深い闇に落とされていた。そこに蜘蛛の糸はなかったのである。


「あぁ……ここからどうやって抜け出そう」


 周囲を見回すも、沈黙と暗闇。足先で地面を叩くが、何の感触もない。匂いすら感じない。果たして歩けるのだろうか?


 足元を見て分かったことがある。俺は、服は来ている。スボンも履いている。靴は履いていない……。ポケットを探ると、中から小銭がでてきた。ここに来る前と何ら変わっていない。


「ここは、あの世ってやつなのかな」


 俺は、小銭を足元に置いて指で弾く。暗い空間を勢いよく1円玉が、転がっていく。反響しない音。ここは、床があり、広いのだろう。


 とにかく歩くしかない。突っ立ていても何も変わらないのだ。俺は、天を睨みつける。その先にある慈悲に対して、だ。


「蜘蛛の糸なんてどこにもないじゃないか……。俺は、かの大泥棒よりも悪人ってことかよ」

 

 俺は、深淵の闇に溶け込むような深い溜め息をついて歩き始めた。重苦しく歩みを進めていく。地面は、柔らかくもなく固くもない。周囲を見回してみたり、声を上げたりもしたが、誰もいない。


 ここが地獄であるならば、獄卒がいるはずだ。かの有名な牛頭、馬頭。聞こえない、罪人たちの悲鳴はおろかネズミの声さえも。地を薙ぎ払う獄炎や生物の水分を搾り取るような暑さもない。


 しばらく歩いていると、何かを蹴飛ばしてしまった。乾いた音を響かせながら丸い物体が転がっていく。今更ながら暗がりの世界でよく見えるものだ。つま先に痛みはない。


 俺は、慎重に駆け寄って丸い物体を足先で触れる。ある程度の硬度はありそうだ。しゃがみこんで見てみる。


「ドクロ……。人のドクロかっ!!」

 まだ、風化してない頭蓋骨が、笑っているように見えた。


 どう見ても、嘲笑ってるようにしか見えない。眼窩を覗き込むと吸い込まれそうになった。思わず蹴飛ばしてため息を付く。しかし、考えてみるとドクロがあるということは、この世界に誰かがいたということだ。


「……いったいどこなんだ? 三悪道にしては、何の苦しみもないしなぁ」


──突然、咳き込むほどの線香の匂い。立っていられなくなり、中腰になって、地面に手を置く。呼吸がしづらい。口と鼻を両手で覆う。


 目が痛み呼吸ができない。狭まる視界の端にむせ返るほどの線香が並ぶ。それも、ひとつふたつではない。数え切れないほどだ。人の話し声まで聞こえる。しかし、人間は見えない。


 これは、俺に対する悪口雑言。生き方が悪かったからなのか。握りこぶしを地面に叩きつける。痛みすら感じない。生者ではないからなのか。俺が。


 生きても、尽きても、あの世でも、俺は誰かの悪意に踊らされるのか。あの世には、蜘蛛の糸があって──俺は、カンダタのような失敗はしないと決めていた。


「そもそも、蜘蛛の糸を垂らすほどの価値もないってことかっ!!!!」


 小さな頃、誰かの読み聞かせで知った「蜘蛛の糸」の話。カンダタは、愚かだと子供心に思ったものだ。そして、喉まで焼けそうな暑い夏の日。俺は、カンダタになった。でも、俺の前には、蜘蛛の糸はない。


 もし、カンダタが蜘蛛の糸を知らなければ虚しさを感じることはなかっただろう。あきらめて罪を受け入れたはずだ。でも、カンダタは、星を見つけてしまった。俺は、涙で滲んだ漆黒の天を見る。──か細い光ようなものが見えた。星だ。


 星は、光り輝く地上の憧れ。掴みたくても掴めない。隣りに行きたくても近寄れない。そして、目に見える星は、はるか昔の時間軸。憧れも恋慕も擦れ合うことすらない。その星が、俺を見つめている。


