シェイプシフター

塩野秋

1



 ただ踏むだけの地面を大理石にする理由がわからない。汚したくないのなら、汚れてもいいのなら、高級な床などなければいい。

 草壁智はヘラを握りながら、ロビーの大理石の床に目を落としていた。ぼけた薄青の作業着に身を包み、光を宿さない目をした青年は、人が行き交うのに何故、自分が掃除をしているのかを考えた。


 高層ビルの中に存在するオフィスに行くために、スーツ姿や、オフィスカジュアルの人間が次々ゲートに吸いこまれていく。一斉に会話を交わしているかのような言葉の海。雑踏が鼓膜にねじこまれる。こびりついた汚れを取ったばかりの場所を、必ず誰かが、我先にと踏み抜いていく。やつらは一度だって、黒ずんだガムがへばりついた大理石を磨いた事などない。


「草壁」


 声に反応して振り向く。眼鏡をかけ、帽子の隙間から見える鬢に白髪が混じる初老の男性が、彼を怪訝そうに見ている。草壁と同じ作業着を身につけているが、より年季が入っている。


「手ぇ止めんな。邪魔になってるぞ」

 雑に手を振り、草壁に周りを見るよう促した。


 目線だけをぐるりと巡らすと、侮蔑の視線が瞬間的に向けられているのを、態度で察する。まるで小さな棘が肌に突き刺さるようだった。草壁は帽子を目深に被り直し、のろのろと端に避けた。


 注意した清掃員は、草壁の猫背を睨むように、また奇妙なものを見るような目で見た。痩せ型で色白く、到底力仕事には向かない肢体の青年だった。跳ねたままの野暮ったい黒髪を帽子に押しこんで視線を下げ、ちらりとも笑顔を見せない。愛想が全くないのだ。彼のような態度は業務の士気に関わる――そう思いながら、中年の清掃員は清掃カートを押して、ゲートの警備員にはにかみ会釈をしながら、奥へと姿を消した。


 草壁は、花瓶の置台にクリーナーをスプレーで噴きかけ、乾いた雑巾で拭き取った。花瓶もさることながらこの置台も無駄に高額そうな気配がする。草壁は屈み、懸命に拭いているいるように見せかける。隈で窪む目を上げ、花火の一瞬を閉じこめたような、扇上に広がる生け花を見た。一つ、大きな赤い花が見えた。黄色花芯を草壁に向け、じっと、こちらを見ている。花にすら見下されているような気がして、目を逸らした。置台の背の方に回り、クリーナーを噴きかける。周りから見れば、彼の上半身は視界から消えている。


 早く終われ。彼の願いはそれだけだった。何が楽しくて、お高く留まった、気に障る連中のために掃除をしているんだ。やつらの使うトイレの掃除をしていれば向けてくる、異物を見る視線。こっちだって好きで女子トイレを掃除している訳じゃない。文句があるなら自分で掃除をしたらいい。洗面台に飛び散った水しぶきすら、拭き取ろうとしない癖に。


 歯ぎしりをして、草壁は置台に唾を吐いた。その上から雑巾で拭い、何事もなかったように花瓶の裏から出た。ポリバケツに雑巾を放って、清掃カートに積みこむ。

 カートを押して歩く際、すれ違った女性の鞄についたストラップが目についた。星が三つ連なる、小さな、シンプルなデザインに、その女性の誕生石だろうペリドットが添えられている。草壁は一瞥して、反射的に唇を歪めた。


 清掃員に与えられた事務室は簡素で、両脇にロッカーが並び、真ん中に縦長の、折り畳み式のテーブルが置かれている。壁際にパイプ椅子が折り畳まれて重なっている。窓はあるが、いつも薄暗い。草壁の勤める清掃業の本社は別にあるため、待機や荷物置き程度の存在だ。


 草壁が事務室に戻ると、数人の男性がそれぞれにくつろいでいた。先程の中年の男が、奥にこぢんまりと座り、草壁をじろりと見やるが、一瞬だった。パイプ椅子にもたれる四十代ぐらいの男性は贅肉のついた腹を撫でながらスマートフォンを横にして、何やらテレビを見ているようだった。その後ろから画面を覗きこむ金髪が色落ちしたような、斑な髪の色をした青年が草壁の姿を認め、小さく頭を下げた。彼は、草壁よりも若い、まだ十九歳だった。どの人間も苗字しか覚えていない。白髪のある初老に近い中年が多田。恰幅のいい中年が石島。斑な髪の男が小塚。だが、覚えていても、どうせ業務連絡しか話すことはない。草壁にはどうでもいいことだった。


 スマートフォンから流れる音声で、石島が見ているのは昼のバラエティだとわかった。彼が昼休み、本社のテレビでも見ているものだ。ドラマや映画、舞台の告知がある俳優や、CDの発売を知らせるミュージシャンなど、バラエティに出るのは珍しい芸能人をゲストに呼びつける。


「あ、こいつ、こいつです。|三星吉真」


 小塚が踵を浮かせ、画面を指さした。石島は迷惑そうに眉を顰めたが、すぐ視線をスマートフォンに戻した。


 三星吉真。嫌でも顔は思い出せる。一昨年新人賞を取り、若手俳優の中でも勢いのある売れっ子だ。ドラマや映画もひっきりなしで、女性誌や男性誌、雑誌のグラビアや表紙を飾れるほど、人の目を引く見た目をしている。中性的にも見える甘い顔立ちで、すらりとしたスタイルだが、つくべき筋肉がついている。黄金比率だなんだ、特集のアオリではもてはやされている。


 草壁は狭い幅をすり抜けながら、ちらりと画面を覗いた。白にも近い、明るい髪色が目についた。プラチナブロンド。昔は同じ黒髪だったはずだ。

「姉貴とお袋が好きなんですよね。俺も買わされちゃって。いらねえってのに」

 小塚は鍵を取りだし、ぶら下がったストラップを石島に見せた。真鍮で作られた三つの星が連なり、小さな誕生石がついたデザイン。三星のオフィシャルファンクラブで販売されているものだ。


「わかりやすいっスよね。実はアホなんじゃないっすかね、三星って。クイズ番組とか全然ダメじゃないッスか」

 石島は唸るような生返事をするだけだが、小塚は話し続ける。

「今、何歳かわかります?」

 小塚が問いかけた直後、画面でも年齢の話が出た。何故だか小塚は得意げに周りを見渡したが、誰も反応を見せない。


 草壁はロッカーを開け、着替えを掘り出した。作業着を脱ぎながら視線だけを無意識に向けていた。

「二十六歳だって。若いっすね」

「お前の方が若いんだよ」

 ようやく石島が反応し、呆れたように笑った。

「あ、もしかして草壁さん、同い年じゃないですか?」


 小塚のはしゃいだ声が、しんとした部屋に反響した。草壁は向けられた小塚の笑みを一瞥し、作業着をロッカーに押しこみ、着替え終わったワイシャツの襟を直し、モッズコートを羽織った。

 ロッカーを閉じて、紺のナップザックを背負い、そのままドアに向かった。

「帰るんですか?」

 小塚が慌てて声を上げる。草壁は頬にかかる黒髪をよけ、少しだけ首を向けた。


「半休」

 草壁は不機嫌に声を低めそう言った。そのまま雑に「お疲れ様です」と決められた台詞を吐いて、出ていった。乱雑に閉めたドアの音が、事務室に沈殿したように漂う。


「そして、明日は有給」

 石島は狼狽える小塚に、皮肉めいてつけ足した。

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