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雑踏の間を縫い歩く。首を落としたように、猫背のまま草壁は、歩く。窪んだ暗い瞳が、長い前髪の隙間から覗く。外回りの人間、休日の人間。ぐるりと、ぎょろついた目を回すがすぐに視線を下げた。目があえば怪訝な顔をする。そうに決まっている。忙しなく顔を触り、小さく歯ぎしりをする。草壁の頭を占めているのは、妙な焦燥感と苛立ちだ。
みみっちいなあ、と口の中で、草壁は呟いた。彼はみみっちい、という言葉を気に入っていた。呟いていると、少しだけ焦燥が和らぐ。慰めでしかないものの、全てどうでもよくなってくる。そうだ、みみっちいのだ。全て、何もかも。大勢いる。皆誰かを見下している。それだけのことだ。だから俺も、見下していい。
薄い雲を割って、光線が降り注ぐ。草壁はモッズコートのポケットに手をつっこむと、中に入れていたスマートフォンに振動があった。取り出して画面を見ると、メッセージが大量に届いていた。草壁の薄暗い目が弧を描いた。ナイトモードに切り替え、再びしまった。
胸やけのように渦巻いていた焦燥感が、すっと消えてなくなった。具合のよさに顔を上げると、街頭テレビから声が降って来る。高いビルに備えつけられたテレビに目を向けると、逆光に一瞬目が眩む。緑色の閃光が解けていくと、見たくもない――声の主の姿が、テレビに映る。
眩い、星のような光。プラチナブロンドの髪をかき分け、微笑する。長い睫毛の下にある流し目が、草壁を捉えた――気がした。
眩暈がした。寒気に似た何かが背筋に走り、反して胃には、むかつきが起きた。
高校時代からずっと、あの男は巨大な恒星だ。
木枯らしの吹く季節なのに、日差しはやけに強い。草壁はまた、顔を伏せた。雑踏が彼を圧迫する。眩暈と焦燥感がむら立ち、スマートフォンを握りしめた。
三星吉真は、同級生だった。
当時から、スナップ写真を撮られたり、芸能界入りも秒読みだと噂になっていた。実際に在学中すぐスカウトを受け、今や俳優の地位についた。大学も国立を出たうえ、音楽の才もあった。三星は芸能界への道は均されたように開かれていた。そうなるべくしてなったと言える男だ。
誰からも羨望される三星だが、草壁が最も、苦々しく思っていた部分はそこではない。これで悪い噂の一つでもあれば、あれも人間なのだと諦めもついた。ところが、悪い噂どころか、三星に悪評を立てる人間は皆無だった。誰にでもわけ隔てなく、お人好しだと言われてしまうほど、物事を断ることの出来ない優男だった。委員会でも、部活でも、成人式でも、全く変わらなかった。草壁はそれを遠目で見ていることばかりで、関わったことは殆どない。たまに目があうと、彼は微笑を見せた。席が近かった頃、話題を振るようなこともした。
なぜ、まるで関わりのないクラスの端にいる存在の人間にまでそんな振る舞いが出来るのか。それが益々薄気味悪かった。
草壁は鬱々とした気持ちでアルミ板の階段を上がり、荒っぽくドアを開け部屋に入った。暗がりの部屋に、カーテンの隙間から差しこむ白い日光だけが、ごちゃごちゃと着替えや敷きっぱなしの布団や、借りたDVDの積み上がった床を明らかにしている。埃を被った哲学書が積み上がった隅にナップザックを投げた。パソコンに繋がったままのコードを足で避け、クッションを腰の下に置き、パソコンの前に胡坐をかいた。
開いたノートパソコンの電源を入れ、いつも通りに掲示板を開きながら、待っている間に、スマートフォンのロックを解除する。SNSのアイコンに、赤い通知マークがついている。
「+99」と記されたアイコンをタップし、アカウントを見る。低俗な煽りの見出しで書かれた記事のリンクを貼った投稿、短い動画を載せた投稿――それぞれに多くの反応が見られ、拡散されている。反応の数字は秒ごとに増え、一つの投稿は一万人分の拡散が固いだろうと思われた。どれも草壁が書いたものだ。アフィリエイトサイトの記事や、芸能人のスキャンダルのまとめ、炎上した一般人の顔を晒した記事。迷惑行為をして炎上した大学生のアカウントのIDを羅列したスクリーンショットのまとめ。炎上し、すでに本人が削除した動画のログの再投稿。名前も、アイコンもない、IDも初期設定の、意味のない英字の羅列のアイコンからの投稿。
――草壁の、他人の炎上行為を晒すためのアカウントだ。
世間の人間は誰が発信だろうと、怒りの強いものに反応する。まして言語化され、視覚化されているものであれば、「これは自分の感情だ」と勘違いし、正当化する。反応する時間など数秒あればいい。他人を煽る文章を、見せ方を、草壁は無意識に会得していた。それは当然だった。草壁はいつでも自分が惨めで、あらゆる人間から見下され、そして周りには敵しかいない。そう思いこむことで、自分を肯定してきた。天性の被害者なのだ。
