5


「嘘だ……」

 心臓が、自分のものではないくらい、激しく内側から叩いてくる。目の縁が焼けるように熱い。視界がぼやけていく。草壁はさらに俯いた。


「じゃあ、どうしたら信じてくれる?」

「だ、だって……俺は」


 今すぐ逃げ出したかった。足が暴れ出しそうになる。浅くなる呼吸と、みるみる体温が上がるのが感じられる。それが、堪らなく情けない。また、惨めにさせられている。


 わからない。もう、わからない。こいつは本気なんかじゃない。そもそも、男じゃないか。からかっているだけだ。俳優なんだ。もしかしたら、カメラを仕掛けたドッキリなのかもしれない。俺なんか。スクープを、撮って、俺は––––


「ねえ、草壁。好きって言ったら、どうすんの」

 三星の声が、やけにはっきりと耳に届いた。


「うるさい!」


 草壁は絞るような声で怒鳴り、手を振りほどいた。勢いでグラスを弾き、床に落とす。割れる音と、酒が広がり飛沫をとばす音が、三星の動きを止めた。


 店内は一瞬、静寂に包まれた。

 草壁は肩を上下させ、荒い息を吐いた。騙されるな。騙されるな。そう繰り返し、小さく、唇だけで呟いた。

「そんな訳ないだろ……」


 指を差しこみ、ぐしゃぐしゃに髪を掻き回した。ぎょろりと、濡れた目で三星を睨みつけた。何かが破り出てくるかのような鼓動は消え、締めつけられるような狭さだけが、内臓を圧迫している。


「好きになんかなるはずない」


 三星は、曖昧に口を半開して固まっていた。

 草壁はスマートフォンを構えた。写真――フラッシュをオンにし、三星の顔を真正面から撮る。真っ白な光に、三星は反射的に目を瞑って手をかざした。


 手ブレした写真が、画面に収まった。だが、彼の顔はわかる。それに撮れたかどうかの事実は、今の草壁には関係なかった。草壁は、喉から咳のように笑い声を絞り出した。周りの客は少しざわついているが、二人の間に入ろうとする人間はいなかった。


「ざまあ、みろだ。音声もある。これが世に出たら、どれだけのやつらが、裏切られたって思うんだろうな。三星吉真が、ホモでしたって、言ってみたら、どうなるんだろうな」


 草壁は目を見開き、当てつけのように叫んで吐き捨てた。びりびりと痺れるように鳥肌が立つ。溜まる涙が落ちていかないよう、瞳を揺らす。


「俺は––––ずっと嫌いだったよ。お前みたいな、キラキラしてるやつは」


 顔を歪めて、何故か掠れた声が、弱くこぼれ落ちた。無意識に力なく笑みがこぼれ、草壁は空っぽになったような感覚に、少しの間呆然とした。

 周囲に意識を向けると、注視されていることに気がついた。草壁は少しだけ狼狽し、奥歯を噛んだ。スマートフォンをポケットにつっこみ、三星に背を向け、扉に向かった。


「草壁––––」


 声に一瞬立ち止まった。そしてすぐ、扉を勢いよく開き、ドアベルを鳴らした。


 街の喧騒は消え失せ、沈殿したような静けさが満ちていた。星が遠のいている。天高い秋空は、濃紺に染まっている。ガードレールにもたれかかるサラリーマンや、ビルに続く小さな段差に腰を下ろし眠る酔っ払いが寝息を立てている。深夜巡回をするパトカーがのろのろと車を脇道につけ、酔っ払いたちをはたき起こしている。


 草壁は小さく首を縮め、少し足を速めて通り過ぎた。

 足の感覚がない。バーを飛び出してから、でたらめに街を走り回った。底冷えするような夜の空気が、肺に満ちる。酒の抜けない火照った身体に汗が浮き出る。鳩尾に不快なせり上がりを感じてようやく、足を止めた。大通りの角を曲がり、建物に手をつき、空嘔吐を繰り返す。


 アスファルトに、数滴染みが落ちた。

 充血した目が痛む。顔を顰めると、涙が熱を持って頬を伝っていく。草壁は手の甲で顔を拭った。それでも、止めどなく溢れてくる。鳩尾から押し出される熱い息に苦しくなり、ずるずるとその場に屈んだ。


 ––––どうする、なんて。

 俺にどうしろっていうんだ。


 草壁は髪を乱し、頭を抱えた。あのように言われるなんて、誰が思うか。三星から言われるなど、あり得ないことだった。全身の血が攪拌されている感覚が草壁を包む。白昼夢を見ていたような、浅い悪夢を見ていたような気がする。実際酔っているのだ。久々の睡眠で、本当に今、夢を見ているのかもしれない。


 ポケットからスマートフォンを取り出した。画像欄には、バーでとった動画と写真が残っている。三星の写真を開き、眺める。真っ白な髪色。顰めた顔。これが、本来向けられるべき顔だ。草壁は腫れた瞼を瞬かせ、画像を拡大した。また少し、視界がぼやけてしまう。


 本当は。

 本当は、彼と笑いあってみたかった。


 けれど、そんな資格は自分にはない。いざ会ってみて、思い知らされた。


 住む世界が違う。せめて、嫌いでいたかった。嫌いだ――嫌いでしかない。自分は惨めだ。


 わかっている。今の時代、性的嗜好など寛容で、こんな情報など何の意味もなさない。

 それでも「価値」があると思った。唯一の汚点になってやりたかった。なれると思った。……なりたかった。


「みみっちい、なあ」


 小さく震える手を見て、草壁はぽつりと呟いた。

 三星の手は温かかった。たとえ彼にとって気まぐれでも、嬉しかったのだろう。同時にひどく、辛かった。手負いになる前に、本気にしてしまう前に、彼の前から逃げ出した。


 せっかく差し出された手を、拒んでしまった。冗談だったとしても、もっと――気の利いた返しがあった、と、冷静になれば思える。友達になる最初で最後のチャンスだった。あの時の、三星の表情は、思い上がりだと首を振った。


 画面に雫が落ち、液晶を歪ませる。大型トラックが道路を通り抜けていく。


 その音で気づけなかったのだ。


 右肩に、背後から強い衝撃が走った。鈍痛。よろけた草壁の身体に、追随して脇腹に、同じ痛みが、鈍い音と共にくる。持っていたスマートフォンは弾みで飛ばされ、暗闇の先に滑りこんだ。

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