6(完)
6
草壁はうつ伏せに倒れこんだ。鈍痛が突き刺すように、部位から全身に広がっていく。首だけを動かし、視界の端で何が起きたのかを確認する。歪な、小さなへこみが虫の巣穴のようについた、金属バットが振り上げられるのが見えた。あの連中、まだ――そう思ったと同時に、後頭部が殴打される。一瞬の痛み、熱。眩暈がした。耳の内に笑い声が反響した。籠っている。遠くで鳴り響いているような響きだった。
強烈な眠気に襲われたように、草壁は目を回した。ブラックアウト寸前だった。周りにたくさんの足先が見える。脇腹を足蹴にされ、力のないまま転がされた。仰向けになった草壁のだらりと緩んだ顔には、鼻血と、唇を噛んで切った出血があった。息が出来ない。腕も上がらず、血を拭う力さえない。霞がかかったような視界に、金髪の頭が見えた。三星のような白い、綺麗なものではない。怒号が聞こえるが、草壁には、何を言っているのかはわからない。ただ、やっぱり、お礼参りなんだろう、と、胸倉を掴まれて引きずり上げられながら思った。鳩尾に膝を入れられた。そのまま地面に雪崩れ落ち、立ち上がることもせず、草壁はうずくまった。叫ぶことも、逃げることもせず、小さく、呻くように、唇で呟いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
命乞い、と彼らは捉えただろう、小さな謝罪は、誰のものでもなく、ただ、空に向かい、祈るように繰り返された。電灯の真っ白な光が、ぼやけた視界の中、唯一はっきりと見えるものだった。眩しい一番星のように、草壁の目には映っていた。
こんな夜更けに、誰も通報者など出ないだろう。殴打を受ける間、そうぼんやりと思う。
鉄と塩辛い、少し苦い味がした。目の端に伝った涙が、草壁の口の中に落ちた。
急に、身体に襲う打撃が止まった。すでに視界が狭く、横たわっている草壁には、慌てて遠のく若者たちの足元しか見えなかった。何かを叫んでいる。赤い光が見えた。警察が来たのか――徐々に、サイレンの音が聞こえてきた。まだ遠いような気もするが、聴力は回復してきた。一つ知覚がはっきりしてくると、今度は痛覚まで、全身を蝕んできた。身体を起こすこともできない。足音が聞こえた。警察官だろうか、それとも救急隊だろうか。そうぼんやりと思っていると、身体が抱き起された。鼻血でわかりにくいが、つい最近、嗅いだことのある香りがした。
霞んだ目でも、至近距離で顔を見ればわかる。草壁を支えているのは、三星だった。肩を上下させ、草壁の顔を触り、覗きこんでいる。彼の血を袖で拭い、「ごめんね、ティッシュなくて」と息と掠れた声で告げた。熱の籠った身体。三星が、走ってきてくれたのだとわかった。
また、目が熱くなるのを感じる。
「救急車ももうすぐ来るから」
赤いランプの光がちらつく。警察は集団を追っていったらしい。
「……何で」
掠れた声が漏れた。三星は少し顔を顰め、草壁を正面に向きあわせ、背に腕を回した。全身が痛みにまみれる中、柔らかなコートの感覚と、服越しの彼の体温が伝わる。これほど、優しい感覚に包まれたのはいつぶりだろう。肩に触れる手、心臓の音。ずっと欲しかった、人のぬくもり。心が剥き出しにされていくような恥ずかしさが、涙を押し出した。
「うちの、犬の話なんだけど」
三星は肩越しに、ぽつりと囁いた。温かい息が首にかかる。
「元々、野良だって言ったでしょ。それなりにひどい目にあってきたみたいで、中々開いてくれなくてさ。ずっと思ってたんだよね――可哀想だなあって」
朦朧とする意識で、草壁は耳を傾けていた。何だろう。痛みで、よくわからない。何を言っているのだろう。聞こえているが、脳が理解しようとしない。
首に、唇が押しつけられる。痛む皮膚が、熱されているような感覚になる。
「すごい怯えた風に、僕のこと見ててさ……全然懐いてくれなかったんだよね。今はすっかり懐いてくれたけど。でもさ――むしろ可愛いんだよね。こっちが何もする気がないのに、勝手に敵だって思って、さ」
草壁の右肩に痛みが走った。三星の手に力がこめられている。めり、と細胞の破壊されるような激痛に顔を顰める。
「い、痛い、痛い、よ」
「キャンキャン鳴いて、逃げ回るんだよね」
「痛い、三星……」
肩に触れる息が荒くなる。草壁の腕は痛みで吊り上がる。肌が熱い。誰の体温だ。血が引く感覚に、ようやく、意識がはっきりしてきた。
「本当に、可愛いんだ」
三星は身体を離し、草壁の顔を覗きこんだ。
草壁は目を見開き、唇を震わせた。
慈愛に満ちた、恍惚に溶ける笑みだった。それなのに、三星の瞳には一度も見たことのない暗い光が宿っている。草壁は肌が粟立つのを感じた。
三星は再び草壁の肩に顔を埋め、熱く長い息を、緩めるように吐き出した。
「これからは僕が守ってあげるから、ずっと嫌いでいていいよ」
全身が強張る。
は、と、声にならない息が漏れた。次々と、浅い息が、咳にもならない息が強く、押し出される息が吸えない。身体が痛い。涙が零れて仕方がない。
救急車のサイレンが聞こえる。走り来る複数の足音を聞いた。赤い光があたりの景色を照らしている。
渇いた喉がひゅうひゅうと鳴る。右肩に走る痛みが全身を蝕む。柔らかな毛布に包まれたようなぬくもりがあるのに、草壁の身体は嫌な汗が滲み、冷たかった。
街灯の光が、朦朧と揺れ、瞑った瞼の裏で残光に変わる。三星は気絶した草壁の頬を撫で、抱き寄せる。
時計の針が重なるように、道路に伸びる長い影が一つになった。
(了)
シェイプシフター 塩野秋 @shio_no_book
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