ダイレクトメッセージを開くと、あらゆる罵倒や、脅迫めいた警告文が並ぶ。最初は草壁も冷や汗をかいて怯えたが、こう毎日届いていれば嫌でも慣れる。実際警察が草壁のもとに来たことはまだない。同じような投稿をするアカウントは他にもあるからだ。とは言え――そろそろこのアカウントも閉鎖するべきだ。凍結されるのが早いか、こちらが消すのか、それだけの問題だ。凍結されれば同機種ではアカウントも作りにくくなる。草壁はダイレクトメールを送ってきたアカウント全てブロックしたうえで、アカウント消去の手順を踏んだ。
パソコンに向き直る。掲示板の記事への反応も上々、広告収入も小遣い程度入りそうだった。
草壁は背中を丸め、座高に合わない低いデスクに乗るパソコンのキーボードを打つ。検索エンジンに一文字打つだけで、名前の履歴がすぐに出る。スペックの低い型落ちのノートパソコンが結果を読みこむ間、虚空を見つめていた。
検索結果の上部に表示される画像欄。三星吉真。今の派手なプラチナブロンドの髪、ブラウン。マッシュルームカットの黒。カラーリング中の写真。社会人風。モデル、パンク、警察。ブレザー姿――恋愛映画の予告。舞台裏オフショット。高校時代の、写真。
鼻の下を指の背で擦る。上目で睨みつけるように、デスクトップに表示される彼の笑みを見た。草壁は爪を噛みながら、画面をスクロールする。彼の出演する映画を取り上げた記事、オフィシャルサイト、ブログ、SNS、舞台挨拶、試写会、ドラマの視聴率。写真集の宣伝。三星のコメントを切り取った見出し。ざっと見て、特に目についた記事はない。
今日も目立った悪評は見なかった。サジェストに出るものも、「家族構成」や「ドラマ」、「演技」、「彼女」。ざっとさらって見たものの、悪意の見出しの割に、大した内容でもなかった。初恋の話。過去の恋。彼は犬派だ、など。どうでもいいことだ。
背筋が軋む痛みを感じた。
もう限界だ。草壁は強く目を瞑った。背筋を伸ばし、背もたれがないことを思い出しながら、草壁はそのまま床に倒れこんだ。カーテンの隙間から差しこむ白い光が、身体を真ん中から分断するようにまたがる。
大抵のWEB記事の見出しは悪印象の方がPV数は稼げる。草壁もやっていること――実際に彼の投稿は内容も悪意のあるものだが――ではあるものの、自分がおめおめと引っかかってしまうのは屈辱だった。
誰も本気で、三星を食い物にしようとはしていない。彼の人気や話題性のおこぼれに預かろうとするやつらばかりだ。名前を出せば、それなりのアクセス数が稼げる。
いや、と草壁は思い直す。
厳密に言えば、いるのだ。自分と同じように、三星に対し悪意を持ってコメントをしたり、アンチスレを作ったりする輩はごまんといる。ただ、圧倒的な数に――三星の女性ファンに、彼を支持するマジョリティに即座に発見され、叩かれ、通報され、アカウントの凍結や掲示板の削除に追いこまれる。数には勝てない。ただの妬み嫉みだと思われる。実際、確たる証拠もない感情論に基づく、主観で書かれた偏見だ。もし三星にスクープがあれば、マスコミは黙っていないだろう。
だから――自分はそういったことを書きこまない。事実が、噂が、火種が出来るまで。オオカミ少年になるつもりはない。
スマートフォンの画像を開く。そこに収められている大半が、炎上させるための、晒しの為に集めたものだった。金髪の若い男が泥酔し、道端で丸まって寝こんでいる写真。クラブに女を連れていこうとする、金髪の男。金髪。どれもそれらを、白に近いような、プラチナブロンドに見えるよう加工した写真が並んでいる。
どれもまだ火種としては弱い。背格好が彼と似ていないものも多い。そのうち三星もまた、髪の色が変わるだろう。そうなれば全て無駄だ。ただの常識のない若者としてまとめサイトに上げるだけになる。
草壁は爪を強く噛んだ。めり、と裂けそうな音がする。
三星への憎悪を誰かに語ったことはないが、何故、と問われれば、単純に返すことが出来る。
彼が同級生で、スターで、そのせいで、自分が惨めだからだ。
斜光の輪郭がぼやけていく。草壁は充血した目を細めた。うっすらと倦怠感を覚える。浅い呼吸を止めた。秒針にあわせ、ゆっくりと数字を数える。眠ることは難しい。だからせめて、目を瞑る。気が遠のいて、微睡のうちに死ぬように夜を待った。
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