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ドアベルが強く揺れ、深夜の秋風とともに入ってきたモッズコートの男を、店内の客は注視した。
橙色の照明に染まった、檜の香りがする、異空間と言って差し支えないような、洒落た雰囲気の店内には、黒のダイニングテーブルやカウンター、壁際には沢山の種類の酒の瓶が並んでいる。クラシックはレコードから流れていた。いかにも穴場、通の隠れ家といったところで、扉よろしく上品な客層だった。――扉に張りついている草壁は異物だった。
草壁は隈のある目を見開き店内を見渡し、荒い息を整えた。ぎこちなく扉から離れる。黒いシャツを着た妙齢の女性の店員が、草壁に話しかけた。草壁はポケットを触った。目を泳がせ、顔をあちこち触る。
「あ……その……」
財布を持っていない。草壁はさっと血の気が引いた。口を噤んでいると、周囲は少し奇異や好奇の目を向ける。
草壁は瞳を揺らした。
どれも――どの人間も同じだ。着飾って、繕っても、どうせ皆同じだ。自分より劣っているものがあれば、見下すのだ。
気が遠くなりそうだった。具合が悪い。足の力が抜けて、へたりこみそうになる。ぐるりと回る視界の端で見た、姿は、夢かと思うほど眩かった。
その白にも近い金髪と、白いタートルネックに質のいい灰のニットコート。整った顔立ちの男は、距離があるにも関わらず、草壁と目をあわせ、きょとんと、目を瞬かせていた。
「……草壁?」
近づく三星の声に答えることもなく、ぼんやりと彼の顔を見た。同時に啞然としていた。まさかやつが自分の顔も、名前も覚えているとは思わなかった。鼻腔にシトラスの香りが広がった。
草壁よりも背が高い三星は、大きく見開いた琥珀のような目で草壁の姿を上下に眺めた。
「やっぱり草壁だ。草壁智。でしょ。 他に誰か来んの?」
草壁は曖昧に振動のように首を振った。縦だか横だか、朦朧としていてわからなかったが、三星はそっかと微笑を浮かべて頷いた。
三星は店員に柔らかな笑みを向け、弾んだ声で「連れです」と言った。
「あ、モヒート、二杯で」
彼がそういうと、女性の店員は少し頬を上気させ、了承の意を見せた。
草壁は三星の手に背中を押され、彼がいた席に案内された。壁際のテーブル席で、ひっそりと人目につかない場所だった。空のグラスが置かれた方に三星は腰を下ろしその向かい側に、草壁はのろのろと腰を下ろした。
草壁は落ち着くと、全身に汗が滲んでいるのを感じ、不快さと、居心地の悪さに身じろぎをした。
三星は軽く頬杖をついて、興味深げに草壁の顰められた顔を見た。
「すごい汗だね」
ケアされた爪が長い指の先に見える。言葉に視線を向けると、三星の指が草壁の前髪を払った。ふいに触れた皮膚の感覚に身を震わせ、反射的に身体を引いた。
「――か、か、帰る」
草壁が顔を伏せ立ちあがりかけたのを、三星が引き留めた。
「久しぶりだし、そんなつれないこと言わないでさ」
「財布がない」
顔を逸らして、早口にそういうと、三星は目を瞬かせ、小さく笑いながら草壁の両肩に手を置いた。長い指にくっと、柔らかく力が入る。
「じゃ、おごっちゃおうかな」
そう言いながら草壁を席に押しこめ、店員が持って来たモヒートを受け取った。
「僕も一応芸能人だしね」
長財布を振って悪戯っぽくはにかんだ。嫌味どころか、その警戒心のなさに呆れ、眉を顰めた。
しかし呆然としていた思考が徐々にはっきりとしてきて、本来抱いていた警戒に変わっていく。今すぐ逃げ出したい。足に溜まる疲労と喉の渇きが、差し出された冷えたモヒートを魅力的に見せる。ストレートグラスに注がれ、ミントが添えられている。
草壁は喉を鳴らした。グラスを手に取ると、火照った体温に心地いい冷たさが手のひらに伝わる。ちらりと三星に目を向けると、彼は先にモヒートに口をつけていた。