 かがやく星から一筋の光がしたたり落ちる。真っ直ぐ俺を目指して。気がつくと俺の前には、シルクのような光沢を放つ糸が振り子のように揺れていた。


「蜘蛛の糸……。そりゃそうだ。俺は、大罪人カンダタとは違う。救いがあるのは当たり前」


 線香の臭いに鼻がねじ切れそうになる。あたりに聞こえる罵詈雑言に足が震える。俺は、糸を掴む、手に力を込める。自由への一歩だ。細く微かに冷たい。


 俺は、途中で切れるのではないかと杞憂して引っ張ってみるが、意外にも強度がある。耳心地の良い振動音が帰ってきた。これなら、上へと登れるだろう。糸を思いを込めて握りしめ上へと登っていく。


 手に力が入らない。力が……。頭上に輝く星は、俺には目もくれずに済まし顔だ。肺が霧散するような線香の臭いも、耳に反響する罵倒する声も、遥か遠くの他人事になったというのに。手を伸ばしても、星には届かないのだ。


 手が痛い、足が棒のようだ。喉がカラカラだ。星は遠いが、鼻を突く煙の匂いも気分の悪くなる人の声も聞こえない。ただ、先程から気温が下がってきている。寒いと感じる。これは、僥倖だ。今は、何でもいい。変化がほしいのだ。


 頭上の星が、大きくなった気がする。しかし、寒い。まるで、極寒の中を裸で駆けていくような──全身の筋肉の細胞まで凍りつくような。唯一の救いは、あの星が近づくたびに周囲が明るくなっていくことだ。


 かなり眩しくなってきた。目を開けていられない。寒さのあまり鼻の奥に氷塊を押し入れられたような痛みを感じる。とにかく、痛い。息をするたびに痛い、脳を氷河の中に押し付けられたようだ。でも、もう少し。――あと少しで届く。


 視界は、無数の毛細血管。それでも、必死に手繰り寄せた。俺は、深呼吸をしつつ目を開ける。──まだ、雪景色のほうがマシだと思える光景だ……。立ち眩みがするほど白一色の世界である。


 白銀の世界ならまだ情緒があった。どこを見ても何もかも純白に染められていては、自分がどこにいるのか、どれくらい歩いたのか、何を基準にするのか。真っ黒な世界とは違い目に見えるのに分からない。


 俺は、まっさらな世界を歩く。孤独が、足の裏から頭の天辺までジワジワと登ってくる。思い起こせば、自らの命を絶ったのも孤独が起因していた。俺は、自意識が無限の彼方に吸い込まれているのを恐れて大声をあげる。しかし、声は虚しく銀白の中へと消えていく。


 何故、自ら死地へと赴いたのか。もはや、叫ぶ気力もなくなった。俺は、永久の白紙世界を歩き続ける中で自分の終わってしまった人生について考える。生まれは、貧しくとも盗みなどはせずに親が蒸発しても、誰も恨まなかった。ただ、虚しさだけで、死を選んだのだ。


 ついには、足が動かなくなってしまう。頭では、動かそうと考えても、体が答えてくれない。絞り出るように涙が溢れてくる。嗚咽すら虚無に吸い込まれ、どこまでも続く真白の荒野を見つめるしかできなくなった。


 立ち上がれなくなって、どれくらいの時が流れただろう。俺の目の前の床が、かすかに揺れた。間違いなく揺れ動いているのだ。揺れたのだっ!?

「──はぁ、はぁぁ」


 自分の発してる言葉も分からないまま床に生じた歪みへと手を伸ばす。さながら、飢饉に喘ぐ人間の前に大御膳が置かれたようであった。必死に手を伸ばす。床に爪を立てて引き寄せようとする。


 爪が剥げ、喉から血反吐も吐いた。鉄さびのような唾液が、食堂を削ろうとも。俺は、小さな頃から一生懸命になったことなどなかった。死ぬそのときも、心は動かなかったのだ。


 どこからか声が聞こえてくる。優しくも厳しさで呼びかけてきた「生きることに懸命になっていれば、救いに届くことができたはず」。俺は、その声にはじめて自分が大罪人であることに気がついたのだった。

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