創薬のモチベーション

戦徒 常時

創薬のモチベーション

「長谷部博士、あなたならできるとお聞きして来たんですが……」


 インターホン越しに、男は意味深な顔で尋ねた。

 レンズの向こう側の人物が名乗ることもしないうちにだ。


 良く晴れた日だが、まだ朝の7時。

 普通の感覚で言えば、訪問には早すぎる。


 しかし、長谷部博士と呼ばれた痩せ型の初老の紳士は、藤沢の顔を見るや、またいつものパターンだろうと思った。

 もしそうであるならば立ち話も都合が悪いと判断したのだろう。


「……そうですか、中へどうぞ」


 そう言って男を案内する。

 閑静な住宅街にある一軒家に長谷部博士は住んでいた。

 といっても高級住宅街ではあるので、豪邸と言った方がいいか。

 厳めしくはないが歴史の重みを偲ばせる門扉が開かれ、高級車が邸宅の中に吸い込まれていった。


「あ、そういえば名乗ってませんでしたね。失礼しました。私は藤沢と言います。小さいながら会社の社長をしております」


 応接間に案内すると男は自分の非礼に思い到ったらしい。

 ポケットから名刺を出してきた。

 長谷部博士は名刺を手に取る。


「これはご丁寧に……。あいにく切らしておりましてな」

「いえいえ、先生のご事情は伺っております」


 博士は、とある研究倫理違反を行ったために学会を追放された。

 だからこそ藤沢がたずねた理由でもあった。


 博士は藤沢に椅子を勧め、藤沢はそのまま座った。


「して、この時間にいらっしゃるということはアレがお望みなんですかな?」

「……はい。お恥ずかしい話ですがどうしても必要なんです」

「私もアレの研究で学会を追放されましたからな。まあ今でも作れてはしまうんですがね……」

「はい。その経緯は十分に存じております。しかし、先生の研究成果を活用して統合失調症の治療薬にもなったと聞いております」

「ははは。そこまで調べておいでだったんですね。では、誰を殺そうというんですか?」


 博士は世間話でもするかのように尋ねた。

 藤沢はさすがにびくりとした様子を見せたが、ここで話さなければ望みの物が手に入らないと意を決したようだ。


「それはですね。妻です」

「ああ、失礼。余計な詮索はいたしません。殺しの対象が私でなければいいのです。で、心神喪失で無罪を勝ち取りたいわけですね」

「はい。そのとおりです」


 そういうと藤沢は無言で土下座までし始めた。


「3年、3年だけ人格を分裂させてほしいんです。そうすればその後に元に戻れますから」

「ふむふむ3年ですか、しかし近頃は鑑定も長引くようになっていますからな。5年でどうでしょうか?」

「5年ですか、5年……。思ったより長いな、いや、でもいけるか」


 藤沢はぶつぶつと算段を立てている。

 しかし、それも数瞬のことで、すぐにまた「それでお願いします」と頭を下げたのだった。


「頭を上げてください。調合自体は簡単なんですよ。では5年で治る人格分裂薬を作りましょう」


 長谷部博士は力強く背中を押すようにそう告げた。

 藤沢は頭を床にこすりつける勢いでまた土下座をする始末だった。

 その場ではそこで解散することになった。


 薬自体は2日あればできてしまうのだが、薬は2週間後に藤沢が取りに来ることになった。藤沢と言う男もまた多忙を極めているらしい。


 しかし、車に乗り込んで長谷部邸を後にする藤沢の顔は、この家を訪ねた時の顔とは見違えるほどに憑き物が落ちたようだった。


「やれやれ、人とは得体の知れないものであるな」


 金庫に現金を入れながら、老博士は独りごちる。

 全額前払いで藤沢が置いていったものだ。

 博士は半額でいいといったが、藤沢が押し切った。

 金庫には既に札束と金塊がひしめいていた。


 約束の日、長谷部博士は応接間で藤沢を迎えた。


「やっぱりオンタイムなんですね」

「え?」

「ああ、失礼。今回も定刻ぴったりにお越しになる」

「ああ⁉ 時間ですか。そうですね。遅刻は論外ですが、早すぎてもそれは迷惑ですから。時刻通りにいくようにしていますよ」


 ここに来る者はだいたいそうだった。

 殺したいほどの相手がいるのにすぐには殺さず、わざわざ心神喪失という「保険」を作り出すだけの余裕がある。

 実に合理的で冷徹な理性の持ち主だ。


 「いえ、この手の用事でここに来る方は、みなさんオンタイムなものですからね。では、薬の説明を致しますわ」

「え⁉ 先生、その口調どうしたんですか? まさか、俺を殺す気なのか?」


 藤沢は博士の豹変に心底驚いたようだ。わたわた狼狽している。

 一方の長谷部博士は「少し振舞いが女性的すぎたか、いや、この体は男だったな」と思った。


「ああ、薬の影響ですわ。プロトタイプのね。なにぶん最初期は私が被験者になるしかなかったものですからね」

「……先生の殺人人格ではないんですね?」


 藤沢の顔は恐怖に引きつっていた。

 


「ええ、なんなら彼より穏やかまでありましてよ」


 博士は努めて穏やかに見えるようにそう言った。

 暴れ出したりしないこと、会話は通じていることからも藤沢も無害な人格と判断したようだ。


「……いえ、失礼しました。ちなみに、私にもそういう副作用が現れたりするんですか?」

「いいえ、この副作用は克服されました。飲んでから5年経てば元通りです。少なくとも、今まで副作用は確認されていません。」


 藤沢が契約を打ち切ることは無かった。

 博士の人格に支障が出ていることは、薬効があることでもあった。


 最初期型の薬は強すぎたのだろう。

 藤沢はそう思うことにして、そのまま部屋を後にした。

 その足取りは小走りだったが藤沢本人はそのことに気付かなかった。


 やっと妻を殺せることに浮かれたのか、人格が替わってしまっている博士と話していることに恐怖したのか、その峻別もできていなかった。


 博士は居間から藤沢の車が出ていくのを見ていた。


「しかし、なんで彼は私が殺人人格だと思ったのかしら? 生来の人格の方がよっぽど人を殺しているのに……。ねえ、長谷部博士」 


 彼女は寂し気な笑みを浮かべた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

創薬のモチベーション 戦徒 常時 @saint-joji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