どうせ、おごりだ、この男におごらせたのだ――そう思って目を瞑り、ぐいと飲んだ。強い酒の香りが鼻腔に抜け、根を張るような痛みと共に、酒の味が喉に落ちていく。そうして一瞬の爽快を経て、草壁は息を吐いた。
グラスを置いて、ポケットの上に手を置いた。スマートフォンの固い感覚に、はっとした。三星の顔を見る。すっかり、郷愁を帯びたような穏やかな笑みを草壁に向けている。
「たす、かったよ」
草壁はぎこちなく頬を吊り上げた。なるべく、親しく、振る舞おうと、大げさに目を見開いた。
「――行きつけ、なのか?」
「結構常連かも。草壁はこの辺に住んでるの?」
三星はずいと身を乗り出す。
「……や」
曖昧に首を振った。少し俯き、視線を彼の指先に落とす。目だけを上げると、三星はまっすぐ目を見ようとしてくる。嘘をつかなければ。本当でもいいのか。主導権を取られるな。草壁は殴られているような鼓動を抑えようと息を飲んだ。
この男に話しかけられただけで、大半の人間が喜んで心を許した。整った顔立ち、人がよく人気者、誰からも愛される憧れの存在。そんな人間に興味を持ってもらえたのだと、自尊心の回復がまざまざとわかる表情が見て取れた。高校時代、そんなやつらの顔ばかりを見ていた。うんざりだった。自分は、そうはなりたくない。やつらとは違うのだ。
心臓から伝わる震動が全身を脈打たせる。草壁は背中を丸め、上目で三星の顔を見た。大きく、はっきりとした目の下の涙袋が少し膨らんだ。
草壁は顰めるように目を細めた。オレンジの色が強すぎるランプの光が、三星のシルエットを縁どる。
ああ、嫌いだ。この余裕気な態度が、パーソナルスペースの狭さが、酷く心を逆撫でする。しかし、スクープが取れるかもしれない。このチャンスを逃さないわけにはいかない。
「そう、なんだよ、ここ、ずっと来てみたくて」
「なのに財布忘れちゃうなんて、うっかりだなあ」
そう言って三星は笑った。頬にかかる絹のような髪をよけ、白い歯をうっすら開いた艶めいた唇から覗かせる。どの瞬間を切り取っても絵になる男。だから、目を逸らしたくなる。
草壁は唇の内側を噛み、ぎこちなくまた頬を吊り上げる。
「げ、芸能人とか、よくくんの」
「どうだろ。ここは先輩に教えてもらったけど」
指を折って、草壁でも知っている有名な俳優の名前を上げた。こんなに口が緩くて今までよくスクープが出なかったものだ。草壁はそう思いながら、スマートフォンを操作して動画を起動した。
「本当久しぶりだね。どうしてた? 話したいと思ってたんだけど、連絡先知らないからさ」
「どうって――まあ、やってるよ、何とか」
草壁は明らかに声を低め、濁すように言った。
「仕事は、何してんの?」
「別に何でもいいだろ」
明らかに苛立った声をあげると、三星は少し弱った声でええ、と声を上げ、唇を尖らせた。ちょっと考えるようなそぶりを見せ、モヒートを飲んだ。
「僕、結構いろんなとこ行くから、どこかで会えるかなって思ってさ」
「不定だよ、――仕事場所は」
清掃業者――と言うのは、草壁にとっては満足していない職業だった。同僚のように真面目に掃除に向きあったことなどないし、やりがいだって見いだせない。ただ唯一の内定先だったと言うだけだ。本当は、と、歯ぎしりした。
まして、三星に教えるというのも、耐えられない。今までテレビ局に向かう曜日だけは、休日シフトにし続けていたのだ。
「お前が、嫌がる仕事」
「――週刊誌?」
三星は少し眉を寄せ、声を潜めた。拳を揃えて置き、その上に身を乗り出す仕草が犬っぽい。
「そう、そう」
「ええ、困るなあ」
そう言いながらも、笑みを見せた。プラチナの髪をかき分け、こめかみの生え際を晒す。ほんのりと色づいた肌で、酔いが回っているのだとわかった。
