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深夜にのさばる連中は、もはや人間ではない。社会的地位も、老若男女も関係なく、夜闇に紛れて泥酔した姿を晒す。正しく人間であるのは、連中に絡まれないようにとひっそりと迷惑そうに、無関心に、道の端を歩いている。
両脇の部下らしい人間に担がれながら、怒声のような呂律の回らない、同じ言葉を繰り返すサラリーマンを横目に、解散を惜しむ若者の集団の隣をすり抜ける。草壁は真夜中の街を歩いていた。
モッズコートの中にスマートフォンを忍ばせ、背中を丸めてあたりの酔っ払いを見た。深夜帯は草壁にとって宝庫だ。自我が足りない人間を無駄なく写真に収められる。収穫の殆どは道に落ちている酔っ払いや喧嘩ばかりだが、まとめて掲載すればそれなりに見れる。どんなクズ記事でも、見出しとキーワードでそれなりのアクセス数は稼げる。顔の綺麗な人間を狙って写真を撮れば、時々芸能人だったりする。そういう時は、マスコミに売りこめばいい。
そう思うようになったのは、偶然にもモデルの男女が仲良く酒場通りのゴミ置き場に泥酔して転がっているのを、写真に収めたことがきっかけだった。その時はまだ知らなかったが、SNSに上げてから、マイナーな週刊誌からダイレクトメッセージが来たのだ。就活時には目にも留めなかった出版社だった。まさか金になるとまでは思っていなかったが、入金が確かめられた時、味を占めた。
不眠気味の彼にとって、夜歩きと、他人の負の瞬間を切り取ることがルーティンだった。もともとは普段の鬱憤を晴らす為にしていたが、SNSの拡散具合やアフィリエイト収入、スクープ写真の価値。こうなると求められている気がしたのだ。
――人の不幸を、お前が撮るのだ、と。
それだけが自分の、存在意義のように思えた。
彼の焦燥感と、その緩和のためのルーティンがより密接になったのはそれからだった。そして同級生――三星の存在を思い出させ、意識させるのにそれほど時間はかからなかった。やつの正体を暴く。まるでどの角度からもスポットライトが当てられたように影のない、人のいい人気俳優。女子が夢中になる存在。偽善者。三星吉真。同級生だから、信ぴょう性がある。俺は可哀想だから。暴いてやらなければならない。皆騙されている。
だけれど、証拠がない。記憶にあるのは、彼に優しくされたこと、くらいしか。
物音が聞こえた。ビニール袋を潰す音、缶の転がる音、何か金属の音が一気に飛びこんでくる。方向は、すぐ隣の暗闇だった。
路地裏に入りこむ。街灯は少なく、しかも古い蛍光灯だった。飲み屋の通りの裏側は室外機と、蔦のように壁につく無機質な配管が並ぶ。それ以外は、しんとして気配がなかった。路地裏は奥に、長く続いていた。先の暗闇は見えない。遠くから視線を戻した。ゴミ捨て場に、投げ出したスーツと革靴が見える。草壁はスマートフォンを取り出し、明るさの設定をしながら、ゆっくり酔っ払いのもとに近づいた。サラリーマンの脚は青白い街灯に照らされている。
何かが違う、と、手前で気づいていたが、無視していた。
スマートフォンのカメラを向けた瞬間、草壁は一瞬、目を見開いた。
まず目に飛びこんだのは、全体的に腫れた男の顔だった。頬、左瞼、唇からの出血。年齢は、中年――石島と同じくらいのようだ。よれたスーツには吐瀉物と血が混じりあった液体が滲んでいる。
草壁はすんと鼻を鳴らした。酒のにおいがする。男が酔っているのは間違いない。草壁は屈み、男の頬を恐る恐る、指先で叩いた。ひやりとして、脂汗をかいている。脈と息はある。気絶しているだけのようだ。男の肩に触れると、彼は小さく呻いた。
草壁はぎこちなく立ちあがり、震える手をひっこめた。急激な動悸と共に、脳が血の気が引く感覚があった。自分もひどく、冷や汗が浮かんでいるのに気づき、手の甲で顔を拭った。
ぶるぶると痺れた手のまま、男の写真を撮った。カシャリ、と異様に、音が響いた。
警察、救急車――混乱したままスマートフォンとあたりを見比べた。何故路地裏にいたか、説明を求められると思うと厄介だった。とにかく他に人がいないか。そう思った瞬間、裏口からソムリエエプロンをつけた若い男性店員が姿を見せた。
「あの――あの」
