エピローグ

 持ち込んだラップトップの画面から、解説の声が聞こえてくる。

 それを半ば聞き流しながら、あたしは入念に鏡をチェックしていた。


 大丈夫、完璧。今日の収録も、問題ない。 

 鏡の自分に微笑みかけ、髪をまとめる。

 それから野球のキャップをかぶった。まだ新しい、今流れている中継と、同じチームの帽子。


 あれから、4年が過ぎた。

 あたしはあの後、順調にステップを上り、夢の舞台にたどり着いていた。

 大学を卒業して本格的に歌手としてもデビューし、いまやテレビやラジオの収録に追われる毎日だ。

 忙しすぎて、仁や澪とは中々会えない。

 それは寂しいけど。


 ――会えなくたって、あたし達が親友ということは変わらないから。


 そんなあたしのちょっとした趣味が、野球観戦だということは、同業の人にはよく知られている。いつか野球選手との飲み会にだって行った。

 でも、本当は――


「リサさん、そろそろお願いします」


 控え室の扉がノックされ、その言葉が聞こえた。


 ――今日も外れ、かあ。


 そう思って、マウスを操作して電源を落とそうとしたまさにその時、電光掲示板が大写しになった。

 続けて聞こえる、アナウンス。


 ――選手の交代を、お知らせします。


 あたしはマウスを止めた。


「ごめーん! あとちょっと待ってー!」


 大声で、そう叫んでから、あたしは画面に注目する。一瞬も逃すまいと。


 ――に代わりまして、ピッチャー――



 数分後、あたしは舞台に走り出て、カメラの前で熱唱する。


 色々なものを犠牲にして、それでも足掻いたから、ここまできました。

 だからみんなも、諦めないで。

 諦めなければ、掌に大切なものだけは残るから。


 そんな想いを歌に乗せ、あたしは踊り続ける。


 ――ざまあみろ、神様。


   *   *   *



 子供が寝息を立て始めても、しばらくわたしはじっ、としていた。

 ガチャリ、とドアの鍵を回す音が聞こえて、わたしは玄関へ向かう。

 お帰りなさいを言うために。

 ただいま、と言って帰ってきたのはわたしの一番大切な人。

 彼が着替える間にわたしは料理を温める。

 椅子についた彼に、今日の料理も美味そうだ、と言ってもらって、わたしは幸せを噛み締める。


 これは、いつか見た幻。


 わたしが望んでいた幸せな家庭。彼と築いていきたかった夢。

 そして、幻ですら許されなかった夢。

 

 何もかも上手くはいかなかった。

 有り得ない事はやっぱり有り得ず。

 仁の左手はやっぱりボールを投げられるようにはならなかった。

 結局、いつかの繰り返し。

 わたしと仁はまた打ちひしがれた。


 でも――諦めなかった。


 だから仁は、今は心から笑ってくれる。

 わたしと子供に、笑顔を向けてくれる。


 いつかの、笑顔じゃない笑顔はもう、ない。


 わたしと仁は夕食を食べ終えて、ソファーに移りながらテレビのチャンネルを変えた。ちょうどスポーツニュースの時間だ。

 シーズンも開幕し、トップに来るのはやっぱりプロ野球。

 その画面が映すのは、今日のハイライト。

 アナウンスが響く。


 ――に代わりまして、ピッチャー――


 これは、いつか見た幻の続き。


 想像にすら浮かんでこなかった光景。

 二人で目指した夢の先。絶対に有り得ないはずだったもの。


 いつか見た幻の続き――

 最高の、最高のハッピーエンド。


 ――その名前は、現実。

 

 傍らに座る仁に、そっと身体を寄せる。


 ねえ、仁。わたしの人生は貴方に捧げたんだから――

 ちゃんと全部、貰ってね。

 今日も、明日も、その先も。死が二人を別つまで。


 貴方のための、澪標でいられますように――

 

   *   *   *

 

 チームメイト達が投げ込んでいるのを、ベンチから見るともなしに眺めていると、電話を終えたコーチが、隣に座ってきた。


「どうだ、天原、調子は?」

「悪くなんてなりっこないですよ」


 ニヤニヤと尋ねてくるコーチに、同じ笑みで返すと、コーチは笑みを引っ込めた。

 そして、出された言葉は、俺の最も欲していたもの。


「監督からご指名だぞ。いけるな」

「もちろん」


 いけるか? とは尋ねないコーチと同時に立ち上がる。


 向かう先は、マウンド。

 プロの、マウンドだ。


 ――選手の交代をお知らせいたします。


 ウグイス嬢のアナウンスが聞こえ、俺はリリーフカーに乗り込んだ。


 ――に代わりまして、ピッチャー――


 ――天原仁。


 名前が呼ばれ、ボールの形をした車が動き出した。

 観客が、意外さにか一瞬静まる。

 その後すぐに、味方側のスタンドは静かなまま、逆に敵チームのスタンドから歓声があがった。

 それは当然だろう。

 こんな利き腕の壊れたポンコツに期待する人間なんて、そういない。

 入団出来たのは、話題作りのためだともっぱらの評判だ。

 今日呼ばれたのだって、乱打戦のせいでピッチャーが足りなくなったからだ。


 だが、とマウンドに立った俺は笑みを浮かべる。

 だが、見ていろ。あんたらすぐに、ひっくり返してやる。


 俺の夢は、ここから始まる。

 ようやく掴んだ夢の端からその先へ、歩き出す。


 ボールを右手に持つ。投球練習なんていらない。

 グローブの中にボールを入れ、プレートに足をかける。


 澪と二人で手に入れた、この投球で――

 プロ入りを掴んだ、これで――


 振りかぶって、投げた。

 

 左手が元に戻らないという絶望を、踏み越える――


 俺の右腕から解放されたボールが、音を立ててミットに収まる。


 再びスタンドが、しん、と静まる。キャッチャーからボールが返ってくる。

 それを受け取って、お構い無しに、もう一度振りかぶる。



 三球を投げ終えて、爆発した歓声は――


 俺が出てきたときとは逆のスタンドからだった。



 何もかも上手くいくことなんかないのはわかっているが。

 いつだって、絶望と後悔が待っている、ってことも知っているが。

 それでも、諦め切れない思いがある。

  

 だから、俺達は足掻くんだ。


 ありえない奇跡を求めるのではなく。

 いつか掴んでみせると信じて。


 そうだろう?  


 脳裏に浮かんだそいつに問いかけるが、もちろん返事は返ってこない。


 俺はここからまた進む。

 どこまで行けるかなんて、わからないが。

 かけがえのないパートナー、澪の人生も、一緒にのせて――



 

 あの日乗せた錘をそのままに。

 天秤は揺れず、ただ静かに佇んでいる。

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天秤 武村真/キール @kir_write

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