ごまかせた。そうだ、ジャーナリスト。こいつのスクープが取れたら、夢じゃないかもしれない。草壁は内心高揚し、動揺を隠すように得意げにけしかけた。
「ほ、ほら、何か、ネタくれよ。同級生のよしみでさ」
「って、言ってもなあ」
髪を混ぜ、居間でくつろぐようにテーブルに突っ伏し、スマートフォンをいじった。少し身を乗り出してきたため、草壁はテーブルの死角に隠していたスマートフォンを下げた。
三星が見せてきたのは、犬の写真だった。黒い毛並みの、雑種らしい。
「こないだ実家の犬にあってきたんだけど、可愛いんだ。元々野良だったからさ、ちょっと甘え方がひねくれてるのがまた可愛くて」
惚気のように甘い声を出す。草壁は一瞬呆気に取られたが、茶化されたような気になり、かっと頭に血が上るのを感じた。
「そうじゃなくてさ」
段々と高揚が抑えられず、草壁は貧乏ゆすりを見せてにやついたまま舌打ちをした。
「芸能界なんて、モデルとか女優とか、選び放題だろ。浮いた話の一つでもないの」
「僕?」
三星は目を瞬かせた。まるで見当違いの事を聞くな、と言うように。そうして困ったようにはにかみを見せる。
「三星吉真以外に誰がいるんだよ。大注目の若手スターのさ、彼女がどんなやつなのか、皆気にしてる」
「いないんだよ、本当に。あの記事も全部でたらめ。友達だって」
表情を曇らせ、頬杖をついた。それなりに写真はすっぱ抜かれているらしい。このままいけば、何か一つくらいは口を滑らせるかもしれない。草壁は気をよくした。
「頼むよ。ネタがないとさ、こっちも困るんだ」
そう口にしながら、草壁はすっかり自分の職業が騙りだとは思わなくなった。つま先を揺らし、背もたれに身体を預ける。モヒートを煽り、グラスを置いてテーブルに手を投げ出した。
「じゃあさ」
その手に、するりと指の長い白い手が忍び寄った。柔らかな重みが、グラスで冷えた皮膚にじわりと体温が滲みながら、草壁の手を包んだ。
怪訝に三星を見ると、彼はやや表情を固くして囁いた。
「じゃあもし、草壁が好きって言ったらどうする?」
「は、冗談」
草壁は一瞬顔を引きつらせたが、鼻で笑って目を逸らした。焦る手の上に置かれた三星の手の指先が、微かに動く。皮膚の感覚が、温度が、繋がれた手に伝わってくる。
「結構本気だよ。高校の時から、思ってた」
「な、何で――そんな、嘘つくんだ」
草壁は手を引き抜こうとしたが、強く摑まれて、出来なかった。三星の手の甲が筋張る。じわじわと得体の知れない感情に飲まれ、全身の血が騒ぎ出した。草壁は椅子を倒す勢いで立ち上がり、三星に背を向けようとした。摑む手に、より力がこめられた。
「嘘じゃないって」
どうにも、本気の声色に聞こえてならない。耳を塞ぎたい。
「接点、ない、だろ」
顔を逸らす。黒い髪が、三星の視線を遮断する。
「哲学の授業、取ってただろ。僕は単位足りなかったからだけど、草壁はさ、ちゃんと理解して聞いてただろ。あの時すげえいい顔しててさ、草壁、いつも一人でいたから、どんなやつか気になってたんだ。話したいって思ってたよ」
「嘘だ」
草壁は俯いた。耳の裏が脈打つ。頭が痛い。胸が痛い。胃のあたりが熱い。酒のせいだ。
繋がれて宙ぶらりんの手を草壁は握りこんで拳を作った。
周りの視線が二人のいる一画に向いている。驚いて向けるもの、耳をそばだてているもの。いたたまれない気持ちと、混乱した、理解の追いつかない現状に、草壁は視界を揺らした。
「ずっと見てた。話しかけると、いつも逃げるだろ。だから……つい目で追っちゃってさ、それで……」
三星は神妙な顔つきで、そう言って瞳を揺らした。言葉を止めて、瞳孔を開く。その刹那の表情があまりにも、切ない、男が見せる顔だった。草壁は驚きと共に、強い動悸を感じた。
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