草壁に声をかけられると、夜勤の疲れでぼんやりとした反応を見せたが、草壁の示した男の姿を見て、はっとして駆け寄った。大丈夫ですか、と声を掛け続け、介抱の体勢に入った。自分よりもしっかりと対応が出来ていたため、草壁は救急車の連絡だけ入れ、その店員に任せた。元の道に戻ろうと振り返った。数人、チラチラと覗きこんで、スマートフォンを構えていた。
草壁は後ずさり、路地裏の暗闇に向かって歩いた。街灯の電気が切れていて、先は暗いままだった。クラブから音漏れが聞こえ、建物の隙間から、表通りにあるコンビニやインターネットカフェの光が入りこむ。その明かりを頼りに、草壁は足を進める。
まだ、心拍が不規則に音を立てる。具合が悪い。貼りつく汗が冷えて、身震いした。
暗がりは細く狭まるトンネルのようだった。浅い呼吸のまま、ぐっと身を縮め、足元を見つめて、徐々に足を速める。
「おい」
男の声が聞こえ、びくりと足を止めた。聞こえた方向は、暗闇からだった。目だけを上げると、闇の向こうにうっすらと、複数人の脚が見えた。コンクリートに、金属がぶつかり、擦れる音が聞こえる。物音が聞こえた時と同じものだ、と草壁は本能的に感じた。
一瞬、光が横切る。トラックの走り去る音が聞こえた。放射線のように路地裏に光が満ち、声の主のシルエットを見せた。草壁は、そのシルエットの足元に、鈍い金に光るものを見た。
じゃりじゃりと擦るように歩き、集団は姿を現した。不良集団と称するべきだろう、五人の若い男たちだった。派手な服を着て、薄ら笑いを浮かべている。真ん中にいるリーダーだろう男は、痛んだ金髪と、その色によく似た金属バットを引きずっていた。それぞれ、草壁の姿を見ては嘲笑を見せる。草壁は猫背の痩せ型の、青ざめた男だ。彼らにとってカモだといっていい。
草壁は首を引いて、その金髪の男の顔を見た。どこか、どこか――見覚えがある。
「あんた、写真撮ったやつだろ」
そう聞かれ、思い出した。酔っ払って、暴れていた男だ。草壁が撮っていることに気づき、絡んできたやつだ。襟首を引っ張られ、至近距離で見たのだから間違いない。あの時は人通りの多い時間帯で、すぐ警察が飛んできたため、草壁は逃げることが出来た。そうして撮った動画は、一万人に拡散され、草壁は多くの同情を得て、男はネットワーク上で断罪された。ダイレクトメッセージに脅迫文を送ってきたのは、この男だ――。草壁の目は、無意識に歪な痕がある金属バットを注視していた。あの気絶した、サラリーマンの姿がよぎる。
草壁は、ぐらついて後ずさったのをきっかけに踵を返した。転びそうな一歩を踏み出し、溺れるように空を掻いて走り出す。若いが、ドスの聴いた低い怒声が背後に響いた。
草壁は蝋のような真っ白な顔で、都度、見る余裕もないが背後を振り返った。確認できるのは追い立てる男たちの声とバタバタとした足音だけだ。
道を戻ると、サラリーマンを見つけた場所にまだ人が集まっていた。むしろ、人だかりが道を塞いでいる。草壁は人を押しのけ、詰まったパイプのような人だかりを抜けて表通りに出た。
何故ああいう集団は、いちいち声がでかくて威圧をするのか――走りながら、そうどこか冷静な自分がいた。鳩尾にうねるような気持ち悪さが貯まり、肺がベコベコとへこんでいる気になる。渇いた喘ぎが喉から絞り出される。
チェーン店の眩しすぎる電灯に目が焼かれ、緑の残光を瞬かせながら、無我夢中で逃げた。どこに――どこに隠れればいい。相手は五人もいた。どこかで挟み撃ちにされる。草壁はあたりを見渡し、道路を挟んだ向かい側にある路地裏を見た。赤提灯の光がぼんやりと浮かんでいる。考える間もなく、その光に向かって走った。
居酒屋とバー、フィリピンマッサージや創作居料理店、ラブホテルの看板が乱立する路地だった。祭のようなカラフルな光が、ふらつく草壁を染め上げる。草壁は近場にあったバーの置き看板に身を隠した。深夜であるため、少し耳をすませば乱雑な足音が聞こえてくる。草壁は顔に苛立ちを露わにして看板に額をつけ、熱の籠った息を吐いた。鉄の味がする口腔を渇いた舌で撫でた。
ふいに店の方向を見ると、地下に向かって狭い階段が続いていた。どうやらバーはこの先にあるらしい。
遠くから怒号が聞こえる。草壁は感覚のない足で滑るように階段を降りた。
上品な黒の扉に金色の丸いドアノブがついた、アンティークのようで、どこか入りにくい雰囲気だったが、そうも言っていられない。草壁は扉を開けて店内に滑りこんだ。
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